渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

神動画『GT5で頭文字Dの名シーンを再現してみた』

2012年06月26日 | 映画・ドラマ・コミック

GT5で頭文字Dの名シーンを再現してみた
 

なんじゃこりゃ!
再現性たっけ~!(◎。◎)

オマケ
ハチロク乗り比べ:AE86's impression check on the Tsukuba Touge
 


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今宵も時代劇 『SFソード・キル』

2012年06月24日 | 映画・ドラマ・コミック


SFソード・キル(1984米/主演:藤岡弘)
(動画の全編はこちらからどうぞ)

SFである。サイエンスフィクションではなく「サムライファイター」もしくは
「ソーズマンズフィクション」であると理解したい。あえて、「時代劇」とした。

<あらすじ>
1522年冬、武将ヨシミツは主命による討手(うって)と対峙した。姫を守るために。
しかし、策略に遭い、矢を受けて凍る湖に落ちてしまう。
450年後の現代-
日本人スキーヤーが雪山で氷漬けになった人間を発見する。
そして、アメリカの研究機関により蘇生が試みられ、現代のロサンゼルスに
戦国武士が蘇った。
武士は異空間に戸惑いながら、自分の存在がなんであるのかをやがて
知っていくのだった。

<感想>
あまりにも陳腐な武士観であったシナリオを藤岡弘、自らが書き直させた
作品だが、全編に渡りドC級映画の展開が全開である作品だ。
ただ、ひとえに主演の藤岡が作品を引き締めている。
感想としては、突っ込みどころ満載の作品だが、総括すると、出演者にしろ
シナリオにしろ演出にしろ「解っていないアメリカ人、解っている日本人」と
いうことに尽きる。
演出のちぐはぐさについて指摘したら数がありすぎて全編がそうなので、
省略するが、一番の製作者サイドの誤りは、ラストシーンでの主人公の
セリフを英語で翻訳して女性ジャーナリストが警官に説明する時だ。
主人公の武士ヨシミツは、最初は己がどこに来たのか戸惑うが、聡明な
彼はやがて自分が未来の異国に来たことを静かに悟る。価値観も文化も
異なる未来であることも。
そして、最後のラストシーンで警官隊に発砲され、
「蘇りはせん。武士の道は『理』じゃ」
と言葉を残し、ニコリと女性ジャーナリストに微笑みかけて再び氷の湖に
自ら飛び込む。
藤岡の演技がとてつもなく良い。
ただ、ここで警官隊に翻訳説明した主演女優(あるいは製作者)が大きな
過ちを犯す。

「彼は何と言ったのだ」と尋ねる警官に女性ジャーナリストは説明する。
「武士の道は『死』だと彼は言った」と。
「死」と「理(り)」ではまるで違うし、なぜラストシーンでヨシミツが「理じゃ」と
言ったのかを斟酌しないとまるでこの映画のヨシミツの真意が曇ってしまう。
すべてを悟り、蘇った自分を恥じるという感覚は、キリスト教的復活を信じる
西洋人にはかなり理解しにくいことなのだろう。日本では死者の蘇りは
たたりであり、それを畏れる。だからこそ、「鎮め」の思想があり、「鎮魂」の
精神文化がある。将門塚にしても英霊碑にしてもそうだし、そもそも神社の
存立自体が「ほふる=まつる」から発生をみている。安らかな眠りを
日本人は望む。尤も、西洋では今も昔の日本と同じく土葬であるので、
死者の蘇りは畏怖の対象としてあるが、それは守護神などの霊魂として
ではなく、物理的なゾンビのような様態で現世に現れて恐怖対象とされる。

また、自ら死を選択する行為はキリスト教では禁じられているので、
日本武士の行為は西洋人からみたら単なる自殺に思えるのだろう。
だが、武士は「自殺」はしない。武士は「自裁」をするのだ。「自決」ともいう。
自ら望んで死んで生きるのである。だからこそ現世に生き残った人は死者の
魂を鎮めるべく祈る。それが日本人の旧来の精神文化だ。
この映画作品で、すべてを悟った武士ヨシミツは「武士の道は理」であると
告げて自決する。この深い意味を最後の最後の女性のセリフで台無しに
してしまっている。
だが、もしかすると「解っていないアメリカ人、解っている日本人」を巧妙に
描き出す演出だったのかもしれないが、実は作っているのが「解っていない
アメリカ人」であるので、そのような勘繰りはかいかぶりの深読みしすぎだろう。
単なる
ズボラな製作上の女性の台詞ミスだと私は思う。
そして、この作品全編に流れるのは英米人の選民意識だ。
まるで日本武士を原始人や未開の野蛮人、知能の低い類人猿のように
描いている。
さらに、日本語をまったく解しない米国人連中ばかりが1980年代の現代に
登場する。これはいくらなんでもありえない。
それはまるで、自分ら米国の野球を「ワールドシリーズ」と呼んでいる米国人の
視野と世界の狭さと白人特有の傲慢さを代弁するかのようだ。
この映画で接したように米国人の白人たちはネイティブアメリカンにも接して
きたのだろうなと私は強く感じる。1980年代のアメリカ人にとって日本人
などというのは黄色いサルであることに変わりはなく、言葉が通じなかった
ネイティブインディアンと同種とみなしている。アメリカ人は日本の撮影機材で
撮影したりウォークマンを聴いていながら、日本人の技術や英知に関しては
無知無関心なのである。

アメリカ合衆国は黒人の大統領を輩出したが、ネイティブアメリカンが大統領に
選出されることはあと200年くらいないだろうとうような実情が現在もアメリカ
国内には存在する。
映画『SFソードキル』は、そうしたアメリカ人の不明さ無知さが見えてくる点、
また、日本人にとっては、ディスカバージャパンという視点においていろいろと
勉強に
なる映画である。
そして、藤岡弘(現藤岡弘、)の細やかな感情表現の演技の素晴らしさに
感動するだろう。


なお、この作品で出てくる刀は、すべて刀工小林康宏の作が使用されている。


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