渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『エンジェル ~僕の歌は君の歌~』

2004年11月13日 | 映画・ドラマ・コミック


 その恋には、翼があった。
 彼女は、天から降りてきて、恋の不思議さを教えてくれた。
 でも、恋がもつ本当のチカラは、まだ知らなかった。(ジャケットより)
                    
 映画『エンジェル ~僕の歌は君の歌~』(1992年)を観た。
 出演:大地真央/織田裕二/和久井映見/三木のり平
 
 オープニング。
 エルトン・ジョンの「YOUR SONG」がバックで流れる。
 竜彦(織田)は雨の中、偶然の出来事から香織(和久井)と出会う。
 いつしか二人は愛し合い、泣き、笑い、別れまでの5年の歳月が
 無声シーンとして流れていく。

物語は香織が竜彦と別れる雨の夜から始まる。
自分に自信を失っていつまでもプロポーズしてくれない竜彦にあてつけ
るように香織は見合いをした。
竜彦は香織の真意を汲み取れず、止めることもなくあきらめてしまう。
  
ある日、駅で竜彦は美人の天使の爽子(大地)と出会う。
彼は香織があと7日で死んでしまうことを知る。
香織のためにできる限りのことをしようとする竜彦。
感情を持たなかった天使は、やがて竜彦の真剣な姿に惹かれて恋をする。
天使は掟を破って、彼の力になろうとする。
「その人のために何かをしてあげたい。人を好きになるってこういうこと
 なのね・・・」
しかし、掟を破ると、人間はすべての記憶がなくなり、天使は人間になる
かわりに急激に老化してしまう。
香織を助けることで、自分のことさえ竜彦は忘れてしまう。
恋の苦しみを爽子は初めて知る。

ラストシーン。
命が助かり、記憶がないまま街ですれ違う香織と竜彦。
そこにかつての出会いのときと同じ雨が降って来た。
雨に打たれ、はっと気づくように見詰め合う二人。
それをガラス窓ごしに見守る年老いた元天使の目から涙が流れる。
このとき、人になった天使爽子は、竜彦に記憶が甦ることで、自分がそば
にいたことを思い出してくれることに気づき、微笑みがちに涙顔を上げる。
部屋の中には、かつて人に恋した時の若く美しい爽子の写真があった。
窓の外では、今、瞠目しあって駆け寄ろうとする二人。

数ある恋愛邦画で最高のラストシーン。
感動で胸がしめつけられる。
決して消えなかった固い愛の記憶とそれを見守るもうひとつの愛。
僕にとっては名作。


歴史散歩

2004年11月06日 | 文学・歴史・文化・科学

歴史研究会の同窓生とドライブがてら博多湾の志賀島を訪れた。
湾の東北部から長い砂浜で陸続きになっている島だ。
ここは金印が発見された場所として学校で習う教科書では有名だ。
志賀島は730年前の激戦地でもある。

元のフビライは南宋を滅亡させた後、海を越えて日本に侵攻して来た。
文永11年(1274)10月に第一次軍事侵攻があり日本軍と交戦した(文永の役)。
このときには季節は今なら初冬で、「神風」も吹かず、フビライ軍は
対馬・壱岐の防人・住民をせん滅した後、博多湾を攻めて上陸し、かなり
内陸部まで戦闘状態に陥る。
湾の入り口である志賀島にも元軍は上陸し、逃げ遅れた住民をすべて殺害。
日本人は初めてこのフビライ軍により「火薬」を使用した「てつはう」を
知る。
「てつはう」はその後の鉄砲ではなく、今でいう「榴弾(りゅうだん)」の
ようなもので、蒙古襲来絵図等にも描かれているコンペイトウのような形を
した榴弾で、火薬を詰めて投擲により撃発させ、敵陣を混乱させたり爆音
により動揺を与える目的のものである。
国内は北条鎌倉時代で集団戦の用兵観念はなく、「やり」さえも発生してい
ない。
鎌倉時代の古文書には「槍」という文字が使われているものもあるが、
これは「ほこ」と読むか「やり」と読むかは定かではない。
武器としての刀剣史からみると、鑓(やり)の発生は南北朝以降であり、
合戦報告書にも鑓という言葉が登場するのは建武以降であるとされる
(新井白石『軍器考』)。

日本軍は元軍との武器・用兵思想の違いから、かなり苦戦を強いられた。
だが、この文永の襲来のときは、内陸戦ゆえ野戦において日本軍が夜間に
ゲリラ戦で反撃をしかけた。
元軍は湾に停泊中の軍船に撤退し、博多を攻めた翌朝には元へと撤収して
行った。
しかし、逃げ遅れて志賀島に難破した元軍一隻120余名は捕えられ、ことごと
く斬首された。

7年後の弘安4年(1281)6月、再び元軍が襲来した(弘安の役)。
だが、博多湾沿岸は鎌倉幕府がすでに防塁を築いており、上陸には困難を
伴った。
防塁がない志賀島だけに元軍は上陸し、ここが主戦場となる。
そして、1週間後、元軍は戦力増強のために別動部隊と合流せんとして伊万里
湾まで軍船で移動を開始した。
だが、夏である旧暦6月は台風の季節。
暴風雨により、元軍は戦闘不能になり壊滅した。
これが世に言う、元寇である。

志賀島の住民たちは、第一次元寇後に島に戻ってきてから、累々と並ぶ屍を
埋葬して供養塔を建てて供養していたという。
「軍事」の前には、人の心も宗教も無力だ。
7年後には、神はあざわらうかのように軍事力で島民を蹂躙する人間の行為
を見逃した。
それ以降もずっと。。。。
西暦2000年のミレニアムが来ても人類に審判は下されない。
これは神に対して、誤った捉え方であるのはわかっている。十分に。
だが、志賀島の美しい海を見ながら、やるせない気持ちになった。
友人の案内で湾内が一望できる展望台から海を見ていて、そう思った。

昼には割烹旅館で魚料理を食べた。
和室の窓の外はすぐに海。とても気持ちがよい部屋だ。
海が、地球が丸い。

金印公園では右が朝鮮半島、前が博多湾という普段体験できない方位を経験
した。
公園のその場所は「方位広場」という。
古代、北部九州が地理的に朝鮮半島とひとつの文化圏を形成していたとして
も頷ける。

志賀島には万葉の歌碑が10基ある。
そのうちのひとつ九号歌碑の前に、さざえのつぼ焼き屋さんが露天の席を
出していた。
海を見ながら友人とつぼ焼きをほうばる。
とても美味。

沖つ鳥 鴨とふ船は也良の崎
           たみて漕ぎ来と 聞こえしぬかも

対馬には2千名ほどの防人がいたらしい。
食料に毎年2千石の米が必要で、これは毎年北部九州の六カ国が持ち回りで
対馬に送っていた。
神亀年間(724~729)のある年、大宰府から米の海上輸送を命じられた老齢の
宗像の津麻呂に代わり、志賀の荒雄がこの任にあたる。
だが、台風の季節、危険な航海を遂行しようとし荒雄は水難事故で海中に没
す。
残された彼の妻は、「夫はまだ帰らぬか、帰らぬか」と待ち焦がれた。
妻は、帰ってくるあてもない死別した夫の乗る船が、突然岬を回って姿を現わ
しはしないかと願った。
もし船を見つけたら誰でもよい、鳥よ、お前もお願いだから私に知らせておく
れ、とこの歌を詠んだという。

この歌を心の中で復唱したとき、戦地に赴いた祖父を待ち続けたという祖母
を思い出し、食べていたさざえが急にほろ苦くなった。
愛する祖母の元には二度と帰れず、祖父は南洋ニューギニアで「英霊」と
なった。
戦死の知らせを祖母に告げた人の言葉は
「おめでとうございます」
だった。

志賀島
http://www.fjct.fit.ac.jp/yama-lab/