家から正面に見えるよく行く近所
の山は標高445メートル。
300位かと思ったらもう少しあった。
朝5時50分の山。城は備後だが、海
(明治以降河川に改修)を隔てて
安芸国となる。あの向かいの山々は
備後ではなく安芸。
中世からの呼び名は「はたの山」
という。現代名「竜王山」。
三原湾と佐木島(さぎしま/三原市)、
因島(いんのしま/尾道市)。
遙か彼方に霞んで見えるのは四国の
阿讃山脈だ。
こちら市内の市街地西方。
備後国から安芸国を見ている。
中央の丘の上にある教会のような
建物が県立広島大学だ。
その丘が備後国と安芸国の国境に
なる。
備後三原城とはたの山。
三原城は戦国時代末期に毛利一門の
小早川隆景が築城に着手した。
関ヶ原合戦以降、毛利一門は長門に
転封(てんぽう)され、福島正則が
安芸備後二国の領主として入封(にゅ
うほう)して広島城と三原城を完備
した。
しかし、徳川幕府は各地の大名潰し
として各国に調査エージェント=忍び
の者を密かに派遣して諸侯の動向を
探った。いわゆる幕府隠密だ。これは
幕末まで続けられた。各藩に入り込
んで根付いた隠密は「草」と呼ばれた。
その隠密の報告により、福島正則は
城郭無断改築の罪をでっち上げられて
領地を幕府に召し上げられた。
その後、紀州から浅野家が安芸に
入封し、備後福山城は徳川家康の従弟
にあたる水野勝成が福山城に入って
西の毛利一門を抑える役目を担った。
この分割により、現広島県のエリアは
一国一城に準じた体制となったが、
三原城は破壊されずに例外として
広島藩の家老が城主となる支城と
して継続された。