渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

2005年の携帯動画の画質

2022年11月02日 | open

2005年の携帯動画の画質

現代、通信機器の発達は著しいが、
2005年時点の携帯電話での動画
撮影の画質は、まだこんなもの
だった。
ユーチューブのプラットホームが
確立されたのはこの年だった。
クリアな画素数を得るには、主と
してデジカメの動画機能や専用
カメラで撮影して、変換させて
動画プラットホームに乗せるの
が一般的だった。
スマートフォンがガラケーよりも
優れているのは、多機能に加えて、
モバイルとしての能力が飛躍的に
向上した事だった。
そのうち、物体として
モバイルを
保持せずに空間に映像
を映し出す
ことが可能な機器に
進化するだろう。
この動画は、携帯電話にカメラ

機能が搭載されて普及し始めた頃、
初めて
携帯電話(FOMA)で撮影
した
時の動画である。
まだVGAサイズの動画撮影が可能な
機種は世に登場
していない。
動画をメール送信できるようになっ

たのでさえこの前年だった。
この2005年を目途に、各社の開発
競争が熾烈になり、一気に携帯
モバイルの機能が向上していく。
携帯電話は私は1990年から使用し

ていたが、その日進月歩ならぬ
秒進分歩ぶりに驚く。
開発者は、多分ほとんどまともに
睡眠取れてない
のでは(笑)。



玉撞きは変化はしない。
流行り廃りには本質部分は左右
されない。
60年前のキューが充分に現代でも
通用するし、撞球の根幹に変化、
変節は無し。
正確にストロークしてキューを
正しく出して手玉を進行させる
だけだ。
流行り廃りを設えようとするのは、
それは撞球の真髄とは無縁の末葉
部分の別な思惑が形成する事象
のみだ。

撞球の根幹は一切時代に左右され
はしない。
ビリヤードは不朽性を具備している。


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