トンネルを抜けるとそこは桜山。
桜山頂には中世に山名氏の桜山城があっ
た。
現在でも曲輪の土塁や井戸の遺跡が残っ
ている。
この山のふもとまでが海だった。
毛利一門はこの城のあるエリアを押さえる
戦略を立て、備後東部でイクサで攻めて、
次々に城を攻略して行った。
中世戦国時代の城は山城が中心であり、
城下町は形成されていない。
国内で初めて城下町を作り、その町を都市
として経済物流を計画実行したのは織田
信長だった。天守建築も信長が史上初。
そして、山城からやがて平城の時代を迎
え、そこに武士や商人、工人、町人たちの
市民を集住させ、日本に「町」が誕生し
た。
毛利一門の小早川氏が築城した三原城は、
そうした中世末期から近世初期の平城へ
の以降の過渡期に、海上の小島を結び埋
め立てて作られた当時国内最先端の海上
都市だった。海から見たら洋上に城がある
ため、「浮城(うきしろ)」と呼ばれた。
江戸期のこの三原城図で最上端の山林部
が桜山。山すそ南面一帯は武家地で、高台
には山ノ手通という路があった。現国立
広島大学附属幼稚園・小学校・中学校と
三原市立三原小学校を結ぶラインに存在
したが、現在は道路改変により山ノ手通
は消滅している。