渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

心情と信条と真相の実体

2019年01月13日 | 公開情報

旧友、といっても私より上の団塊の世代の人なの
だが、数年ぶりに電話でかなりの長話をした。
互いの近況からはじまり、オートバイの話や社会
情勢や歴史等々の話題で一気に。
あれ、あのまま話していたら5時間、6時間あっと
いうまに過ぎてたぞ(笑)。

共通の友人の話題になり、彼は今どうしてるかね
となった時、向こうがこう言う。
「あなたも彼のように感情的に激昂したことはな
いよね」と。
「そんなことないよ、結構、ドリャ!ゴルァ!系
だよ」と言うと、「えー!見たことない」と言
う。
うーん。それは、私の学生時代の期間を見ていた
からでしょう(笑)。

ただ、私は自分で思い返しても、どんな人であろ
うとも、人を憎んだことが記憶にない。
人の行為や言動、構造体や理不尽な事に憤る事は
あっても、人本体に対して憎しみを抱いたことは
記憶にない。
そりゃ怒ることはあるよ。なんだそれ、と憤慨
することもある。おまえ、いい加減にしろよ、
と。
でも、憎むという概念、感情作用は、自分に照ら
し合わせると、それに該当する感情で人を見たと
いう記憶がない。
同時に、人に対して「殺意」というものを抱いた
事がない。
冗談では仲間内などの弄り合いの時には、「てっ
めー、ぶっ殺す(笑)」とか「一度死ね、おま
え」とか言い合うことはあっても、憎んだりとい
うのに該当する感情や概念が人間に対して浮かん
だことがない。仮に立場上のエネミーに対して
も。
そして、何らかの理由で、人間の肉体と物理的に
衝撃的接触が発生する際(直に肉体同士が接触す
るか、あるいは手にする物体を介してかを問わ
ず)にも、憎しみという感情が湧いてそれによっ
ての行動の実行ということを経験したことがな
い。
そのような物理的接触の場合は、無感情で淡々と
やる。

そういう意味では、私は昨夜長話をした人が言っ
ていた私への昔の印象というのは当たっているの
かも知れない。
よく私の事を知らない人程(私の事を知らない
知るとは関係なく)、実相が見えていないよう
で、個々に勝手に人物像なるものを自己の脳内
で設えて、それで自己評価して溜飲を下げたつも
りになっていることが多いようだ。
でも、実は、私自身は、それさえも興味がない。
存外、乾いている。

三原市が道路に掲げている看板標語にこういう物
がある。
「ふやそうよ 差別をにくむ ひとたちを」
私にはまったく理解ができない。
差別を無くそうとする人たちを増やそうよという
のなら解るが、憎しみを増やしても憎しみからは
憎しみの連鎖しか生まないのではなかろうか。
そもそも、憎しみを持つ人を増やそうというその
ことの本意がよく理解できない。
差別というのは意図的に作られた制度に始まり、
その政策や機構という物が人間の感情をも規定す
るに至ってきたのだが、その差別を消去して人が
人を差別して自己の安寧を得ようとする利己の
呪縛から解放される世界を築くためには、憎しみ
の増殖によっては差別の完全消滅を成就すること
は不能なのではなかろうかと私は思うのだ。

こうした感覚は、つい最近芽生えたことではな
く、物心ついた時からだった。
言葉の上では「憎たらしい」「小憎らしい」等々
使うことは皆無ではないが、実質的には「人を
憎む」という(といわれるらしき)感情が私には
湧かない。
同時に似たような類型で、「妬み」「嫉み」と
いうのも私の中には存在しない。
「それいいねー」とか、「おお!それは俺も欲し
いや」とかいう感情は起きても、他人に属する
事物やその他人の環境について、それこそ憎々し
く思い抱いて腹に何か持つ、というのがなんだか
理解できない。
羨望とかはあるよ。なんであんな凄い事ができる
のだろう、とかの。
しかし、それを以ってその人物なり対象をいわゆ
る「妬み」や「嫉み」の対象化とするということ
がよく解らない。妬みや嫉みややっかみ自体が
未知なので解りようがない。
なんかそういうらしきことする人がいるんだなぁ
程度しか理解が及ばない。

ま、そんなところ。

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