渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

五月病

2021年05月06日 | open


五月病のシーズンだという。
高校の時、教師からの進路後の注意とし
て初めてその存在を知った。
なんでも、それまでと離れた土地で親元
を離れた18才の大学生がかかるのだとい
う。
いわゆる、環境変化によるホームシック
というやつらしい。

東京出身者で都内の大学に通う奴で五月病
を患った奴を聞いた事がない。親元を離れ
て一人暮らしをしていてもだ。
私などは高1の16の時から親は広島に転居
して別居だったので、なんら高校時代とは
変化は無かった。
東京生まれの私の子は、幼くして転居を
経験しての広島県育ちだが、18で家を出
て都内で一人暮らしで大学に通っていた。
入学して間もなく、都内で一緒に飲み食い
したが、その時尋ねてみたら、10数年ぶり
の東京暮らしも、一人暮らしも、何の違和
感も無いと言う。

要するに、五月病というのは、人それぞれ
なのではなかろうか。
私は経験していないので、理屈では分かっ
たつもりになろうとも、根本的には理解で
きない。

人の精神構造の定理としては、「住めば
都」とかいうものではない。
そんなものは世の中には無い。虚飾の逃避
的諦めの慰めだ。そんなもんはクソ食らえ
だ。諦観とは諦めではなく、物事の本質を
見極める事だ。
クソみたいな所は、そこに住もうがそこで
死のうがクソはクソなのである。世界各地
において。
なんだここは?早く帰国してえ、なんて
場所は腐る程ある。

つまり、今住む場所と、五月病はなんら
関係ない。
五月病というのは、親元を離れてどうか、
なのだ。
つまり、本人の気の持ちように大きく規定
される。
五月病というのは、それまでの親といる
国許での暮らしとあまりに異なる環境に
なじめず、ホームシックになる事だ。郷愁
ではない。
五月病が郷愁とかいうのならば、私などは
ずっと20年来、東京・横浜への郷愁に包ま
れている。アイワナバックトゥーマイカン
トリー、と。
五月病はそういうのではない。ホームシッ
クだ。「家に帰りたい」なのだ。

いつまでも、エトランゼはエトランゼから
は脱する事は永遠に無い。別場所、別種
のエリアでは、人は永遠の異邦人なので
ある。
それは、けさママンが死ななくてもそう
あるのだ。
ただ、漂泊者にはバカボンドとしての強み
がある。
根無草は挫けないのだ(笑
カラカラ笑いながら我関せずで地を風に
吹かれて転がるのである。
下手に地面に根っこを張ると、強風で倒れ
たりする。
柳の枝がなぜ強いのか。
それは、強引な風をいなすからだ。

それは、別な箴言譚としても、そうした
事は学び取れる。


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