渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画『彼女が水着にきがえたら』(1989)

2024年06月04日 | open




映画『彼女が水着にきがえたら』
(1989)で、織田裕二と谷啓は
ヨットマンとしてヘリ―ハンセン
のウインドブレーカーを来ている。
映画は全編サザンの曲が流れる
ミーハー若者冒険物語だ。
『私をスキーに連れてって』(87)
の次はマリンスポーツがネタ。
バブリーな頃のホイチョイムービー
のチャラくもライトに楽しめる
映画だ。

この色はレッドでもオレンジ
でも
なくネオンオレンジとい
う色。
オレンジがかったベスパレッド
よりもややオレンジ
が強い。


主演は織田裕二ではなく原田
知世。薬師丸ひろ子に続く角
川の秘蔵っ子だ。
なんだ?この原田さん。
ノリックか?


主人公を海難から救ったのは
ヨット「ツバメ号」だった。



ウインドブレーカーは1980年代
にはライト感覚で着られる上っ
張りとしてかなり普及した。
ジャンパーという名称がブルゾ
ンという呼称に変化した頃。
ジャケットという名称は今でも
息長く使われている。
ウインドブレーカーの薄い生地

のジャケットが重厚なコートと
合体してスタジアムコートが
誕生するのも1980年代末期だ。

例によって原田さんは可愛い。
『時をかける少女』(1983)時には

14才だったが、6年後のこの『彼
女が水着にきがえたら』(89)では
大人になった若者女性を演じて
いる。
織田裕二は激烈競争率のオーデ
ションを勝ち抜いて準主役を
獲得した。彼も実力派としてこの
作品後に大きく飛躍する。



この『彼女が水着にきがえたら』
に出て来るDC-3は英軍名はダコタ。
映画『ワイルド・ギース』(1978)
にも出て来た名機だ。傭兵部隊
の撤収の時に使用された。
本『彼女が水着・・・』では作品

中重要な物語のキーとなる。

この時代、1980年代末期~90
年代初期は、日本国内は空前
のバブル経済で景気が爆発的
に良かった時代だ。
首都圏の勤め人の給与も毎年
ドカンと上昇した。
1988年の28才が年収650万超え
だったのだから、いかに尋常で
ない経済隆盛だったかがわかる。
銀行や証券会社勤務だと同じ

28才で800万円を超える年収だ
った。
原宿でワンルーム600万円で売
りに出された物件は、オーナー
が立ち代わり何度も転がし、半
年後に
は6,000万円で売却された。
そういう時代。
タクシー(まったくつかまら
ない。乗車拒否も日常)に乗っ
ても、1メーター2メーターで
1万円札渡して「釣りはいらな
い」と言うのがごく普通の若い
サラリーマンたちの土曜の夜
だった。
都心部の人々は本当に浮かれて
いたが、バブルで苦労をした
人はいない。妙な利殖投資で
失敗しない限り。
経済爆発対策というのは悪く
はない政策だと思う。
だが、権力は意図的にプラザ
合意以降の自己債務を処理し
たら一方的に金融引き締めを
して銀行の債権が焦げ付いた。
そして一気に景気は冷え込み、
続々と倒産も連鎖発生。
自殺する人も増えた。
結果として、現代まで続く
「失われた30年」の真冬の
時代が到来した。
戦後初の日本経済の落ち込み
がバブル崩壊により発生し、
それは現在も続いている。

バブル時代、ホイチョイムー
ビー三部作は、軽快で明るい
社会世相を色濃く反映させた
お軽いムービーだった。
『私をスキーに連れてって』(87)
は社会的にスキーブームを
発生させて、国内人口の若者
の殆どがスキーに親しんだ。
まだスノボは主流とはなって
いない時代。
温泉旅行ブームと合体して、
スキー旅行に若者は行きまく
った。
続く『彼女が水着にきがえたら』
(1989)では、マリンスポーツと
プチ冒険が流行った。スキュー
バダイビングが南海旅行の定番
となったのもこの作品の影響だ。
『波の数だけ抱きしめて』
(1991)はバブル崩壊後の作品
だが、舞台はバブル遥か前の
1982年(スタグフレーション
時代)の湘南が舞台だ。
その82年の湘南で学生時代最後
の夢としてFM曲を開設しようと
する若者たちの青春を描く。
もろに私の世代が時代的に登場
人物たちの世代として描かれる。
作品の中で出て来るアイテムは
車両から音響装置から何から
何まで時代考証がかなり正確。
前作2作とは趣が異なる作品だっ
た。


これらホイチョイ三部作の
若者たちは私よりやや下の
世代だが、時代の中では同
じ20代で同世代でもある。
私ともろ学年的同世代の女優
としては『水着』で田中美佐
子さんが登場する。
実学年は私のひとつ上。


この人は清潔感があってとても
いい感じの女優さんだった。


田中さんは1982年に『ダイヤ
モンドは傷つかない』で初映
画主演ながら日本アカデミー
賞新人俳優賞を受賞した。
実力演技派。
今は釣りおばちゃんみたいに
なっているが、映画人として
俳優の実力は確かなものがあ
る。
35才の時、年収1億円を超える
女優だったが、7才下の月収10
万円の芸人と結婚して話題と
なった。

1980年代。
それは高度経済成長期が「昭和
元禄」といわれた時以上に日本
が明るかった時代。
これの真の背景は分かっている。
それは経済学的なものではなく
政治的なものに依拠していた。
アメリカが1975年ベトナム戦争
終結以降、局地戦介入はあった
にせよ、90年の湾岸戦争まで
本格的な戦争をしなかった時代
が1975~1990だった。
日本は米国のポチなので、その
米軍の戦争手控えの時期に更に
米軍との軍事同盟を固める。
リムパック日米韓環太平洋軍事
演習への初参加等、自衛隊の軍
隊化を一気に日本は推し進めた。
中曽根の「不沈空母」発言に
見られるように。
同時に国内景気循環政策を為し
た。オイルショック以降の停滞
をそれで払拭した。
そうした「表向き」の平和な
時代、日本国内は明るく湧きに
湧き、若者文化が1960年代以上
に勃興した。
そして、かつては抵抗文化とし
て存在したサブカルチャーが
商業主義にからめとられて、
サブカルはヲタクを生み、思想
性は完全消滅した。
原宿の街にはタケノコとローラー
が溢れ、日本全国おのぼりさん
修学旅行の行き先は原宿になった。
政治思想的抵抗文化の瓦解とミー
ハー感性の爆発的蔓延が1980年代
の国内を席巻した。
権力サイドとしてはシメシメの
思うつぼだった。
唯一気を吐いたのはパンクの
連中だけだった。

1980年代の特徴的な事として、
ロックは何
と体制側に寄り添う
連中まで登
場した事が挙げられ
る。フォークポップの分野に

でも。
セイセイ言って今は創作
キャラ
の男もオカッパ頭でジュン
コ~
切ないよとかいう「女々」
しい
歌は捨て、疑似似非マッチョ

アウトローぶる演出にスイッチ

した。実際にはアウトローでは
なく体制べったり派だが。
そしてそれは、強大な権力の横

行に抵抗するかつての若者文化
ではなく、ジャイアン的な力を
支持する新世代の若者を喜ばせ
た。
1980年代は、音楽シーンにおい
ても抵抗文化は死滅に向かった。

広く明るい若者文化は花開いたが、
ニセモノ
「文化」も登場して蔓延
したのが
1980年代だったといえ
る。

そして、予定通り、国家権力の
金融引き締めによりバブル経済
は終焉した。
融資を停止させられて倒産する
企業が相次いだ。
多くの死人も出た。
経済が潤い、国民生活は首都圏で
は豊かになったが、一方で金権
主義も蔓延り、ゆがみを生じた。
だが、その後の政治は、田沼意次
時代の経済繁栄を寛政の改革で
閉塞社会にしたのと同じような
手法を日本の実効支配者たちは
採った為、経済だけでなく政治
状況も混乱した。
かくして、社会党は風前の灯と
なり、自民党さえも内部分裂し
た。
55年体制は完全崩壊し、自民党
が政権与党ではなくなった時代
が到来したのが1990年代初頭
だった。
その後社会党の総理大臣で自民党
が連立政権というわっけ分からぬ
政権が日本に誕生し、その後も
混迷を極める事になる。
その後自民党はカルト宗教団体
を支持母体とする政教分離原則
の態度がよく判らない政党を味方
にする事で与党政権を維持する
という、90年代初期の混迷路線
を未だに踏襲するようになった。
この頃になると、漢字をろくに
読めない人間が総理になるのが
定番となった。
麻生の「未曾有⇒みぞうゆう」
にはじまり、安部までもが
「云々⇒でんでん」(連呼)と
言って野党を罵倒した。
なんだそれ?(笑
中曽根や田中角栄はやってた事
はともかく、それ
なりの押し出
しの強さがあった
が、でんでん
とはそれはもう
みぞうゆうの事
態だ。鳩山由紀夫と同じ種族の
匂いがする。世間も知らなきゃ
漢字も知らない。まして一般

国民庶民の心など誰が知る。

もしかすると、1990年=1980
年代の最後の年で、日本は終わ
っているのかも知れない。
ハマコーが総理になってたら
もっと面白い世の中になって
いたかも知れない。
東京湾ど真ん中にカジノ建てて
日本をモナコ化したりとかで。
(私の言ってる事を真に受ける
なよ。アイロニーなのだから)



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