渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

三原御城下を北進す

2022年08月12日 | open



ここがなんで「原」なものか。
と思っていたら、もうここは
駒ケ原を抜けて急な山道を登る
八坂(やさか)という山岳
エリアに入っていた(笑)。
かつては北の古代山陽道まで
城前から真北に抜ける道があっ
たと古老に聞くが、今はこの先
は倒木が激しく未舗装路も荒れ
ている為、オフロードバイクでな

いと走破は厳しい。
オフロードでもトライアルバイ
クのようなタイプでないと進行
は無理かも。
もちろん、山岳戦闘部隊のよう
に徒歩で走破ならば可能だ。
駒ケ原とこのあたりは、江戸期

には三原城代浅野家家老の鷹狩
の地でもあったが、城下付新開
農村でもあった。
鷹狩の際には、砲術指南番だけ

でなく作事方も随行させられた。
また総軍事訓練でもあったので、

当然側近の側用人(現代の内閣
官房長官職のような職)も供と
して随行した。
城下西の郊外の古代山陽道の

駅家(うまや)があった眞良
(しんら)の里のように馬を
放牧できるほど開けた土地では
なく、狭い扇状地の谷戸だ。
こちらの地方だと関東とは違い
呼称は谷戸ではなく、谷地か。
この備後地方は、いわゆる谷戸
の事を「原」と呼ぶ習慣がある
ようだ。

ここから50kmほど東部の備中
地方の方言の
「やっちもねえ
(どうしよう
もなくしょうも
ない)」という
表現は、谷戸
の意味の谷津、谷地、萢
(やち)
の事ではなかろうか。


但し、「三原」なる地は「三つ
の原が合流した土地」という
意味、とする行政や教育機関の
説明には絶対矛盾がある。
そのように谷戸といえる谷合い
の「原」なるものが合流して
土地ができたのは永禄年間に
海を埋め立てて以降の事だ。
ではそれ以前は?
バラバラで三つの「原」(谷戸)
はどこも互いに繋がっていない。
この戦国末期に城ができた町
の場所は「三原」では無かっ
たというのが真実だろう。
さらに古い足利書簡等に出て
来る「備後國
三原」という地名
や室町時代の
銅鐘の銘の「三原
大工」の三原と
は、三つの原が
合わさった城を作った場
所(そ
れはその当時存在しな
い)では
なく、もっと内陸部
のどこかの
未発見の地の事である。

古くは古書には備後國ミワラは
「柞原」とある。
「柞」とはコナラ、クヌギ類の
総称でハハソの事だ。つまり
柞原(みはら)とはハハソハラ
の事であり、森林原を指した。
内陸部の事なのである。
そして、コナラ、クヌギ類の
樹木はこの地方特有の松の
古代時植林と共に有数な木炭
資源だった。
産鉄の地には木炭が存在しな
ければ鉄は生産できない。
古代製鉄=ハハソハラ必須なの
である

現在の三原城のある場所が
「柞原=
三原」ではなかった。
これは論理的に確実だ。
何度も言うが、中世末期の永禄

より以前、そこは海だったから
だ。
築城以降に「この地を三原と
しよう」となったのだろう。
福岡県の福岡がそうであった
ように。


余談だが、現在の三原市中之町
にある賀羅加波(からかわ)
神社のカラカワとは、もしか
すると韓革の事であり、鞴
(ふいご)
を指したのかも
しれない。小型の革袋吹子を。
この地を「原三原(げんみはら)」
であると推定している研究者
もいる。


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