私が離婚を決めた理由

離婚するまでの経緯のつもりでしたが、考えているうちに、AC、共依存などにぶつかっています。

アナログ

2006-07-21 14:43:35 | 日々つれづれ
記憶っていうのは、アナログなんだってワークショップで斎藤先生が話されていたけれど、本当にそうなんだなぁと思う。
言葉でも、文章でもなくて、表現するには難しいたくさんのもので記憶されている。
その情景が思い出されるにつれ、私の中にあった記憶の一部が変化してる。

一番最初に好きになった人の思い出。
私の中では、最終的に遊ばれてたのかもしれないって整理されてしまっていたけれど、忘れてしまっていたワンシーンが思い出されるに連れて、違う感情が湧き上がってくる。

確かに、彼は遊んでて付き合っている女性も次々に変わっていて、そしてその度に私のところに戻ってきていたけれど、私が思っていたみたいに行為だけが目的じゃなかったのかもしれないなと思う。
言葉では表現できない、その時の空気や感覚、そんなあいまいなものなのだけれど。

行為の後の時間や、抱きしめられた感覚、優しいキス。
私が流した涙を、指でそっと拭いてくれたその時の表情。
その時、私は愛されていたのかもしれないと…
その二人での時間が私にとって大切で、その時間を私は求めていたのではないかと。
そして、彼も同じように、その共有する時間を必要としていたのではないかと…

私はいつも誰かに抱きしめられていたくて、誘われると断れなくて、でも求めていたのはそんな言葉では表現できない時間だったのではないかと思う。
その時間を共有できない人には、最後まで抱かれることが出来なかった。
もしかしたら、私の感じた感覚は、愛されていた感覚なのかもしれないし、心が重なり合っていたという感覚なのかもしれない。

記憶の中に同様の感覚がある。

母の新聞配達を手伝っていた時のこと。
早朝のしっとりとした時間。
母と二人で、人気のない町を歩く。
母の優しい笑顔がとても好きだった。
私は、母が喜んでくれるのが嬉しくて、一生懸命手伝っていて…

何が同じとは言葉では表すことが出来ないけれど、母は私のことを大切に思ってくれていて愛されていたのかもしれないな…
二人で過ごす時間を、私が求めていたのと同じように、また母も大切に感じていてくれたのかもしれない。

子供の頃から私は、ずっとこの感覚を求め続けていたのではないかと思う。
「愛している」という言葉ではなく、言葉ではないこの感覚を大切にしていたのかもしれない。
私は、この感覚を求めて、誰かを愛し続けたのかもしれない。

話をしなくても、ずっと黙っていても、感じられる感覚。
切なくて甘い時間。
私が欲しかったのは、求めていたのは、これだったのかもしれないと思う。

デートしても、二人きりになることにこだわった。
でも、セックスをしたいわけでもない。
求められることで、必要とされる自分に満足していた所もあったけれど。
私が本当に求めていたのは、この感覚だったんだなと思う。

でも、私は何故かこの感覚を否定してしまっていた。
この感覚を共有出来る男性は、良くないのだと思い込んでしまっていた。
それは、最初に付き合った人とのことがあったからかもしれないけど。
旦那とは、この感覚をいだいたことがない。
体当たりに愛情をぶつけてくる、こんな人こそ私を大切にしてくれるのだと思ってしまった。
私が、大切にしていた感覚は、愛されているという言葉では表現できない感覚だったのかもしれない。

思い出す甘美な情景は、私の心を温かく包む。
決して苦しくない。
あの過ぎ去った恋は、胸を引き裂くぐらい苦しかったはずなのに…
愛されているという実感を、私は今の今まで、気がつかぬまま過ごしていたのではないだろうか?

愛しているということは、言葉ではなく、もっと感覚的なものだったのかもしれない。
言葉や態度はそれぞれの持っている感性や価値観によって伝え方が違うけれど、ふっと伝わる感覚的なものは、変わらないのかもしれない。

肌に触れる手の感覚。
ふと見つめるしぐさ。
こぼれる笑顔。
言葉ではなく、もっと直感的なもの。
心を澄まして、感じてみたい。

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