傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 第三編上

2017-02-26 12:38:30 | 金毘羅舩利生纜
鋭(と)き風や刃(み)は三尺の霜柱
六孫王(ろくそんおう)経基(つねもと)
小龍王(しょうりゅうおう)金鱗(きんりん)

蒔く種に日の恵みあり金銭花(きんせんか)
宰府(さいふ)の良民 白大夫(しらたいふ)
錦織判官代(にしごりのはんがんだい)照国(てるくに)

さらし井の奈落に届く吊桶(つるべ)かな
延喜聖主(えんぎのみかど)簑笠(みのかさ)
左大辨(さだいべん)希世霊鬼(まれよのれいき)

下もみじつづれのうらの錦かな
竹田日蔵(たけだにちぞう)が妻 世居(よをり)

おちぬ夜の地獄をかまるねずみかな
菅家忠臣(かんけのちゅうしん)竹田日蔵(たけだにちぞう)
節折(よおりの)内親王

鶯や経読まぬ日もササぼさつ
観世音の権化 袈裟売りの癪法師(かたいほうし)
従三位菅原文時卿

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さる程に、近江の湖の龍王鱗長(りんちょう)は川太郎の訴えに驚き、怒り、その弟小龍王金鱗(きんりん)、千年の簑亀(みのがめ)、近江鮒源五郎、すっぽんの沼太郎など、宗徒(むねと)の□類、眷属を皆ことごとく呼び集め、
「汝らは未だ知らずや。近頃大津の方ほとりに三好の清行という売卜者あり。彼は当今に仕える文章博士なるが、しかじかの罪あって、退けられし者なり。しかるにくだんの清行めがあちこちの漁師に教えて、この湖の鯉鮒を捕らせること大方ならず。さればこそあれ近頃は我が手下のうろくずの数がいたく減り失せ、水底寂しくなりにたり。もしこのままうち捨て置けば、遂に我がこの湖の魚の種は尽きるべし。我が大津の宿に赴いて、思いのままに清行を巻き上せ巻き下ろして微塵になさんと思うなり。所存はいかに」と尋ねれば龍王の切れ者のなまず坊ぬら倉が人をも待たずに進み出て
「候、真にしかるべし。唐土の賢き人は釣りすれども網せずと言う事もあるものを、清行はもとより儒者なるに漁師のために獲物を占い、我が輩(ともがら)を捕らせる事は実に憎むべき曲者なり。六王自らが荒れ出たまいて御征伐あらんことは万魚の幸い此の上なし」とはばかる気色もなく答えるのを簑亀はしばしととどめ、尾を引き首を長くして、のたりのたりと進み出て、
「この事はなはだしかるべからず。大王が世界へ出たまえば、さきに雲あり、□□に雨あり、大風(たいふう)、雷電(らいでん)を相従えて、木を倒し家を覆(くつがえ)し、田畑を損なわざることなし。例えあの清行に恨みを返したまうとも、日の神の御咎めをいかでか逃れたまわんや。再び御思案あれかし」と言葉を尽くして諫(いさ)めれば、小龍王、金鱗、大鮒の源五郎、三尺の鯉之進らのなみの子老だうは
「簑亀が申すところ、真に道理至極せり。漫(そぞ)ろに荒れいでたまえば、御後悔もや候わん」と言葉等しくとどめると、龍王はしばし頭を傾け、
「しからば我は雲を起こさず、また一滴の雨をも降らせず、しのびやかに立出て清行を謀るべし。謀り事は斯様斯様、しかじかなる」と説き示すのを簑亀らはなお危ぶんでしきりに争い諫めれども龍王は遂に聞かずして、独り汀(みぎわ)に立ちいでて、いと荒くれた武士に変じて清行の宿所に赴き、
「我は近頃田舎より糸上りせし者なり。明日よりの照り降りを占ってたまわれ」と言うと清行は心得て、めどぎをひねり卦(け)をしきて、
「明日は必ず雨降るべし。巳(み)の刻(とき)より雲起こり、午の刻より雨降り注ぎ、未(ひつじ)の刻にその雨止まん。水が増すこと三尺三寸四十八てんなるべし」と言われて龍王はあざ笑い、
「しからば貴殿と賭(かけ)をせん。占うところに相違なくば五十両を参らすべし。もしいささかも相違あれば貴殿はこの地を立ち去って生涯占いすべからず。▲この義はいかに」と後を押せば、清行はにっこと微笑んで、
「この事に少しでも相違あれば思いのままに計らいたまえ。それがし決して恨みなし」と言うと龍王はうなづいて、
「しからば言葉を番(つが)えたり。その後に及んでとやかくと逃げ口上は言わさぬぞ」といかめしく言葉をかためて、三好の宿所を発ちつつやがて湖水へ走り帰って、うろくず(魚)らを呼び集め、
「我は今日、斯様斯様に謀って清行と賭けをしたり。此の近江路に降る雨は我が司るものなるに、我が降らせずして誰が降らさん。さるをかやつは知らずして賭けをするこそ可笑(おか)しけれ。明日は必ず三好めに日頃の恨みを返すべし。心地良し心地良し」と誇り顔に説き示す言葉も未だ終わらぬ折から、思いがけなく日の神より御遣いを下されて、龍王に神勅(しんちょく)あり。
近頃は雨がまれにして下界の百姓が難儀に及べり。これにより明日の巳の刻(とき)より雲をしき、午の刻より雨を降らせて、未の刻に雨を止めよ。水の深さは三尺三寸四十八てんと定める。これは近江一国の田畑の損益にかかつらう事ぞかし。夢々粗略(そりゃく)あるべからずといと厳(おごそ)かに聞こえたまう神の恵みぞありがたき。さる程に龍王は思いがけなく日の神の勅状を承り、こはそも如何にと心驚き肝潰れ、呆然としていたが、たちまち息をほっとつき
「・・・・・さてもさても清行めは奇妙不思議の易者なり。既に日の神の詔(みことのり)がある上は明日は雨を降らせしと思いし事も仇(あだ)となり、我が力にも及び難し。さもあらばあれ、その後を伸ばして降る雨さえ少なくすれば彼には口をきかせまじ。詮方あり」と心でうなずき、さて次の日に辰の刻より雲を起こして午の刻に雷(いかつち)を鳴らし、未の刻より雨を降らせて申の刻に雨を止め、水を増すこと二尺ハ寸三十五てんにしたりけり。これにより田畑の為には潤い足らぬ所あり。しかれども龍王は清行を押し倒さんと思うばかりに心勇んで昨日の如くいかめしい田舎侍の姿に変じて清行の宿所に赴いて、門の格子を蹴放ちて進み入りつつ清行をはったとにらんで声をいらだて、
「この売卜(ばいぼく)めが、おめおめと面の皮のいと厚さよ。汝は昨日何と言った。巳の刻より雲起こりて午の刻より雨降り注ぎ、未の刻に雨止まん。水の増すこと三尺三寸四十八てんなるべしと定かに占ったにあらずや。そのこと全て当たらずして、辰の刻に雲起こり午の刻に雷(いかつち)鳴れり。かくて未に雨降って申の刻に晴れたるに、水の増すこと二尺ハ寸三十五てんなるぞかし。もしその占いが当たらずば我が存分になるべしと確かに言いしを忘れはせじ。そこ動くな」と罵りながら刀をきらりと▲引き抜いて、机をはたと切り倒せば、足はくじけつつ転んで、筮(めどき)、算木(さんぎ)もあちこちへ散り乱れる武者の狼藉、雨晴れしより幾人か裏問いに来た老若男女は、すは喧嘩とたち騒ぎ驚き恐れて押し合いへし合って表の方へ逃げいでて、行方も知らずなりにけり。しかれども清行は座したままにてちっとも騒がず、それ見て一人あざ笑い、
「こは理不尽なる狼藉かな。我が占いは皆当たれり。しかるを汝が私(わたしく)して時を延ばし雨を減らし、あの天勅(てんちょく)に背き、かえって我を罵るのは身の程知らぬ痴れ者なり。我は汝をよく知れり。汝は湖水の龍神なるべし。汝が密かに我を恨んで押し倒さんと謀る事の心を推するに、我がこの辺りの漁師に教えて鯉鮒なんどを捕らせるのをねたく思いし故なるべし。汝は知らずや。うろくずは人のために食となる天より賜(たま)うものなれば、ひとつの魚に数万の子あり。さるにより海川にていくらともなく捕れども尽きず、只これ天のはいさいにて、人を肥やすはうろくずの自ずからなる持ち前なり。いわんや近江、山城は海遠くして魚肉に乏しく、わずかに人の腹に満ちるは湖にて捕る鯉鮒のみ。その川魚が数多捕れて値安ければ人に益あり。我は世のため人のためにその方角を占って漁師に教えて捕らせしを、汝が私(わたくし)心で恨む事の愚かさよ。我は汝を許すとも天勅に違いし罪あり。天道いかでか許したまわん。かくても我を謀るや」と天地を見抜きし易者の明察、星を指されて龍王は心驚き慌ただしく刃(やいば)を収めてかしこまり、
「あら恐ろしき易学かな。実に明察せられるごとく、それがしは既に日の神の天勅に背いて刻を延ばし雨を減らせり。このこと重ねて御定めあれば、真に罪を逃れ難しと心ついても今さらに後悔臍(ほぞ)を噛めども甲斐なし。願わくば大先生、それがしを救いたまえ、救わせたまえ」とひれ伏して詫びつつしきりにかき口説けば、清行は聞いて、
「さればとよ、我、今、袖の内でその吉凶を占い見しに汝の命は助かり難し。大方は六尊王経基(つねもと)君に斬られなん。あの大君は清和の御孫貝すみ親王の御子なれば、今の帝も大方ならず召し親しませたまうぞかし。かかれば帝に願い申して、命乞いをしたならば助かることのありもやせん。この他には詮方なし。よくせよかし」と説き示せば龍王は清行を伏し拝みつつ涙を拭って暇乞いして帰りけり。
○されば龍王鱗長は清行に説き示されて、我が過ちを今さらに後悔すれどもその甲斐なければ、只すごすごと湖水を指して帰る折から、早くも日の神も勅使として海神(わだつみのかみ)、数多下りて引き連れ来つる下司の神たちに下知したまえば、皆々雲より下りたちて勅定(ちょくじょう)ざふと呼びはり呼びはり、驚きあわてる龍王をおっとりこめて動かせず、押さえて縄をかければ、龍王は只呆れに呆れて、こはそも如何にと▲問わせもあえず、海神は下知を伝えて波を開かせ、水をけたてて湖水遙かに引き立て引き立て、龍宮城へ赴きけり。
さる程に龍宮には思いがけなく日の神の討つ手の勅使が天下り、早龍王は召し捕られ引かれて帰り来つる由、おぼろげならず聞こえれば、龍王の弟の小龍王金鱗、千年の簑亀、三尺の鯉之進、大鮒の源五郎らは驚き騒いで、衣服を改め皆々勅使を出迎えて上座に招すれば、海神はし笏(しゃく)取り直して小龍王らに向かい、
「龍王鱗長、先だって天勅を受けながら、私(わたくし)の恨みをもって刻を延ばし、雨を減らして田畑の潤いをよくせざりし罪は最も軽からず。これにより龍王をかたのごとく召しとりぬ。日の若宮へ引きもて参って、頭をはねるべきものなり。その弟小龍王金鱗はさせる過ちなしと言えども、兄の非法を知りながら早くも訴え申さざる、これまた不忠と言いつべし。さればこれらの落ち度によって日の本の地に居る事を許されず、□むり司を召し放ちて、□□ての国へ流すべき者なり。さてまたなまず坊主ぬら倉は龍王に媚びへつらって折々悪事をすすめしよしきと罪すべき者なれども、高(たか)のしれたる下魚の事なり。□□□遠からず漁師の針□けさせて、遂に逃れぬ天罰を思い知らせよとの神勅なり。この余のうろくずささやかなるは□田し□にいたるまで御咎めはなきぞかし。この湖の頭の龍王兄弟は罪ありてかいえきせ□るる上からは千年の簑亀、三尺の鯉之進らのうろくずどもを支配して、ちちぶ□の神に仕え□□ちょくすべてかくのごとし。皆々□□□候え」といと厳重に言い渡して、早しずしずと座を立てば、その□□の神たちは引き分かれて海神に従い、ひさかたの日の若宮へ上りたまえば、その一□の神たちは小龍王をおつ□□雲に乗り、またたく間に筑羅(ちくら)が沖まで追い払い、皆々帰り上りけり。
[物語は二つに分かる]この時、天竺国(てんじくこく)の雷音寺(らいおんじ)では仏説釈迦牟尼如来がある日観世音菩薩に向かい、
「先にも説き示したる日本国に赴いて、かの名僧を引接(いんじょう)すべき時節が既に到来せり。かかれば菩薩をわずらわさん。さぁさぁあの土(ど)へ赴きたまえ。但し我はその昔、両界山に鎮め置いた岩裂の迦比羅こそ年頃我に仕えたあの金毘羅大王と一体で、例えば影(かげ)と像(かたち)の如し。あの者ようやく菩提に入りて、あの名僧の助けとならん。菩薩、此の度、済度(さいど)してあの名僧に救わすべし。されどもあの者は凡心を失せず、よからぬ心を起こさん事、またこれなしとすべからず。もしさる事のあらん時、斯様斯様に唱えれば、あの者苦痛なからんして、あの名僧に従うべし。昔、役行者小角が呪文で迦比羅坊を懲らせども、またその呪文をそのままあの者に授けたり。我がこの秘文ばそれにもまして彼を捕りひしぐ妙法たり。金毘羅、岩裂一体して日本国にとどまれば、利益(りやく)は類(たぐい)なかるべし。この余の事は先だって示せし如く心得たまえ」と▲いとねんごろに仏勅(ぶっちょく)あり。あの名僧に授ける袈裟と鉢を渡したまえば、観世音はうやうやしくその二宝を受け納め、如来に別れを告げ奉り、恵岸(えがん)童子を従えて、雲にうち乗りしづしづと東を指して赴きたまう。
かくて早、観音菩薩は流沙河(りゅうさがわ)まで来た時に、たちまち河の中より怪しき曲者が現れ出たと見れば、その鼻は高く尖って、さながら鳶(とび)のくちばしのごとく、身のうち全て栗色なり。腰には数多の髑髏(どくろ)をかけて、手には両刀の鉾(ほこ)に似た長き錫杖(しゃくじょう)を脇挟み、早水底より躍り出て、突き倒さんと競いかかるを恵岸は騒がず迎え進んで、金剛杖をうち振りうち振り、ちっともたゆまず戦うたり。
その時その者声をかけ、
「やよ、しばらく待ちたまえ。それがし、この河に住みしより数多の人を捕り喰らえども、かくまで激しき相手に会わず。そもそも御身は何人ぞ」と問われて恵岸はにっことうち笑み、
「知らずや我は救世(ぐせ)大悲観音菩薩の御弟子なる恵岸童子、すなわち是なり。今、現に観世音が彼処(かしこ)に立たせたまうぞかし。汝は如何なる化け物ぞ」と問い返されて、その者は慌てふためき手鉾を捨てて、遙かに菩薩を伏し拝み、
「それがしはその昔、日の若宮に仕えた天登々根命(あまつちおとねのみこと)なり。犯せる罪があるにより、唐大和の住まいが叶わず、この流沙河へ流されて身の置き所なきままに、うの□のたいに宿りて、かかる姿になりしかどさすがに命惜しかれば数多の人を捕り喰らいしが、そのうちに唐土より天竺へ渡って経文を取らんと欲する法師を害せしこと九人に及べり。この者共の髑髏(しゃれこうべ)はちっとも水に沈まねば、瓢(ひさご)に変えて腰に付けたり。大慈大悲の観世音、我が此の願を救わせたまえ、南無阿弥陀仏」と唱えると、観音は間近く立ち寄り、
「よきかな、よきかな、懺悔(ざんげ)には五逆の罪も滅びてん。仏法無量の方便あり。さばえなす悪しき神も過ちを懺悔して三宝に帰依する事ははなはだこれ神妙なり。いで法名を授けん」と悟定(ごじょう)と名付けたまい、
「御事はしばらく時を待て。遠からずして日本より名僧が渡り来て、金毘羅神王を迎うべし。その時、汝は力を尽くしてその名僧の助けとなれば、我仏如来(がぶつにょらい)に見参して両部の神と仰がれん。ゆめ務めよ」と諭せば天登々根(あまつととね)の羽悟定(うごじょう)はかつかにし、かつ喜びて水の底へ沈みける。
かくてまた観音、恵岸がとある山路を過ぎりたまうと忽然と怪しき曲者が行く手の道に現れたり。と見れば面(おもて)は紅(くれない)を八色に染めていと赤く、鼻高くして眼(まなこ)鋭く、手には熊鷹(くまたか)の足に似た熊手を引き下げ、走りかかって引き倒さんとするところを恵岸は得たりと引き外し、熊手を丁と受けとどめ▲
「あら物々しき悪魔の振る舞い。観音薩垂(さった・つちへん)の御供して東土(とうど)へ赴く恵岸を知らずや。後悔すな」とたしなめれば、その者は驚いて膝まずき、
「それがしはこれ、悪魔にあらず。昔、神日本(しんやまと)磐余彦(いはれひこ)の天王(神武天皇)が大和の国で御戦して、長髄彦(ながすねひこ)をうち滅ぼした時に御旗の手に立ち現れて軍功ことに高かりし稚鴟命(わかとびのみこと)なり。しかるにそれがしは功に誇って、無礼の振る舞い多かれば、日の神の逆鱗がなはだしく、遂に天上を追い払われて勅勘(ちょくかん)の身となれば、遠くここらにさまよって、人を喰らって月日を送る罪状をいかにせん。哀れ大悲の観世音、救わせたまえ」と詫びにけり。観音はこれを聞きたまい、やがて雲路を下りたちつつ言葉を尽くしてねんごろに諭したまう事は初めのごとく、また法名を賜って、すなわち悟了(ごりょう)と名付けたまい、日本国より金毘羅を迎えんために渡天(とてん)すべき名僧に従って大功をたて罪を贖(あがな)い深釈両部(しんしゃくりょうぶ)の神となる時節を待つに如(し)くことあらじと説き示したまうと、稚鴟(わかとび)の羽悟了(うごりょう)はしきりに喜び伏し拝んで森の内に退きける。
かくてまた観世音は恵岸童子を先に立たせて東を指して進みたまうと雲の中に龍神あって悶え苦しむ声がして、こは何故ぞと尋ねると龍神は菩薩を伏し拝み、
「それがしは日本国の近江の湖の龍王鱗長の弟で小龍王金鱗と呼ばれし者なり。兄の龍王は斯様斯様の罪により日の若宮へ召し捕られ、それがしは追い払われて遠くここらにさまよいつつ人を喰らって飢えをしのぐ身の不幸せを嘆くあまり悶え苦しみ候」と告げると観音は哀れんで、
「汝、宿世の業を感じて仏の道に入るならば、日本より来る名僧を助けて功をたてよ。さる時は兄鱗長の罪業もまた消滅して成仏せんこと疑いなし。その故は斯様斯様」と事つまびらかに示せば小龍王は感涙を止めかねつつ見送りけり。
さる程に観世音はまた幾ばく里の道を走って両界山(りょうかいさん)まで来た時に恵岸童子を見返って、
「昔、我仏釈迦牟尼如来が岩裂の威如神尊を(いにょしんそん)をいと容易くも鎮めて既に数多の年を経たる両界山はすなわちここなり。いざ立ち寄って見て行かん」となお山深く分け入りたまうと果たして千曳(ちびき)の巌の下に岩裂は押し据えられて、目は見えれども身は動かず、上には松かや生い茂り、下は茅(ちがや)に閉じられて無惨と言うも余りあり。その時岩裂は眼(まなこ)を見張って、いと苦しげなる声をはげまし、「なうなう(もしもし)観世音菩薩。それがしを救いたまえ、救いたまえ」と呼び張ると観世音は静かに立ち寄り、
「如何に岩裂、なほ見忘れずや。▲我は如来の仰せを受けて日本国の名僧を導くために東土へ行くなり。御事が真に前非を悔いて仏法守護の心を起こせば、自ずからあの名僧に救い出される時あるべし。そもそも御事の本体は始め讃岐に化生(なりいで)て、更に天竺国に赴き釈迦牟尼仏に仕えまつりて今もなお天竺の象頭山におるぞかし。さればその名僧は遠く雷音寺(らいおんじ)に赴いて釈迦牟尼仏を拝み祀り、金毘羅天を迎え祀(まつ)りて日の本に鎮座すべき。これらの因縁あるにより御事はひとえに心を尽くしてその名僧を助け引き、天竺国に赴いて、如来に見参するならば、本体用体(ようたい)合体して、御事はすなわち金毘羅なり。金毘羅すなわち御事なり。かくて利益を日の本に永く施すものならば、それにましたる神仏あらじ。しばらく時を待ちたまえ。これ只、如来の仏勅なり」初めて夢が覚めたごとく仏法無量の方便をかつ悟り、かつ感じ、いよいよ前非を悔やみけり。かくて観世音は恵岸童子を急がして、唐土さえも越えて早日の本にぞ着きたまう。
○延喜の帝(醍醐天皇)が御夢で龍王を哀れみたまう、この時なり。絵の訳は次の巻に詳しく見えたり。
さればこの時、大大和人皇(にんおう)六十代の天子を醍醐天皇と申し奉る。去る寛平九年七月三日、御父宇多天皇の御譲りを受けたまいて、その翌年に昌泰と改元あり。その後また延喜、延長と改めて、御治世すべて三十三年、そのうち延喜の年号のみ二十年まで続けば、世には延喜の帝とも唱え奉りぬ。此の君は文学に御志深く、治世安民の御政(おんまつりごと)みちにかなわせたまいしかば、耕す者は畦(くろ)をゆずり、商人は値を二つにせず、夜戸をささず、道に落ちた物を拾わずという唐国の禹湯(うとう)文武の時にもかなわせたまう聖王(みかど)なれども、惜しいかな御代(みよ)の初めに讒言をうけさせたまいて、罪なき官丞相(かんしょうしょう)を筑紫へ流させて斉世(ときよ)親王を閉じこめて、三好清行を追い退けて、その余の官家に縁ある輩を皆追い失いたまえば、怨霊しばしば祟りをなして世の中遂に穏やかならず、去る延喜九年には藤原の時平公、悪病により世を去り、あるいは洪水、雷電の災いあり。全て官丞相を悪し様(あしざま)に申しなしたる寧人(ねいじん)ばらは皆雷(いかずち)に打たれて死にけり。これにより帝は深く恐れたまいて官家を元の位に返して、その菩提をとわせたまい。官丞相の御子たちはいずれも都へ召し換えさせて、位司を授けたまえど、天変地妖(てんぺんちよう)やや静まってのどかになりし頃、帝のある夜の御夢にいと怪しげな一人の男が後ろ手に縛(しば)られて御側近くひざまづいて嘆き訴え申す様、
「それがしは近江の湖の龍王なり。斯様斯様の罪により日の若宮へ召し捕られ、既に死刑に定めらる。明日の午の刻に至れば、必ず▲六孫王(ろくそんおう)経基(つねもと)に斬られなん。哀れ経基をとどめさせ、命を救わせたまえかし」と繰り返しつつ申しけり。帝は不思議に思し召し、
「怪しや、罪を天に得た湖の龍王を経基が斬ることは心得難しと思し召せども、何にもせよ不憫のことなり。朕(ちん)が必ず救うべし、心安く思うべし」と他事もなくおおすれば、龍王は深く喜び、只感涙を流しつつ退き出ると見そなはして、早御夢は覚めにけり。
かくてその明けの朝、帝は昨夜の御夢が御心にかかりしかば、まず参内(さんだい)の殿上人(でんじょうにん)をたれたれぞと問わせたまうに、大方は参りしかども経基一人が参らねば、さぁさぁ呼べと呼ばしたまいつ。この日萬の訴えを聞こし召し果てる頃、経基、参りぬと聞こえしかば、ほとり近くはべらせて、さて昨夜の御夢を説き示さんとは予てより思し召したれども、
「・・・・・いやいや彼は心が猛くて武芸に秀でし者なるに、かくもはかなき夢物語を漫(そぞ)ろに説きも示しなば、必ず彼にさげすまれん。虚実は定かならずとも経基を今日一ト日内に引き止め置くならば、彼、いかにして龍神を斬り殺すことあらんや。要(えう)こそあれ」とたちまちに思し召し返しつつ、只さり気なく宣う様、
「朕、この頃はこれかれの政事(まつりごと)に暇なく、久しく囲碁の遊びをせず、経基、間近くはべれかし。それそれ」とおおすると女官たちは心得て、唐木の碁盤、螺鈿(らでん)の碁笥(ごけ)を御前にぞ据えたりける。かくて帝は経基と碁を打ちたまうと君臣工夫に時移り、更に余念もなき折ながら経基は眠りを催して、我にもあらぬ有様に女官たちは驚き呆れて呼び覚まさんとすれども帝は左右を見返って、
「いささかも苦しからず。只此のままに置きねかし。経基、歳なお若しと言えども常に武芸に心をゆだねて一ト日も怠(おこた)りあらずと聞けり。しかるを今かく安座して、これらの工夫に時を移せば、思わずも疲れて眠りたるにぞあらんずらん。そを咎むべきことか」と覚めるを待たせたまうと、しばらくして六孫王は忽然と驚き覚めて、いたく恐れかしこまり。臣、思わずも居眠りした大不敬の罪は逃れ難しと申すを帝は押しとどめ、
「否、その事は苦しからず。武芸にその身を砕く者はかかる時に疲れはいでん。さらば勝負をつけん」と再び石を取り上げて、なお興ぜさせたまいけり。
かかる所に使の廳(ちょう)よりにわかに相聞しつる様、
「先に午の刻ばかりに八坂のほとりに怪しき事あり。その丈、二十尋(はたひろ)余りの龍(たつ)が二つに斬られて空より落ちたり。その響きでか八坂の塔はたちまち戌亥(いぬい)の方へ傾きぬ。真に不思議の事なればと里人らが龍の頭をかきもて参りて訴えの事の趣、くだんのごとし」と聞こえ上げ奉れば、帝はいたく驚き、
「さればこそ、正夢なりけり。▲経基も承れ。朕が昨夜見し夢に近江の龍神が命乞いして斬り人はすなわち経基なり。救わせたまえと乞い願えり。朕、夢心に哀れんで救い得させんと言いし事あり。しかれども儚(はかな)き夢を大人気(おとなげ)なくしかじかと告げる事はいと恥ずかしき事なれば、まさしげには言いも知らせず囲碁にことよせ経基を大内に留め置けば龍を斬る事あらじと思いしが皆仇となりぬ。経基もまたその身に怪しと思いしことは無きや」と問わせたまえば、
「さん候、臣、先に思わずまどろんだ夢の内で日の若宮へ召されたり。その時天児屋命(あめのこやねのみこと)がそれがしに宣う様、「近江の龍王は威勅(いちょく)の罪あり。よって御辺(ごへん/お前)に斬らせよと日の神の勅定なり。さぁさぁ」と急がせたまうに、心得がたく思えども否み奉るには候はねど、天上にはいと猛き神たちが数多おわしまさんに、何らの故に経基に討たせる仰せやらん」と問わせもあえず、児屋命は「さればとよ、昔、スサノオの尊が出雲の日野川上のほとりにて山田(やまた)の大蛇(おろち)を斬りたまいし古事(ふるごと)のあるにより、今もなお龍を斬るにはその子孫に仰せつけられる。世を隔てたる事なれば、知れざる事もありぬべし。御辺はスサノオ七世の御孫の事代主命(ことしろぬしのみこと)の当今(とうきん)守護の御為に人間に数多下らせて貞純(さだすみ)親王の子とせらる。これすなわち日の神の御計らいによるものなり。されば御辺の子孫の者、天下の武将にそなわりて富み栄えたまわんこと、よしや我らが子孫と言うとも遂に及ばぬ所あらん。かかれば辞退は要(えう)なき事なり。これをもて斬りたまえ」と天叢雲(あめのむらくも)の宝剣を取り出して、貸させたまい□かくて牢屋に繋ぎ置かれたその龍を神たちが引き出せば、それがしは御剣(ぎょけん)を引き抜き、龍の頭を只一ト討ちに斬り落とすと、たちまちに驚き覚めて候」とことつまびらかに奏じれば、帝はいよいよ驚いて、
「返す返すも不思議の事なり。しかれば経基は国つ神にてありながら五位の位は足らざりき」とますます愛でさせたまいけり。
かくてその龍の頭は骸(むくろ)とともに焼かせて、灰を鳥部山(とりべやま)に埋めさせて、また御夢の趣をこれかれに示させれば、摂家大臣(せっけだいじん)を始めとして地下(じげ)の青じ(せいじ)に至るまで語り継ぎ聞き伝えて奇異の思いをせざるはなし。
しかるに帝は龍神を救い得させんと言いつるに救わざりし事、只これ朕が怠りなり、真に不憫の事にこそといとど悔しく思し召す御心が遂に結ぼれて(憂鬱)、その夜は御目も合わざりしに丑三つの頃よりして寝殿に物の怪おこりて、
「帝、などてや。我が一命を救わんと宣いながら知らず顔して斬らせたまいし。あら情けなの御計らいや。我が魂を返してたべ。頭を継いでたまわらずば遂には黄泉路へ伴わん。あらうらめしや」と叫ぶ声が御耳を貫き、御目にさえぎり、しばしばおびえたまいけり。
これより御悩(ごのう/病気)しきりで弱らせたまうばかりなれば、左の大□忠平公を始めとして公卿(くぎょう)、殿上人は驚き騒ぎ、典薬頭(てんやくのかみ)に勘文(かんもん)あって、御薬をすすめ奉るが露ばかりも印なし。あまつさえ夜毎夜毎に異形の物の怪が現れ出て、帝を悩ませば、宿直(とのい)の女房、生上達部(なまかんだちめ)も恐れおののくばかりで、いとど詮方なかりしかば、▲公卿しきりに詮議あって、こんえの大将兵状(へいじょう)を帯し諸□士(しょえじ)を率いて寝殿を守護し奉り、あるいは叡山三井寺の碩学(せきがく)うげんの名僧を選んで物の怪を祓(はら)わせたまい、あるいは経基の大君に仰せつけられて、蟇目(ひきめ)を行わせたまいし程に物の怪もようやく遠ざかり、六孫王の宿直(とのい)の夜は襲われたまうこともなく、夜もすがら眠らせたまう。
さりとて全く物の怪が退き去りしと言うにもあらず、これにより諸卿が再び詮議あるが評論まちまちにして事果てず、その時大臣忠平公は遙か末座の都良香(とのよしか)を見返って、「そこには何と思わるる。存ずる旨もあるならば、皆これ君の御為なり。さぁさぁ申し候へ」とねんごろに仰すると良香はわずかに小膝を進めて、
「さん候、愚案なきにも候わず。あの物の怪を鎮めるには雲居寺(うんこじ)の浄蔵ならで誰かまた候べき。浄蔵法師を召し寄せて、玉体に近づかせ加持せさせたまえかし。法げん過ち候わじ」と他事もなく申しけり。大臣は聞いて、
「さればとよ、我もあの法師の事は伝え聞きつる事あれども、如何にせん、彼は勅勘をこうむりし三好の清行の子にあらずや。しかるを玉体に近づけて御加持に召さるべき。こはなり難し」と宣えば、良香は重ねて、
「否、清行の勅勘はその罪に候わず。かつ法師の者は親に離れ世を捨てて仏に仕える者なれば、その親の故をもて遠ざけらるべきものにあらず。召されて法げんあらんには恩賞として清行を召し返したまわん事、何の子細が候べき」とはばかる所もなく申しけり。
そもそもこの都の朝臣(あそん)良香は先には官丞相と親しみ深く、去る頃羅生門で鬼神のつぎたりし名誉の学者なりけるに、忠平公も心映え兄時平公には似ずに、私(わたくし)なき賢相(けんしょう)なれば、遂にその義に従って、浄蔵法師を召されけり。
かくて浄蔵は参内して玉体をうかがい奉り、退いて申すには、
「丹精(たんせい)を抜きんでて法力を尽くせば印なきとは候わじ。但し、その物の怪が一旦立ち去り候とも幾程もなく返り来るべし。永く祓い鎮めるには経基をも等しく召されて重ねて蟇目を行わせ、武術、法力合こ(がっこ)せば、いよいよ魔性の雲切り晴れて、再び祟りのある事なからん。これすなわち父清行が申しこしたるうらかたの趣にこそ候え」と確かに奏し申せば、さる事もあるべしと六孫王をも召し寄せて、しかじかとぞ仰せける。さる程に浄蔵法師は寝殿に壇を構えて護摩を焚き上げ、呪文を唱え、秘術を尽くして祈ると、その夜の丑三つとおぼしき頃、寝殿しきりに鳴動し、血潮に染みたる悪霊が忽然と現れ出て、走り去らんとする所を経基はすかさず弓取り上げて、弦音高く引き鳴らせば、不思議なるかな御殿の内に鏑矢(かぶらや)の音が鳴り響き、▲さすがの悪霊たちも得去らず只弱々となる所を浄蔵たちまちおっとおめいて持ったる独鈷を投げ付ければ、悪霊やにわに微塵になって秋の蛍の群れ飛ぶごとく四方へぱっと分かれ散り、行方も知れずなりにけり。
これを見た月卿雲客(げっけいうんかく)はあっとばかりに声を合わせてしばし感じ止まざりけり。さればその暁(あかつき)より帝の御悩が半ばおこたれば、御感もっとも浅からず、臨時の除目(ぢもく)を行われ、すなわち経基大君の位一階(いっかい)上せたまい、また浄蔵法師にも僧位、僧官望みのごとく授けさせたまわんとしきりに仰せいだされしが浄蔵は否みて受け奉らず、
「およ此度の大功は六孫王の武徳によれり。それがしにいかばかりの功があるべき。しかれども武術を助けしそれがしの加持にも奇特ありけりと思し召さば、父清行を勅免ありて、召し返させたまえかし。この余の事は願わしからず」とひたすら申しはなちて、只一ト種(くさ)の被け物(かずけもの)をも固く否んで受け奉らず、そのまま内裏を走り出て、八坂のほとりまで来つる時、所の者共が待ちてやありけん。皆あちこちよりたちいでて、浄蔵法師を引き止めて、
「聖、この八坂の塔は名高き塔にて候いしが、去る頃、斬られし龍(たつ)が空よりだうと落ちし折にその響きにや寄りたりけん。アレ見そなわせ、あたら塔が傾いて、倒れもすべくなりにたり。しかれども此の塔を元の如くに起こす事は幾千人の工手間(くでま)かかれば、数多の財(たから)なくては叶わず、哀れ聖の法力で祈りを起こしたまえかし」と乞い求めつつ離さねば浄蔵ほとほともてあまし、
「こは思いもかけぬ事かな。人の病や諸願の事は祈りて印ある由あれども、かく大層なる塔がいたく傾きたるものを祈って起こす法やある。我が力には及び難し。この事のみは許せかし」と否めども、「印なくてはさてやみなん、まず試みに祈りたまえ」とせちに求めて帰さねば、浄蔵はここぞ一世のふちんとその塔に立ち向かい、心を澄まし眼を閉じて半時ばかり祈ると不思議なるかな戌亥(いぬい)の方へ酷く傾く塔が次第次第に立ち直り、元のごとくになりにけり。この時、南海観音菩薩が恵岸童子を引き連れて雲の内に現れて、二十八部の諸天に下知して、その塔を起こさせたまうと浄蔵法師の目にのみ見えて、諸人の目には見えざりけり。
さればこれらの法げんが世に隠れなく聞こえれば、その加持を請い、祈祷を請う者、日毎に運居寺へ群集(くんじゅ)していとかしがましかりければ、浄蔵今は□ぐみ果て詮方もなく思う程に、ある夜の夢に観音菩薩が浄蔵に告げたまわく、
「祈りて人を救うもの、只是(これ)有漏(うろう)の縁にして、大功徳と言い難し。昔、東寺の空海法師はしばしば法げんを現して、世のために利益ありしも多くは水無き所に泉を出し、あるいは出で湯なき所に湯を出せば、その利益は今の世まで幾万人の助けとなれり。世の衆生は限りなし、例え日毎に幾百人、幾千人に加持するとも世界の人に比べれば、九牛(きゅうぐ)の一毛(いちもう)なり。かくささやかな功徳をして、かえってその身を苦しめるは愚かなる業ならずや。只名聞(みょうもん)を捨てて施を積んで、その法力を現すことなく一心仏(いっしんほとけ)に仕えんと乞い願うものならば、求めずして世を救い人を救う功徳あらん。よくよくこれを思うべし」とまさまさしく示現あれば、浄蔵は感涙胸に満ち、かつ恐れかつ喜び、たちまちに先非(せんぴ)を悔いて、これより人の為に加持祈祷の求めに応じず、しばらく群集を避けるために密かに▲寺を逃れ出て、熊野の那智に参りつつ観音賛(かんのんさん)を修行して行いすましていたりける。
○これはさておき三好の清行はその子浄蔵法師の法力の功により、遂に都へ召し返されて元の位に一級を増し上し、五位の上を授けられ、式部(しきぶ)の少輔(しょうゆう)にぞなされける。さてまたその妻玉梓は名僧の母なればとて、これも等しく召し出され、浄蔵が辞退した黄金、白金、巻き絹をたまわりつ、恩賞大方ならざりければ、清行夫婦はたちまちに喜びの眉(まゆ)を開いて、元の屋敷に帰り住み、帝に仕え奉り忠勤おこたりなかりけり。
これしかしながら浄蔵法師の孝心の徳なりとて、皆人感じうらやんで初めよりなお清行を敬う人が多ければ、帝はいよいよ愛でさせたまいて、何事の詮議にもまず清行に問い定めてよくよく聞けとぞ仰せける。■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

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