傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

[現代訳]傾城水滸伝 四編ノ三・四

2017-08-28 07:09:19 | 現代訳(傾城水滸伝)
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第四編の三
曲亭馬琴著 歌川国安画 江戸書林兼地本問屋仙鶴堂
文政戌子孟春嗣梓刊行

 さる程に、天野の判官遠光は網の中の魚と思った小蝶らを捕り逃がして、一人も捕まえられねば、播磨家の使者屋久手(やくで)虎右衛門らにも面目無く、心しきりに苛立(いらだ)って、ほとりの村の男女を皆事如く絡め捕り、
「これも小蝶の同類ならん。彼等も謀反人(むほんにん)なるべし」と拷問すれども元よりさる者ならざれば、小蝶の行方を尋ね知るべき縁(よすが)は無かった。
 その時、村の男女が皆諸共に申すには、
「例え、いかに責められても我々は露ばかりも謀反の密議に関わりなければ、三世姫の事はもちろん小蝶の行方も知り候わず。但し、小蝶の家の使用人どもの多くは主に従い共に逃走したけれど、その中に身の暇(いとま)をたまわって残り留まった者もあり。彼等に問われれば、あの同類の名所(なところ)が知れずと云う事あるべからず。この儀を願い奉(たてまつ)る」と異口同音に申すと遠光もようやく納得して、
「しからば、その者共を速(すみ)やかに捕らえよ」と里人を皆許し、残り留まった小蝶の家の使用人三四人を絡め捕り、再び詮索(せんさく)すれば皆々ひとしく申す、
「小蝶と日頃から親しい者は智慧海(ちえのうみ)の呉竹(くれたけ)、赤頭(あかがしら)の味鴨(あじかも)、指神子蓍(さすのみこめどぎ)らなり。又、近江の漁師女で大歳麻(おおとしま)二網(ふたあみ)、気違水(きちがいみず)五井(いつつい)、鬼子母神(きしぼじん)七曲(ななわた)と云う姉妹あり。これらも親しい友達で密談していた事はあるが、何事を談合したか訳は知らずはべり」と云うのを遠光は聞いて、
「しからば小蝶は呉竹らと共に三世姫を守りながら、あの二網の自宅へ逃げたにあらんずらん。かかれば我が力に及ぶべき事にはあらず、虎右衛門は立ち帰り、これらの由を郡題殿へよくよく伝え候(そうら)え」とて、▼絡め捕った小蝶の使用人をそのまま渡せば、虎右衛門は止むを得ず、その者どもを引き立てて、明石の浦へ帰りつつ、主君にかくと告げれば、郡領重門は由を聞いて、驚き呆れ、
「しからば近江の唐崎(からさき)へ兵を遣(つか)わし、二網らを絡め捕るべし。急ぎせよ」と苛立(いらだ)って、まず京都の守護伊賀の判官光季(みつすえ)に訴えて、近江の守護の佐々木家へもしかじかと諜(ちょう)じ合わせよと、屋久手虎右衛門に二百人の兵を差し添え、唐崎へと遣(つか)わした。
 かくて虎右衛門は義弟の岡田引蔵と天王寺村より生け捕って来た小蝶の手下を案内として、にわかに播磨を発って、急いで唐崎へ押し寄せた。

○その頃、小蝶らは三世姫を守護しつつ、呉竹、蓍(めどぎ)、味鴨共に、その夜の内に伏見に着き、次の日には早やくも唐崎に着き、二網(ふたあみ)の自宅に行って、事の由を告げ、五井(いつつい)、七曲(ななわた)にも対面して、白粉(しろこ)夫婦がはかなくも捕らえられた事を語り、一日二日と過ごすと播磨の郡領重門が家臣の屋久手虎右衛門に多くの兵を添えて、ここへ向かうという噂あり。追っ手の兵二三百人が早や近づいたと聞けば、小蝶は心安からず、「此(こ)はいかにせん」と語るが呉竹は騒ぐ気色(けしき)も無く、
「あの屋久手めが、懲りずに幾百人で向かうとも何程の事をかすべき。奴等を皆殺しにする事は大歳麻(おおとしま)ら三人の姉妹だけでも事足れり。しかし指神子(さすのみこ)の法術をいささか借りずば成し難し。その謀り事は斯様(かよう)斯様」と手に取る如く説き示し、
「多力(たぢから)殿は姫上を守って、船路(ふなじ)で野洲(やす)へ渡り、この姉妹らの巧妙(こうみょう)手柄を彼処(かしこ)で遠見(えんけん)したまえ。私(わらわ)も味鴨諸共に姫上の御供をせん。いざさぁさぁ」と急がせば、小蝶はこの儀に従って、三世姫を抱きつつ用意の小船に乗れば、呉竹も味鴨もひとしく船に乗って野洲の方へ向かった。

○さる程に屋久手虎右衛門は所の者を案内にして、二網(ふたあみ)の家の四方を取り巻かせ、おめき叫んで乱れ入るが中には人一人も在らざれば、「これはいかに」と呆れ果て、案内人に日頃の様子を尋ねると、
「二網、五井、七曲らは日毎に船に乗り、野洲川に行き、釣り糸を垂れ、網を下ろす。出没定かならざれば今日も彼処(かしこ)にあらんずらん」と云うと虎右衛門はうなずいて、多くの船を借りもよおし、三百余人の兵諸共に野洲の方へ渡ると、彼処(かしこ)は葦(よし)葦(あし)生い茂り、行く先定かに見え分かねば、密(ひそ)かに心疑って進みもできずにためらうとたちまち葦の内より、
「安からぬ世を安川(やすかわ)と▼思わずば、命を水に任せやはする」と繰り返し歌いつつ、小船を静かに漕ぎ出す者あり。虎右衛門は遥かに見て、「あれはいかに」と尋ねると、船の内に知る者あり、「あれこそ、二網の妹の気違水(きちがいみず)の五井(いつつい)なれ」と云う言葉、未だ終わらず、五井はこちらを指し招(まね)き、
「やおれ、討っ手の大将は民を虐(しいた)げ物を欲しがる播磨の屋久手虎右衛門よの。汝(なんじ)らが何百人で寄せ来るともこの湖は我が家なり。何処(いずこ)を指して捕らうべき。由無く波路(なみじ)に漂(ただよ)うより、さぁさぁそこを退(の)け。迷っているとたちまち頭を失うべし。さぁさぁ帰れ」とあざ笑えば、虎右衛門は大いに怒り、弓に矢つがい「ひょう」と射ると、その矢は反れて五井は早や水中へ飛び入って行方(ゆくえ)も知らずになった。
 その時、虎右衛門は船を葦辺に漕ぎ寄せさせて、五井が乗り捨てた船を奪い捕らせると、一漕(いっそう)の釣り船が葦押し分けて漕ぎ出た。これすなわち別人ならず、鬼子母神七曲なり。此方(こなた)を見つつ▼高笑いして、
「やおれ、虎右衛門。この七曲を知らずや。そのまま逃げて帰ればよし。なまじいに追い迫れば、我は決して汝(なんじ)を許さじ。山の神より恐ろしい鬼子母神の仏罰を受けるや、いかに」と呼びはると虎右衛門はいよいよ怒って、「あれ追い止めよ」と息巻いて船を早めて追っかければ七曲も船を漕ぎ戻し早く葦間に隠れた。
「遠くは行かじ、逃すな」と、しきりに船を漕がせると、七曲は早や見えずして、乗り捨てた船のみ岸辺にあった。
「かかれば陸に上ったな。さぁ追っかけよ」と下知すれば、雑兵らが皆云う、
「陸には葦(よし)葦(あし)なお生い茂り、何処(いずこ)が道ともわきまえ難く、彼女等のいかなる謀り事があるかも知り難し。まず二人が岸に上って、行く先を見せたまえ」と云うと虎右衛門は「実(げ)にも」と悟って、雑兵二人を遣(つか)わせたが、待てども待てども帰り来ず、余りにひどく待ちわびて、次に引蔵を遣(つか)わせたのに、これもまた帰り来ねば、虎右衛門はいよいよ苛立(いらだ)って、自ら水際(みぎわ)に下り立って、様子を見ようと立ち入ると、たちまちさっと風の音して船が揺らめき、葦葦の茂みの下より猛火(もうか)がにわかに燃え出して、早やあちこちに燃え移れば、二百人の兵らは「こはそもいかに」とうろたえ騒いで、陸に上ろうとすれども陸にも水にも火は燃え出して逃れることもできず、船にすら火は燃え移り、焦熱(しょうねつ)地獄に異ならず、水に飛び込み逃げようとする者も水に溺れて命を落とし。陸に上ろうとした者は皆、火に焼かれて、いずれの道にも逃れる者は無かった。
その中で虎右衛門は始め火が燃え出る時に、既に陸に上らんと船の舳先(へさき)に立ち、陸に飛び降り、しきりに葦を掻き分け、掻き分け、辛うじて二三町、走り抜けんとする時に、たちまち葦の内より白き腕が差し伸びて、虎右衛門の襟髪(えりかみ)つかんで小脇に引き付け、いとも易げに生け捕って、足に任して野洲川の川上指して走った。かくまで手軽に虎右衛門を生け捕ったのは別人ならず。これ二網なり。
 かくて二網は虎右衛門を小脇に抱いて、野洲川の川上へ行くと、大きな松の下で小蝶が三世姫を抱いて、呉竹、味鴨諸共に悠然としていた。その時▼二網は虎右衛門をどっかと下して、首筋取って押し据えれば、小蝶はきっと睨(にら)んで、
「やおれ、虎右衛門。汝(なんじ)は不義の宝欲しさに民を損なう小人(しょうじん)なるに、頼家卿(きょう)の姫上を討とうとした天罰、今こそ思い知れ。覚悟をせよ」と罵(ののし)ると、五井(いつつい)は引蔵の首を引き下げ、七曲(ななわた)は兵の頭を数多(あまた)斬り掛け、松の陰より現れ出て、
「見よ、虎右衛門。先に汝がつかわした兵も引蔵も我々が既に生け捕り、かくの如くに行った。皆これ軍師呉竹殿の謀(はか)り事なのを知らざるや」と罵(ののし)る声と諸共に、蓍(めどぎ)は髪を振り乱し、手には刃を引き下げて、
「先には我は風を祈って、汝に従う兵を焼き討ちにして滅ぼした。例え汝ら幾万騎で戦うとも及ぶべき事にはあらず。肝が潰れるか」と責め懲(こ)らされて虎右衛門は驚き恐れ、歯の根も合わず、しきりに声を震わして、
「御腹立ちは道理なれども我が心からした事ならず、只主命(しゅめい)によるものなれば止む得ぬ事なり。命を助けたまえかし」と云わせもあえず二網(ふたあみ)は取った襟髪(えりがみ)ぐっと引き締め、
「この期に及んで無益の繰言(くりごと)。首ねじ切って捨てんず」と云うのを小蝶が押し止め、
「そ奴を助けて帰すと、また何事をかしだすべき。左右の耳を削ぎ取って、命ばかりは助けよ」と慈悲ある言葉に二網(ふたあみ)は腰の刃を抜き出して、虎右衛門の耳を削ぎ取り、「命冥加(みょうが)な痴(し)れ者め。とっとといね」と引き起こし、追い出せば、虎右衛門は小鬢(こびん)を抱えて鼠の如く逃げ失せた。
 その時、小蝶は呉竹らと身の行く末を語らうと、呉竹は案ずる気色(けしき)も無く、
「その事はかねてより私(わらわ)に思う所あり。当国の伊香郡(いかこおり)の賊が岳(しずがたけ)には賽博士(えせはかせ)巨綸(おおいと)、天津雁(あまつかり)真弓(まゆみ)、女二王(おんなにおう)杣木(そまき)、虎尾(とらのお)の桜戸(さくらど)らが砦(とりで)を持って、兵も八百余りあり。これにより第五番の頭領の暴磯神(ありそかみ)朱西(あかにし)と云う勇婦が菅野浦(すげのうら)に酒店を出しており、群れに入らんと云う者あれば手引きすると伝え聞く。彼女等の群れに入れば▼官軍なりとも恐れるに足らず。この儀に従いたまえかし」と云うと小蝶は喜んで、皆諸共に船路より菅野浦へ向かい、朱西の店を訪れて、事の由を告げ知らせ、群れに入らんと頼めば、朱西は喜んで様々にもてなし。さて弓矢を携(たずさ)え、端近く立ち出つつ、遥か向かいの葦の内へ鏑矢(かぶらや)を射入れれば、たちまち葦の内より一人の兵が早船を漕ぎ出して、此方の水際(みぎわ)に寄せると朱西は賊の砦へ小蝶らの事を知らせ遣(つか)わし、その夜酒宴の席を開いて小蝶らを厚くもてなし。明けの朝、一艘の大船に三世姫と七人の勇婦らを乗せて、朱西も同船し、賤が岳へ向かうと巨綸(おおいと)は麓まで乗り物七挺出させて、その人々を迎えた。
 賤が岳の砦の主の賽博士巨綸(えせはかせおおいと)は昨夜、菅野浦の朱西より小蝶ら七人の事情をしかじかと聞きながらうなずいて、
「その小蝶、呉竹らは名の聞こえた者共なれば、よくもてなさねば笑われん。用意をせよ」と急がして、その明けの朝未(ま)だきより見張りを諸所に出して、迎えの為にと七挺の乗り物を麓まで遣(つか)わして、今や来ると待つと見張りに立った兵らが次第次第に報告して、「早や近くへ来た」と告げれば、巨綸(おおいと)は杣木(そまき)、真弓、桜戸ら三人の頭領と共に前門まで出迎えて、大書院の上座に誘うと、小蝶らはその座に着かず、互いに譲り譲られつつ、小蝶は三世姫に引き添って、六人の勇婦とともにようやく客座に着けば、巨綸(おおいと)は杣木(そまき)、真弓、桜戸らの三人と共に主の席に座を占めれば、朱西はその方辺(かたへ)におり、一人一人に名を告げて引き合わせれば、巨綸(おおいと)は小蝶らに向かい、
「各々(おのおの)の高名は雷が耳に轟(とどろ)く如く、ここへも聞こえてはべれば、いと頼もしく思いながら、面を合わせるに由無いをいと本意(ほい)無くも思っていたが、図らずも揃って来臨(らいりん)在りしはこよ無き幸い。何事もこれに増すべき、見られる如く山籠もりして▼広き浮世を狭くすれば、もてなし参(まい)らせる物は無けれど、くつろいで語らいたまえ」と云うと小蝶も膝(ひざ)を進めて、
「我々は難波(なにわ)の落人(おちうど)。只、災いを避ける為に同盟の婦人と共にここに参って、下風(かふう)に立って火を焚(た)き水汲むともなさばと思いしが、こう丁寧なもてなしは思い掛け無く身分に過(す)ぎたり。但しこちらは頼家卿(きょう)の忘れ形見の三世姫で御座(おわ)します。我々は女子(おなご)なれども親の時より鎌倉殿の御恩によって世を安く渡れる事は忘れる時無し。しかるに執権義時の非道の沙汰(さた)におめおめと鎌倉へ渡され失われる事の痛ましく口惜しさに。この人々と示し合わせて、斯様(かよう)斯様に計らって摩耶山で姫上を取り参(まい)らせたが、その事早く露見に及んで討っ手の兵が向かいしを斬り散らして走り去り、近江の唐崎まで退(しりぞ)いて、二網ら姉妹と一つになって、再度の討っ手を皆殺しにしたれども、身を置く所無きままに、かく推参した。始めを云えばしかじかなり、終わりは斯様(かよう)斯様なり」と事つまびらかに告げれば、巨綸(おおいと)は耳を傾けて感ずること大方(おおかた)ならず。予(かね)て用意の銚子、土器(かわらけ)、羹(あつもの)、酢の物、種々の肴(さかな)も次第に数を尽くして、杣木(そまき)、真弓ら諸共に差しつ押さえつ浅からぬもてなし振りに時移り、日もやや西に傾くと小蝶らは酩酊(めいてい)して、席にたえずといろひしかば、巨綸(おおいと)もさのみはと盃(さかずき)を納めつつ、山の半(なか)ばの亭(ちん)座敷を▼人々の旅宿にと兵らに心得させて。やがて案内に立たせれば、小蝶らは浅からぬ喜びを述べ別れを告げ、三世姫に傅(かしず)きつつ、亭(ちん)座敷に赴(おもむ)いた。

○かくて小蝶は六人の友と座敷で憩い、巨綸(おおいと)のもてなしを深く感じて、
「かかれば我々が身を置く所は今出来た。皆々喜びたまえ」と語れば、蓍(めどぎ)、味鴨(あじかも)、二網(ふたあみ)姉妹は
「真(まこと)にしかとはべる。我々がここにいれば第一に姫上の身の上が安かるべし。よき味方を得た」と等しく喜ぶのを呉竹一人は何とも云わず、方辺に向って嘲笑するのを小蝶は見て、
「ナウ、先生。我々は喜ぶのにあなた一人はさは思わずか。笑いたまうはいかなる故(ゆえ)ぞ」と問えば呉竹は声を潜(ひそ)めて、
「然(さ)ればとよ、その事なれ。あなたは只、あの巨綸が云った言葉を真(まこと)にして、彼女の心を見ずにあだ誉めをのみされるが、片腹痛くはべるかし」と云われて小蝶は心を得ず、
「彼女が云う言葉を見て、心を見ずとはいかなる故(ゆえ)か」と再び問えば呉竹答えて、
「あの巨綸(おおいと)は胸狭くして、おのれに勝る者を愛せず、女子(おなご)にまれな小文才(こぶんさい)ある故(ゆえ)に、をさをさ虚文(きょぶん)を旨(むね)として、萬(よろず)の事に実情無し。さるにより、乗り物で我々を迎えさせ、酒宴をもうけて、饗応(きょうおう)の大方(おおかた)ならず見えながら、あの時、あなたがしかじかと三世姫の事を告げ、又、討っ手の兵を皆殺しにした事をつぶさに話したらば、巨綸はたちまち顔色変わって、密(ひそ)かに恐れる気色あり。されども口では勇ましげに受け答えするにより、あなたは彼女が云う事を真(まこと)なりと思いたまえり。この故(ゆえ)に言葉を愛して心を見ずと云ったのみ、思うにあの巨綸がいかに我々をここに留めるや。事にかこつけ追いやらんと謀(はか)るらめ。かくても悟りたまわずや」と事の心を説き諭(さと)せば、小蝶は思わず大息付いて、
「云われる事はさもあらん。しからば難儀(なんぎ)に及ばぬようにいかにすべき」と潜(ひそ)めき問えば、呉竹はにっこり笑って、
「さのみ心を苦しめたまうな。我が今日つらつらとあの人々の気色(けしき)を見たが、杣木(そまき)も真弓も巨綸(おおいと)に等しく、先頃、滅んだ柴田、梶原の残党なれども只自分の為と思うのみで、忠義ある者にはあらず。一人、虎尾の桜戸は心映えも武芸もあの三人に勝り、その下風(かふう)に立つ者にはあらねど、止むを得ずにあの三人の下におり、先に賽博士(えせはかせ)巨綸の受け答えが薄情なのを桜戸一人が憤り、しばしば巨綸を睨(にら)んでいた。我が桜戸に会った時、三寸(さんずん)不爛(ふらん)の口達者で、密かに彼女を励ませば彼女等は必ず仲間割れして、我が幸いとなるべし」と
歓談、酣(たけなわ)なる折に桜戸が宿に戻れば、小蝶、呉竹は出迎えて、浅からぬ今日のもてなしの喜び述べて止まぬのを桜戸は恥た気色(けしき)で、
「諸先生は義婦(ぎふ)賢娘(けんじょう)多く、得難き客人なのに巨綸の胸狭ければ、賢(けん)を忌(い)み能(のう)を妬(ねた)んで片腹痛い事多かり。いと口惜しく思いながらも、我が身がその位になければ、心ならずも黙止するのみ。無礼を許したまえかし」と云うのを小蝶は聞きながら、
「いかでかさる事あらん。▼さてもあなたは都であの亀菊に憎まれて、無実の罪に落し入れられ、佐渡の島根に流されて、配所にてもあの輩(ともがら)が焼き殺さんと謀った事は、世の噂に伝え聞いたが、何人(なにびと)の手引きによって、ここへ落ち着きたまいしにや」と問えば桜戸は
「然(さ)ればとよ、私(わらわ)が佐渡に在りし時、折瀧(おりたき)の節柴(ふししば)殿の助けを得た事多かり。我身がここへ逃れ来たのもあの賢婦人の指図によれり」と云うと呉竹は進み出て、
「節柴殿は名家の子孫。客を愛して財(たから)を惜しまず。一芸優れた者と云えば、落ち目を救いたまうとぞ。私(わらわ)も予(かね)て伝え聞いた。まいてあなたは都の歴々(れきれき)、武芸抜群なるのみならず心映えの賢なるをあの人が知りたまえば、いかでか危急の時に臨んで、ここへ手引きをしたまうべき。これへつらって云うにはあらず、これらをもって論ぜんに、巨綸(おおいと)は第一の座をあなたに譲るべきなのに、杣木、真弓の上にさえ置かざるこそおぞましけれ」と云われて桜戸は吐息を付いて、
「それは宣(のたま)う事ながら、私(わらわ)は罪人で命も保ち難(がた)しをかくあるは幸いなるに。いかでか人の下におるのを不足に思うべき。各々(おのおの)がたはこれと異なり、三世姫の御為に義を唱(とな)え忠を尽くして、世の邪(よこしま)を取り除かんと欲したまうはありがたきまで、いと頼もしき事。七人揃いで姫上に具して、此の砦(とりで)に身を寄せたまえば、錦(にしき)の上に花を添える幸はいとこそと思う中で、巨綸(おおいと)がそれを妬(ねた)く思って、各々がたを留め置けば自分の害になる事がありもやせんと危ぶんで追いやらんとする心あり。いと恨(うら)むべし」と云いつつ歯を食いしばれば、呉竹はこれを慰めて、
「巨綸殿がかくまで忌み嫌いたまわれれば、他所で縁(よすが)を求めん。さのみ苦労したまうな」と云うと桜戸は眼(まなこ)を見張り、
「いかでかさる事あらん。巨綸がもし思い返して、各々がたを留め置けば、これ自他の幸いなり。彼女がもし事にかこつけ、各々がたを留める事無く、或いは又、姫上の御為に良からぬ事あれば、私(わらわ)もまた所存あり。ことは時期によるのみ、必ず日を待ちたまえ」と云い慰めて、桜戸は暇乞(いとまご)いして帰っていった。

 しばらくして砦(とりで)より巨綸の使いが来て、小蝶らに、
「たまたまの来臨(らいりん)につき、明日一席催さんと欲す。姫上を具し参らせて、砦へ集いて語らいたまえ。余はその折を期(ご)するのみ」と口上を述べれば、小蝶らはかたじけないと喜びを述べ、使いを返し、「この事いかがあるべき」と問うと呉竹は微笑んで、
「明日の一席は天がこの砦を三世姫の御住処(おすみか)にたまうものなり。但し各々(おのおの)は懐剣を懐に隠し持つべし。且つ、姫上には小蝶殿が添って守りたまえ。その余の事は臨機応変、各々(おのおの)油断すべからず」と云うと皆々心を得て、明けるを遅しと待った。
 かくて次の日の巳(み)の頃に、小蝶、呉竹、蓍(めどぎ)、味鴨、二網、五井、七曲らが三世姫を守護して砦へ向かえば、巨綸(おおいと)は杣木(そまき)、真弓、桜戸、朱西らを従え、大書院で出迎えて、互いの口上(こうじょう)事終わり、早や酒盛りに及び、盃(さかずき)一順巡る頃、巨綸の手下が大きな白木の台に白金十片(ひら)載せてうやうやしく持って出て、小蝶のほとりに据えた。その時、巨綸は小蝶らに向かい、
「世の数ならぬこの砦に遙々(はるばる)来られれば留めたくは思えども、いかにせん領分狭く兵糧足らねば、姫上の御為に各々がたをここに留める事を致し難し。これは▼些少(さしょう)の事ながら、馬の餞(はなむけ)に参(まい)らせる。何処(いずこ)へなりとも身を寄せて、大義を成就したまえかし。事成る時には我々も参(まい)って従うべし。請け引きたまえば幸いならん」と言葉巧(たく)みに述べれば、小蝶らは只呆れ果て、未だその答えに及ばず。その時、末座に並んだ桜戸が声を怒らし、
「巨綸(おおいと)、何を云う。我がこの山に来た時も汝(なんじ)は兵糧足らずと云ったが、飯浦、山梨、赤尾、松尾の二十郷は何の為に領するぞ」と云わせも果てず、巨綸もひどく怒って、声を振り立て、
「この痴(し)れ者が舌長し。汝(なんじ)は頭の無い奴なりしを我が陰に立って命を保ち。今、身に不足無いながら、杣木、真弓を越えて、云いたきままの雑言過言(かごん)、云うとて誰が聞かん。そこ退(しりぞ)かずや」と罵(ののし)れば、桜戸はいよいよ怒って、なお争わんとする時に、小蝶が中に分け入って双方を押し止め、さて巨綸に向かい、
「思い掛け無き過分(かぶん)の賜物(たまもの)を喜ばしくははべれども、路銀は予(かね)て蓄えあり。これは決して受け難し。既に仰(おお)せの如くならば、今更頼む木の下に雨が漏る心地はすれど、速(すみ)やかに別れを告げて、いざいざ山を下るべし」と云うのを桜戸が止め、
「多力(たぢから)殿、さに宣(のたま)いな。この山は広きにあらねども各々がたを入れ難からんや。まずゆるやかに座したまえ」と云うと呉竹は進み出て、
「虎尾殿の御志は忘れ難くはべれども、とてもかくてもあなた一人の心で我々を留める事は得ならじ。やよ、姫上を具し参らせて、皆々早く立ちたまいね」と気をもたせつつ励ませば、桜戸も遂に耐え切れず、あたりに響く声を振り立て、
「我一人の心で留める事がならずとも義を見てせざるは勇婦にあらず。誰であれ、三世姫に不義の心を抱く者はかくの如し」と叫びながら懐剣抜いて、白金の台を微塵に砕けば、巨綸(おおいと)はますます怒って、
「この痴(し)れ者、無札なり。そこ退(の)きそ」と息巻いて短刀引き抜き斬ろうとするのを「ここは短慮」と呉竹が抱き止めて動かせず、事いで来ぬと杣木(そまき)、真弓、朱西も共に身を起こして立ち騒ぎ、走り寄らんとする時に、味鴨(あじかも)は素早く押し隔て、杣木を矢庭(やにわ)に抱きすくめ、二網と五井は真弓をしかと取り止めて、七曲(ななわた)は又、朱西に取りすがり押し隔て、上辺(うわべ)ばかりでなだめるのみ。小蝶、蓍(めどぎ)は三世姫を守護してあたりに眼を配る。いずれも暇(いとま)無かりけり。その時、桜戸は右手に刃を取り直し、左手伸ばして巨綸(おおいと)の胸逆(さか)取って、ぐっと引き付け、
「大義に疎(うと)い匹婦(ひっぷ)に向かって、云うも由無き事ながら。汝(なんじ)は三世姫の御為に力を尽くす心無く、返って七人の客人達を追いやろうとする事を我は始めよりよく知れり。あまつさえ、この人々が容易(たやす)く下山せぬ場合、三世姫を虜にして七人を追おうとの目論見(もくろみ)は幕の陰に力士を隠して事の様子を窺(うかが)わせる、昨夜(ゆうべ)よりの目論見を既に我は察した。我れは義によりこの砦(とりで)を姫上に参(まい)らせて、汝を誅(ちゅう)する者なり」と罵(ののし)ると、巨綸ははね返さんと身をもがき、「寄れや▼者共」と呼ぶ声も得引かぬその間に、桜戸は一声高くおめいて、閃(ひらめ)かした切っ先に巨綸は喉(のど)より項(うなじ)へぐっさと貫かれ、アッと叫んでほとばしる血潮と共に仰け反って、そのまま息は絶えた。
ここに至って、小蝶、呉竹ら七人はひとしく刃を引き抜いて、
「この砦(とりで)に在りと在る者。桜戸殿に従うならば、後々(のちのち)までも幸いあらん。迷いを取って敵対すれば、惜しくも頭を失うべし。いかにいかに」と呼び張る勢いに呑まれた杣木、真弓、朱西らは叶わじと思いけん。等しく地上にひれ伏して降参をした。この三人の勇婦すら、かくの如くの有様なれば、まいて巨綸(おおいと)に従う大将分の兵らも皆おめおめと頭をのべ、
「姫上の御為に忠義を尽くし候(そうら)わん。許させたまえ」と詫び、幕の陰に隠れ居た力士どもも刃を伏せて、なびき従わぬ者も無ければ、小蝶、呉竹は「さもこそ」と、まず巨綸(おおいと)の亡骸(なきがら)をもたげ出させ葬(ほうむ)らせ、今後の事を議せんとて、書院を祓(はら)い清めさせ、皆、車座(くるまざ)に並び、まずこの砦(とりで)の大将分の座席の次第を定めた。

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>


傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第四編之四
當年積二十五回増七十五回一百回翻譯本
つるやきえもん板

 その時、小蝶、呉竹は桜戸の手を取り、三世姫の方辺(かたへ)の第一の座に据えんとするが桜戸はいかでか従うべき。立ちも上がらず頭を打ち振り、
「これは思い掛けも無い。私(わらわ)は武芸を好み、わずかに習い得たれども、能もあらず徳も無く、いかで第一の座を汚すべき。多力(たぢから)殿はその儀その徳、誰がその右にでん。姫上の補佐として第一の座にこそあらめ。いざさぁさぁ」と押し立てて、上座に上げるを小蝶も否(いな)んで従わず、
「私(わらわ)は新たにここへ来た落人(おちうど)の身。元より学びの窓に疎(うと)くて、人の頭(かしら)となる徳は無し。その儀はつやつや請け引き難し」と云うを桜戸は聞きながら、
「十目(じゅうもく)の見るところ、あなたの徳義は世に聞こえ男子(おのこ)も及び難しと云えるに、 もしこの砦(とりで)を管領(かんれい)して、一(いち)の人となりたまわずば、諸人の心は一致せず、姫上の御為に永くこの地を守り難し。否(いな)みたまうは忠ならず、義に違(たが)えり」と説きすすめ、割(わり)無く上に居(お)らすれば、小蝶は遂に否む由無く、第一の座に着いた。
 その時、桜戸は呉竹の手を取り、第二の席に据えんとするが呉竹もまた従わず、只桜戸を押し進め、
「まげてこの座に着きたまえ」と云えば桜戸は頭を振り、
「智慧海(ちえのうみ)先生は▼思慮深くして謀(はか)り事あり。宜しく軍師と仰ぐべし。かかれば多力殿に次いで、第二の座に着きたまうを誰が過(す)ぎたとこれを云わん。否(いな)むは要無き事ぞ」としきりにすすめて押し据えて、又、桜戸は蓍(めどぎ)をすすめて、呉竹の次の座に居(お)らせれば、蓍は慌てて退(しりぞ)いて、
「呉竹殿はとまれかくまれ、私(わらわ)がいかでかあなたを越えて第三の座に着くべきや。いざ虎尾殿、さぁさぁ」としきりに譲って止まざりしを桜戸はなお聞かずして、
「謙退辞譲(けんたいじじょう/謙遜)も事によるべし。蓍殿は風を祈り雲を起こして、鬼神を使う通力自在の法術あり。かかれば今我が小勢(こぜい)で大敵に勝つ事は、あなたに頼らず誰やはある。小蝶殿、呉竹殿の二人と鼎(かなえ/三足の器)の足に異ならず。一方欠けてもはなはだ不可なり。まげてこの座に着きたまえ」と第三の座に押し据えた。
 又、桜戸がつらつらと見渡して、なおも譲ろうとすれば、小蝶、呉竹、蓍(めどぎ)らは桜戸に向かい、
「我々三人は止むを得ず、この上座に居る事は鼎(かなえ)の足に例えたまうあなたの計らいによるもの、なおも座席を譲りたまえば、我々もまた末座に下らん。かくても譲りたまうや」と言葉ひとしく請いすすめると、桜戸も争いかねて、第四の席に着いた。その時、小蝶、蓍(めどぎ)らは杣木、真弓を押し上し、桜戸の次の座に居らせようとしたれども、杣木、真弓は後退(あとずさ)りして腹の内に思う、
「・・・・・我等は武芸も世の常で、元よりさせる才も無し。いかにして、この人々に及ぶ事があるべき。徳薄くして高きに居(お)れば、身は▼安からず、なかなかに危うし。譲って下に居(お)るこそ良けれ」と思案をしつつ従わねば、小蝶は遂に第五の座を味鴨と定め、第六の座は二網、第七は五井、第八は七曲、第九は杣木、第十は真弓、第十一は朱西と次第を追って、その座を定めて、
「およそこの十一人の勇婦どもは天地に誓い血をすすり、三世姫の御為に義を結び忠を尽くさん。もしこの誓いに背(そむ)く者は身を雷に撃たれて死なん。永劫(えいごう)浮かぶ瀬あるべからず」と誓い終わって酒宴を催し、味方に名ある兵らは更なり、雑兵に至るまで、物を取らせて、酒を飲ませ、賞罰を正しくして、ちとの私(わたくし)も無ければ、士卒(しそつ)もひとしく喜んで、只姫上の御為に命を捨てんと思わぬ者無く、勢い日頃に十倍せり。かくてその後、小蝶、呉竹は蓍(めどぎ)、桜戸らと相謀(あいはか)り、武具を蓄え船を作らし、をさをさ討っ手の大群を防ぐ手立てを巡らす用意に暇(いとま)なかった。
 かかりし程に播磨の郡領(ぐんりょう)重門(しげかど)は先に唐崎の二網らを絡めよと遣(つか)わした虎右衛門が打ち負けて、二百人の軍兵(ぐんぴょう)を残り少なく打ち滅ぼされ、あまつさえ虎右衛門は左右の耳を削ぎ取られ、ようやく逃げ帰れば、驚き、且つ呆れて、なお又、小蝶ら七人の行方を探ると、小蝶らは近江の賤が岳(しずがたけ)の砦(とりで)に籠もって、をさをさ討っ手を防がんとする噂があれば、それは安からぬ事なりと、この度は要田頭歩六郎(ようたずぶろくろう)鮫高(さめたか)と云う部下に軍兵三百余人を授け、なお又、近江の佐々木家には二百騎の加勢を頼み、その勢は全て五百余騎、さぁ小蝶らを討ち捕れと、湖水を指して遣(つか)わした。
 かくて要田頭歩六郎は近江に着いて軍議を凝らし、賤が岳の地理を思うと、東北の方は陸に続けども美濃越前の街道で、その道は遠く難事が多い。かかれば貝津、大浦の磯辺より船を浮かべて竹生嶋(ちくぶしま)の西北より押し渡り、飯浦、山梨へ押し寄せて、賤が岳へ向かうべしと、多くの大船を借りもよおし、佐々木家より加勢の兵が乗った多くの大船を後陣(ごじん)と定め、その身は真っ先に渡って、攻め潰さんと勇んだ。
 賤が岳でもこれらの事を予(かね)て遠見(とおみ)の兵が早く報告▼すれば、小蝶は十人の勇婦らを聚議廳(しゅうぎちょう)へ集めたが、軍議はまとまらず
 その時、呉竹が進み出て、
「我に謀(はか)り事あり。二網、五井、七曲(ななわた)の姉妹は敵の先手(さきて)に向かい、斯様(かよう)斯様に計らいたまえ。杣木(そまき)、真弓の両人は葦(あし)の繁みに伏し隠れ、斯様斯様に為したまえ。又、桜戸、味鴨の両勇婦は敵の後陣(ごじん)を襲い討ち、斯様斯様にしたまえ」と謀り事を説き示し、各々(おのおの)百人余りの兵を授ければ、皆喜んで向かった。
 さる程に要田頭歩六郎鮫高は百艘余りの戦船(いくさぶね)の真っ先に進みつつ、大歳麻(おおとしま)二網は独りで一艘の早船に乗り、兵五人に艪(ろ)を押させて進み近づく頭歩六の船に向かって声高やかに、
「汝(なんじ)ら、先度(せんど)に懲りずして、深入りして後悔すな。大歳麻二網の手並みを見ずや」と罵れば、頭歩六は怒って、やにわに船を乗り付けて、討とうとするのを二網は戦いながら舳先(へさき)を反して、葦の繁みに退くのをなお逃さずと追っかけた。かかる所に五井が乗った早船が頭歩六をさえぎり、しばらく挑み戦うがたちまちに負け、船を返して逃げ走れば、入れ替わる七曲の船も迎え進んで戦いながら、たちまち船を巡らして、水際(みぎわ)を指して逃げて行くのを「きたなし、返せ」と頭歩六は船をしきりに早める時に、水際の葦の内より鬨(とき)をどっと作りつつ、杣木、真弓の船およそ四五十艘が矢を射る如く漕ぎ出て、どっとおめいて頭歩六の船を真中に取り込めて、おめき叫んで戦った。
 ここに至って二網、五井、七曲の早船も漕ぎ戻し、後の敵の船どもを掛け隔て、四人ひとしく揉めば、さしもの大軍も度を失って討たれる者は少なからず、総敗軍(そうはいぐん)となれば、頭歩六は辛(から)くして早船に乗り換えて、逃れようとする時に、味方の兵が小船を飛ばして頭歩六に告げる、
「さても後陣(ごじん)より進んだ味方は思い掛け無く、桜戸、味鴨の二手に前後より▼不意を討たれて、佐々木家の総頭もたちまち討たれれば、味方の船は乱れ騒いで、一支えも支えられず、水練(すいれん)を得た者がやにわに水中へ飛び入って、逃れる者もあれども、多くは討たれ生け捕られ、助かる者はいと稀(まれ)なり。それがしはこれらの由を告げ申さんと辛うじて小船に乗って、逃れて走り参った」と告げると頭歩六はいよいよ慌てて、逃げようとするが、五井が船で追いかけ、早や近づいた。
 頭歩六はこれを見返り、逃れ難いと思ったか。たちまち入水したのを五井はすかさず熊手をもって頭歩六を引き上げて、生け捕りにした。

○さる程に小蝶、呉竹は蓍(めどぎ)らと共に戦の勝負はいかにいかにと、その報告を待つと二網、五井、七曲、杣木(そまき)、真弓らは思いのままに勝ち戦して、大将の要田頭歩六を生け捕って引き立て来た。又、桜戸、味鴨らは敵の後陣を討ち滅ぼして、船を取る事六十余艘、生け捕った兵は二百余人に及べば、勇み進んで凱陣(がいじん)した。小蝶はこれを労(ねぎら)って、頭歩六を牢屋に繋がせ、倉を開いて兵を賑わし、酒宴を開いて、勝ち戦(いくさ)の寿(ことほ)ぎを為せば、皆々歌い楽んで、万々歳と祝った。
 これより先に朱西(あかにし)は菅野浦(すげのうら)に帰り、始めの如くに酒店(さかみせ)におり、この日早船で賊の砦へ報告する、
「さても佐々木家の評定役は未だ敗軍を知らずや。今宵、貝津、大浦の陣中へ兵糧を贈るため、車に積み上げ、小荷駄(こにだ)に付けなどして、早や近づいた」と告げれば、小蝶はこれを聞きながら、「誰か、我が為に敵の兵糧を奪うべき」と云う言葉未だ終わらず、二網、五井、七曲らの三人が進み出て、「共に行く」と請えば、小蝶はこれを見返り、
「姉妹たちが行くならば大功(たいこう)を立てる事は間違いなし。しかれども血気に逸(はや)って人を害すべからず。逃げる者は追い捨てて、只兵糧のみを取るこそよけれ。心得たまえ」と戒(いまし)めて、兵三百人を授ければ、三人は喜んで返答しつつ、急いで向かった。
 小蝶はなおも二網らが過(あやまち)ある事を恐れて、又、味鴨を呼び近づけ、
「あなたも今より追い続き、二網らに力を合わせて、分捕り功名を成したまえ」と兵百人を授ければ、味鴨は「承りぬ」と答えつつ、ひらりと馬に乗って同じ道へと馳せ向かった。

○かくて二網、五井、七曲らは難無く敵を追い払い、兵糧六百俵を分捕って、味鴨もまた敵を襲って軍用金三千両を奪い盗り、その明け方に戦を収めて、小蝶に告げれば、小蝶は深く喜んで、二網姉妹、味鴨を賞すること大方(おおかた)ならず。その金を半ば使って、味方の兵にこれを取らせ、▼物惜しみすること無ければ、猛い兵も付き従って、賽博士(えせはかせ)巨綸が頭領だった時に似ず、勢い広く聞こえれば、世の人は小蝶を夜叉天王(やしゃてんのう)と称(たた)え、賊の砦を呼び換えて江鎮泊(こうちんぱく)と名付けた。
 事の心は近江の賊の泊(しずのとりで)と云う意味で、唐国(からくに)の梁山泊(りょうざんぱく)を思い寄せた技なるべし。これよりして江鎮泊には重ねて討っ手の沙汰も無く、各々(おのおの)無事に日を送った。その中で桜戸は一人つらつら思う、
「・・・・・我がこの山に逃れ来てから年月を経たけれど、都の便りを聞く事は無し。使いを遣(つか)わし、夫の安否を問いたし」と小蝶に告げれば。小蝶はこれを聞きながら、「さぁさぁ使いを遣わしたまえ」と云うと桜戸は喜んで、心腹(しんぷく)の部下に事の心をよく得させ、密(ひそ)かに都へ遣(つか)わせて、十日余りが経た頃に、その部下が都より帰り来て、
「さても都の御自宅を密かに訪ね候(そうら)いしに、あの後も軟清(なんせい)様をあの亀菊がしばしば招いて、本意(ほい)を遂げんとせられども軟清様は従いたまわず、病の床に臥(ふ)して、この春の頃に亡くなられた。只、あの使用人の錦次のみが都の内に小店(こだな)を持って、かすかな世を渡るのみ」と告げると、桜戸は胸潰れ、やるかたも無く嘆いたが、これより愛惜(あいじゃく)の思いを絶って、只姫上の御為に命を捨てんと念ずるのみで他事は無かった。
 都の便りは既に聞こえて、桜戸の夫軟清(なんせい)が世を去った事を小蝶、呉竹、蓍(めどぎ)らは更に、皆が哀れみ、亀菊の穢(けが)れた行いを憎んで、ひとしく嘆息(たんそく)した。その時、桜戸は小蝶らに向かって、
「私(わらわ)がこの山に身を寄せてより、都へ便りをしたく思えども、巨綸(おおいと)の心様(こころざま)は頼もし気無く、その事をも告げかねて、今まで仇(あだ)に過した。されば我が夫軟清が世にある時に訪れず、残り惜しさも一入(ひとしお)なれども老少不定(ろうしょうふじょう:人の命は予測できない)は世の習い、今更悔やむは愚かな事。これに付いても大恩人の節柴殿へは道遠くて、未だ報いができぬこそ、本意(ほい)無き事にはべるかし」と云うと小蝶も慰めかねて、又、云う由も無かりしがたちまち心付く事あって、呉竹、蓍(めどぎ)、味鴨、二網姉妹を招き寄せて、さて云う、
「我々七人は必死を逃れて、今この砦に立て籠もり、三世姫を安らかに守り奉る幸いは先に危急(ききゅう)を告げられた大箱の情けにて。かつ、我々を見逃がした稲妻、朱良井の二人の勇婦の助けによれるに、恩を受けて報いをせずば、鳥獣(とりけだもの)にも劣るべし。しかれども難波(なにわ)まで、この使いを遣(つか)わす事は容易(たやす)い技にあらず、誰か忍んで難波へ向かい、我が為に大箱殿にこの儀を伝うべき」と云う言葉が未だ終わらず、味鴨が進み出て、
「私(わらわ)がその使いにならん。さぁ手紙をしたためたまえ」と云うが小蝶は案じて、
「あなたが難波へ行くのを悪(あ)しと思って止めるにあらねど、彼処(かしこ)は我の故郷で人も良く知る敵地なり。漫(そぞ)ろに逸(はや)って過ちあれば、あの恩人を巻き添えにせん。しからば恩に応えるに仇(あだ)をもてするに似たり」と云うのを味鴨は聞きながら、
「それは心得てはべるかし。私(わらわ)は▼人々よりも姫上には譜第相恩(ふだいそうおん/代々の恩ある)者にはべれば、人のし難き事でも命に掛けて成さん事、これ元よりの願いなり。その儀は心安かれ」としきりに請うて止まざりしを小蝶はなおも戒(いまし)めて、遂に一通の手紙を書きしたため、金三百両を添えて、これを味鴨に渡して云う、
「この金百両は大箱に贈るべし。又、百両は二つに分けて、稲妻、朱良井に贈らんと欲(ほっ)す。残る百両は天野の判官(はんがん)遠光(とおみつ)の老臣らに分け贈って、白粉(しろこ)を救い出すべき手立てを巡らせたまえ。しかれどもこれらの事は皆、春雨(はるさめ)殿に頼んで、三百両もこのままであの人に渡したまえ。忘れてもよく用心して、人には知られたまうな」と返す返すも戒(いまし)めて、路銀も多く取らせれば、味鴨は一議に及ばず、旅装束を整えて密(ひそ)かに難波へ向かった。
<これ□前の半丁の絵の訳を解く>
 さる程に播磨(はりま)の郡領(ぐんりょう)重門(しげかど)は賤が岳へ向かわせた多くの兵を討ち取られ、あまつさえ大将要田頭歩六郎鮫高が敵に生け捕られた事、敗軍の後に兵がわずかに逃れ帰って、かくと報告すれば、重門(しげかど)はひどく驚き騒いで、手の舞い足の踏む所を知らず、かかれば又、鎌倉よりいかなる咎(とが)めがあるべきかと安心もできずに、果たして鎌倉より御行書(みぎょうしょ)が到来し、所領の国を換える御沙汰あり。重門の領分を新判官の成国(なりくに)に当て行われ、重門は陸奥(みちのく)の信夫(しのぶ)郡を領すべしとて、成国が入部すれば重門は辞するしか無く、城を成国に引き渡し、且つ賤が岳の女武者らの事を告げ知らせ、その身は従類(じゅうるい)を具して陸奥へ下って行った。
 されば新判官の成国は賤が岳の小蝶らの武勇を伝え聞き、心の内は安からず。もしあの勇婦らが船路(ふなじ)よりここへも逆寄(さかよ)せるかと、用心の他事(たじ)も無く、津の国、丹波(たんば)、備前、備中の大小名へ思う由を告げ知らせ、事ある時は助けの加勢を出されるべしと触れた。

○これにより、成国より諜(ちょう)じ合わせる回覧文が難波へも到来すれば、天野の判官は見て、「これらの書面を写し置け」と物書き部屋へ出された。この日、春雨の大箱はその当番なれば、その文を開き見て、密(ひそ)かに驚き思う、
「・・・・・いかなれば、小蝶らは由無き謀反(むほん)を企てて、一度ならず再び三度(みたび)、討っ手の兵を防ぎ止め、皆殺しにしたるか。もし重ねて鎌倉より大軍で攻められれば、その身その身の命は更なり。遂にあの三世姫さえ、いかでか逃(のが)れたまうべき。由無き事をするものかな」と思う心を云えばえに、云わで苦しむ胸にのみ、別れた後も友だちを思うは人の真(まこと)なり。さる程に大箱はこの日に為すべき事が生憎(あいにく)に多かれば、年頃、我が下役(したやく)の走書(はしりかき)の安蛇子(あだこ)と云う女物書きにこれをよく写し留めよと、▼文を渡せば、安蛇子は受け取り、かたの如くに写した。
 されば大箱は女子(おなご)なれども親の役義を受け継いで、物書く事を務めとすれば、主の遠光もこの為に下役(したやく)の筆取りにすら男は付けられず、よく手を書く女子(おなご)を選んで、彼女の助けにした。

○かくて、大箱はこの日の務めを終えて自宅に帰る途中、行抜(ゆきぬけ)のお裡(うら)と呼ばれる老女に会った。彼女は奉公人の口入(くちい)れで世渡りする者で、大箱の自宅でも奉公人を求める毎に出入りする者なれば、予てより互いに知っていた。その時、お裡は大箱を遠くに見て、後に立たせた一人の婆を見返って、囁きながら大箱の近くへ近づき、
「これは宋公明(そこめ)村の書役様。只今御帰りあそばしまするか。ちと御願いの筋あって、この婆殿を伴って御自宅へと出掛けたが、ここでお目に掛かれば、途中であれども、お話し申さん。このお人は私(わらわ)と年頃相店(あいだな)で、虎魚(おこぜ)と呼ばれる者。悪い人ではなけれども、続く不仕合せで、只一人子(ひとりこ)の義太吉(ぎたきち)は春の頃よりぶらぶら病(やまい)。薬代に質草も置き尽くした誠心誠意で、義太吉はようやく治ったが、立ちも替わって、夫の閻八(えんぱち)殿が卒中で昨夜(ゆうべ)にころりと逝かれた。されば久しく無商売で、煎じ詰めた暮らしの果てで不幸に会った事なれば、早桶(はやおけ)一つ買う事もできず、寺へ四十九日の仕切りなどの手当てもあらず。いかにしたらと相談を掛けられては放って置けず、我も一昨年の大病の際にはこの夫婦の世話になった恩あれば、ともかくもして間を合わせ、野辺(のべ)送りをして進ぜたいと思いながらもその日暮らしの力では及び難し。あなた様はこの頃、萬(よろず)の上に慈悲深く、疎(うと)き親しき隔て無く人の落ち目を救われるのを予(かね)てより聞きもし見もするので、御合力(ごごうりょく)を願い申せば否(いな)と宣(のたま)う事あらじ。我と共にご自宅へ参(まい)りたまえと力を付けて、かく同道(どうどう)しはべりぬ」と告げれば、後ろの閻八(えんぱち)婆の虎魚(おこぜ)は涙を拭い、「お慈悲を願い奉(たてまつ)る。お慈悲、お慈悲」とばかりに手底(たなそこ)擦って拝んだ。
 大箱はそれを聞きながら、
「それは不憫(ふびん)な事ぞかし。棺(ひつぎ)の値はいかばかりか。寺への布施(ふせ)は幾何(いくばく)か」と問われて虎魚は頭をもたげ、銭二三貫あれば早桶も買え、寺への布施もそれにて足りなん。さばかり願い奉(たてまつ)る」と云うと大箱はうなずいて、懐の筥迫(はこせこ)の紙入れから小判三両を取り出して、
「亡き人を葬(ほうむ)ってもその日より親子が飢えれば、その甲斐は無からん。よってこの金を遣(つか)わすなり。初七日(しょなのか)には茶でも煎じて、世話になった相店(あいだな)の人々にも振る舞い、残った金は義太吉とやらの元手(もとで)にさせて取り付けかし。心得たか」と説き諭(さと)し、その金を取らせれば、閻八婆は夢かとばかりに驚き、喜びながら戴いて、
「海女(あま)が鹽(しお)焼く辛き世にかく多くの金を恵ませたまう人あらんや。来世(らいせ)は牛とも馬とも生まれて、御恩を報じ奉(たてまつ)らん。あら有り難や、尊うとや」と喜び涙にかき暮れれば、お裡(うら)も共に繰り返し、その喜びを述べるのを大箱は聞きながら、
「さばかりの事、何かあらん。さぁさぁ帰って野辺送りの用意をせずや」と急がして別れて家路を急いだ。▼
 されば又、虎魚婆の夫閻八は操(あやつ)り芝居の道具だてを取り立てるのを生業(なりわい)とする者なれば、子の義太吉を浄瑠璃語りの太夫(たゆう)にしようと、幼い頃よりそれを習わせ、今年は十八になる。元より顔形が麗(うるわ)しく、歌舞伎の色子(いろこ)と云っても劣らぬ少年なれば、この所の酒宴などに折々招(まね)かれる座敷もあれば、世渡りになると思いつつも、続く不仕合わせで衣装は更なり、三味線すらこと如く質物(しちもつ)に置き尽くし、さる技も心に任せず、ほとほと困(こう)じ果てた折、思い掛け無く大箱に金三両を恵まれて、亡き親の野辺送りを執り行なったのみならず、弐両余り残れば、義太吉の衣類を質屋より受け戻して、座敷やあるかと待てども、その後は何処(いずこ)よりも招(まね)く得意が無ければ、受け戻した衣もまた質に置いて、ようやく細い煙りを立てた。
 これより先に虎魚婆は夫が亡き後の日柄も既に果てた頃、大箱の自宅へ行って、先に受けた恩の喜びを述べて帰りつつ、腹の内には目論見(もくろみ)あれば、大箱には夫が無い事、且つ、出頭(しゅっとう)して務める事まで、お裡(うら)に聞いてつくづくと思う、
「・・・・・あの女中は年頃なのに身一つで暮らしたまえば、よしや物堅い性(さが)なりとても折節は男欲しく思いたまわぬ事があるや。義太吉を囮(おとり)にして、あの女中を引き入れれば為になること多く、その他に又、客も付くべし」とやがて思う事を我が子に囁き心を得させ、再び大箱の自宅に至って、安否を尋ねる事のついでに我が子義太吉の事を話し、
「彼はをさをさ浄瑠璃の弾き語りを良くすれば、稽古所を建てさせて、近頃、札を掛けたれども年若ければ見落とされて、未だはかばかしく弟子もつかず。いとはばかりなる事ながら、あなた様が折々来て語らせて聞きたまわれば、幾十人の聞き手に増して、世の人も落としめず、弟子が付く事早かるべし。御慈悲深い御心で、我々親子を助けると思(おぼ)し召して、御いであればいよいよ御恩は忘れず」と口説きつつ頼んだ。
 大箱は浮いた遊芸を好まねば、あらずもがなと思いながらも、かくまで云われるのを行かずとは答えかねて、その後、暇ある折に虎魚(おこぜ)の自宅を訪問すれば、親子は槌(つち)で塵(ちり)掃くまでに喜び敬(うやま)い、酒肴を買い整えて大箱を厚くもてなし、義太吉は一二段浄瑠璃の弾き語りをして大箱を慰めた。これにより大箱は金一分を親子に取らせて、早く家に帰ったが、又、その後も虎魚婆はしばしば人を遣(つか)わして、大箱を招くので三度に一度は否みかねた大箱は我一人で行くは後ろめたしと思って、此の度は下役(したやく)の走書(はしりがき)の安蛇子(あだこ)を誘って、虎魚の自宅へ赴(おもむ)いた。
 かかる事も既にして三度に及ぶ頃、安蛇子は性(さが)が浮気で、大箱より年も若く容姿も優れて、婀娜(あだ)めいた女子(おなご)なれば、密(ひそ)かに義太吉に恋慕して、目使いで知らせた。
 義太吉も始めの程は密かに大箱に情を寄せて、語らい寄ろうとしたれども、大箱は行儀正しく、いつも浮いた気色無ければ、かかる事には手早き義太吉なれど、仕方なく只いたずらに時が過ぎ、安蛇子が我に心ある目使いにうちも置かれず、大箱が手水(ちょうず)に立った隙をうかがい、契(ちぎ)り初めて、水も▼漏らさぬ仲となった。
 これより安蛇子は大箱に隠れて義太吉の自宅で会う事が度重なるままに、辺(あた)りの人も良く知って大箱をすら謗(そし)り嘲(あざけ)り、 「その女中は物堅き日頃の気質に似合わず、義太吉の浄瑠璃の花張りとなるのみならず、安蛇子の為に銭を費やす、馬鹿さよ」と云うのを大箱の耳には入らねど、既に安蛇子と義太吉が訳ある事を推すれば、心の内で爪弾きして、その後は虎魚婆が向かいの人を遣わしても事にかこ付け行かなかった。

○さる程に大箱はある日、城中より自宅へ帰る途中で、一人の旅人とおぼしき田舎娘に行き会った。彼女はしきりに我を見返り、我もまた何となく見た事ある人かと思えども、思いだされず。その女子は行きもやらず、取って返しつ後に付き、我が行く方に来れども我に話しかける事も無し。その女子は思いかねてか方辺(かたへ)の髪結い所に立ち寄って、
「今彼処(かしこ)へ行く女中は難波(なにわ)の書役(しょやく)とその名聞こえた大箱殿にあらずや」と問えば、髪結いは「さなり」と答えた。その時その田舎娘は急いで大箱に走り近づき、小腰をかがめて、
「春雨(はるさめ)殿、失礼ながら密(ひそ)かに申すべき事はべれ。都合良き所へ立ち寄らせたまえかし」と呼び掛けられて、大箱はまだ心を得ず、眉をひそめて、つらつら見て、
「何人(なにびと)におわするか。私(わらわ)は忘れて思い出さず、用事あれば聞かざらんや。此方(こなた)へ来ませ」と先に立ち、良く知る仕出し酒屋に立ち寄って、二階に上ると他には客も無かった。その時その田舎娘は大箱に向かって、「恩人つつがましまさずや」と云って三拝すれば、大箱は驚き助け起こして、
「私(わらわ)は実に見忘れたり。そもそも貴方は何人(なにびと)ぞ」と問われて、女子はようやく頭をもたげ、
「先には危急の折に臨(のぞ)んで、失礼にも面(おもて)を合わせれば、見忘れたまうも理(ことわり)なり。私(わらわ)は赤頭(あかがしら)の味鴨(あじかも)なり。再生(さいせい)の恩に報わん為に、小蝶殿の使いに立って、賤の砦(しずのとりで)から来た。小蝶殿の口上は斯様(かよう)斯様」とつぶさに述べて、一通の手紙と三百両の金を出し、近くに差し寄せれば、大箱は封押し開いて、その文を見て、金を取らず、さて云う、
「昔の契(ちぎ)りを忘れたまわず遙々(はるばる)と訪れた事は喜ばしくはべれども、そなたの輩(ともがら)は肝太くもこの地に往来する事は薪木(たきぎ)を抱いて火に近づくより、なおも危うき事ならずや。この後は忘れても必ずな来たまうな。贈られた此の金はいささかなりとも受け難し。又、稲妻、朱良井(あからい)へ贈らんとある包みも取り次ぎしては届け難し。稲妻は心様(こころざま)の潔白な女子(おなご)なれば、贈っても▼受けず、又、朱良井は酒を好むので、此の金を得て酒を過(す)ぐせば、災いの端(はし)とやならん。かかればその二人にも贈らぬに増すこと無し。折もあれば、私(わらわ)が方より小蝶殿の浅からぬ志をば伝えるべし。金は此のまま持ち帰り、かく云う由を告げたまえ」と懇(ねんご)ろに説き諭して、否(いな)むを味鴨は押し返し、言葉を尽くしてすすめれども大箱は遂に受けず、
「貴方が帰って小蝶殿へ云い訳無しと思いたまえば、私(わらわ)が今、返事を書いて参(まい)らせん。それをもて帰って見せたまえば、小蝶殿がいかにして貴方を叱りたまうべき。さは」と矢立(やたて)を抜き出して、文(ふみ)さやさやと書き終わり、封して味鴨に渡して云う、
「繰り返しても返しても同じ事にははべれども、貴方は夜すがら道を急いで、この地に一夜も泊まりたまうな。白粉(しろこ)夫婦は始めの如く、今も牢屋に繋がれて、なお命にはつつがなけれど、千々の財(たから)を費やしても容易に救えるべきものならず。云うべき事は多かれど、人に聞かれる事が惜しくて、つぶさには尽くし難し。春にもなれば、我が妹を密(ひそ)かに砦へ遣(つか)わさん。心得たまえ」と囁いた。道理なれば、味鴨は返す言葉無く、金を懐へ納めつつ、別れを告げて立ち去った。
 頃は八月の半(なか)ばで、日は早や暮れて隈(くま)も無い月を明かりに味鴨は早く難波を離れようと、しきりに道を急いだ。
大箱は静かに酒屋を出て、行く事未だ幾ばくならずに、たちまち後ろに人あって、「御書役(しょやく)様、待ちたまえ」と呼びつつ袂(たもと)を引く者あり。この人はこれ何者か。上に出した絵を見て知るべし。

作者曰く これより末は水滸伝の妙宋江閻婆惜の段にかかれり。丁数全て定めあれば、これを四編の終わりとして第五編に著すべし。五編も今年は引き続き、程無く出板致すなり。巻を開いて佳境に入るべし。

<翻刻、校訂、翻訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。