傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

馬琴・西遊記/金毘羅舩利生纜 第三編下

2017-02-25 09:06:14 | 金毘羅舩利生纜
さる程に、延喜の帝は浄蔵法師、経基らの法力、武芸の徳により物の怪も遂に消散して、御悩はこれよりいささかづつも御心良きに似たれども、なお御枕は上がりかね、再び危うく見えさせたまえば、御自らも今は早頼み少なく思し召しけん。ある日、三好の清行を寝殿に召し近づけて、
「先には汝の子の浄蔵らの修法により物の怪はやや退きしが朕の病は癒えずして、臨終を待つばかりなり。朕が誤ってその昔、罪なき菅丞相を筑紫へ流し、かつ骨肉を疑うて、斉世(ときよ)親王におもひ死をいたさせて、あまつさえ菅丞相に縁(ゆかり)ある者どもをあるいは流し、あるいは害した此の罪障をかえりみれば、恨むせ絶えてあるべからず。今更いかなる功徳をもって冥途の苦患(くげん)を助かるべき。浄蔵などが予てより言いつる事は無かりしか」と御心細げに問わせたまうと清行はこれを承って、
「御心安く思し召されよ。それがしの学問の師の菅原是善は死して泰山府君(たいさんふくん)となれり。その由、年頃、まざまざと夢に見て候えば、それがし密かに是善に状を送って、君を守護させたまわん。菅家の輩(ともがら)が冥土にて君に仇する事ありとも、かの是善は▲菅丞相の親なり。呵責を防ぐ御後見には彼にます者候わじ」とて御前においてその書状をしたためて奉れば、帝は女官に心を得させてやがて書状を御髻(もとどり)の内にぞ納めたまいける。
かくて帝は次の日に御歳二十五歳にて遂に崩御したまいしかば、女御(にょうご)后(きさき)の御嘆きは更なり、上一(かみいち)の大臣より諸司(しょし)百官に至るまで涙に束帯の袖を濡らして、皆呆然たるばかりなりしを、さてあるべきにあらざれば左の大臣忠平公はまず万民に触れ知らせて、東宮(とうぐう)寛明(ひろあきら)親王を御位に付け奉らんと用意取り取りなる程に、清行は密かにこれをとどめて、
「その義は急がせたまうべからず。帝は日頃の御悩によって一旦事切れたまいしかど、御寿命未だ尽きさせたまわず、今より三日の後、御喜びの事あらん。しかるを逸らせたまえば御後悔もや候わん」としきりに諫め申すと忠平公は余りの事に心得難く思えども、事みな百発百中すという易学者の申す事なり、要あるべしとうなずいて、帝崩御の御事はなおしばらく披露に及ばず、公卿おのおの宿直(とのい)して、御亡骸を守りつつ儚(はかな)く日をぞ送りける。
さる程に帝は事切れたまいし時に御魂やさまよいけん。いと茫々(ぼうぼう)たる荒野(あらの)のほとりに独り佇みたまいつつ、つらつら辺りを見返りたまうと、いと暗くして文目(あやめ)を分かず、ただきらきらときらめく物は向かうに高き山ありて、林のごとく植え並べた剣の光なりければ、帝はしきりに驚きたまいて、「浅ましや、我は早地獄にこそ落ちたりけれ、いかにせまし」といとどなお思いかねさせたまう折から、数多の人の叫ぶ声してたちまち鬼火が燃え上がり、昼よりもなお明かりけるに、痩せさらばいた餓鬼どもがいくらともなく現れ出て、「あつ仁(ひと)□来たりたれ、日頃の恨みを返せや」と、おっとり囲んで鞭(しもと)を上げて打ち奉らんとひしめく時に、たちまち後ろに人あって、「無礼なせそ」と止めれば、餓鬼どもはこれを見返って、「府君がとどめたまうなり。皆引け引け」と罵り合って、いつちともなく失せにけり。その時そのとどめし人が静かに雲より下りたって、帝の御前に膝まづき、
「君がいとけなくおわせし時、それがしは既に世を去れば、御見覚えあるべからず。それがしは従四位の上大学の頭(かみ)菅原の▲是善(これよし)にて候なり。されば学問の徳により死して泰山府君となれり。この身はすなわち南山にあり。人の命の長き短き、それを司る職役なれば、もし定業(じょうごう)ならぬ者が非命に死する事もあらんとそれらを改め正さんために、かく地獄へも通い候。しかるに今君臣の義をわきまえず恨み奉る者どもが打ち懲らし奉らんとてひしめきたる折に、参り合わせしは思いなき幸いなり。今一ト足遅ければ真に危うき事なりき」とまた他事もなく申すに、帝は御感浅からず、
「さては是善なりけるか。先には朕が過って菅丞相を筑紫へ流し、その方様(かたざま)の人々を追い失いし祟りによって、飢饉、洪水がうち続き、あまつさえ時平は悪病で既に身まかり、その余の輩、藤原の清貫(きよつら)、たびらのまれ世なんどまで、皆雷にうち殺されて悪名をのみ残したり。こは菅丞相の祟(たた)りぞと人も申し、朕も思えば、近頃あの丞相を元の位に返し上せて、その子らを召し返せしが怨霊なおも空(あ)かずやありけん。朕の齢が長からで死しては餓鬼の□□□□□□、これらの事は予てより三好の清行が考え定めて御事に寄せた書状あり。頼むは是善ひとりのみ、とにもかくにも計らいてよ」と心細げに仰せつつ、その書状を取り出して是善に渡したまえば、是善は受け取り開き見て、にっこと微笑み、
「この状がなくともそれがしいかで君の御為なおざりに存ぜんや。天災地妖怪うち続き雷火に撃たれし者さえあるを、世ではただ道真の祟りと申せども、道真がいかでか君を恨んでさる祟りをいたすべき。その身は人の讒言にてさすらい人とまでなりしかど、天をも恨まず人をも咎めず、君悪しかれと思わぬ由はその歌その詩に表れて、知る人ぞ知ることながら、さしも咎なき大臣を無実の罪に苦しめたまい、その輩をいと酷(むご)く罪なわしたまえば、神は怒り人憤りしその気の下(しも)に結ぼれて、飢饉、洪水うち続き、あるいは内裏(だいり)に雷落ちて打たれて死せし者さえあり。これすなわち天津神(あまつかみ)、国津神(くにつかみ)の御計らいにて、道真の業にはあらず。ただやいしんの徳により我が子ながら道真は自在天に忠信して天部の神となりて候。しかれどもその輩は道真が心延えに似たる者がなければ、なお冥土には今のごとく君を恨み奉る怨霊なしとすべからず。これらは幾人ありとても何事をかしいだすべき、それがしいささか計らう旨あり。閻魔王に見(まみ)えたまえ、御道しるべつかまつらん。こなたへこそ」と先に立って導き奉れば、帝はたちまち是善が言うことを悟って御感いよいよ浅からず、
「実に菅原の丞相は類少なき大忠信、多く得難き賢人なり。またその父の是善もただ者にはあらざりけり。これより□三好の清行、都のよし香らにいたるまで、皆神□に通じたる博物の学者にして忠義の輩なるを、朕は疎(おろそ)かにしてこれを遠ざけ、寧人(ねいじん)ばらに惑わされ、そしりを後の世に残し、恥を冥土に輝かさんは実に浅ましき事なりき」と御後悔しきりに引かれて森羅殿(しんらでん)に赴けば、閻魔王が御橋(みはし)を下りて帝を迎え奉ると帝はいたくへりくだり、
「朕は冥土の罪人なるに、大王などてねんごろなる。ただここもとに」と否みたまうを閻王は理無(わりな)く御手を取り、客人(まれびと)の座におし据え参らせ、
「君はこれ南贍部州(なんせんぶしゅう)大大和の陽王なり。我が身はすなわち冥府の陰王。自ずからにその品(しな)異なり。さのみは辞退したまうべからず。先には時平に憎まれて無実の罪で死せし者が君を恨んで訴えいで、近頃はまた近江の龍王は君があの約(やく)に背いて救いたまわざりし由をしきりに恨み憤りて愁訴すること暇もなきに、君が命数(めいすう)今早尽きたまひぬる由を冥官らが申すにより、ここへ迎え取りしなり」と説き示し申すと是善はこらえず進み出て、
「そは間違いにて候べし。この君の御命がただ今尽きさせたまわんや」となじれば、閻王は方へなる鉄の帳を取り、「しからば府君、改め見たまえ。よも間違いはあるべからず」と言いつつ渡すその紙を是善は受け取りおし開き、繰(く)りつつ見ればちっとも違わず、南贍部州日本国人王六十代の天子諱(いみな)はあつ仁(ひと)、在位一十三年にして薨(こう)ずとあり、是善は大きに驚き、密かに早くも筆を取り、一十三の一の字に▲二画を加えて三となしぬ。からぬか木にうち微笑み、「大王これをよく見たまえ、在位は三十三年なり。およそ昌泰元年より今年延喜十年までは十三年にこそ候え。しかる時はこの君はなお二十年の果報あり。冥官達の粗忽(そこつ)にこそ。よく見たまえ」と差し寄せれば、閻王もまた驚いて、
「泰山(たいざん)府君(ふくん)なかりせば、民に父母□たるこの君の寿命をほとんどあやまつべし。粗忽を許したまいね」と詫びつつもてなし参らせれば、帝は深く喜んで
「思いがけなく大王の恵みをこうむるかたじけなさよ。それがしも娑婆へ帰れば何にもまれ参らせん」と他事もなく宣えば、閻王はしばし案じて
「それがし好んで折々に抹香(まつかう)を舐めるが、冥土の抹香は全て色黒くして匂い薄し。日本国伊豆山の樒(しきみ)をもって製する物は、その色は樺(かば)の如くにして匂い高しと聞き及べり。もしちとの抹香を贈りたまうことあらば、何よりもって賞翫(しょうがん)すべし」と言うに帝はうなずいて、「そは殊更(ことさら)に易き事なり。必ず贈りまいらせん。さても朕の族(うからゆから)の誰が命の短からん」と問えば閻王は再び頭を傾けて
「君の同胞、妃(きさき)たちはいずれも命長かるべし。但し御妹節折(よをり)の内親王のみ世を早失わん。その余の上は憂いなし」とねんごろに示し申せば、帝は遂に別れを告げて返り去らんとしたまうにぞ、親王すなわち菅原の是善を見返って、「生ける人の差し引きは泰山府君の職分なり。帝をよきに導いてさぁさぁ帰し参らせてよ」と言うと是善は欣然(きんぜん)とやがて帝の御供して、森羅殿をたちいでて初め行き合い奉りし剣の山のほとりまで送り付け参らせて、さて帝に申す様、
「それがしがなお何処までも送り奉らんとは思い候へども、大方ならぬ職分あれば、ここより御暇をたまわるべし。先には君に仕えし左大辨(さだいべん/左大臣)希世(まれ)は冥土にあって、その役重く亡者の採用を司れり。希世を代わりに御道しるべに参らせん。召され候え」と申すと帝は眉根をひそめ、
「怪しや希世はその昔、時平にへつらって菅丞相を傾けたねじけ人なるにより雷火に打たれて死せしにあらずや。しかるに死しては呵責もなく、かえって重き司人(つかさにん)となる事のいぶかしさよ。故もやある」と問わせたまえば是善が答えて、
「さん候、希世は萬に私(わたくし)なく心正しき者なれども、不幸にして藤原の清貫(きよつら)らと諸共に雷に打たれて死したれば、世には時平の方人(かたうど)で悪人なりと言われるは、いよいよ希世が不幸なり。これらによっても天災地妖は皆道真が業ならぬ道理を悟らせたまえかし」と申す言葉も終わらぬ折から、たひらの希世が来たりて、帝にまみえ奉り、是善に立ち替わって御道しるべをつかまつれば、是善はそのまま帝に別れ奉り、早南山へぞ帰りけり。かくて帝は希世に引かれて焦熱地獄(しょうねつじごく)を見そなわするに、牛頭馬頭が獄卒ら痩せさらばいた罪人を大釜で茹でるもあり、あるいはいたく縛り付けて釘抜きで舌を抜く、目も当てられぬ有様に帝は深く恐れたまいて、
「さても無惨や。在りし世にいかばかりの罪を作ってかかる呵責にあうやらん。真に不憫の事なり」と深く哀れみたまうに希世は声を潜まして
「君は見忘れたまいしか。ただ今舌を抜かれるは菅丞相を虐(しいた)げて無実の罪に▲落とした時平公にて候なり。またあの釜で茹でられるのは時平にへつらって菅家を悪し様に申しなしたる藤原の清貫(きよつら)なり。されば三好の清行とまた藤原の清貫は文字こそ変われどきよつらと唱えるその名は等しけれども心延えを尋ねれば善悪邪正(ぜんあくじゃしょう)、雪と炭なり。彼らの上を見そなわして寧人を遠ざけたまえば何の恐れか候べき」と密かに諭し奉れば、帝はしばしばうなずいて、
「さるにてもこの人々の菩提を弔い得させんには如何なる功徳を良しとせん」と問わせたまへば希世答えて、
「もし千本の卒塔婆を立てて菩提をとわせたまえば成仏せん事疑いなし。今は早これまでなり。さぁ此方(こなた)へ」と急がし申して剣(つるぎ)の山の麓を過ぎると数多の人の叫ぶ声して、此方を指してくるに似たり。帝はこれに進みかね、「またもや以前の怨霊どもが朕を討たんとするにやあらん。いかにすべき」とたゆたいたまえば希世は帝に申す様、
「これらの事は御心安かれ。かくあるべしと存ぜじれば、白太夫の五千貫の銭を密かに借りうけ施餓鬼(せがき)に引かせ候なり。あれ見そなわせ」と申しも果てぬにくだんの銭を車に引かせて、三途川の婆をひきそい来つ、「御背牛(せぎゅう)ざふ」と呼び張れば、何処ともなく数多の餓鬼がおびただしく集い来て、くだんの銭を百二百ずつ施すままに受け頂いて皆喜びて帰ると見えしが、ただこの功徳によりたりけん。帝を恨み奉りしその人々は仏果を得て雲に乗りつつ皆諸共に極楽国へ飛び去りけり。
その中に近江の湖水の龍王鱗長は三十六禽(きん)流天の内の金龍王と表れて遙かに帝を伏し拝み、弥陀(みだ)の浄土へ飛び去れば、三途の婆は獄卒らに唐車(からぐるま)を引かせつつ、帝と希世に会釈して川辺を指して帰りけり。帝は希世の働きを大方ならず褒め、
「汝は朕が為に白大夫とか言う者の数多の銭を借り出して、施餓鬼の功徳を行いしは返す返すもいみじき業なり。朕がまた生きて浮き世に帰ればその銭を返すべし。そもそも白大夫と言う者はいかなる人ぞ」と問うと希世は答えて、
「さん候、彼は太宰府の民なるが菅丞相が左遷の折に心を尽くして仕えたり。かくて丞相が世を去りては只その菩提の為にと日毎に一銭ニ銭づつ手の内を施すこと今に至りて怠らず、さればこれらの功徳によって来世は必ず幾万貫の分限(ぶげん)となるべき果報あり。その徳は遂に冥土へ通じて来世に持つべき金銀が今早ここに積んであり。それがし今は財用(ざいよう)を司る職役なれば、その白大夫の銭を借りて背牛(せぎゅう)には引きしなり。君がまた浮き世に帰りたまえば▲これらの事を忘れたまわで銭を白大夫に返させたまえ。これよりあなたは山路なり。これに乗りたまえ」とて斑(まだら)の牛を引き寄せると、その牛頭(うしかしら)は人にして五体は獣に異なる事なし。帝は怪しと思し召し、まずその故を尋ねたまうと希世は答えて
「およそ世に在りし時、牛馬をむごく使って、その苦しみを思いやらず、あるいは養父母、養子の類、密かに相犯せし者は、死して必ず畜生道の苦しみを受けることは全ては此の牛のごとく」と説き示し奉れば、帝はいとど浅ましくことさら不憫に思し召せども、かくてあるべき事ならねばその牛に打ち乗って一つの山を越えたまえば、ここぞ名に負う血の池のほとりに近づきける。かくて帝は血の池の有様をご覧ずるに、池水は皆血潮にて生臭きこと言うべくもあらず、男女の亡者が幾人か獄卒どもに追いやられ、あるいは沈みあるいは流れるくれんの波の間より冥火(みょうか)しきりに燃え出れば、水に溺れてまた更に火にまた焼かれる大叫喚(きょうかん)、火水の責めに耐えかねて、泳ぎ着きつつようやくに岸に上らんとする者は剣のごとき岩かどに身を裂かれて転び落ち、叫び苦しむ有様を見るに目もくれ胸潰れ、身の毛もよだつばかりなり。帝はかかる罪障(ざいしょう)の浅ましくも哀れにも例える物の無きまでに、いとど不憫に思し召し、御涙をとどめあえず、
「やよ、希世。この血の池と言うものは世に難産で死せしおなごが落ちる地獄と聞きたるが見れば男も数多あり。いかなる故ぞ」と問いたまえば希世は答えて、
「さん候、血盆経(けつぼんきょう)は偽経にて、いとうけられぬ事のみ多かり。死して黄泉路へ来る者の悪人は地獄に落ち、また善人は極楽へ必ず至るものなるに、難産で死したりとも犯せる罪の無き女がいかでか此の血の池に落ちて地獄の苦患(くげん)を受けんや。彼らは全てありし世に利欲の為に兄を虐(しいた)げ弟を害し、妻を売り子を売り、親の悪事を表し、あるいは叔父姪と争うたぐい、血で血を洗うて恥とせざりし、およそこれらの報いにて此の血の池地獄へ落ちたり。さるによりおなごより男が多く候」と説き諭し奉れば帝はたちまち御疑い解け、いとど恐ろしき因果の道理を▲悟らせたまいて、牛を早めて行き過ぎたまいつつ、また幾里をか来ぬらんと思し召すと、たちまち空は明るくなって初めて草木を見そなわするに、遠山のたたずまいも在りし冥土に似ざりけり。その時希世は忙わしく帝の御裾を引き動かして
「是の所は既に早あの世この世の境にて、向こうの橋を越えれば現世にいでさせたまうなり。さぁさぁ」と急がし申して牛を追いつつ行く程に、その橋で帝は牛の上より遙かに下をご覧になるとその丈三尺あまりの鯉の内全て紅(くれない)の鱗(うろこ)に黄金の色を交えて辺りも輝くばかりなれば、しばらく牛を留めさせ見とれておわします程に、希世もつくつく見下ろして、「実に珍しき鯉にこそ、よく見そなわせ」と言いながら御ほとりに立ち寄りて、やにわにはたと突ければ、帝はあなやと叫びもあえず、たちまち千尋(ちひろ)の水底へ落ち入りたまうと思し召せば、忽然と御息が通って黄泉路返らせたまいつつ、なおもしきりにおびえたまいて、「希世が朕を□□□□□□□□」と叫びたまうにおん始めとして、むまたの公いいおんなきがらをうち守りてありしかば、皆々驚きかつ喜んで、「すはや御蘇生ましませしぞや。あな目出度や」とどよめいて御薬を勧め参らせ、その後に御粥をたてまつるとようやく陰気が失せて、御心地すがすがしく遂に本復ましましけり。
帝が事切れたまいしより、ここに至って三日なり。清行の占い申せしその事すべて違わずと忠平公は感涙にむせびたまうぞ理(ことわり)なる。さればまた女御、妃の御喜び、冥婦、うねめに至るまで、憂いの袖をひるがえして、いきまざる者なかりけり。
かくて帝は人々に地獄の有様を告げさせたまいて、菅原の是善が泰山府君となりし事、かつ左大辨希世の事、すべてこの両人がいたわり導きまいらせる事の体たらくを物語りつつ、また宣う様、
「菅丞相は天部の神と現れたる由、確かに聞けり。さても年頃の飢饉、洪水、雷火の災いありし事はあの丞相の業にはあらず。こは賢人を追い失い罪無き者を罪したる政治(まつりごと)の道ならぬをあまつ神が咎めて、さる災いを下せしなり。かかればあの丞相のいささかも私なきその忠信を知るに足れり。増官(ぞうかん)増位(ぞうい)あるべし」と菅丞相を押し上し、正一位太政大臣を贈らせたまい、さらにまた天満大自在天神という神号をたまわりて、社(やしろ)を建立すべき□□□□□□□□(ここの文章の不明)神になされ雅規(まさのり)を四位の右大辨になされ、この余、淳茂(あつしげ)、清よしらにも司位(つかさくらい)を上せたまうが菅原の文時(ふんとき)のみいたわる事ありと申して、この日の除目(じもく)にあわざりけり。かくてまた帝は三好の清行を呼んで、
「汝の易学に妙あること今に始めぬ事ながら、なかんづく冥土黄泉(こうせん)へ書状を寄せて朕がために計りしは昔の小野の篁(たかむら)なりとも及ぶべきところにあらず。しかのみならで▲朕の齢(よわい)が尽きざりしをよく知って大臣をとどめたは鬼神不思議の先見なり。そを賞せずにはあるべからず」と四位の位を授けて、式部(しきぶ)の大夫(たいふ)になされけり。かくてまた宣う様
「朕が冥土にありし時、恨みある亡者どもに取り巻かれんとした時に希世が早くも計らって白大夫という者の鳥目(ちょうもく)五千貫文を借り受けて施餓鬼に引けば、たちまち此の功徳によって呵責を逃れしのみならず朕を恨みし亡者は更なり、あの近江の龍王さえ皆たちどころに成仏して、極楽浄土に赴きぬ。かかればその鳥目を大夫に返さずはあるべからず。さてもその白大夫は元より筑紫の民にして菅丞相の左遷の時、三年の間、心を尽くしてよく仕えた者なりとぞ。かくて丞相が世を去りてはその菩提の為にと常に一銭ニ銭づつ手の内なる施行(せぎょう)をして怠る事が無きにより、その功徳が冥土へ通じて来世は必ず幾万貫の大福長者となりぬべき。これらの果報あるにより、その銭積み冥土にあり。さるを希世が借り出して朕が為に背牛に引きたり。汝は元より菅家の親是善の弟子にして丞相とも親しかりき、大方ならぬ好(よしみ)あれば、急ぎ太宰府にまかり下って朕の心を告げ知らせ、その白大夫に物を取らせよ。なおざりにすべからず」とつまびらかに示して、その五千貫に一倍の息(そく)を加えて一万貫をたまわるべき由を掟させれば、
清行は謹んで勅(みことのり)を承り、旅装いを整えて、その御銭を船に積ませて雑色数多引き連れて、その身も同じ船路より太宰府を指して走らせけり。さる程に清行は早その地に着けば太宰の大弐(だいに)に案内して勅命の旨を伝え、次の日その御銭の唐櫃(からひつ)をかき担わせて、自ら白大夫の宿所に赴き、近頃帝が冥土に於いてしかじかの事により五千貫の鳥目を借りし由を告げて、今また五千貫を増し下され一万貫の青差しをもたらし来つる事の趣、大方ならぬ勅(みことのり)を伝え知らせて、御賜物を置き並べ早渡さんとしてければ白大夫は驚いて、
「そは思いがけぬ事なり。それがしに何の徳あって来世の果報をこの世から承る由あらんや。菅丞相に仕えしは、あの君の無実の罪を哀れみ奉りしのみにして、またその菩提を問い奉るは三年の間浅からぬ御恩を受けしによりてなり。それがしは帝様に銭を貸した覚えなし。得知らぬ銭を一文なりとも賜る言われは候わず。この事のみは許させたまえ」と田舎親父の片意地にいかばかりと説き諭しても受け引く気色がなければ、清行はほとんど持て余して飛脚を都へ上せつつ、事の趣を告げ奉ると帝はその白大夫が利欲に疎(うと)き朴訥(ぼくとつ)なるを大方ならず御感ありて、すなわちその一万貫になお数多の宝を加えて、天満天神の御社(みやしろ)を太宰府に立ちさせたまい、白大夫を末社として生きながらに神に祀(まつ)らせ、その子供らを召し上して、牛飼い舎人(とねり)になされけり。今も天満宮の末社の白大夫の社はこれなり。かくて三好の清行はこれらの御用を承り、その御社が成就の後に都へ帰り上りけり。
○かくてまた帝は忠平公に宣う様、
「朕は去ぬる頃、冥土で閻魔王に相見(あいまみ)え、そのもてなしを受けし時に伊豆山の樒(しきみ)で製した抹香を贈り遣わすべき由を約束せしことしかじかなり。かかればその身の命を捨てて冥土へ遣いすべき者を尋ねてこれを得たならば早く冥土へ遣わすべし。しかれども権威につのって人の命を取らん事は最も不仁の沙汰なれば、左様の事はすべからず▲さればとて助け難き罪人などの命を取って仮にも勅使とすべきにあらず。あるいはいたく年寄りて養うべき子も無き者、あるいは生まれて片輪なる者、浮き世に捨てられ娑婆に飽きて死なんと願う者あらば望みのままに黄金を取らせてくだんの遣いに任ずべし。これらの旨を遠近(おちこち)へ知らせてよ」と仰すれば、忠平公は承ってやがてその趣を国々へ触れ知らせ、また使(し)の廳へ下知を伝えて、都近き里々は更なり、五畿内までも巡らせて、その人を求めたまうが賜る金は欲しけれども命を惜しまぬ者もなければ、求めに応じ、身を捨てて我承らんと申す者は何処の地にも無かりけり。
[物語二つに分かる]ここにまた津の国難波村の片ほとりに竹田日蔵という浪人あり。元菅丞相の家臣にて忠義の若者ければ、今よりして十年の昔に菅家が筑紫へ左遷の折に、なお揚巻(あげまき)にておわしませし末の公達(きんだち)菅秀才(かんしゅうさい)文時(ふみとき)朝臣(あそん)にかしつけて、何処の浦にも世を忍べと黄金一ト包みをたまわりしに、なお思し召す由やありけん、菅家のご先祖天穂日命(あめのひのみこと)より伝えらた天国(あまくに)という宝剣を菅秀才に伝えて、これが人となるまでは日蔵よくよく守れとその剣を日蔵に預けけり。かくて竹田日蔵は菅秀才、文時の御供して津の国難波村に隠れ住み、主君を養い参らせるに手跡(しゅせき)は菅丞相の弟子にて走り書き見事なれば、里の揚巻牛うつ童の手習う者を集えつつ寺子屋をしてようやくに細き煙を立てたりける。手習鑑(てならいかがみ)の浄瑠璃に武部源蔵と作りしは、この日蔵が事なるべし。しかるに日蔵の女房はその名を世居(よおり)と呼ばれたり。見目形(みめかたち)は醜からず、その身はニ八の春の頃より日蔵の妻となり、わずかに中一年を置いて疱瘡(ほうそう)をして松皮とかいう痘瘡(もがさ)で辛く命をとりとどめれども花の姿はたちまちに生まれもつかぬ片輪となって、かためはしいて色黒く、あばたは指もて押したるごとく、肌へは全て引きつって松の木肌に似たれども、心延えは始めに変わらず夫にかしずき、主君を敬う萬につけて甲斐甲斐しく貧しき暮らしをとにかくに年頃まかないたりければ日蔵も今更に顔ばせ醜くとても、さすがに捨てる心なく、十年このかた連れ添う程に、延喜十年の秋の頃、親しき友が密かに告げて、
「・・・・・菅丞相の公達(きんだち)がなお世を忍んでおわしますをも召しだし候べき由既にその風聞あり。遠からずして吉相あらん。いと目出度し」と囁きけり。日蔵これを聞きしよりいと喜ばしく思えども、また差し支える事あれば、さすがに心安からず女房世居にしかじかと聞きつる由を告げ知らせ、
「もしその事が真ならば念願成就の時が至れり。いと喜ばしき事ながら十年に及ぶ浪人の蓄えは早尽きし頃、菅秀才はかんろうで二年余りの板付きにより薬の代の才覚なく、あの天国の宝剣を八十両の質として値たつ□薬□□□□ままに□□せつ今ではちとも病気(やまいけ)なく健やかになりし事、御身も知る事ながら都へ帰らせたまわんには、あの宝剣を受け戻して君に帰し奉り▲我が身もお供をすべき事、また言うまではなけれども八十両に利を重ねて早百両に及ぶ質を受け戻すべき手当てはなし。言うて返らぬ事ながら御身の顔が変わらであらば、よしや盛りは過ぎるとも江口の里に身を売らせ少しの金は整うべきに、うたてき今の顔ばせや」と言うと世居は涙ぐみ、慰めかねし身の憂さに夫の繰り言は理(ことわり)なれば、また今更に恥ずかしく我が身を恨むるのみなりし。志を励まして、それより日毎に走り巡って金整えんとしたれども海女が鹽焼く辛き世に親しき者も頼もしからで、その金少しも整わねば、只身一つに託(かこ)たれて、
「うたてや、昔の顔ばせならば例えこの金整わずとも、先の如くに夫にまで世に疎(うと)ましげに言われはせじ。二世と契りし人にすらいつしか疎み果てられて、まさかの用にたちはせず、何面目(めんぼく)に長らえてなおこの上に憂き目を見るべき。いっそ死ぬるがましならめ」と女心の一ト筋に思い詰めては死に神に誘われて散る花に風、その入相(いりあい)の鐘てより用意の短刀人目を計って喉(のど)をぐさとかき破り、自害してこそ伏したりけれ。かかる折から日蔵は金才覚のために堀江村まで行きしが、その夕暮れに帰り来て、この体(てい)を見て大きに驚き、抱き起こして呼び行くれども、早喉笛をかき切れば救うべき由もなし。枕に残せし書き置きで事の心を知れるのみ。死ぬべき事にはあらざるをさすがに女の胸狭く、我が仮初めに言いつる事を心に掛けて命を捨てしは真に不憫の事なりきと思えば涙が胸に満ち、由なき口の過ちを今更悔しく思えども、さてあるべきにあらざれば、村長(むらおさ)に告げ、辺りに知らせて、次の日、妻の亡骸を頼み寺へ送らせて、かたの如くに葬りけり。
この時より三日以前に菅秀作、文時朝臣は春の頃より都にましますこのかみ高視(たかみ)朝臣より消息あり、今は世の中広くなりぬ。召し出されるべき御沙汰もあるに難波におるはいと遠し、都へ上りたまえかしと密かに招かれれば、文時朝臣は喜んで、まず日蔵に由を告げ、あの宝剣を求めたまえば日蔵ほとんど困り果て、
「その天国の宝剣はそれがし予て確かなる人の倉に預け置いたり。君はまずまず上洛したまえ。それがしは後より宝剣を取り出して馳せ参らん」とさり気なくこしらえて主君を都へ上せ参らせ、なお金の才覚に夜の目もあわぬ苦労のうちに妻の世居は自害して、かててくわえし憂き事に成す由もなく日を送るが、文時朝臣はかくとも知らず都より消息して、
「昨日臨時の除目(じもく)あって我が同胞はしかじかの司位をたまわりぬ。しかれども我が身は宝剣無きによりしばらく病にかこつけて、その除目にあわざりき。さぁ宝剣を持参せよ。何故に斯様に延び延びなるぞ」としきりに催促すれば、日蔵はいよいよ憂いもだえて、只此の上は腹かき切って死ぬるより術(すべ)なしと既に覚悟をする折に、錦織(にしこり)の判官代照国が勅命を承り、五畿内を巡りつつ既に難波の旅宿にあり。死なんと願う者あらば、数多の金をたまわりて冥土へ御使いに遣わされるべし。その故は斯様斯様と残る隈なく触れれば、日蔵はこれを伝え聞き、心喜び忙わしく照国の旅宿に赴き、それがしは竹田日蔵という浪人なり。最愛の妻に遅れてこの身も多病なるにより、世に長らえん▲事を願わず、金百両を賜れば命の御用にたつべきなり。この事偽りと候わず神文をもって申すに、照国もまた喜んで、なおまた自ら問い正すとたえて相違もなかりしかば望みのままに金を取らせて人を付けて宿所へ遣わし、なすべき事をなさせけり。
さる程に、日蔵はその金で天国の宝剣を受け戻し、確かなる人をもて都へ上せて文時にその宝剣を返しまいらせ、その夕暮れに照国の旅宿へ再び赴いて、「既に用事はし果てたり。さぁさぁ計らいたまえ」と言う覚悟の体に照国は感じて、
「真にもって神妙(しんみょう)なり。但し、一ト折櫃(おりひつ)の抹香を閻魔大王へ参らせる御使いなるに身に傷付けては悪かるべし。さればとて、此方(こなた)より殺さん事はいよいよせず、汝の心一つでそのままにして命を落とせ、御贈り物はこれなり」とその折櫃を渡せば日蔵これを風呂敷に包み、しっかと背負い長押(なげし)に縄を投げ掛けて、遂にくびれて(首吊り)死んでけり。照国はこれを見届けて、
「我は都へ立ち帰り、まず此の由を相聞せん。重ねて御下知あるまでは、この日蔵の亡骸は折櫃を背負いしままで大きな瓶(かめ)に納めて、村長らがよくよく守れ。しばらく葬る事なかれ」と厳重に言い渡し、照国は次の日に供人数多を引き連れて、都を指して急ぎけり。
されば竹田日蔵は忠義の魂迷うことなく死して冥府へ赴いて、日本延喜の帝より抹香を贈らせたまう御使いの由を言い入れると閻魔王が対面せんとちゃうぜんに呼び寄せて自ら帝の安否を尋ね、贈り物を受け納め、日蔵をねぎらいたまい、見るめかがはなの冥官(みょうかん)にしばらく囁き問い定め、また日蔵にうち向かい、

「汝は真に忠臣なり。命数(めいすう)未だ尽きざれば娑婆へ返し遣わすべし。妻の世居に対面せよ」と厚くもてなしたまいけり。その時、冥官が進み出て閻魔王に申す様、
「日蔵の女房世居は若き時にもがさにより顔ばせ悪くなりし者なるが、斯様斯様の事により世をはかなみ夫を恨んで自害した者なれども□ごうには候わず、命数いまだ尽きざりしを身に傷つけて死したれば、その魂を返すに由なし。いかが計らい候わん」と聞こえ上げれば、閻魔王は
「それは真に不憫のことなり。例えその身に傷付けたりとも死して日数のたたずもあらば、なお魂を返すべし。死して幾日になるやらん」と問えば冥官は、「さん候。四十九日も過ぎたれば、その身はくわ□腐りたり」と言うと閻王はうなずいて、
「しからば体は用い難し。その歳も名も同じくて命数つきし女があらば、今その死する女の体へ世居の魂を返し入れよ。それらのおなごはあらずや」と再び問えば冥官は答えて
「日本延喜の帝の妹節折(よおり)の内親王は命数尽きたり。その死せん事は遠からず、その姫宮は歳も名も日蔵の妻世居に同じ、これをや用いたまわん」と言うと閻王は微笑んで、
「それは真に妙なり妙なり。その期に及べば、こなたの世居の魂を返し入るべし。あたかもよし、あたかもよし」と言いつと日蔵を見返って、
「汝も全て聞いたがごとく、妻の体は用い難し。されども命数尽きざれば、あだしおなごの亡骸へその魂を返し入れん。此は只汝が主のために命を捨ててこの旅の使いに来たのを賞するのみ。世居は後より遣わさん。汝は早く娑婆へ帰れ。さぁさぁ」と急がして、帝に参らせる受け文を渡せば、日蔵は閻魔王に喜びを述べ、別れを告げて、元来し道を心当てにそのまま走り出たりける。
○これはさて置き、菅秀才文時は日蔵夫婦が死したる事を夢にだも知らず、天国の宝剣がようやく手に入れば斜めならず喜んで、これを携え参内して、父丞相より相伝の事の趣をしかじかと聞こえ上げると帝はつぶさに聞こし召し、「家第一なる宝剣を末の子に伝えしは才のすべきし故なるべし」と文章詩作を試みたまうと玉を連ねし大才なれば、帝は深く愛でて、抜きん出て三位を授け、大内記にぞなされける。これにより文時はこの守(かみ)たちを越えて、帝に仕えたまいしをうらやまぬ者は▲なかりけり。
○さる程に判官代照国は日蔵がくびれ死したその次の日に、都に帰ってありし事々もしかじかとつぶさに相聞すれば、帝はさこそと思し召し、
「さるにてもその日蔵と言う者の最後の趣は不憫の事なり。照国を今一度あの地へ遣わし、死骸をあらため、異なる事も無きにおいては、厚く葬り得させよ」と仰せければ、照国がその次の日に再び難波の旅宿に至ると村長らは怠りなくその棺を守っており、照国はしかじかと勅命を述べ知らせ、更に死骸をあらため見んとそのまま棺を開かせると日蔵たちまち黄泉返り、瓶(かめ)の内より這い出たり。皆々等しく驚き騒いで、故もやあると訪ねれば、日蔵はちっとも包まず、冥土へ行きし事の趣、閻魔王に見参の体たらくを物語ると、
「実に空言にはあらざるべし。死骸と共に棺に納めた抹香の折櫃が風呂敷のみにて物はなし。しかのみならず日蔵の懐に閻魔王の受け取りの手形一通があれば、照国は不思議の思いをなして、こは未曽有の□事なり。こと私(わたしくし)には聞き置き難し。日蔵も都へ上って共に相聞しけれ」と相伴って京へ帰り、事の由を聞こえ上げると帝はつぶさに聞こし召し、
「そは真に不思議の事なり。朕が自ら聞くべきに、その者を伴って萩(はぎ)の戸まで参れ」とて立ちいでんとしたまう時に、帝の御妹の三の宮の姫上を節折の内親王と申せしが、この時数多の女房にかしずかれ、秋の草花の色々なるを眺めてをわしませしが、御顔の色がたちまち変わり、そのまま絶え入りたまいしかば皆々等しく驚き騒いで、しきりに呼びいけたてまつり、典薬(てんやく)の守が走り参って御脈をうかがうと、「医道の脈絡が絶えたまえば御療治も届き難し。是非もなきことにこそ」と申すより他なかりしかば、女房達はしのびかねて声を合わせて泣きにけり。帝は此の由を聞こし召し、御涙をとどめあえず、
「かかる頓死(とんし)も定業(じょうごう)なるべし。先に朕が冥土でうからやからの寿命を延魔王に尋ね問いしが、一人節折の内親王のみ短命ならんと言われし事を今さら思い合わせるかし。必ず嘆くべからず」と女官達を制したまうに、日蔵は先より参りて萩の戸の局(つぼ)のほとりに祗侯(しこう)せしと聞こえれば、それ聞かずはあるべからずと端近くいでさせたまい、冥土の事の趣、日蔵が申す由を御簾を隔てて聞こし召し、閻魔王より渡された受け取り手形を開かせて見そなわす折しもあれ、鬼火が忽然と閃(ひらめ)き来て、死に絶えたまいし姫宮の御胸先へひらひらと落ちかかると見えたりしが、怪しむべし内親王はたちまちむっくと御身を起こし、遙かあなたにいたる日蔵の声を導(しるべ)に慌てふためき走り出て、
「ノウ懐かしや。こちの人は冥土でちらと会い見し時に、何故に物言うてはくださらぬ。我が身も共にと言いはせず、一人振り捨て先立ちて立ち帰りたまいぬる心ずよや」と恨みの数々、その顔ばせは身も知らぬいと老(らう)たけたる姫宮なれども、物言う声と立ち振る舞いは女房世居によく似れば、日蔵は呆れ惑って、「こはそも如何に」と押しとどめ、冷や汗流してもじもじと後退(あとじさ)りするばかりなり。怪しき事の体たらくに帝を始め奉りありあう人々は片腹痛く驚くその中で帝は賢(さか)しくましませば早くも叡慮(えいりょ)を巡らしたまうに、
「事切れた三の宮の蘇生はあるべき事ながら、物の言いざま立ち振る舞いは更に三の宮ならず。思うに物が憑いたるならん。日蔵はその身に思い合わせる事あらば▲包まず申せ」と勅(ちょく)しゅうに日蔵は止む事を得ず、女房の世居が自害せし事、また冥土にて閻魔王に後より世居の魂を返し遣わさんと言われた事、そのくだりの趣、始めより終わりまで聞こえ上げ奉れば帝はうなずいて、
「それにて朕の疑い溶けたり。しからばこの三の宮は朕の妹にして朕の妹にあらず。身は空蝉(うつせみ)のもぬけとなって、今は早、日蔵の妻の魂が入れ変われり。かつその名さえ世居と言いしはいよいよ奇なり。さてもこの日蔵は素性いかなる者やらん。聞かまほしさよ」と宣えば御後辺にはべりる官三品文時卿はおそるおそる進み出て、
「彼処(かしこ)にはべる日蔵はそれがしの父の時より仕えし譜代の家の子なり。年頃難波の侘び住まいにそれがしをもり養って忠義無二の者なれば、あの天国の宝剣を預け置きたまいしが、それがしが久しく病み患い、薬の代(しろ)の尽きし時、その宝剣を質として数多の金を整えつつ、療治の手当てを尽くす程に病は本復致したり。それがしはたえてこれを知らず、召し返される頃よりして、しきりにその宝剣を求めて催促すれば、日蔵はその金を償(つぐな)いかねて、詮方なさに遂に冥土の御使いにその身の命を奉り、百両の金を賜り、さて宝剣を受け戻してある人をもてそれがし方へ送りこしたる時に至りて、そのこと初めて聞こえれば、それがし驚き、かつ哀れんで押し止めんと欲せども、早時遅れてその義に及ばず。しかるにことの怪しくも日蔵は蘇生して、閻魔王の御返事を申し上げるのみならず、その妻の魂は世を去りたまいし三の宮の御骸(おんむくろ)に宿り入り、言葉を交わす不思議の一条。今見も聞きもしたれども御前なればはばかって言葉をかけず候」と事つまびらかに奏したまえば、帝はいよいよ御感あって、
「しからば彼は今の世に多く得難き忠臣なり。素性はいかに」と問えば、「先祖は菅家と同姓で土師(はじ)の姓(かばね)に候」と申すと、「しからば菅家の陪臣(ばいしん)なりとも召し使うべき者なり」とにわかに五位の大夫になされて節折の宮を妻に賜り、また宣う様、
「土師氏はその昔、御陵(みささき)の事などを司りたるためしあり。朕は四ケの大寺において千人の卒塔婆を立てさせ、時平以下の人々の菩提をとわせんと思うにより、竹田の大夫を卒塔婆使としてその寺々へ使わすべし。一ト度、冥土へ使いせし試しもあれば、これにます司人(つかさびと)はあらじ」と仰せつけられれば、竹田の大夫は勅使として叡山、三井寺、東寺、興福寺へ赴いて、勅(みことのり)を伝えれば、その寺々でおのおの御願の法事を修行し、二十本の卒塔婆を立てけり。その後、帝の御夢に時平以下の輩(ともがら)が地獄の責めをまぬがれて成仏せしとぞ見たまいける。
さる程に竹田の大夫は思いがけなき妻を迎えて男(お)の子二人をもうけつつ、その子供が成人して帝に仕え奉る頃、その身は遂に世を逃れて墨の衣に様を替え、初めの名の日蔵は大日と胎蔵の両義に叶えばと元の俗名をそのままに日蔵法師と称(とな)えつつ、遂に名僧の聞こえあり。されば世に言うせいのい□の日蔵法師はこれなるべし。かくてまた妻の世居も夫に等しく尼となり、行いすましておる程に、二人の子供は幼き時より文時卿を師として学び、学問ことに優れれば司位も次第に上って、その家は繁盛したりける。
○これはさておき延喜の帝は日頃思し召したる事を皆行わせたまえども、なおあやにくに雷雨洪水す疫神(ときのけ)の憂(うれ)いあり。民の嘆きは大方ならねば、帝は宸襟(しんきん)安からず、再び思い巡らすに、
「これまで朕が執り行わした功徳は後世の事にして現在の災いを祓(はら)うになお足らぬなるべし。今よりりやう山▲大寺において一千五百の法師を集えて大般若を読ませれば国平らかに民安く天変地妖なかるべし。ただこの法事の導師たる者は道徳高き名僧ならではその甲斐も無きことなるべし。誰をがなと選ませたまうに忠平公を始めとして、浄蔵法師がしかるべし、召させたまえと申せしかば、帝はしきりにうなずきたまいて、朕もさは思いしなり、さらば浄蔵を召し寄せと熊野へ勅使を遣わされて浄蔵法師を招かせたまい、さてその事を仰するに、浄蔵法師は詔(みことのり)を承って、雲居寺に立ち帰り、一千五百の法師を集えて大般若を読みたりける。さる程に観音菩薩は時ようやく至りぬと、恵岸童子と諸共に乞食(かたい)の旅僧に姿を変じて洛中を徘徊しつつ、我には目出度き袈裟と鉢あり、値を惜しまず買う者あらば売るべし、売るべしと呼ばはりたまうと、その姿が汚げなれば人皆これを真とせず、たまたま買わんと言う者あっても値の高きに肝を潰して再び見返る法師もなかりき。かかる所に菅三位文時卿が参内の折に、これを怪しみ車のほとりへ呼び寄せて、その二品を見たまうと類稀なる物なれば、心の内で驚いてその値を問うと菩薩は答えて、袈裟の値は千五百両、鉢は千両と宣うに、菅三位はまた驚いて、しからばこの袈裟と鉢にいかばかりの徳あるやと問われて菩薩は、
「さればとよ。この二品を所持する法師は天魔(てんま)も障礙(しょうげ)をなすこと無く、変化も害すること叶わず。しかれども人によっては値を増してもこれを売らず。またはその人によっては値なくともこれを売らん。そはそれがしが元よりの志なり」と宣えば文時卿はうなずいて、「我思う由あれば共に大内へ参れ」と相従えて参内しつつ、事の由を奏したまうと帝はその由聞こし召し、
「その品いよいよ良き物ならば、此度の布施として浄蔵法師にたまうべし。さぁさぁ呼べ」とて出させたまえば菩薩は恵岸童子と共に御階(みはし)の元に膝まずき、袈裟と鉢とをうやうやしく文時卿に渡しけり。その時、帝がつくつくとその二品を御覧なると世に未曾有の宝なれば御喜びは浅からず、これらの値は申すままに取らせよと宣うと、菩薩はこれを漏れ聞いて、「いかで値を賜るべき。さればこそ、その人によって▲値なくとも売らんと言えり。早まからん」と言いながら恵岸と共に走り出て行方も知らずなかりけり。
さる程に帝の御願円満の日になれば雲居寺へ行幸(みゆき)あって、一千五百の法師ばらに数多の御布施をたまわりて、別に導師の浄蔵にはその袈裟と鉢とを御布施として賜れば、浄蔵は謹んで重恩(ちょうおん)を受け奉り、戴き捧げ退いて、その袈裟を掛け、鉢を持って進みいでつつしずしずと高座に着いて威儀(いぎ)正しく法義を述べる有様は、さながら羅漢(らかん)に異ならねば帝を始め奉り、道俗(どうぞく)ひとしくがっこうして、あら尊やととで褒めたりける。その時二人の弱(よろ)法師が高座のほとりに近づいて、浄蔵を見てあざ笑い、「今かばかりの功徳では天変地妖を祓い難し。あら笑止(しょうし)や」とつぶやくのを帝は遙かに見そなわし、
「あの法師らは先の日に袈裟と鉢とを値も取らずに走り失せたる者ならずや。しかるに今またここへ来て、いと託(かし)がましく法縁を妨げるは心得難し。あれを止めよ」と勅じゅうに近衛(こんえ)の官人はむらだちかかって引きずり除けんとする時に、二人は等しく身を交わし近づく者を投げのけ投げのけ、忽然として金色の光を放って雲に乗り、庭の梢(こずえ)に現れたまう観音薩多(さった)の妙相(みょうそう)に、恵岸も真の姿を現し、菩薩に従い立ち去りける。
思いがけなき来迎に、上一人(かみいちにん)より群集(ぐんじゅ)の道俗、皆庭上(ていしょう)に走り出て拝まぬ者は無かりける。その時、観音は妙音高く、
「良きかな良きかな。我はこれ世尊(せそん)釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)の仏勅を受け奉り、国土のために浄蔵法師を印声(いんぜふ)せんと来迎せり。知らずや天竺の象頭山に金毘羅神王という神あって、元これ日の本の神代の昔に、讃岐の国うたるの山に成りいでし神にして、その後天竺に渡り、我が釈尊に仕えて仏法守護の諸天となれり。この神のい神通力衆生のために災いを退け、幸いを下すこと不可思議の利益のあり。早く天竺に赴いて、十万八千里の苦行をしのぎ、釈迦牟尼仏を拝み祀(まつ)りて、不伝の経文を聴聞(ちょうもん)し、金毘羅神王を迎え来て、讃岐の国に鎮め祀れば天変地妖(てんぺんちよう)は長く絶え、国土太平、民安全の利生は日ここに新たなるべし。そもそも金毘羅神王には影と形の二神あり。その影の一ト柱の荒神はこれまた世尊が仏力で両界山に閉じ込めたまえり。浄蔵が渡天の折はその荒神が助けとなって、よく導きをする事あらん。おめおめ疑う事なかれ」と示現の御声は耳に残れど早御姿は恵岸と共に西を指してぞ飛び去りたまう。
○是により浄蔵法師は帝の勅(みことのり)を受け奉り、天竺へ赴かんとする時に、帝が自らはなむけの御杯を下されて、大法師の位を授け、かたじけなくも帝の御弟に準ぜられれば、世の人は長く浄蔵貴所(きしょ)と唱える折から渤海国(ぼっかいこく)より貢ぎの使いが参りしかば、浄蔵法師は便船(びんせん)して三かんより唐土(もろこし)におし渡り、更に天竺に赴くことどもは▲第四編に著すべし。四編よりして怪談(くわいだん)いよいよ多く物語りもまた甚(はなは)だ長やかなり。なお年々に継ぎ出して、遂には全部の冊子となさん。こは世の常の合巻物(ごうかんもの)と同じからぬ。作者の苦心を味わいたまえ、目出度し目出度し■

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

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