傾城水滸伝をめぐる冒険

傾城水滸伝を翻刻・校訂、翻訳して公開中。ネットで読めるのはここだけ。アニメ化、出版化など早い者勝ちなんだけどなぁ(^^)

[現代訳]傾城水滸伝 四編ノ一二

2017-08-29 10:27:26 | 現代訳(傾城水滸伝)
傾城水滸伝(けいせいすいこでん) 第四編(だいしへん)の一
[曲亭馬琴著][歌川国安画]                   ▼:改頁

 されば又、樽垣衛門太(たるがきえもんた)はその日、世和田(せわた)、栗太夫(くりだゆう)らと別れて、播磨(はりま)の守護職、加古(かこ)の郡領(ぐんりょう)重門(しげかど)の屋敷に行って、摩耶山(まやさん)で七人の女山賊らに謀(たばか)られ、三世姫(さんせひめ)を奪い取られた事を告げ、それより更に東に向かい、夜を日に継いで急げばおよそ十日余りで鎌倉に着いた。そのまま執権北条相模の介(さがみのすけ)義時の屋敷におもむき、世和田、栗太夫らと示し合せたように偽(いつわ)って申す、
「さてもこの度、それがしらは主君信種の仰(おお)せに従い、新参者の女武者青柳と供に奥付きの雑掌(ざつしょう)渋川栗太夫、世和田の局(つぼね)ら四人で、下部(しもべ)六七人を従えて、密(ひそ)かに三世姫を守護し奉(たてまつ)り、且つ、天国(あまくに)の宝剣を携(たずさ)えて、当所を目指して急ぐ途中に、摂津(せっつ)の国の摩耶山で、斯様(かよう)斯様の事により、三世姫と宝剣を女山賊に奪い盗られ候。察する所、あの青柳は悪心(あくしん)今に改めず、始めは流人(るにん)であったものを十時(ととき)御前が哀れんで、幾程も無く取り立てられ、女武者所の教え頭になされたのみならず、武芸に長(た)けた者なればと三世姫を送り参(まい)らせる警護頭に仰せつけられ、それがしなどは申すに及ばず、世和田、栗太夫の重役(おもやく)も皆、信種の御下知で青柳の手下に付けられた。かかる御恩を仇(あだ)で返す青柳はいつの間にやら山賊女七人と示し合わせて、我々に痺れ薬を入れた酒を飲ませて気を失わせ、謀った青柳は逃走して行方(ゆくえ)は絶えて知れ候(そうら)わず。暑さに耐えぬ折なれば、喉(のど)の渇きに油断して、愚かにも謀られ候。それがしらも身の咎(とが)の逃れ難きを知ると云えども、自害などせば不忠の上の不忠ならんと思い返して、栗太夫、世和田と談合し、それがしは東へ向かい、かく御注進つかまつるは身の咎(とが)思わぬ私(わたくし)の計らいにて候(そうら)えども、皆が筑紫へ帰り、あの地より御注進に及べば、日数遅れて御詮索に不便ならんと思うばかりに、夜も日も分かず、道を急いで馳せ参り候。あの七人の山賊女を捕らえられば、事は分明(ふんみよう)に候(そうら)わん」と真(まこと)しやかに述べた。

この頃、鎌倉では執権北条義時の病気がようやく平癒し、自ら民の訴えを聞き定める頃なれば、今、樽垣衛門太の訴えに驚いて、呼び入れて対面しつつ、なお又、事の始め終わりを詳しく問い、
「我が亡き父の危急(ききゅう)を継いでから、世の中は久しく太平なれども先亡(せんぼう)の余類があちこちの山林に隠れ住み、民の憂(うれ)いをなすと聞く。されば、去年の秋に太宰府より送り参(まい)らせた貢(みつぎ)の金三千両を道で奪い盗られたも、今に至って盗賊知れず。この度もし詮索をおこたって差し置けば、遂に由々しき大事とならん。真(まこと)に不慮の事なり」と憤(いきどお)ること大方(おおかた)ならず。まず衛門太を留め置いて、評定衆(ひょうじょうしゅう)に由を告げ、しきりに評議を凝らす折に太宰府よりの使者、早道葉四郎(はやみちはしろう)と云う者が鎌倉へ到着して信種の呈書(ていしょ)を奉(たてまつ)り、且つ、摩耶山で三世姫と宝剣を奪い盗ったと云う山賊女らの事、並びに女武者青柳の事、全て栗太夫、世和田らが訴え申した一部始終は斯様(かよう)斯様と述べる事情が先に樽垣衛門太の口上に符合すれば、義時はしきりにうなずいて、
「かかれば事皆疑うべからず。諸国へ下知を伝えて、日ならずその曲者(くせもの)らを残らず絡め捕らせん」と衛門太、葉四郎らに義時の返簡を渡して、太宰府へ返し遣(つか)わし、にわかに五畿内(ごきない)へ盗賊追捕(ついほ)の下知を伝え、特に播磨の郡領重門(しげかど)には厳しく命ぜられた。摩耶山は重門の領分によってなり。
 されば樽垣衛門太は思いのままに事整って、世和田、栗太夫諸共に咎(とが)を逃れるのみならず、鎌倉の首尾(しゅび)が良ければ、心密かに喜んで、葉四郎と連れだって、筑紫へ急いだ。

さてもその後、青嵐(あおあらし)の青柳は栗太夫、世和田らが妬(ねた)みの心で我が云う事に従わず、摩耶山で七人の山賊女に三世姫と宝剣を奪い盗られた時に自害せねばと思えども、たちまちに思い返して、毒酒の毒がまだ醒めぬ人々を罵(ののし)り捨てて、独り逃走し、足に任せて終夜ひたすら走ると、その次の日に河内(かわち)の金剛山の近くの北山村に着いた。
この時ひどく飢え疲れ、又、行く先もなく見ればこの村外れに茶屋とおぼしく、強飯(こわいい)、煮染(にし)めを売る店あり。これ幸いと入り、長椅子に腰を掛ければ、この店の使用人なるべし、十五六の田舎人が忙わしく見返って、「御婦人、何を召されるぞ」と問うと、
「然(さ)ればとよ、私(わらわ)は飢えて物欲しきに、さぁ強飯をもて来よかし」と云うと使用人は心得て、はげ黒んだ芳野(よしの)の茶碗にうず高く盛った煮染(にし)めを添えてすすめるのを青柳は値(あたい)も問わず箸を取り、あくまで食べ腹が満ちれば、再び使用人に向かって、
「私(わらわ)は路銀を失って、持ち合わせの銭は無し。重ねてここを過(よ)ぎる際、利息を加えて償(つぐな)うべし。しばらく待ちね」と云いながら仕込み杖(つえ)を右手に取りつつ走り出れば、使用人は驚き怒って、「ヤレ食い逃げ」と呼び張るとこの家の女房▼なるべし、二十四五の大女が「ソレ、逃がすな」と叫ぶと主人の男が棒取って追いかければ、又、女房も手頃な棒を脇挟み、遅れじと後に続いて追いかけた。
されば青柳は行くこと未だ幾ばくならぬにたちまち後ろに人があり、追っ手は「盗人(ぬすびと)女め、逃がしはせじ」とののしり叫んだ。青柳はこれを見返って、心の中では嘲笑(あざわら)い、立ち止まって待つと既に近づく主従は、
「顔に似合わぬ食い逃げ女。一膳飯で未だ足らずば棒を食わせん」とののしる声とともに打とうする二人の棒を青柳はすかさずやり違(たが)わして、握り留め、エイと引く手練(しゅれん)の早技、使用人も主人の男は左右等しくひょろひょろとひょろつく弱腰(よわごし)したたかに打たれて、「あなや」と一声叫びながら身をひるがえして倒れた。
程なく、女房が遅れて追いかけ来て、この有様(ありさま)にいよいよ怒って、持った棒を取り延べて、打ち倒さんと叫んでかかるを青柳は騒ぐ気色(けしき)無く、一つの棒を投げ捨てて、右手に残った棒で丁と受け止め、激しく戦う手練(しゅれん)にひるむ女房は慌てふためき構えの外へ走り退(の)きつつ、声を掛け、
「ヤヨ、待ちたまえ、云うことあり。思うに増したあなたの手の内。察するところ世の常の女子(おなご)にてはあるべからず。名乗りたまえ」と叫ぶと青柳はにっこり微笑み、
「今は何をか隠すべき。元は都の者なれども太宰府に流された青柳と云う者にこそ」と名乗るに驚くこなたの女房は、
「しからば都で大莫連(だいばくれん)牛鬼婆(うしおにばば)を一討ちで殺した、あの青嵐の青柳殿か」と再び問えば青柳はうなずいて、「真(まこと)に問われる青嵐の青柳は私(わらわ)なり」と云うとますます驚く女房は棒を投げ捨て膝(ひざ)まずき、
「私(わらわ)は眼(まなこ)ありながら、さる勇婦人を見知らずにひどく無礼をしはべりぬ。私(わらわ)も元は都の者で、物心つく頃より女の技はいと疎(うと)く、武芸をのみ好めば、伝(つて)を求めて都の女武者所の教え頭、今もその名は隠れ無き、虎尾の桜戸殿を師と頼み、その太刀筋(たちすじ)を習ったがその桜戸殿はあの亀菊に憎まれて、無実の罪に落し入れられ、佐渡の国へ流された。その頃、私(わらわ)は近江(おうみ)の親類に招(まね)かれて、久しくそこに隠れたが、あの亀菊はなお飽かず、桜戸殿に縁(えん)ある者を絡め捕って牢屋に繋ぐと聞こえれば、私(わらわ)も都に遠からぬ近江路には留まり難(がた)く、慌てふためき迷い出てこの所まで来た。しかるにそこにいる男は私(わらわ)の従兄弟(いとこ)で、名を赤八(あかはち)と呼ばれたり。この麓路(ふもとじ)で飲み食いの商いして世を渡れどもまだ女房が無ければ、仲人(なこうど)入れずに談合(だんごう)し、私(わらわ)を妻にしたが、当国(とうごく)には山賊多く、ややもすれば店へ来て、飲み食らいして値(あたい)を払わぬ溢(あぶ)れ者も少なからず、さるを私(わらわ)がここへ来て、店に座りし始めより溢れ者らをひどく懲(こ)らして、損することが無くなったはいささか習い覚えた武芸の徳ぞと人も誉め、赤八も思えば、喜び且つ恥じて、私(わらわ)に所帯を任し、その身は結局へりくだり、後見(こうけん)に成ってより、店は日に増し商い多かり。それにより、そこの手間介(てますけ)と云う只一人の使用人を召し使って、ともかくもして世を渡れば、里人らは私(わらわ)を山盛屋(やまもりや)のお剛(こわ)と呼ぶ。さてもあなたは太宰府で女武者の教え頭になられたと、人の噂に近頃聞いたに、何らの故(ゆえ)でここまで、さ迷い歩きたまうぞ」と問われて青柳はうなずいて、
「私(わらわ)の身の上は様々の物語りがあれども一朝(いっちょう)には尽くし難し」と云うとお剛(こわ)もうなずいて、「しからば自宅へ伴わん。いざ」と云うと赤八と手間介はようやく身を起こし、二人の物語りを聞きつつ驚き、恐れて、共に額(ぬか)を突き、
「我々、凡夫(ぼんぷ)の悲しさは僅(わず)かの銭を取らんとして、さるたくましい女中(じょちゅう)と知らず、毛を吹いて瑕(きず)を求めた後悔ここに絶ち難し。お腹は立ちたらんが、知らずに犯した咎(とが)なれば、海なす心で許させたまえ。さらば案内つかまつらん」と云いつつ先に立って自宅へ伴った。
○お剛(こわ)は青柳を奥座敷に迎え入れ、酒を温め肴(さかな)を調(ととの)え、赤八▼諸共に様々にもてなせば、青柳は深く喜び、都で在った事、太宰府での事、この度、三世姫を送る為に探題信種の下知(げち)に従い、世和田、栗太夫らと共に鎌倉へ行く道中(どうちゅう)に摩耶山で七人の女山賊らに謀(たばか)られ、三世姫を奪い取られたその事の始め終り、且つ、栗太夫、世和田らが我が云う事を聞かずに、あの災い起こり、覚悟を極めて、自害しようとしたれども思い返す事あり、逃れてここまで来た事の一部始終を説き示せば、お剛は更なり、赤八も青柳の不仕合せを慰めかね、共に嘆息の他は無かった。
 かくてその日も暮れれば、青柳は思い掛け無くここで一夜を明かしつつ、その翌朝にお剛らに暇乞(いとまご)いして、出ようとするのをお剛は聞かず押し止め、
「これは何処へ行きたまうぞ。願わくば、私(わらわ)の自宅にいつまでも逗留したまえ。させるもてなしできずとも朝夕安く送らせはべらん。まげて此方(こなた)に留まりたまえ」と丁寧に留めれども青柳は聞かずに頭を振り、
「御志は嬉しけれども私(わらわ)は罪人なるに、あなたら夫婦を巻き添いすれば、後悔そこに絶ち難し。只、再会の日を待たんのみ」と云うとお剛も留めかね、
「しからば何処(いずこ)を心当てにおもむきたまうやらん」と再び問えば青柳は頭を傾け、
「先に赦免(しゃめん)に合った時、都へ帰る道すがらに賤ヶ岳のほとりで斯様(かよう)斯様の事により、あなたの師匠の桜戸殿としばらく挑み戦った。その時、その砦(とりで)の頭領の賽博士巨綸(えせはかせおおいと)が私(わらわ)を砦に留めようと云われた事が有れども、その折は思う事あり都へ向かった。この時初めて桜戸殿と顔を合わせ、武芸の程もよく知りぬ。かかれば、今更おめおめと賊の砦へおもむいて、頼むことも不名誉なり。なお又、他所(よそ)にいささかの心当てもあれば」と云うをお剛は聞きながら、
「遠く縁(ゆかり)を求める事は道中(どうちゅう)も心許(もと)なし。あなたの為に最適な隠れ家がはべるかし。この所より程近い金剛山に昔より尼寺があり、近頃、鉄壷眼(かなつぼまなこ)白蛇(しろへび)と云う悪たれ婆がその尼寺に同宿したが、万夫(ばんぷ)不当(ふとう)の力量あり。武芸も世の常ならざれば、手下を集めて、尼法師らを追い出して、その寺を砦(とりで)としつつ、追い剥ぎして、兵糧(ひょうろう)財宝は云えば更なり、四五百人の手下ありと噂に聞く。頼みたまえば必ず留めん。この儀に従いたまえかし」と云うを青柳は聞きながら、
「露の命を惜しんで山賊婆の群れに入るは願わしからぬ事なれども、あなたの意見も無視し難し。まず試みに行って見ん」と云うとお剛は喜んで、朝飯をすすめた。
青柳はお剛らに喜びを述べ、暇乞(いとまご)いして金剛山を目指して行く時、見れば向かいの森の中で色黒く形大きく肥え膨らんだ行脚(あんぎゃ)の尼が株を枕にうたた寝したるが、たちまちに目を覚ました。間近く来る青柳を見るより早く身を起こし、枕に立てた鉄の棒を取り、声高く昼寝の隙をうかがって、
「物盗りに来る昼鳶(ひるとび)め。目に物見せん」と罵(ののし)って、棒ひらめかして打とうとすると青柳も又、大いに怒って、
「ほざいたな、野伏(のぶせ)り尼めが。汝(なんじ)こそ▼里遠いここらの陰に網を張り、旅人を追い落とす大盗人(ぬすびと)にてあらんずらん。覚悟をせよ」と息巻き向かえば、行脚(あんぎゃ)の尼が打ち掛ける鉄撮棒(かなさいぼう)を仕込み杖(つえ)で受け流し、抜き合わせつつ、丁々発止と互いの手練(しゅれん)、秘術を尽くせば、青龍雲間に戦う時に急雨(きゅうう)がしきりに降る如く、猛虎山林に挑む時に谷風が俄(にわ)かに起こるに似て、勝負は果てし無ければ、青柳は忙わしく棒受け止めて、
「やよ、待てしばし。侮(あなど)り難きあなたの武芸。察する所、世の常の行脚の尼にはあるべからず。さぁさぁ名乗れ、いかにぞや」と問うと答えず行脚の尼は眼(まなこ)を怒らし声振り立てて、「今更名乗って何にせん。早く勝負を決せよ」と又、打ちかかる棒の手を受け止めつつ、にっこと笑み、
「我はあなたの恐ろしさに謀(たばか)り打たんとするものならず。我は由ある京人で青嵐の青柳とて、采女(うねめ)の数にも入った者なり。元より恨みも無きあなたと鎬(しのぎ)を削って、あたら命を失えば、いと愚かなる業(わざ)ならずや」と云われて尼はうなずいて、
「あなたは世の噂に予ねて聞く。都で牛鬼婆を斬り伏せて、所の害を除きながら、その折、筑紫(つくし)へ流された、あの青嵐の青柳か」と問い返されて、
「云うにや及ぶ、私(わらわ)こそ、その青柳なれ。あなたの法名は」と再び問われて、行脚の尼はからからと笑いつつ、
「その名は予ねて聞き知った青柳殿とは思いもかけず、ここで会うのも不思議の縁。思えば危なき事なり。私(わらわ)は先に甲斐の国でなまよみ屋の後家貝那(かいな)を一拳(こぶし)で打ち殺して逃走しつつ、尼になった花殻(はながら)の達。法名を妙達(みょうたつ)と呼ばれる生臭(なまぐさ)坊主ではべるかし」と名乗れば青柳は微笑んで、
「さては浮世に隠れ無き花殻の尼御前(あまごぜ)なるか。近い頃まで深草の成仏寺(じょうぶつじ)に在りと聞こえたが、そも又、いかなる故(ゆえ)で、ここらを徘徊したまうやらん」と問えば妙達は
「然(さ)ればとよ。あの亀菊に憎まれて、佐渡の国へ流される桜戸の道中の事が心許(こころもと)なければ見え隠れに付けて行ったが、果たして道送りの走使(はしりつか)い蜘蛛平(くもへい)、土九郎(どくろう)が示し合わせて、道にて桜戸を殺さんとした時に我がたちまち現れ出でて、桜戸を救いつつ、蜘蛛平、土九郎らをひどく懲(こ)らして、つつが無きを得た。かくて又、越後の寺泊(てらどまり)まで見送って、桜戸らに別れつつ、我は深草へ帰ったが、その土九郎、蜘蛛平に我が名を名乗り知らさねども、似非(えせ)賢くて推(すい)しけん。彼らは都へ帰り、桜戸を得殺さざりし事の訳を斯様(かよう)斯様と我の事を訴えた。これにより亀菊は我を憎み憤(いきどお)り、成仏寺へ下知(げち)して、我を寺に置く事を許さず、あまつさえ多くの捕り手の兵をもて、矢庭(やにわ)に絡め捕らせんと早や向かうと聞こえれば、我は寺を逃走し、再び旅寝に月日を送って、この河内路に来て聞くと、近頃より金剛山には鉄壷眼(かなつぼまなこ)白蛇(しろへび)と云う山賊の大将軍あり。女なれども武芸に長けて、且つ力量も万夫の勇(ゆう)あり。多くの手下を集めたと噂により、群れに入らんと思いつつ、今朝も彼処(かしこ)へおもむいたが、白蛇は我を疑い、留める気色(けしき)が無いのみならず、只一椀の酒も飲ませず、我も腹の立つままに思いのままに罵(ののし)るを彼女の手下の山賊らが理(わり)無く我を追い出して、山門を閉ざした。打ち破って入る事は難(かた)くもあらぬ業(わざ)なれども、彼女は大敵、我は一人。且つ、昨夜より物を食わねば、飢えも大方(おおかた)ならず、まず退(しりぞ)いて思案をと思い返して、ここまで来て、しばらく憩(いこ)い居るなり」と一部始終を物語れば、青柳も又、その身の上の始めより終りまで、斯様(かよう)斯様と説き示し、又、山盛屋のお剛(こわ)の事、しかじかなりと告げ知らせて云う、
「聞いた如くに白蛇は人を損なう山賊なり。討ち滅ぼすべき者なれども彼女には多くの手下あり。謀り事を用いずして、血気(けっき)に逸(はや)れば過(あやま)ちあらん。まず山盛屋へ行って談合するに増すことあらじ。▼いざたまえ」とて先に立てば、妙達はこの儀に従い、青柳と共に山盛屋へ向かった。

○されば又、青柳は山盛屋へ帰り、妙達の事、白蛇の事さえもお剛らに解き示せば、お剛は驚き喜んで、妙達と青柳を奥座敷へ迎え入れ、更に又、酒食をすすめて、赤八ら諸共に様々にもてなしつつ、白蛇を討ち取る謀り事を談合すると、お剛はしばらく思案して、
「彼女には手下が多く、苦肉の謀り事をもてせずば勝ちを取る事は難かるべし。我に一つの謀り事あり。花殻殿を縛(いまし)めて金剛山へ引き持て行き、斯様斯様に謀れば、容易(たやす)く彼奴(かやつ)を欺(あざむ)けるべし。その謀り事はしかじかなり」と手に取る如く囁き示めせば、妙達、青柳は聞きながら、「この謀り事は真に妙(みょう)なり」としきりに誉めて感じて止まず、「さらば今より出発せん」と大きな縄で仮に妙達を痛く縛(いまし)め、お剛は妙達の鉄撮棒を引かたげ、山刀(やまがたな)を腰に横たえ、青柳は仕込み杖、赤八と手間介は竹槍を携(たずさ)え、又、里人の力有って腕立てを好む若者を十人ばかり集めて、謀り事を説き示し、皆連れだって妙達を引きつつ金剛山へ向かえば、山門を守る山賊らは押し止めて、「そは何者ぞ」と咎(とが)めた。その時お剛は先に立って、
「これは麓の北山村で強飯(こわいい)、煮染(にし)めなどを売って、世を渡る山盛屋のお剛、赤八らにて候(そうろう)なり。しかるに今日この大比丘尼(おおびくに)が私(わらわ)の店に尻を掛け、飲み食らいして一文も値を払わず、金剛山の御前様にしかじかの恨みあれば、裏門より火を放ち焼き討ちにせんなどと罵(ののし)り狂って手に負えず、よってなだめて酒すすめ、酔い伏したのをうかがって、大勢で矢庭(やにわ)に折り重なって、生け捕って候なり。さればこの大比丘尼は御前様に仇(あだ)なす者なり。引きもて参って由を訴え、いかで御覧に預からばやと里人らと共に推参(すいさん)したるにて候」と真(まこと)しやかに告げれば、山賊らは聞きながら大いに誉め、この事を告げ申さんと一両人は奥に向かって、しかじかと訴えれば、白蛇は聞いて大いに喜び、「その者共を呼び入れよ」とて、自ら本堂に立ち出でて、高座の褥(しとね)につく時に、宗徒(むねと)の山賊四五十人が左右二側(ふたがわ)に居流れた。その時、お剛らは以前の山賊に導かれ、高座のほとりに至れば、白蛇が自ら子細を問い、お剛(こわ)らは先の如く斯様(かよう)斯様と訴えるのを白蛇聞いて思わずも小膝(こひざ)を叩いて笑い出し、
「その比丘尼めは先程この山へ来て宿を乞うたのを彼奴(かやつ)の望みに任せぬとて、怒り狂ったのみならず、拳(こぶし)で我が小鬢(こびん)を割れるばかりに張り▼曲げた。病気の無い我が身なりしが、頭痛八百の相場を狂わせ、且つ、法事椅子を踏み壊して、壱貫余りの損をさせ、無礼緩怠(かんたい/なおざり)、言語道断、許し難き奴なれども尼法師の事なれば命を助けて追い出したに、さる恩を思わずして、なお仇(あだ)せんとほざく事、誰が憎しと思わざるべき。今我が手づから斬り苛(さいな)んで、弄(なぶ)り殺しにしてくれん。さぁさぁ此方(こなた)へ押し据えよ」と云うとお剛は心得て、青柳ら諸共に妙達を高座のほとりへ押し据える様(さま)にして、たちまち縄を引き解けば、妙達は早く身を起こし、お剛らが持って来た鉄の棒をかい取って、眼(まなこ)を怒らし声を振り立て、
「死に損ないの盗人(ぬすびと)婆め、飽く事知らず、物を惜しみ。我につらく当たりし報(むく)いは覿面(てきめん)、天の責め。観念しろ」と罵(ののし)って、棒ひらめかして打ってかかれば、白蛇はひどく驚き、高座の上より転び落ち、逃げんとするを逃がしもやらず。大喝(だいかつ)一声、妙達の比丘尼甲斐ある拝(おが)み打ち、白蛇あっと叫びながら頭を微塵に砕かれて、脳みそ出して死んでしまった。
左右に並居(なみい)る宗徒の山賊はこの体(てい)たらくに驚き騒いで、皆々刀を抜きそばめ押し隔てんとする時に、隙もあらせず青柳、お剛、赤八、手間介、里人らまで、武器を打ち振り、遮(さえぎ)り止めて働かせず。なかんづく青柳の太刀先(たちさき)に当たる者は或いは頭を討ち落とされ、或いは胴切り唐竹(からたけ)割り、またたく間に二三十人が枕を並べて討たれれば、残るも半死半生で、深手(ふかで)浅手(あさで)を負わぬ者無く、よろめきながら逃げ走るを青柳、お剛ら先に進んで、なお逃がさじと追って行く。
 されば数百の山賊どもは白蛇が既に討たれた事を聞き、呆れて、戦おうとする擬勢も無く、上を下へと覆(かえ)した。愁傷(しゅうしゅう)大方(おおかた)ならざりけり。

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

けいせい水滸伝 第四編の弐
馬琴作 国安画

 白蛇は既に妙達に討ち殺されて、残る宗徒(むねと)の山賊らも青柳、お剛(こわ)らに大方(おおかた)討たれれば、外に集った手下の大勢は驚き騒いで、武器を引下げ打ち振り、群(むら)だち来て妙達らを取り巻いて打とうと競うを「物々しや」と妙達、青柳、お剛も引き受けて、またたく間に斬り散らし、どっと崩れて逃げ走るのを山の側辺(そばべ)に追い詰めた妙達、青柳は声高やかに
「天罰(てんばつ)思わぬ盗人(ぬすびと)どもめ。今より心を改めて、真(まこと)の人にならんとならば我は汝(なんじ)らの命を助けん。いかにいかに」と呼び張ると皆々刃を投げ捨てて、大地にひれ伏し頭を揃え、
「我々、心愚かにて、賭けと酒とで家を失い、身の置き所無きにより、鉄壷眼(かなつぼまなこ)の手下となった。命を助けたまわれば、いかで仰せに背(そむ)くべき。心を改め候(そうら)わん」と降参すれば、これらを許して下部とし、妙達と青柳はこの古寺の主となって、山賊の業(わざ)をせずに、焚き木を切らせ、炭を焼かせ、或いは薬草を採らせるなどして、里へ出して銀(しろ)代えさせると、多くの人を養うにも物乏(ものとぼ)しくもなかった。
これより先にお剛、赤八らは妙達、青柳に別れを告げて、手間介(てますけ)、里人らと共に各々(おのおの)の家に帰ったが、白蛇が滅んでから里に盗賊の憂(うれ)いが無くなったのは皆これ妙達、青柳の▼武勇の徳によるものと、遠近(をちこち)の百姓どもが秋毎の初穂は更なり、麦、豆、野菜に至るまで金剛山へ持って行き、妙達、青柳に贈れば、兵糧すら乏しからず、ここも一箇の砦(とりで)となって、妙達と青柳は多くの手下に敬われて、豊かな月日を送った。

されば又、鎌倉の執権北条義時は国々へ下知して、
「摩耶山で三世姫と宝剣を奪い盗って立ち去った七人の曲者(くせもの)並びに青嵐の青柳の詮索(せんさく)は厳重ながら、追捕(ついほ)なおざりに月日を過ごすは、領主重門(しげかど)の落ち度なるべし」といとも厳しく触れられた。
 播磨の郡領(ぐんりょう)は先に信種の家臣樽垣衛門太の訴えにより大いに驚き、あの七人の女盗人らをしきりに詮索すれども絶えて便りを得ざりしに、鎌倉より御教書(みぎょうしょ)が到来して、執権の下知が厳重なれば、心の内で恐れ悶え、家臣らを集めて日毎の評議まちまちなり。その中に屋久手(やくで)虎右衛門と云う家臣は市(いち)の司を承(うけたまわ)って、所の悪者、盗賊なんどを絡め捕るのを役目とすれば、予ねて主命に従って、多くの手下を引き連れつつ、日々に巷(ちまた)を詮索すれども未だ行方を得ざりしに、太宰府より信種の書状が到来して、
「鎌倉より御沙汰あり。あの曲者(くせもの)らはいかにぞや。早く手立てを巡らして、召し取って参(まい)らせよ。さらずば身の上なるべし」と下知を伝えれば、郡領重門はいよいよ困って、屋久手虎右衛門を呼びつけて、あの曲者の詮索の事を厳しく申し付け置いたのに、今に至って捕らえ得ず、見よ太宰府より内書あって斯様に伝えられたなり。この事なおも功無くば、我家は遂に断絶せんか。これもまた計り難し。つまり、役目を疎(おろそ)かにする汝の不忠によるものなれば、今日よりして十日の内に尋ね出さねば、汝の頭を刎(は)ね、鎌倉へ参(まい)らせん。ゆるかせならぬ後日の証拠はまずこの通り」と息巻き猛(たけ)く身を起こし、脇差しの刀を抜いて、虎右衛門の髻(たぶさ)をふっと切り取って、
「命惜しくば髻の毛が伸びぬ間に、あの曲者らを絡めてだせ。十日過ぎてもその儀が無くば、汝の頭(こうべ)を刎(はね)る事、只この髻の如くなるべし。心得たか」と厳しき主命(しゅめい)に返す言葉も無かった。
○されば屋久手虎右衛門は心の憂(うれ)いやる方も無く、更に夢路を辿るが如くにうつうつとして自宅に帰れば、女房のお井戸が出迎えて、夫の髻(たぶさ)が無くなったのを見て驚き怪しみ、まずその故(ゆえ)を尋ねれば、虎右衛門は主命の訳を物語り、
「かかれば今より十日経てもあの曲者らの在りかが知れずば、我の命は保ち難し。いかにすべき」と嘆けばお井戸も胸潰れ、慰めかねつつ諸共に拭う涙の露の身に、露の命の危うさをいかにせましと夫婦で額(ひたい)を合わせて談合(だんごう)果てしなき時、唐戸(からと)の方より来る者あり。
 これは虎右衛門の妻のお井戸の只一人の弟で岡田の引蔵(ひきぞう)と呼ばれる極めて馬鹿な悪者で、酒を嗜(たしな)み、賭けを好んで、ややもすれば姉(あね)婿(むこ)に借金の尻を拭(ぬぐ)わせる縁者(えんじゃ)倒しの似非者(えせもの)なれども、さすがに妻の弟なれば虎右衛門も止むを得ず、渋りながらもその折々にちとの金を使わして厳しく意見をしながらも、例えの節の糠(ぬか)に釘(くぎ)、よく利くようには見えざりき。
 さる程に引蔵はまた賭けに負け、好む酒も飲む事できねば、今日は姉御(あねご)をいたぶって、ちとの元手にせばやと、又、懲りずに来た。
その時、お井戸は思う、
「・・・・あの引蔵が用あり気に来るのは損の行く筋で碌(ろく)な事とは思われねども、かかる時には膝(ひざ)とも談合(だんごう/猫の手も借りたい)、さすがに親戚なれば力になる由無からずや」と思案をしつつ出迎えて、いつもと異なり愛想(あいそ)良く、にわかに酒を温めて、在り合わせの肴(さかな)を取り添え、自ら酌(しゃく)に立つまでにもてなせば、引蔵は猪口(ちょこ)を引き受け、まず二三杯とあおりつけ、
「兄貴も酒は好きなのに奥にいるならここへ出て、何故に一杯飲みたまわぬぞ」と問われてお井戸は
「然(さ)ればとよ。虎右衛門殿はひどく気が揉める事あれば、納戸に籠って居たまうかし」と云うと引蔵は眼を見張り、
「兄貴は物に不足無い結構な役柄で銭金(ぜにかね)のつかみ取り、いつも正月なのに気が揉めるとは何事ぞ」と問い返されて小膝を進め、
「そなたは未だ知らん。この前、摩耶山で鎌倉へ下(くだ)し参らせる三世姫と天国の宝剣を奪い取った曲者は七人の女とよ。その有り様は斯様(かよう)斯様」と聞いたままに▼物語り、
「それを詮索のために虎右衛門殿はこの頃は夜の目も合わさず探せども、ちとばかりも手掛かり無し。この故(ゆえ)に殿様が大方(おおかた)ならず苛立(いらだ)って、今日より十日の内にあの曲者を絡め捕らねば、汝(なんじ)の頭を刎(は)ねる事、かくの如くなるべしと髻(もとどり)を切り取らせた。さればとて、今日まで手掛かり絶えて無し。この故(ゆえ)に我が夫が物思いしたまうもいと道理にはべらずや」と云いつつ涙を拭えば、引蔵は聞きつつ、たちまち高やかにからからと笑うのをお井戸は恨(うら)む気色(けしき)で、
「そなたは何が可笑しくて、姉の夫の大役難、命も危うい事を面白そうに笑うぞや」と云うをも聞かず、
「コレ、姉御(あねご)。その七人の曲者女のその時の成り格好、事の様子を今聞いて、思い出した事あれば、兄貴の命を救う手立ても俺様のこの胸にある。その訳を良く聞きたくば、もちっと御馳走をしたまえかし。煮置きの肴(さかな)やひたし物で大事な事を聞こうとは欲深い人逹じゃ」と悪口聞くもお井戸は納戸(なんど)におもむいて、今、引蔵に云われた事をせわしく夫に告げ知らせ、さらに又、肴を整え、いとていねいにもてなす時に虎右衛門も急いで出て来て、
「引蔵よ、そなたはあの七人の曲者の事の様子を知っておるのか。もし手掛かりあれば隠さず告げよ。いかにぞや」と問えば引蔵は微笑んで、
「兄貴、今、目が覚めましたか。日頃は俺を罵(ののし)って、能無し者じゃの親類の面(つら)汚しじゃのと五両の無心(むしん)は三度減らして、二両も切りかね一度にゃ渡さず、云う目を出された事はこれまで無けれど、苦しい時の神頼み、それほど訳が聞きたくば話さぬものでも無けれども、云うにはちっとまだ早い、あの七人の曲者らはこの紙入れに差し込んで、俺のぽっぽへ納めて置いた。こなたの十計(じゅっけい)尽き果てて、首の座へ直る時に云って救って進ぜよう」と落ち着き顔がもどかしく、▼お井戸は泣き声振り立てて、
「たった一人の姉の夫の難儀を知りつつ、気を揉ませて、いつまで物を思わせる。あの曲者を紙入れへ差し込んだとは合点(がてん)が行かぬ。どう云う訳ぞ、聞かせてたも」と尋ねる間に虎右衛門は納戸へ行って小判四五両を携(たずさ)え来て、
「ナウ引蔵、これはいささかの物ながら、まず当分の酒代にせよ。あの曲者らを絡め捕り、殿より褒美(ほうび)をたまわれば、そなたの事も申し上げ、相応の礼せざらんや。まず早やこれを納めよ」と云いつつ近く差し寄せるのを引蔵は手にも取らずに押し戻し、
「否(いな)、置きたまえ、置きたまえ。能無し者の親類倒しと耳にたこの出来るまで、日頃云われて懲(こ)り果てた。かばかりの金を貰(もら)ったら、いつまで恩に掛けるやら。それも知れかねるに、コリや、まず、よしにしましょう」と空嘘(そらうそ)吹くに立つ腹を横に直して虎右衛門は
「ハテさて引蔵、それは悪い了見(りょうけん)。この金は我が身上を減らして、そなたにやるにはあらず。我は多くの役得あり、肴代(さかなだい)と貰った物で余計の金なるに、いかで恩と思うべき。この金をさぁ納めて、あの曲者らを紙入れに差しこんだと云うその訳つぶさに知らせよ」と夫婦右より左より問いかけ果てしなければ、引蔵は不承不承(ふしょうぶしょう)にその金を受け、
「安いものだが、それ程までに口説かれれば仕方ない。さらば語って聞かそうか」と云いつつ、紙入れの間から紙屑一片(ひとひら)を取り出して、
「まずよくこれを見たまえ。我は近頃、仕合せ悪さに兵庫の勝山村におもむいたが、彼処(かしこ)も儲かる口は無し。折から庄屋の物書きが大病を患らって、代わりの人に事を欠き、四五日行って助けずやと或る人が云うに任して、庄屋の雇い物書きを十日ばかり務めた時に、あの村の掟で旅籠屋(はたごや)は云うも更なり町人百姓に到るまで、逗留客の在り無しを夜毎に詮索せられ、もし在る時は旅人の名も国所(くにところ)も聞きただし、帳面へ書き置く事は諸役の仕事。これにより宵々毎にその村中を巡り、水無月の三日四日の頃、勝栗返(かつくりかえ)しの髪八(かみはち)と云う者の自宅に七人の女旅人が逗留した。その国所を尋ねたら、我々は備中(びっちゅう/岡山)者なるが、この度湯治を思い起こして、摂津(せっつ)の有馬へ向かうなり。名はしかじかと云うに任して、帳面には記したがその中に見知った女あり。彼女はまさしく摂津の国の天王寺村の村長(むらおさ)の多力(たじから)の小蝶なり。彼女等は我を見知らねども我等は確かに見覚えあり。しかるに真(まこと)を告げずして備中者と云い、さも無き名さえ名乗る事は心得難く思えども、当分雇いの我に詮索立ては無益にと思い返して詰(なじ)りも問わず、その後途中で髪八の女房の昼鼠(ひるねずみ)の白粉(しろこ)に会った。その装束(いでたち)は常には似ず、甲掛(こうが)け▼脚絆(きゃはん)に旅草鞋(たびわらじ)して担(にな)い桶(おけ)を担(かつ)いでいた。何処(いずこ)へ行くぞと尋ねたが、ちと用ありと答えつつ、行き違う時に桶の中より酒の香(か)ぷんと香り立つ、且つ髪八の自宅の様子はをさをさ女世帯で亭主は尻に敷かれる如く、あの七人の旅女は只白粉とのみ親しい様なり。これかれ思い合わせると白粉も謀反(むほん)の同類で、あの七人の旅女は摩耶山で三世姫と宝剣を騙(だま)し捕った盗人どもに疑い無し。その折、名前を記した帳面を書き損なって、書き直す時にその一枚を引き裂き取って、枕紙(まくらがみ)にせばやと思って、紙入れに差し込み置いたを忘れつつ、今日までそのままある故(ゆえ)にあの七人の曲者(くせもの)を我が紙入れに差し込んで、ぽっぽに納め置いたと云ったのは右の如し。早く白粉を絡め捕り、厳しく拷問すれば、あの七人の同類は定かに知らるべきものを女々しく物を思いたまうは役義に合わず愚かなり。そう思わずや」と誇り顔で顎(あご)押し撫でて説(と)き示せば、お井戸の喜び云えば更なり。虎右衛門は枯れた苗が雨で生きた心地して、天地を拝み小踊りしつつ喜ぶ事は大方(おおかた)ならず、引蔵は留め置き、衣装を改め忙わしく城中へ向かい、申し上げるべき事ありと、主(しゅ)のほとりへ参(まい)れば、重門は近く招(まね)き寄せ、
「いかに摩耶山の曲者らの詮索の手掛かり有りや」と問われて虎右衛門は額(ぬか)を突き、
「さん候。それがしの内縁の岡田の引蔵と申す者が斯様(かよう)斯様に申す事あり。かかれば勝山村の百姓髪八、その妻白粉を絡め捕り、詮索すればあの七人の曲者も定かに知られ候わん」と云うを重門は聞きながら、微笑みつつうなずいて、
「そは最高の手掛かりなり。汝(なんじ)、今より出発し、白粉夫婦を絡め捕れ。逸(はや)って捕り逃がしなそ」と言葉せわしく仰すれば、虎右衛門は承り、自宅へ帰って手下を集め、引蔵に案内させて、その夜の亥(い)中の頃に勝山村へ向かいつつ、庄屋何がしに事の手筈を示し合わせ、さて髪八の門前に集って、「急用あり」と呼ばせた。
 この時、白粉は暑さにあたって、悪寒(おかん)発熱で伏せっていたが、看病していた髪八が何心(なにごころ)無く出て、門の戸を開ければ、「捕った」と込み入る大勢は驚き恐れる髪八を捕って引き据え、ひしひしと縛(いまし)めて動かせず、「女房白粉を逃がすな」と矢庭(やにわ)に奥へ踏み込んで、病み伏した昼鼠(ひるねずみ)の襟髪(えりかみ)つかんで引き起こし、有無を云わせず縄を掛け、髪八共に引き連れ帰って、そのまま牢屋に繋ぎ置き、翌朝、虎右衛門は白粉、髪八を絡め捕った▼事情をしかじかと主君に申し上げれば、重門は喜んで、
「しからば汝はその者共を厳しく責めて白状させよ。大切な罪人なれば、我も隙見(すきみ)をすべけれ」と、その日髪八、白粉らを問注所の坪の内へ引出させて、厳しくこれを責め問えども知らずと陳(ちん)じて、打ち叩かれても云うこと無ければ、虎右衛門は苛立(いらだ)って、
「汝ら、いかに陳(ちん)じても既に訴人の者あって、あの曲者(くせもの)七人の内に天王寺村の村長の小蝶も在りと定かに聞いた。その他の六人は何者ぞ、有るまま申さねば、骨を拉(ひし)いでも云わせんず」と鞭打ちが百に及べば、白粉は苦痛に絶えずして、小蝶殿の事を早や知られたれば、今更隠すも甲斐無き事と思案をしつつ、声を立て申し上げた。
「あの七人の女子(おなご)の内に多力(たぢから)の小蝶あり。私(わらわ)は小蝶に頼まれて、酒売りに出で立って、痺(しび)れ薬を飲ませたなり。その余の六人の女どもは元より知る人ならざれば、いずこの者か名も知らず。元より夫髪八には深く隠していれば、髪八は始めよりこれらの事に関わらず、夢にも知らぬ事なり」と僅(わず)かに白状した。白粉は呵責(かしゃく)に耐えずに、僅(わず)かに「小蝶に頼まれた」と白状に及ぶのみで、「その他の六人の女どもは何処(いずこ)の者か知らず」と陳(ちん)じて、さてその後は責め問えども、又、云うことが無ければ、「さらば小蝶を絡め捕れば、その六人も必ず知れん。その者共はまず置きね」と重門は下知して、髪八と白粉を厳しく牢屋に繋がせて、虎右衛門に下知する、
「聞いた如くに、その小蝶は津の国の天王寺村の者になん。これ隣郡(りんぐん)の民にして、天野の判官(はんがん)遠光(とおみつ)の領分にあり。さすがに他領へ踏み込んで、絡め捕る事はし難し。汝(なんじ)はあの地へおもむいて、密(ひそ)かに天野の判官に事の由を告げよ。あの人は必ず絡め捕り、此方へ渡すべきものなり。しかれども表立って取次ぎ人に云えば、その事が漏れ易く、あの曲者らに知られもせんか。しからば捕り逃がす事もあるべし。よくよくこれらに心を用いて、よしやあの地に到るとも漫(そぞ)ろに城中へ入らずして、便宜(びんぎ)の人を尋ね問い紹介者をこしらえて遠光に見参(けんざん)し、事しかじかと我が意を伝えよ。この余の事は状にあり。よくせよかし」と説き示し、遠光へ送り遣(つか)わす自筆の状を渡せば、虎右衛門は一議に及ばず、主君の状を受け取って、忙わしく自宅に退(しりぞ)いて、にわかに旅の用意をしつつ、供人四五人を従えて難波(なにわ)を指して急いだ。

○かくて屋久手虎右衛門は日ならず津の国の天野家の城下の町に到着し、茶店の長椅子に尻を掛け、紹介人に会いたく思えば、それとは無しに茶屋の主人に余所余所(よそよそ)しく尋ねる、
「天野殿の家臣で城下に町宅(まちたく)される方も一人二人は在るべし。そは何と云うやらん」と問えば主人は小首を傾け、
「然(さ)ればとよ、ここらの町にさる人がありとは聞かず、但し、天王寺の隣村に一人の女右筆(ゆうひつ/文官)あり。それは当館(やかた)の右筆の宋(その)家の役人の娘で、その名を大箱と呼ばれたり。されば父親は先の年に世を去って、家を継ぐべき男子(おのこ)無し。しかれども大箱殿は▼天生(てんせい)物書く技に秀でて、親ありし頃にもその務めを見習って、公様(おおやけざま)の文筆は男にもます事ありと世の噂に聞こえれば、当館(やかた)が聞こし召し、召し出して試みたまうと人の噂に露ばかりも違(たが)わず、これのみにあらずして、その心様は慈悲深く、忠信(ちゅうしん)孝義(こうぎ)の操(みさお)正しく、義の為には銭を惜しまず、人の落ち目を救う事は幾度と云う数を知らず。例えて云えば、春雨(はるさめ)が良く草木を養うに似たり。これにより人あだ名して春雨(はるさめ)の大箱(おおはこ)と云う。又、顔色が浅黒ければ薄墨(うすずみ)の大箱とも呼び、又、男魂(おとこだましい)の大箱などとも呼んだ。かくまで目出度き婦人なれば、当館(やかた)は感心されて、父の俸禄(ほうろく)そのままに下し置かれるのみならず、亡き親の後役(あとやく)に大箱殿を仰せ付られ、右筆に成された。これらの業(わざ)を人もなげに女に仰せ付けられるは馬鹿の計らいに似れども、今の浮世は都にも女武者所を置かれて、国々にもその事あり。されば当館(やかた)の女武者にも直鳶(ひたとび)の稲妻(いなずま)、篠芒(しのすすき)の朱良井(あからい)と云う二人の女武者さえあり。かかれば女右筆を公沙汰(おおやけざた)に使われるも、さのみ怪しむ事には非(あら)ず。元よりその大箱殿の自宅は宋公明(そこめ)村にあり、家には母御(ははご)と園喜代(そのきよ)と云う妹一人がはべるなる。さるにより大箱殿は日毎に通い務めして、別に物書き部屋をたまわり、男を交えず務めたまうが民の訴え何くれとなく私(わたくし)の計らいなく、館(やかた)の為になる事も多ければ、上下の喜び云えば更なり。館(やかた)も二無き者に覚して、出頭(しゅっとう)しつつ務めたまう。重役などにはあらねども、この婦人の他に尋ねるべき筋の人は無し」と事長々しく告げる折から向こうより来る女子(おなご)あり。歳は二十六七で色黒けれど人柄良く、町風(まちふう)でおとなしく、裳裾(もすそ)短かまくり上げ、既に此方(こなた)へ近づくのを茶屋の主人が指差して、「あの方様こそ、今云う大箱殿で候なれ」と告げるとうなずく虎右衛門は忙わしく出て、大箱に向かい、
「失礼ながら、それがしは播磨の郡領重門の家臣で屋久手(やくで)虎右衛門と呼ばれる者なり。主君重門の使いで内密の議をもって天野殿に見参を乞い願うものながら、相知る者が無いにより事速(すみ)やかに進められる取次ぎ人を尋ねるに、あなたの高名はかねて承知せり。案内せられば幸いならん。主人の書状はここにあり、何分(なにぶん)頼み奉(たてまつ)る」と云うと大箱は小腰(こごし)をかがめて、
「御推量に違わずして、私(わらわ)は大箱なり。播磨の殿より仰(おお)せ越された密議とは何事やらん。事によっては御取り次ぎ致すべきに」と尋ねれば、虎右衛門は声を潜(ひそ)めて、
「密事と云うは余の儀に非(あら)ず。予ねて聞し召されけん。水無月の初めに摩耶山で三世姫と天国(あまくに)の宝剣を奪い盗った七人の曲者(くせもの)女は当国の天王寺の村長の小蝶と云う者の訳はその仲間の白粉の白状によって分明(ぶんみょう)なり。その余の六人の曲者らの姓名は未だ定かならねど、あの小蝶さえ絡め捕れば、知れずと云う事あるべからず。かかれば小蝶を絡め捕り、此方(こなた)へ▼渡されたまわん事を頼む為にそれがしが使いにたったなり。あなたは殿の出頭(しゅっとう)で、且つ、性格もまめやかなると予ねて噂に聞くに、かかる密事を知らせるのみ。この儀をもって御取次ぎを頼み奉(たてまつ)る」と囁くと大箱は聞きながら心の中で驚いたが、さらぬ様にてうなずいて、
「そは一大事の密議にこそ。仰せの趣(おもむき)は心得はべり。私(わらわ)が城に赴(おもむ)いて、事よく計うが、判官の対面までにはしばらく時があるべきなり。私(わらわ)が再びここへ来てから案内するに、ここにて待ちたまえかし」と云うと虎右衛門は喜んで、
「しからばここにて待ち候(そうら)わん。何分(なにぶん)宜しく、宜しく」と云うを大箱聞き捨てて、忙しげに城の方に行く様にして、道違(たが)え、腹の内に思う、
「・・・・多力の小蝶とは姉妹の義を結び、誓った事もあるに。いかなれば、あの人は大事を思い立ちながら、私(わらわ)に告げざりけん。何はともあれ我が姉を救わずばあるべからず」と思案をしつつ彼方(かなた)を指して、しきりに足を早めると、日頃相知る借馬引きが此方を指して来るのに会った。これ幸いと呼び止めて、
「私(わらわ)は火急(かきゅう)の用あれば、その馬をしばし借りん。程無く帰り来るべきに、六辻(むつじ)のほとりで待ちねかし」と云うより早くうち乗って、馬の掻(あが)きを早めつつ、天王寺村を指して走らせた。この時の世の習いで、女もをさをさ武芸を嗜(たし)なみ、馬にも乗り、弓をも引かぬ者とて稀(まれ)なるに、大箱はこと更に馬上の駆け引き達者で、またたく間に乗り付けた。
小蝶の門の柱に馬を繋いで、案内知った事なれば、挨拶もせず忙わしく奥の間指して赴(おもむ)いた。この時、小蝶の自宅では二網(ふたあみ)、五井(いつつい)、七曲(ななわた)らの姉妹は近江の唐崎へ帰り、只、呉竹(くれたけ)、蓍(めどぎ)、味鴨(あじかも)らのみが奥の座敷に集い、三世姫の御為(おんため)に義兵を挙げる密議の他に、他事も無く日を送る時に、思い掛け無く大箱が慌(あわただ)しく奥まで来て、しきりに小蝶を呼べば、小蝶は驚き怪しんで、そのまま一人で出迎えて、
「これは春雨殿が来られたか。常にはあらず慌(あわただ)しいのは何事か」と問わせもあえず大箱は声を潜(ひそ)ませ、
「事急なれば口義(こうぎ)は置かぬ。いかなればあなたたちは由無き謀反(むほん)を企(くわだ)てて、罪を天下に得られるか。既にあの白粉とやらは絡め捕られて、白状により播磨よりあなたを捕らえる討っ手が今宵(こよい)ここに向かうべし。三十六の謀り事も逃げるに増す事無しと云えば、姫上の御供(おとも)して、さぁさぁ影を隠したまえ。これらの由を知らせる為に辛(から)くして走り来た。さぁ落ち仕度(したく)をしたまえ」と云うと小蝶は驚いて、
「今に始めぬ御志。いつの世にかは忘れるべき。教えに任して程も無く、当所を立ち退き候わん」と云う声聞いて、次の間より呉竹、蓍(めどぎ)、味鴨(あじかも)らが襖(ふすま)を開いて立ち入れば、小蝶はこれを見返って、
「大箱殿、この人々は私(わらわ)と一味の婦人で、彼女は智慧海(ちえのうみ)の呉竹、指神子(さすのみこ)の蓍(めどぎ)なり。これは赤頭(あかがしら)の味鴨(あじかも)なり」と、一人一人に引き会わせれば大箱はうなずいて、
「予ねてその名は伝え聞いた姉御(あねご)たちにて御座(おわ)するが、事急なれば名、対面の口上を述べる暇(いとま)無し。ともかくもよく談合して命を全うしたまえ。早まからん」と云いながら外(と)の方指して立ちいでて、馬に打ち乗り、鞭(むち)上げて馳せ去った。
 小蝶はしばし見送って、再び奥の一間に集い、いかにすべきと語らうと呉竹は騒ぐ気色無く、
「三十六計逃げるを良しとす。姫上の御供をしつつ、早く近江へ逃げるべし。彼処(かしこ)には二網姉妹あり、彼女の自宅へ落ち着いて、又、談合をすべき」と云うと小蝶はうなずいて、
「今、大箱殿も三十六計逃げるを良しと云われた。さらば急げ」と云うとにわかに家材を取り出し、
「これを幾荷にか荷作らせ、召使う▼男女にも事情を告げて、従い行くと云う者はこれを留め、又、身の暇(いとま)をこう者は全てその意に任せ、呉竹、蓍(めどぎ)の両人は軍用金を腰に付け、姫上の御供して、まず伏見までおもむくべき船出の用意をしたまえ。私(わらわ)は味鴨と共に物をよくよく整えて、後より追い付きはべらん」と云うと従う呉竹、蓍(めどぎ)は三世姫を守護しつつ、船場を指して急いだ。

○さる程に大箱は六辻(むつじ)のほとりへ馬乗り戻し、借馬を返して値を取らせ、元の茶店におもむいて、虎右衛門を案内しつつ、城中へ伴って、かくと君(きみ)に申し上げれば、判官遠光は事情を聞いて、問注所で虎右衛門に対面し、播磨の重門の書状を見て、驚き、
「かかれば小蝶は謀反(むほん)の張本人。同類も多くあるべきか、その儀も計り難ければ我が自ら向わん。用意をせよ」と急がして軍兵を集める時に、遠光は思案を巡らして、小蝶は謀反の本人なれども云えば女の事なるに、こう物々しくすれば後の批判も後ろめたし。されば先手(さきて)の大将には我が家の女武者の稲妻、朱良井(あからい)の両人こそ相応(ふさわ)しき者なれと、その両人を先に進ませ、自分は二三百人の勢を従え、屋久手虎右衛門をも見届けの為に引き連れて、その夜初更(しょこう)の頃に天王寺村へ押し寄せて、小蝶の自宅へ近付いた。
その時稲妻は思う、
「・・・・我は小蝶と親しくて、この頃は親類に異ならずとも思いしに、今この討っ手に向かうとて、絡め捕って何(いか)にせん。さぁ逃がさねば」と思案しつつ立ち留まり、判官に申す、
「そもそも小蝶の自宅の出口は三方へ逃げ道あり。殿は表門に向いたまえ。朱良井は東の出口を守って、留めたまえ。私(わらわ)は背門(せど)より込み入って、一人も漏らさず生け捕るべし」と真(まこと)しやかに申すと、朱良井もまた予てより小蝶を逃がそうと思う心あれば進んで申す、
「稲妻が申す趣(おもむき)は私(わらわ)もしかと思えども、東の方は足場が悪し。彼処(かしこ)よりは出るべからず。私(わらわ)が背戸(せど)より向かわん。この儀を許させたまえかし」と云うのを▼稲妻が押し止め、
「その儀はともあれかくもあれ、私(わらわ)は折々彼処(かしこ)に至り、案内をよく知ったり。かかれば背戸より向う者は私(わらわ)の他に誰がある」と云うと遠光はうなずいて、
「稲妻、よくも申したり。汝(なんじ)は背戸より向かうべし。朱良井は東の方、我は表の方より向わん。さぁさぁ急げ」と苛立(いらだ)った主命(しゅめい)なれば朱良井は争いかねて、渋々ながらその手分けに従った。
この時、小蝶は味鴨(あじかも)諸共になおも自宅にいたが、たちまち家の四方から鬨(とき)の声が聞こえて、討っ手が来たと思えば、予(かね)てより積み置いた焼き草に火を掛けて、煙りの中より只二人で手に手に刃を打ち振り、打ち振り、込み入る敵を斬りなびき、背戸の方より走り出るのを待ち受けた稲妻が「ソレ逃がすな」と口では云えど、捕まえる擬勢も無く、道を開いて通すと、小蝶は「得たり」と味鴨諸共、近付く敵を切り倒し、又かい掴(つか)んで礫(つぶて)に取り、人無き境に入る如く、船場の方へ逃げて行く。稲妻早くもこれを見て、「多力殿、気遣いすな。私(わらわ)がここに在るぞかし」とひそめき告げるを聞き捨てて、二人は早くも逃げて行く。かかる所に朱良井の一味の雑兵(ざつぴょう)が道を横切り、絡め捕らんとひしめくを朱良井「ヤヤ」と呼び止めて、「小蝶は確かに西へ逃げた。名も無き女子(おなご)を討ちとめて、何にすべき」と止める間に、早く小蝶も味鴨も再度の虎口(ここう/ピンチ)を免(まぬが)れて、行方(ゆくえ)も知らずになりにけり。

○さる程に呉竹、蓍(めどぎ)らは先に船場へおもむいて、▼早船の用意をしつつ、三世姫を船の中に深く忍ばせ奉(たてまつ)り、小蝶を待つがまだ来ねば。二人は心安からねど、彼女を迎えの為にと天王寺の方に戻ると、程良く小蝶に会えば、味鴨諸共連れて、行く左右より捕り手の雑兵、「捕った」とかかるを呉竹、蓍(めどぎ)が心得たりと抜き打ちに、等しくだうと斬り伏せて、とどめ刺す間も難波潟(なにわがた)、闇に紛(まぎ)れて四人連れ、出船の方へと急ぎけり。

<翻刻、校訂、現代訳中:滝本慶三 底本/早稲田大学図書館所蔵資料>

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