歴史は今のために読まれる。リベラルで革新的な思想の持ち主であったJ.K.ガルブレイスを回顧するとは、現在の日本において、どのような意味づけとなるのか。伊東光晴先生の新著『ガルブレイス』を読んで、やはり、そういう思いは禁じ得ない。極端な金融緩和と緊縮財政の組み合わせは、アベノミクスの特徴だが、政権への立場を超え、エリート層には幅広く受け入れられている。それは1997年以降の意外に新しい思想だ。
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1997年の消費増税は、成長に彩られていた日本の一時代を隔するものとなった。ここで「戦後」は終わりを告げる。むろん、同時代を生きて、転換点に立ち会っていたとは、まったく実感できなかった。激しい景気後退とは言え、また回復できると思っていた。これを境に、成長を失い、企業も社会も、かつてとは別のものになったのだが、未だに、それを分かっていない人も多い。
高度成長期の経済政策への一般的評価は、潜在力を活かしただけであって、特別のものはないというものだ。しかし、1997年以降は、景気が回復しだすと、すかさず緊縮財政で芽を摘むことを繰り返すようになり、成長を阻害する愚行を避けるだけのことが、どれほど非凡なのか、身にしみて分かるようになった。時代を認識できるのは、伊東先生が記すように、極北の時代を迎えてからなのである。
成長の原動力である設備投資は、需要リスクに強く影響される。高度成長期においては、金融緩和は、必ず輸出増につながったから、金融政策が効くように見えた。意外にも、この構図は、小泉政権期まで有効だった。ただし、1997年以降は、緊縮財政を伴わせ、内需への波及を断ち切るようになったため、長期にわたる金融緩和の歪みが円高への揺り戻しで顕在化すると、直ちに成長が挫折するようになる。
金融緩和と緊縮財政の組み合わせは、一時的には有効であるため、結局は失敗するにもかかわらず、極端さを増して、繰り返し試みられてきた。異次元緩和と消費増税のアベノミクスは、そうしたイデオロギーの頂点であり、円安株高の黒田バブルが弾け、慌てふためいて四月から補正予算というのは、毎度おなじみの挫折局面入りである。おそらく、このバカバカしさは、次の時代にならないと、社会的に認知されないものなのだろう。
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ガルブレイスは、「新しい経済用語を用いて、今までにない分析視野で現実をとらえ、既存の経済学の通念に挑戦」してきたが、大企業の製造業が中心となって経済を成長させていた時代の申し子と言えるだろう。伊東先生が終章で記すように、時代は「新しい産業国家」から「新しい金融国家」に移った。「ゆたかな社会」は「ワーキングプアの社会」となり、広告で刺激される「衒示的消費」と言われても、コンビニ弁当では実感が伴うまい。
しかし、ガルブレイスが時代を切り取っていたがゆえに、金融緩和と緊縮財政が作り出すバブルと格差の今の経済のおかしさを認識できるし、貧困移民か人口崩壊かの選択を迫る今の社会の異様さが分かる。時代は、ガルブレイスがケネディ民主党の政治に希望を託したような公共政策の拡充を必要としている。むろん、それは、かつてとは違った形をとる。すなわち、財政赤字とは切り離された社会保険の拡充により、公共の「サービス」が支える安定した内需でもって「不確実性」が除かれ、実物投資と成長が引き出される新たな事態である。こうして先に現実が変わり、ファクト・ファインディングがなされ、時代の思想は改められてゆこう。
(今日の日経)
サミット前に経済対策、財政出動で国際協調、消費増税先送り視野。
※衆院は解散せず、消費増税先送りを公約にして、参院選に負けたら、予定どおり引き上げるとすれば、選挙戦略としては完璧だ。国民に「選択の自由」はないけどね。
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1997年の消費増税は、成長に彩られていた日本の一時代を隔するものとなった。ここで「戦後」は終わりを告げる。むろん、同時代を生きて、転換点に立ち会っていたとは、まったく実感できなかった。激しい景気後退とは言え、また回復できると思っていた。これを境に、成長を失い、企業も社会も、かつてとは別のものになったのだが、未だに、それを分かっていない人も多い。
高度成長期の経済政策への一般的評価は、潜在力を活かしただけであって、特別のものはないというものだ。しかし、1997年以降は、景気が回復しだすと、すかさず緊縮財政で芽を摘むことを繰り返すようになり、成長を阻害する愚行を避けるだけのことが、どれほど非凡なのか、身にしみて分かるようになった。時代を認識できるのは、伊東先生が記すように、極北の時代を迎えてからなのである。
成長の原動力である設備投資は、需要リスクに強く影響される。高度成長期においては、金融緩和は、必ず輸出増につながったから、金融政策が効くように見えた。意外にも、この構図は、小泉政権期まで有効だった。ただし、1997年以降は、緊縮財政を伴わせ、内需への波及を断ち切るようになったため、長期にわたる金融緩和の歪みが円高への揺り戻しで顕在化すると、直ちに成長が挫折するようになる。
金融緩和と緊縮財政の組み合わせは、一時的には有効であるため、結局は失敗するにもかかわらず、極端さを増して、繰り返し試みられてきた。異次元緩和と消費増税のアベノミクスは、そうしたイデオロギーの頂点であり、円安株高の黒田バブルが弾け、慌てふためいて四月から補正予算というのは、毎度おなじみの挫折局面入りである。おそらく、このバカバカしさは、次の時代にならないと、社会的に認知されないものなのだろう。
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ガルブレイスは、「新しい経済用語を用いて、今までにない分析視野で現実をとらえ、既存の経済学の通念に挑戦」してきたが、大企業の製造業が中心となって経済を成長させていた時代の申し子と言えるだろう。伊東先生が終章で記すように、時代は「新しい産業国家」から「新しい金融国家」に移った。「ゆたかな社会」は「ワーキングプアの社会」となり、広告で刺激される「衒示的消費」と言われても、コンビニ弁当では実感が伴うまい。
しかし、ガルブレイスが時代を切り取っていたがゆえに、金融緩和と緊縮財政が作り出すバブルと格差の今の経済のおかしさを認識できるし、貧困移民か人口崩壊かの選択を迫る今の社会の異様さが分かる。時代は、ガルブレイスがケネディ民主党の政治に希望を託したような公共政策の拡充を必要としている。むろん、それは、かつてとは違った形をとる。すなわち、財政赤字とは切り離された社会保険の拡充により、公共の「サービス」が支える安定した内需でもって「不確実性」が除かれ、実物投資と成長が引き出される新たな事態である。こうして先に現実が変わり、ファクト・ファインディングがなされ、時代の思想は改められてゆこう。
(今日の日経)
サミット前に経済対策、財政出動で国際協調、消費増税先送り視野。
※衆院は解散せず、消費増税先送りを公約にして、参院選に負けたら、予定どおり引き上げるとすれば、選挙戦略としては完璧だ。国民に「選択の自由」はないけどね。
企業にしろ、国家にしろ、運命共同体としての前提が問われている気がしますけどね…。
経済学でも、パレート効率や社会厚生関数とか、消費性向の大きさを利用した低所得層救済とかあります。
しかし何れも実は人間死ぬものだとか、其の増加に寄る共同体の崩壊迄は理論の射程にいれていない気がします。パレートなんて初期値の概念が抜けていて、レベル1とレベル99を考慮出来ない。其を考慮して最低ラインの枠をエッジワースボックスにつけたのが、辻村こう太郎こと権丈氏に通ずる慶應義塾の伝統かと思いますが。
共同体としても、ルールを施行する為の共同体は変動したほうが良いときもあるでしょうが…生命維持や社会性維持の為の共同体にどう帰着するか、理論を突き詰めるとどう共同体に帰着するか、考えを整理するのはテーマとしては面白いかと。市場システムとは別に人的資本は社会システムが作っているのではというテーマとして考えるのも一興♪社会にfreeride~♪
戻りまして…これ実は、前に書いた議論のルールの前提のそのまた前提の話でして。議論する主体同士が実は同じ共同体意識を持ってないといけないのではないかと言う前提で、此がないときは第三者、例えば裁判官に委ねなければ権力財力暴力装置を備えた主体が勝つことになるわけです。
と偉そうに書いてますが、理論の帰着の話はケインズ氏の文献から失敬したものです♪失敬しました♪
『消費税増税で経済成長が頓挫し,消費や所得が落ち込んだのであろうか』
http://www.econ.hit-u.ac.jp/~makoto/essays/consumption_tax_and_business_cycles.pdf
個人的には納得する内容だったのですが、ブログ主さんにはいかがでしょう?ご感想、ご評論頂ければ幸甚です。
齊藤先生のこのタイミングでの小論文の発表に敬意を表します。
しかし、もしこの小論文が此だけで終わっていたら、突っ込みいれなければならないでしょう…。一橋の学徒たちよ、何処にヒットを打てばいいかわかるだろうか、、、、ひっとつばしだけに…
ヒント…定義、計算方法、集計値の意味、メカニズムとの関連
隠れた二つの前提条件があります、最初わざとかなと思って読み進めてましたが、それに関して説明が無い。したがって、わざとではなく暗黙の前提条件だと判断しました。
さぁみんなでかんがえよう♪
それじゃ何も語ってないも同然でしょ・・・思わせぶりはいいから、齊藤先生の小論のどこが間違えててどうすればいいのか応えなよ。だから土建屋経済学徒は打たれ弱いと言われるんだよ。