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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

罪が多いと恵みは多いのか?

2014-03-30 21:14:56 | 礼拝説教

  2014/3/30礼拝説教
【テーマ】  キリストに留まる
【説教題】 「罪が多いと恵みは多いのか?」
【聖書箇所】 ローマ6:1-5
6:1 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。
6:2 絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。
6:3 それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

○ 「イエス様を信じればどんな罪人でも赦されるのだから、それまでは好き放題にして、死ぬ直前にイエス様を信じればいい」と言う人がいますが、死ぬ時がわかっているのでしょうか? それと信仰生活ってそんなに魅力が無いと思っているのでしょうか?

Ⅰ.屁理屈に聞こえる話
  A.意図的に罪を犯してはならない
    1.恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。 というこの言葉は、中学生あたりが言いそうな屁理屈です。「罪が多くなれば恵みも多くなるというなら、たくさん罪を犯したほうが恵みも多くなるはず」、「神様が赦したいなら、神様にもっと赦させてやればいい。私たちは好きなだけ罪を犯せばいい。神様は赦したいのだから」という、まさに屁理屈です。
    2.聖書は、律法ができたことで罪が明確になり、罪も現実に増えたと言っています。ただ、そうした罪をイエス様によって赦された人は感謝が湧いてくるものです。決して意図的に罪を犯すことを教えてはいません。
   
  B.理屈を超える世界がある
    1.中学生あたりはよく屁理屈をこね、大人に反抗的な態度を取ります。そこで、大人の方も「そんな屁理屈を言うな!」と頭ごなしに叱ると反抗期の子どもというのは離れていくものです。
    2.そういう思春期の子どもの屁理屈にまともに付き合えとはいいませんが、パウロは自分で言い出した屁理屈とも思える話に真摯に向き合っているのです。信仰、神様という世界は理屈でよくわからないことが多いものです。かと言ってなんでも理屈無しで話をしますと理屈っぽい男は「だから宗教は嫌なんだ」と言うでしょう。
    3.パウロは確かに屁理屈なんだけれども、そこに何かしら真実があることを教え、さらにもっと大事な事を教えようとしています。つまり、罪を犯さない方が良いのですが、確かに罪が多い方が恵みもよくわかるものなのです。

Ⅱ.罪の中を生きるのは楽じゃない
  A.早くクリスチャンになった方が良い
    1.神学校に入った時、救いの証をみんながしました。クリスチャンホームでほとんど順調に育った人は、クリスチャンホームで無かった人の証を聞いて「劇的な回心があって羨ましい」と言うのです。「自分は赤ちゃんの時から神様を信じていて、いつの間にかクリスチャンになって、洗礼も受けるのが当たり前だった」と真面目な学生が言うのです。そういう学生に対して、私は「オレはきみの方が羨ましい」と言ったのです。「もっと早くにイエス様を信じていればどんなに良かったかと思うよ」と。
    2.罪深く生きてきた方が恵みが多いわけではないのですが、劇的回心とかの話を聞くと、その方が恵みが多いと感じるのでしょう。やくざから牧師になった方の話を聞くと、多くの方が当然「すごい」と思うのです。だからと言って「みんな、神様の恵みが多くわかるように、やくざになりましょう」と言っているのではありません。ミッションバラバの先生方も、本当はそういう生活よりも、「もっと早くにイエス様を知っていれば良かった」と思われているのです。
   
  B.罪人だが罪には留まらない
    1.罪の中に留まれば、罪が増せば、恵みがどんどん増してくるという考えは屁理屈ではありますが、自分が罪人であるという認識が強くなれば、つまり「私はとんでもない罪人です」と感じる人は自ずと深い神様の恵みを感じるものなのです。
    2.最近、「発達障害」のことがよく話に出ます。大人の発達障害といいますか、大人になって自分が発達障害を持っていたと初めて知る人がいます。そう診断してもらうまで、生き辛さ、コミュニケーションの取り方がわからない苦しさがあるそうです。ところが自分が発達障害を持っていることがわかるとホッとする人が多いのです。自分の辛さが、障害のためだとわかって過剰に自分を責めずに済むからです。
    3.自分が罪人であるということを認めたくない人が多いでしょうが、認めた方が楽なのかも知れません。罪人だと認めた上で、罪に留まらない生き方を学ぶのです。
   
  C.罪から解放されたいはず
    1.皆さんは罪に留まる方が恵みが多いと思いますか? 罪に留まることの、一番簡単な方法は、神様を礼拝しないことです。それから、人を愛さないことです。さらに、人の悪口を言ったり、約束を守らなかったり、盗んだり、憎んだり、見下げたり、いじめたり、言い出したらキリが無いです。
    2.敢えて罪の中に留まらなくても、こういう嫌な多くの事をしてきたのではないですか。正しく生きようとしても悪いことをしているのでは無いでしょうか。私たちはそこから救われたのです。
    3.イエス様を信じると、恵みが欲しくて罪の中に留まろうとするのではなく、むしろ正しく生きたいという気持ちが起こってくるのです。

Ⅲ.キリストと共に生きることが恵み
  A.イエス様と共に死ぬ
    1.3節からバプテスマという言葉が何度も出てきます。バプテスマ(洗礼)は、私たちが儀式として行うものです。儀式は本来目に見えない霊的な出来事を見える形にして、確信を深める大事なものです。
    2.水の中に浸りきるのがバプテスマです。何を象徴しているのでしょうか? 私たちはイエス様の中に入りきるわけです。つまり、イエス様と一体となるのです。
    3.ですから、イエス様が十字架で死なれたということは、同時にイエス様と一体となっている私たちも一緒に死ぬということなのです。イエス様の死を自分の死として受け止めることができるのです。
   
  B.イエス様と共に復活する
    1.単に自分だけが死んだのなら、自分の罪のために一人で死ぬのですから神様の裁きの約束通り永遠の死(地獄)です。が、イエス様の死は、罪を解決するための死であり、さらにその死にさえも打ち勝つためのものでした。
    2.イエス様は復活されて死に打ち勝たれた時も、私たちはしっかり一体となっていますので、私たちもよみがえったわけです。つまり罪にも死にも勝利してくださったイエス様と共に復活するのです。
    3.こんなにも恵みをくださったのがイエス様です。そういう中で私たちはこのイエス様が悲しまれる「罪を犯し続けよう」と言うことができるでしょうか?


   
● 何という映画だったかもう覚えていませんが、ひっくり返った船の中を助けを求めてさ迷う中、どうしても水の中をしばらく潜って行かねばならない場面がありました。子どもには行けそうにありません。ところが、泳ぎの達者な男性がその子を抱えるようにして水の中を抜けていくのです。子どもも泳ぎましたが、その男性のお陰で無事向こう側に行けたのです。その子一人なら死でした。しかし、その子を抱えてくれる人がいたので助かったのです。

★ 私たちは一人ではありません。イエス様が共にいてくださるのです。罪を解決するために私たちの身代わりに死んでくださったのがイエス様です。このイエス様の恵みを思う時、罪を犯し続けたいと思うでしょうか。