とりあえず80歳へ  『古希からの田舎暮らし』も10年目になろうとし、喜寿も過ぎてゆき、さて……。

定年後は田舎志向。69歳のとき三木市で「田舎暮らし」をはじめました。田舎にとけ込もうと心掛け、菜園をたのしむ日記です。

『古希からの田舎暮らし』は書きつづけています。

2017-11-04 03:19:04 | 日記
 ブログ『とりあえず80歳へ』は80歳になった誕生日で閉じることにしました。『とりあえず …… 』を書きはじめたときは78歳になった2年前でした。あのときは〈80歳〉とか〈2年間〉というのがずいぶん遠くに見えました。でもアッという間に2年が過ぎてしまったような気がします。そして80歳になっても、別に何にもない。どうっていうことない。
 だもんですから、80歳からは前のブログ『古希からの田舎暮らし』に戻ることにしました。さいわい、前のブログの続きに書けば、そのままアップできるものですから。
 ぼくのブログはそこから進化させようという気は全然ありません。フェイスブックとかツイッターとかいうのはわからないし、「わかりたくない」という気がするのです。これで自分の思うことをいくらかの人に読んでいただけるし、それで十分という気がするのです。
 このブログ『とりあえず80歳へ』を書いていた8月くらいから「一日も欠かさず書きつづけてみよう」という気になって、8月9月10月と毎日書いてきました。父の『引き上げ記』毎日アップしたこともあって、書くことに困りませんでした。
 でも11月3日になって、ふと「ここで連続して毎日書く」という思いを「一度切ってみよう」という気になったのです。そんな気になるときがあるものです。ぼくはそんなとき、「なにくそ! ここは頑張って毎日書くぞ!」という〈頑張り〉にあまり価値を感じない。
 生きていると魔が差すときがあるものですが、その「魔」の誘惑にのる。おもしろい! のってみようではないか。というほうです。でも一日だけ魔が差して、またふだんのペースに戻る。またブログを書く。それもよし。辞めてしまう気になる。それもよし。
 というわけで、『古希からの田舎暮らし』のほうはそのまま書きつづけるつもりです。 

80歳になったので『古希からの田舎暮らし』にもどりました。

2017-10-21 12:19:27 | 日記
 ブログ『とりあえず80歳へ』は、80歳になってしまったので閉じました。寿命はまだ尽きず、ブログを書く元気がまだ残っているようなので、2009年から続いている『古希からの田舎暮らし』ブログにもどります。
 ひたすら老いてゆく日々の暮らしをブログ発信するつもりです。そちらのほうでよろしくお願いします。
 父の『引揚げ記』も「古希からの田舎暮らし」ブログで続いてアップしております。
 平凡な引揚げ記録ですが、ぼくには「思い入れ」があります。母が病気になったために、昭和18年 ぼくが5歳、妹が3歳、弟が2歳のときに、内地(日本)に療養のために一時帰国しました。もし母が病気にならなかったら、あのまま母も3人の子どもも朝鮮で暮らしていたでしょう。敗戦とともに父と一緒に日本に引揚げようとしたでしょう。
 この手記を読むと、「ぼくらが一緒だったら途中で落伍していただろう」と思います。いまの人生はなかったでしょう。104歳で存命の母の、敗戦後の人生もなかったかもしれない。
 あれこれ思いめぐらすと、「母の病気による一時帰国」も単なる偶然でないような気がしてきます。

秋の「野草酵素飲料」を仕込みました。 引揚げ記はもう一つのブログで。

2017-10-11 02:45:45 | 日記
 春に仕込んだ「手づくり野草酵素飲料」は夏の飲み物として飲んでしまいました。これから春にかけての野草酵素飲料を仕込みます。まず福地池のまわりに行き、ギシギシやヨモギ、アザミ、などの雑草を採集し、畑で葉物野菜やサツマイモなどをゲットして、ウッドデッキで仕込みにかかりました。

 砂糖1キログラム穀類・果物・野草・葉物野菜などを1キログラム、交互に10回重ねて仕込み完了。毎朝夕かき混ぜて1週間でできあがります。10リットル以上とれ、それを薄めて飲みます。簡単にできますから作られてはいかがですか。くわしくはネットで「手づくり野草酵素」を検索してください。
 さて、ブログに載せてる父の『引揚げ記』は『古希からの田舎暮らし』に載せています。これからはあちらのブログで日々の出来事を書きますのでよろしくお願いします。

ブログは『古希からの田舎暮らし』にもどりました。

2017-10-10 00:08:22 | 日記
 このブログ『とりあえず80歳へ』は、ぼくが80歳になったので終わりにします。「田舎暮らし」レポート中心の『古希からの田舎暮らし』にもどります。中身は同じようなものですが、よろしくお願いします。
 先日から連載のかたちで載せている、父の『引揚げ記』は、あちらのブログに引き続き載せます。
 少々長い手記ですが、父にとっては、生涯忘れ得ぬ思いで書いたものです。
 20年ぶりに読み返して、「あの戦争をくぐり抜けた人たちは、どうしても伝えたい、いくら語っても語り続けたい、あふれる思いをかかえて生きたんだ」とあらためて思いました。
 日本の敗戦当時7歳だったぼくが80歳になったのですから、10年上の17歳だった人は90歳。戦争を語る「生身の人生」はほとんど歴史に埋もれてしまいました。 

ブログは『古希からの田舎暮らし』に戻ります。

2017-10-08 20:19:38 | 日記
 ブログ『とりあえず80歳へ』は10月7日から元のブログ『古希からの田舎暮らし』に戻っています。ちょうど父の『引揚げ記』をアップしかけているときですが、つづきは元のブログに載せています。よろしくお願いします。
 
 三木のブドウをゲットしようと萌ちゃん一家が訪ねてくれました。いい機会なので、みんなで妙子さんを訪問しました。その写真は『古希からの田舎暮らし』のほうに載せています。お昼は青山台の旧サティー=イーオン前のうどん屋さん・淡家で食べました。ここは我が家のお気に入りで、出汁がおいしいです。メニューはいろいろあって迷いますが、きのうは「ぶっかけ」の「冷や」にしました。
 父の『引揚げ記』は、いま読み返してみると「生涯忘れ得ぬ人生の大きな出来事だったんだなあ。そんな波をくぐり抜けて生きてきたんだなあ」となんとも言えない気持ちになります。

   

父の『引揚げ記』 (2)

2017-10-08 03:49:48 | 日記
 父の『引揚げ記』をきのうから載せています。
 日本があの戦争に負けたとき「ものごころついていた」多くの日本人は「生涯忘れられない自分の物語」を体験したでしょう。「生涯忘れられない凄惨な場面」を目撃したでしょう。そしてだれにも語ることなく亡くなった人も多いでしょう。
 父は小学校の教員として平凡な一生を送りましたが、あの敗戦後一カ月間に遭遇した出来事だけは、伝えたかったようです。ぼくは高校生の頃に父の本棚にあった彼の手記を一度読みました。わら半紙(敗戦後あった粗末な紙)数十枚に書いてある手記でした。
 その後その手記は引っ越しにまぎれて紛失したようですが、68歳のとき神戸に移り住んでから再び書いた手記を載せています。


    昭和20年8月15日 朝鮮の山奥で  (2) ※ 漢字/用字/仮名遣い/は原文のまま載せています。


 ほとほともてあました面長は、泣いたり反抗したりする男達を残して家路につく。
「アイゴー、アイゴー」
 彼等は面長の机の上で大声で泣き伏す。全く面に住んでいる百姓達は、戦がはげしくなるにつれ、食料は不足し、米はいくら作っても殆ど供出させられ、その日の食べ物にも困る程にせっぱつまっていた。
 百姓達は食料がなくなると、山や野原に出て、食べられそうな草や木の実をとってきてはそれで飢えをしのいだ。また川に入っては魚をとり、それを汁と一緒に煮てその日の空腹をしのいでいたのであった。そんな物を食べているので栄養不足でだんだん衰えて、自由に体を動かして働く事ができない程弱り果てていた。
 そんな暮しの百姓達を尻目に、軍の上の方からは司令が次々と下ろされてきた。松根油をとる松を切って来いとか、山の木の実を集めて油を絞れといか、馬の飼料になる葛葉を採集してそれを乾燥させろとか、次々に仕事がふりかかって来た。
 若しこれ等の仕事の割当を果たさない者があると、「日本が戦争に負けてもいいのか」と警察官に怒鳴られ、その上棒でこっぴどく叩かれるのである。このように一般の面の人々の生活は、もうこれ以上下がれないというぎりぎりの生活に迫られていた。
 それでも日本人である駐在所の主任と小学校長の私だけは、三日遅れで郵送される新聞のニュースを信じ切っているので、日本は勝つのだ、勝たねばならぬのだ、と張り切って朝鮮人を説き伏せ、叩きつけて、朝鮮人の尻をひっぱいたていた。
 ソ聯兵(ソ連兵)が満州から朝鮮に攻め入ってきたという噂が広まると、私は声高らかに朝会で全生徒に叫び続けた。
「いよいよ私達もお国の為に尽くす事ができる。ソ聯兵が北からだんだんこちらに攻めて来るようだ。若し私達の面(村のこと)まで入ってきた時は、竹槍で一人でも二人でも敵兵を倒して、いさぎよく我等も果ててしまおうではないか」
 子供達がどんな心で聞いていたか知らなかった。唯私は自分の持つ大和魂を子供達の心の中にたたき込んでやりたい一念であった。
 終戦の日8月15日も学校は休業して、学校に割り当てられた松根油を確保する為に、朝から全職員が各に出向いて、子供達をはげまして廻った。    
(以下は『古希からの田舎暮らし』の今日の日付のブログで読んでください) …… (つづく)
 

『とりあえず80歳へ』から『古希からの田舎暮らし』に戻ります。

2017-10-07 05:34:47 | 日記
 いつまでも「古希からの田舎暮らし」では「陳腐だ!」と思い、田舎暮らし9年目になる78歳のときにブログの名前を変えました。とりあえず80歳までは生きるつもりで。ところが、いざ80歳になってみると「昨日のつづきで今日がある」ように、なんということはありません。そこでやっぱり「古希からの田舎暮らし」に戻ることにしました。『とりあえず80歳へ』は78歳と79歳の2年間だけにします。
 神戸から三木に引っ越したときは、「いままでの人生を『ご破算で願いましては』にして、新天地の土地で、田舎暮らしで余生をおくるつもりでした」。自分の学生時代のアルバムとか中学の先生をしていた時代の文集やアルバムとか自作の教材を全部処分して、家族の記録だけ残し、隠遁生活をする気分でした。
 しかし10年たってみると ドッコイ! ぼくも長寿時代の人の子。結構余生が長くなりそうです。それに人との〈つながり〉や〈思い〉は、そう簡単に切ったり貼ったりできるものではありません。年賀状は数十枚やりとりしますし、訪ねてくる知人友人もあり、菜園でとれたものを送る人もあります。音楽会などで街にも出ます。
 ブログを読んでくださる/未知の方/知人/友人/身内/もあり、「なにかでつながっていたい」自分の気持ちが結構つよいのにもおどろきます。いまでは〈ブログ書き〉が大事な日課になっています。
 ブログ書きがどこまでつづくかわかりません。
 これから何年つづいてもいいように、「古希からの田舎暮らし」に戻ります。これからもよろしくお願いします。

 父は小学校の教員でした。戦時中は朝鮮(外地)に渡って小学校に勤めました。家族も朝鮮で暮らしていました。昭和18年に母が病気になり、治療のため3人の子どもを連れて日本(内地)の実家に帰りました。病気は治っても、戦況がわるく、民間人を朝鮮に渡す船はありませんでした。母と3人の子どもは実家(鳥取県の田舎)で、敗戦になりました。
 日本の敗戦後、父は38度線の北から京城(いまのソウル)へと逃げまどい、命からがら日本に引揚げてきました。その手記『引揚げ記』をしばらく連載します。父にとっては「生涯最大の思い出」です。お付き合いをお願いします。
※ 明治42年生れの父は旧字体も書いていますが、そのままアップします。

  昭和20年8月15日 朝鮮の山奥で  (1)

 朝鮮のちょうど中央部、鉄の三角地帯の一つ、鉄原から40キロメートル(10里)ばかり山奥に入ったところに、西面(「面」は日本でいう「村」に当る)という村があった。その西面は全くの山奥で、一日に3回鉄原から通うバスがあり、それが他の村と連絡する唯一の交通機関であった。電気は勿論なく、小さな燈油の光を夕方のほんのわずかの間ともすだけの暗い暮しであった。
 唯文化的施設と云えば、面事務所(村役場)と駐在所(警察官の家)と小学校で、これ等に務める人々がいろいろ協議して、面の運営が行われていた。それらの文化施設の町を、『面の三長官』といって、面の中では一番えらい人々であった。その面に居住する日本人といえば、駐在所の警察官と小学校の校長である私だけで、面長(村長)は朝鮮人である。
 大東亜戦争もますますはげしくなり、食糧がひっぱくしてきたある日の面事務所の出来事を記してみる。

 面事務所に、突然やせ細った2,3人の男が入って来た。
「面長さん、米をくれねえか。食べ物をおくれ。おれあ死ぬる」
 と床に座りこむ。
「お前等が食べ物に困っているのはよくわかる。だがな。面には米がないのだから、どうにも仕方がない。今日は帰ってくれ」
 面長は大きな目を見張って断る。
「面長、俺達は死んでもいいというのか」
 男は怒鳴る。
「いや死んでは困る。だが、ない米はあげられないではないか」
「何とか一握りでもいいから恵んでくれないか」
 彼等は悲しい声を上げて泣き出してしまった。
「あゝ、困るなあ」
 面長は顔をしかめて吐息をつく。
「俺達は家に帰ってもどうせ食べ物がなにのだから、同じ死ぬなら面長の机の上で死ぬんだ」
 彼等は或は泣き、或は反抗し、面長の机の上に上がってあぐらをかく。            (つづく)


 

 

 
 

「ネズミ捕り」の初動捕獲は成功しましたが。

2017-10-06 01:09:39 | 日記
「いろいろ仕掛けても、ネズミが捕まらない」とコメントしてくださった方があります。うちも「ネズミ捕り」でネズミを捕ったのははじめてです。粘着シートでは一度捕えましたが。今回はうまくいったようです。

 サツマイモをネズミにかじられて以来、鼠とり器を2つ、粘着シートをいろいろ買って仕掛け、大きなネズミを捕獲しました。
 鼠とり器で3匹。この3匹は人里はなれた竹藪に移住してもらいました。雨が降るけど、今頃どうしてるかな。
 粘着シートには大ネズミ2匹。これはシートごと新聞紙にくるんで生ゴミに。
 淡路に一泊して、「仕掛けた鼠とり器や粘着シートに掛かってたら処分しよう」と勇んで帰ってきました。しかしどれにも掛かっていません。ネズミはたしかに出たようです。きざんだサツマイモの小片は無くなっています。「家ネズミは賢い」とネットに書いてありましたが、どうも危険性を学習したようです。
 ヒマワリの種というのも買ってますから、それを置いて、食べさせる。(巣に持ち帰ってみんなで食べるそうです)
 鼠とり器は、水を勢いよく出して徹底的に洗い、日光にさらし、エサを仕掛けるときに手袋をして人間が直接はふれないようにする。
 粘着シートはカツオをふりかけて、おいしい臭いと味がするように工夫する。
 いろいろやってみようと思います。
 アライグマ捕獲のときに市役所の人にきいたのですが、アライグマは一度檻に捕まると「危機ホルモン」のようなものを出すそうです。だから一度捕まった檻には次のアライグマが近づかない。ネズミも捕まったら、「次のネズミは警戒するように」何かサイン物質を分泌しているかもしれない。次のネズミには、餌を替え、場所を変えて、努力してみます。
 

やっぱり「うち」が一番いい。

2017-10-05 18:09:46 | 日記
 80歳になるのをささやかに祝って、きのうの午後から淡路島に出掛けて、一泊しました。いろいろ凝った料理を賞味して、「ふーん」と感心しましたが、結論は「やっぱりうちが一番」。夜中に起きてもパソコンはないし。本を読もうと思ってもスタンドが暗いし。歳をとると枕が変わるだけでも駄目なんだ。
 写真は夕食の凝った料理です。

 今朝は朝風呂に入って朝食。[ ONOKORO ]というミニチュア建造物のある公園に行ってみようと早めに出掛けました。9時過ぎに着いたのに開園は9時30分から。それにお客さんは数人程度で、遊園地の職員の方が気の毒になるくらい。
 心なしかしょぼくれた気持ちで帰ってきました。これから「落花生掘り」をします。

今年は落花生を15本しか植えられませんでした。ほんとうは50本植えるつもりでした。50本近く苗は植えたのですが、カラスにほじくられ、抜かれてしまいました。
 カラスは落花生が大好きです。殻をくちばしで破って、豆を食べます。うちの庭で苗を育てていたときに、カラスに何本か苗を抜かれました。根元の豆をねらって抜いてしまうのです。畑で本植えしたときも、根元の豆をねらって抜かれてしまいました。で、結局育ったのは15本だけ。でも広い畝でのびのびと育ち、よくできています。来年の種用の大粒(オオマサリ)を除いても、いくらか村の方に配れそうです。夕方、掘って茹でで、お配りしました。
 来年はおそらく「落花生づくり」も最後になるので、50株はつくりたい。先年亡くなった先輩に、1999年に苗を3株もらい、あれから20年近く営々とつくり続けてきました。品種や食べ方も勉強しました。来年は落花生の有終の美を飾りたいです。
そうそう、ナメクジも落花生大好きです。家の小屋で苗を育てているとナメクジが種を食いにやってきます。ナメクジは、落花生好き/ビール好き/バナナの皮好き/花びらも若葉も食べるし、なかなかの美食家です。

リベラル派の受け皿ができて、この国のためには「とりあえず」よかった。

2017-10-04 06:10:45 | 日記
 安倍さんと同じように、保守系/自民党系/右翼系/の人たちは、「むかしの革新系の人たち」なんか「モノノカズデハナイ」と見ているようです。しかし立憲民主党が旗揚げして、総選挙があってもリベラル派の受け皿ができて、この国のためにはとりあえずよかった。
 それぞれの勢力の本質的な姿が見えやすくなり、歴史がわかりやすくなります。

1937年(昭和12年)10月6日がぼくの生まれた日です。満80歳になります。
 この年の7月、日本は中国と戦争をはじめました。「日中戦争」と呼ばず、(日本が仕掛けた)戦争を隠すために「支那事変」といいました。国内では「満蒙開拓青少年義勇軍」と呼んだものを、中国では「軍」を隠して「満蒙開拓青少年義勇隊」と呼ばせたようなものです。
 軍部の言い方では「支那なんて弱いもんだ。2カ月も攻めたら降参する」でした。戦争は1945年までつづき、世界を相手に戦い、日本は負けました。
 80歳になる節目に、ささやかに一泊の旅をしようと思っています。
 なお朝調べたら、昨夜はネズミ捕獲ゼロでした。

屋根裏を片づけて、ネズミを退治します。

2017-10-03 08:55:28 | 日記
 屋根裏部屋に上がるのは面倒で、しばらく放置していました。きのう上がってみるとネズミの糞があります。家の外だけでなく中でもウロチョロしているようです。退治しなければなりません。で、まずホームセンターに行ってネズミ退治用品をしこたま買い込んできました。

 粘着シートに捕まったネズミはそのままお陀仏、殺鼠剤入りのヒマワリの種とかエサを食べたネズミもお陀仏、バネ式鼠とり器に掛かったネズミは、どこか自然の中に引っ越してもらうことにします。猫を飼うといいらしいけど、まだ動物を飼う気になりません。

 2日に買った鼠捕り器(2つ)にサツマイモをつけて、夜中に仕掛けました。でも雨は降ってるし、傘さして小屋まで行くのはイヤだったので、台所のドアの前に置いておきました。朝見ると2つともネズミが掛かっています。
 鼠捕り器に掛かったら竹藪に逃がすことにしたので、この2匹もゴミ出しに行くとき軽トラに積み込みました。ネズミは、ゴミを出してから、川向こうの人里離れた竹藪に放しました。見知らぬところなのに、ネズミはターッと走って茂みに隠れました。
 それにしも仕掛けたらすぐに掛かる。仕掛けがうまいのか。イヤ、そんなわけないから余程多くのネズミが家のまわりをうろついているのでしょう。しばらくネズミ捕りに精を出します。

『とりあえず80歳へ』の日が近づきました。

2017-10-02 08:47:47 | 日記
 78歳になったとき、「田舎暮らしへの移住から8年も経過して、いつまでも『古希からの田舎暮らし』はもう古いな。ブログの題名を変えよう」と『とりあえず80歳へ』と改名しました。ところがその「80歳」にあと4日でなってしまいます。
「80歳になる」んだから、この名前は使わないようがいい。やっぱり『古希からの田舎暮らし』にもどるか。そんなことをぼんやり考えてます。

 日曜日の夜中に見ることにしているテレビ番組「NNNドキュメント」を見終わって、富恵洋次郎さんの本を早速注文しました。毎月6日に『原爆の被爆体験を聞く会』を10年以上続けてきた青年です。こんな人が40歳にもならないで亡くなるのは、ほんとに口惜しい。


 日本の政局がゆれています。10日の総選挙公示まで毎日情勢が変わりそうです。古くなるといけないので、今日(10月2日)の朝日新聞に載った 《内田 樹(たつる)》氏(神戸女学院名誉教授 67歳)の優れた見解を引用します。


 北朝鮮問題で政権の支持率が回復し、野党第一党の民進党が弱体化しているのを好機と見て、安倍晋三首相は解散しました。ところが、思いがけなく小池百合子・東京都知事の新党が登場し、そこに民進党が合流することになり、自民党は主導権を奪われた。
 このカオス的状況を歓迎する気分にはなれません。民進党の議員たちは「安保法制反対・改憲反対」を捨て180度逆の立場に立たなければ公認されない「踏み絵」を踏まされようとしています。自民党以上に新自由主義的で排他主義的な新政党が「受け皿」として登場しようとしている。
 ただし、日本だけの特殊事情ではありません。世界中で、仲間うちの利益だけを優先する「身内ファースト」的な政治勢力が支持を得つつあります。英国のEU離脱も、トランプ米大統領の登場も同じ文脈の出来事だと解釈しています。
 けれども、これは地殻変動的な変化が理解できない退行的な選択です。外界の出来事に目を閉じ耳を塞いで、「変化なんか起きていない」と自分に言い聞かせている。変化とは、国際政治における超覇権国家の衰退や、中東やアフリカで広がりつつあるように「国民国家」が液状化し世界がいくつかの「地域帝国」に再編される潮流のことです。特に日本は少子・高齢化も直撃している。21世紀末の推定人口は5千万人程度。産業構造・社会制度の変化への危機感はほとんど共有されておらず、政府もまったくの無策です。
 その危機の中で、安倍政権は森友・加計学園問題に象徴されるようなネポティズム(縁故主義)にすがりついている。イエスマンだけを登用し、限られた国民資源を仲間に優先的に分配している。「身内ファースト」という世界的な政治的退廃の日本版です。
 小池新党も「身内ファースト」であることに変わりはありません。民進党との「合流」プロセスで明らかなように、小池氏の軍門に下ったのは、政策の一貫性を振り捨てても議席確保を優先させる人たちばかり。政策の一貫性や論理性よりも、「明日の米びつ」を優先的に配慮する政治家たちが、文明史的な転換に対応できる能力があると私は考えません。
 日本はしばらくカオス的状況が続くでしょう。世界中どこも程度の差はあれ同じことです。「他の国もひどい」と言われて心がなごむものではありませんが。  (聞き手・岩崎生之助)


 

サツマイモをネズミから守るために。

2017-10-01 20:37:31 | 日記
 掘って、洗って、ウッドデッキで干して、しまおうと一晩おいたら、サツマイモがネズミにかじられました。
 ネズミが出没するんだな。よーし! 箱に入れて食われないようにしよう。
 それでも朝ウッドデッキに出てみるとネズミにかじられています。そこで「ネズミ捕り粘着シート」を買ってきました。サツマイモの箱のそばに粘着シートを置いて様子をみます。引っ掛かりません。仕方がないのでホームセンターで「金網鼠とり器」を買って仕掛けました。朝起きてみたら、なんと最初の晩からネズミが掛かっています。(小さい写真です)
 そういえば「粘着シートなどに引っ掛からないネズミでも捕ります」と宣伝してあったな。
 
 道子さんが「あのネズミどうするの?」とききます。
「金網箱を池につけて殺すしかないな」
「そのあとはどうするの」
「ムシ塚に埋めるか」
※ 畑のムシ塚にはいろんなものを埋めています。ムシ/蛇/マムシ/ヒヨドリ(イチゴの網に掛かって死んだ)/などなど。ネズミも生き物だからいっしょに埋めたらどうか。
 道子さんは納得しないようです。
「マムシなら殺すしかないけど、ネズミは一匹くらい殺しても仕方がないでしょ」
 で、考えました。
「どこか遠くで放そう」
 ということで、川向こうの人家から数百メートル離れた竹藪に放しました。ネズミはうれしそうに竹藪に消えました。
 夕方小屋を見たら、引っ掛からなかった粘着シートに、大きなネズミが2匹。

政治家だったら少しはわかると思うけど。

2017-09-30 17:30:39 | 日記
 昨日の政治課題のつづきです。
 いまの政治の課題は、森友学園や議員の政務活動費の不正や不倫でなく、安倍政権が戦争の方向に進もうとしていることです。
「日本が危ない!」とあおって自衛隊を前面に押し出し、「とにかく憲法を変えるんだ!」とわめく。北朝鮮相手にトランプ大統領と歩調を合わせて「圧力! 圧力!」と叫ぶ。
 ドンパチやるか。来るなら来い! そんな政治家にこの国がまかせられるか。 
 自民党であろうと他党であろうと、まともな政治家なら、それがいかに危ないことか、わかっているはずです。そしていま、政治家がなんとかしないと、北朝鮮とトランプに振りまわされ、思わぬことが起き、国民は巻き添えを食らう。
 安倍総理は記者会見で『国難突破解散』と名付けたそうですが、そんな言葉を総理が口にするなんて常軌を逸しています。そんな総理をなんとかできない自民党ではどうしようもありません。

 裏山の栗が毎日落ちています。道子さんは栗拾いしたり、竹の棒でイガを叩き落として収穫しています。『利平』の栗は大きく、立派です。栗ご飯や栗きんとんで食べました。机に向かって裏山を眺め、撮った写真です。
 
 部屋からこんな写真が撮れる。しあわせです。

半藤一利氏の言葉から引用します。

2017-09-29 20:40:11 | 日記
 今度の総選挙をめぐって、新聞に載った半藤一利氏の発言から引用します。ぼくは「いま日本は、とても危ない!」と感じます。それを元『文藝春秋』編集長の半藤氏の発言がうまく指摘しています。

◎ 解散総選挙の意味は?
 これからの日本の針路が戦争と平和のどちらを主軸に進むのかを左右する、極めて重要な選挙だと思います。岐路に立つ日本で、冷静な議論が求められるときに、安倍さんが今回、『国難突破解散』とおっしゃって危機感ばかりをあおっていることに強い違和感を覚えます。国難といって現在、最大の問題は北朝鮮情勢でしょうが、これはご自分でつくっていませんか、自作自演の危機ではないか、と申し上げたい。安倍さんは国連総会で、今は対話の時でなく圧力をかけるべき時だと述べてきましたが、それでは危機を高めるばかりです。
 昭和史で似たようなケースがありました。日中戦争が始まった後、ドイツが間に入って和平工作を手掛けました。まとまりかけたのですが、現地軍がこれを無視して進撃を続けて当時の首都南京を陥落させてしまう。和平の条件をつりあげて中国国民党を率いている蒋介石を怒らせてしまう。結局、戦争は泥沼化していきます。
◎ 北朝鮮情勢で日本ができることは?
 日本には対立が不毛な結果しか招かなかった痛みの過去がある。また唯一の被爆国として、核戦争の悲惨さを米国・北朝鮮両国に言って聞かせられる資格もある。それを発揮せずに、ただトランプ大領領に寄り添っている。
 第2次世界大戦を始めたヒトラーのドイツと組んで3国同盟を結び、破局へ導いた時代ある。第2次大戦で、ドイツがフランスへ攻め入り、パリを陥落させた際、日本国内では3国同盟に反対してきた米内光政内閣を『バスに乗り遅れるな』のかけ声の下、引きずり下ろす材料にしました。ドイツと組むため都合のいい内閣(第2次近衛内閣)が組閣され、3国同盟が締結される。太平洋戦争への道をすすみ、亡国寸前まで至ります。
◎ 森友、加計学園問題を抱える安倍政権が、高い支持率を得てます。それが信頼からだ、とは思われません。低成長や高齢化などによる閉塞感が背景にあって、『日本を取り戻す』というかけ声にいちるの望みをかけているとしたら、不健全で危険な兆候です。
◎ 1930~40年代の日本は、まさに今の北朝鮮の似姿です。あのとき、日本をなだめたり説得したりできる国はなかった。しかし、今は日本がそうした役回りを発揮できるはずです。

 
 やっとピストルを入手して振り回す〈ワル〉に圧力をかけるような「単純化」では、「複雑な国際問題」は解決できません。わかりやすく単純化して「煽る」のは危ない。わかりにくくても、粘り強い外交が、いまの日本には求められます。
 国民がほんとに「よく考える」べき時です。