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経営コンサルタントへの道

コンサルタントのためのコンサルタントが、半世紀にわたる経験に基づき、経営やコンサルティングに関し毎日複数のブログを発信

■【成功企業・元気な会社・頑張っている社長】 家康のおひざ元で、半導体検査市場の天下取り 3927-3312

2025-03-12 12:03:00 | 【心 de 経営】 成功企業・元気な会社

■【成功企業・元気な会社・頑張っている社長】 家康のおひざ元で、半導体検査市場の天下取り 3927-3312   

 経営コンサルタントを半世紀にわたってやってきた経験から、すこしでも皆様のご参考になればとお届けしています。

 成功企業・元気な会社・頑張っている社長】は、皆様から寄せられたり、私が支援したり、見聞したりした企業の事例を紹介していますが、お陰様で、毎回拍手をいただいています。

 また、あなたのクライアント・顧問先やお知り合いの会社で、ここで紹介したい企業・団体等がありましたら、是非ご連絡ください。

■ 家康のおひざ元で、半導体検査市場の天下取り 3927-3312
 愛知県岡崎市は、徳川家康の生誕地として知られる。NHKの大河ドラマ 『どうする家康』が放送されました。JR岡崎駅を降り立つと、家康ゆかりの地を紹介 するコーナーが設置されているなど、市を挙げて家康ブームを盛り上げていました。近年、岡崎城などを巡る家康ファンの姿がよく見られるという。
 この岡崎の地で、世界の半導体市場に挑戦しているのが、A社。創業者であるM社長が、大手自動車部品メーカーに 在職中に研究した技術をもとに開発した商品は、 非破壊・非接触で半導体製造の後工程の接合状態を瞬時に検査するという 業界初の検査装置。それまでの半導体検査は、抜き取りによる破壊検査か画像 処理による外観検査が主流で、良品を破壊するムダや、接合状態を直接検査 できないことによる不良品の発生といった課題があった。
 M社長が同社を創業したのは2018年。大手自動車部品メーカーを定年退職 した60歳の時。在職していたメーカーで事業化しない方針が決まり、「それなら 自分でやってみよう」と決意しての起業だった。開業資金は日本政策金融公庫 の創業融資でまかなった。この商品は1台2,500万円程度という高額商品。しかし、 半導体の歩留まり改善に寄与する検査装置として、半導体メーカーから注目 されている。
 M社長が心掛けているのは、社員のワークライフバランス。残業ゼロを 掲げている。「私の若いころは会社に寝泊まりしてでもやれという時代だったが、 実際は疲れていい力はでない。短時間に集中して仕事してもらった方がいい」 と長時間労働には否定的だ。また、社員の給料は毎年社長との相対交渉で決める ことにしており「中には私より高給な社員もいる」と報酬面でも配慮している。 「日本は技術者のステータスが低い。私も若いころから発明をしていたが、 報われなかった。だから優秀な人が海外に流れてしまう」と自身の経験から、 技術者・社員を大切にする経営を心掛けている。
 この商品は国内外の半導体メーカーからの要望が相次ぎ、受注を待ってもらっている状況。「まずは国内の半導体メーカーからの発注に対応し、来年には台湾 など海外メーカーからの需要にも応じていく」という。同社は早期に年間売上高 20億円を達成し、さらに成長を目指している。徳川家康が関ケ原の合戦に勝利し、 天下統一を果たしたのは59歳、徳川幕府の基盤を築いたのは60歳代でのこと。 60歳で起業したM社長の世界市場を見据えた天下取りもこれからが本番だ。

【 コメント 】
 半導体産業といえば、今後も成長を続ける分野の一つです。そこで困っている問題の一つが、検査工程の精度アップという課題があります。成長産業であっても、その位置部分の工程用途ですから、市場は限られています。
 大手企業に在席していたときに、提案をしたものの受け入れられず、「それなら自分で作ってやる」という気持ちで独立起業して着手したそうです。
 成長産業の中のニッチ部分というのは、必要性が高くても大手企業が手を出さない、ニッチ市場なのです。「困っている」「大手が手を出さない」というニッチ産業こそが中堅・中小企業の出番です。その分野でナンバーワンになることは、問題の難しさ、開発費用・期間を勘案しますと大変なことでしょう。
 そのような状況下では、開発者等は寝食を惜しまず仕事をしがちですが、M社はワーク・ライフ・バランスを重視するという、一見矛盾をはらんだことをやり遂げているのです。
 このような矛盾を解決するには、熱意・意気込み・使命感などが高くなければできないことです。
 中堅・中小企業成功の鍵が、ここM社にも潜んでいますね。

  出典: e-中小企業ネットマガジン掲載承認規定に基づき作成

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■【小説風老いぼれコンサルタントの日記】 3月11日 ◇東日本大震災 ◇宝永火山・大地震 ◇徒然なるままに日暮パソコンに向ひて

2025-03-12 08:03:00 | 【小説風老いぼれコンサルタントの日記】

 

  ■【小説風老いぼれコンサルタントの日記】 3月11日 ◇東日本大震災 ◇宝永火山・大地震 ◇徒然なるままに日暮パソコンに向ひて 

 平素は、私どものブログをご愛読くださりありがとうございます。

 この度、下記のように新カテゴリー「【小説風 傘寿】 老いぼれコンサルタントの日記」を連載しています。

 日記ですので、原則的には毎日更新、毎日複数本発信すべきなのでしょうが、表題のように「老いぼれ」ですので、気が向いたときに書くことをご容赦ください。

 紀貫之の『土佐日記』の冒頭を模して、「をとこもすなる日記といふものを をきなもしてみんとてするなり」と、日々、日暮パソコンにむかひて、つれづれにおもふところを記るさん。

【 注 】

 日記の発信は、1日遅れ、すなわち内容は前日のことです。

■【小説風 傘寿の日記】

 私自身の前日の出来事を小説日記風に記述しています。

 

 毎年のこととはいえ、終日、3.11に関する報道が続きました。

 改めて当時の映像を見たり、経験者の話を聞きますと、当時のことが思い出されます。

 東京にいても大きな揺れでしたので、さぞ、経験された方々は怖かったのではないでしょうか。

 改めてご冥福を申し上げます。

 徒然なるままに日暮パソコンに向ひて、戯言をつぶやいています。
 徒然草から、学び取ることがあるような気がして、高校生であった頃以来ですが、再び紐解いています。
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/eb88c477696adc4e2e78376c81b7274b
 

 

 

 「徒然草(つれづれぐさ)」は、吉田兼好による随筆集の冒頭の文章です。作者は、兼好であるという明確な証拠はないようです。おそらく大半の方が、何らかの形で、この文章に接しているのではないでしょうか。

 徒然草といいますのは、清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび日本三大随筆の一つといわれています。

 高校生時代に戻った気分で、また、社会人として人生を歩み、自分の高校時代には理解できなかったり、誤解していたりすることを発見しながら、独断と偏見に満ちた、我流の解釈を僭越ながらお付けしました。

 徒然なるままに、日暮パソコンに向かいて、よしなしごとを、そこはかとなく書き付けてまいります。

 お届けも、徒然なるままにアップロードしますので、読者の皆様も、日暮パソコンに向かいて、末永く、徒然にご覧下さるよう、お願いします。

 

■ 吉田兼好 三大随筆「徒然草」の作者


 よしだけんこう
 弘安6年(1283年)頃?-文和元年/正平7年(1352年)以後?


 鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての官人・遁世者・歌人・随筆家です。卜部氏は、神職の家柄で、父治部少輔・卜部兼顕も吉田神社の神職でした。本名は「卜部兼好(うらべ かねよし/うらべ の かねよし)」といいます。江戸時代以降は、吉田兼好と通称されるようになりました。

 出家しましたので「兼好法師(けんこうほうし)」とも呼ばれ、単に「兼好」と呼ばれることも多いです。

 清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび、日本三大随筆の一つとされる「徒然草」の作者であることはよく知られています。


 後二条天皇の生母である西華門院が、兼好が仕える堀川家の娘であったことから、兼好も六位蔵人という役人に任じられました。すなわち、兼好は、30歳前後で出家遁世するまでは、お役人だったのです。

 出家した後、修学院や比叡山横川などに籠って仏道修行に励んだり、和歌に精進したりしました。鎌倉にも二度ほど訪れたという記述もあります。

 軍記物『太平記』巻二十一の中で、艶書(ラブレター)を代筆したという逸話はよく知られています。

 

 

【Wikipedia】より

 

■【今日のおすすめ】

 経営士・行政書士としてマルチライセンスで活躍していらっしゃる、日本経営士協会会員の若狭晃司先生が、2025年1月から、毎月第二火曜日正午頃の発信でブログを投稿してくださることになりました。
 先生らしく、実体験や博識から、謙虚に、しかも大胆に、辛口も含めてお感じになっていることを皆様にお届けして参ります。

■【今日は何の日】

  当ブログは、既述の通り首題月日の日記で、1日遅れで発信されています。
   この欄には、発信日の【今日は何の日】などをご紹介します。

   https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/7c95cf6be2a48538c0855431edba1930

■【知り得情報】
 政府や自治体も、経営環境に応じて中小企業対策をしています。その情報が中小企業に伝わっていないことが多いです。その弊害除去に、重複することもありますが、お届けしています。

◇《イベント》経営支援の最前線in東京
  ~我が社の将来を専門家と紐解く~
 中小企業庁では、東京在住の自社事業に不安をお持ちの経営者の方、将来の承継候補として将来経営を担えるか不安な方を対象に、経営で困ったときの相談先や経営改善・企業成長のヒントをプロから学べるイベントを開催します。
[日 時] 3/10(月)14:00~17:00
[場 所] 会場:TKPガーデンシティPREMIUM京橋(東京都中央区)
      オンライン:配信URLは後日事務局よりメール送信
[申 込] 3/5(水)まで
[参加費] 無料
 詳しくは以下のサイトをご覧下さい
 https://www.chusho.meti.go.jp/keiei/saisei/2025/250205event.html#tokyo
 https://www.chusho.meti.go.jp/keiei/saisei/2025/250205event/tokyo.pdf
   出典:e-中小企業庁ネットマガジン

■【経営コンサルタントの独り言】

 その日の出来事や自分がしたことをもとに、随筆風に記述してゆきます。経営コンサルティング経験からの見解は、上から目線的に見えるかも知れませんが、反面教師として読んでくださると幸いです。

 

◆  宝永大地震は関東から九州まで 311

 江戸中期、約300年前の宝永4年(1707年)に宝永大地震が発生しました。
 阪神淡路大震災、東日本大震災や能登半島地震までは、日本史上最大の地震といわれていました。
 M8.7の津波は関東から九州まで及び、太平洋側はもちろん、瀬戸内海沿岸まで大きな被害が出ました。
 また、大地震の49日後には富士山が噴火。江戸まで火山灰が降り積もりました。
 江戸時代は、それまで土地をどんどん増やし、収穫を得る成長社会でしたが、それが転換され、品種改良や新しい肥料の開発で、限られた土地から多くの収穫を得るようになりました。
 日本は、いろいろな自然災害を経験してきています。
 しかし、災害にも負けず、復興を果たしてきています。
 一方で、その陰でいまだに苦しんでいる方も多数いらっしゃいます。
 宝永大地震では瀬戸内海まで津波に襲われたと言われていますので、もし東南海地震などが発生したら、現代の日本の被害は宝永大地震のそれとは比較にならない大きさではないでしょうか。

 

(ドアノブ)

■【老いぼれコンサルタントのブログ】

 ブログで、このようなことをつぶやきました。タイトルだけのご案内です。詳細はリンク先にありますので、ご笑覧くださると嬉しいです。


 明細リストからだけではなく、下記の総合URLからもご覧いただけます。
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17

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■バックナンバー
  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a8e7a72e1eada198f474d86d7aaf43db


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■【きょうの人】 0312 ■ 勝海舟 江戸城無血開城の立役者 ■ 小堀遠州 茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家

2025-03-12 06:23:00 | 【話材】 きょうの人03月

  ■【きょうの人】 0312 ■ 勝海舟 江戸城無血開城の立役者 ■ 小堀遠州 茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 勝海舟 江戸城無血開城の立役者
 かつ かいしゅう
 1823年3月12日〈文政6年1月30日〉- 1899年〈明治32年〉1月19日)

 江戸時代末期(幕末)から明治時代初期の武士(幕臣)で政治家、位階は正二位、勲等は勲一等、爵位は伯爵です。

 初代海軍卿となり、山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれています。

 幼少時の文政12年(1829年)、親類・阿茶の局の紹介で、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の孫・初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されました。

 一橋家の家臣として出世する可能性もありましたが、慶昌が天保9年(1838年)に早逝しました。同年、父の隠居で家督を相続することになりました。

 嘉永6年(1853年)に、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されますと、幕府老中首座阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になりました。

 海防に関する意見書を、幕臣はもとより諸大名から町人に至るまで広く募集しました。これに海舟も海防意見書を提出、意見書は阿部の目に留まることとなりました。

 目付兼海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから安政2年(1855年)1月18日に、異国応接掛附蘭書翻訳御用に任じられて念願の役入りを果たしたのです。

 長崎海軍伝習所時代、海舟は頻繁に船酔いに苦しんでいたこともあり、船乗りにとても向かない体質から帰府の話が浮上しましたが、すぐには実現しませんでした。
 外国奉行永井尚志と水野忠徳が遣米使節を建言すると、安政6年1月5日に朝陽丸に乗って1月15日に帰府、幕府から軍艦操練所教授方頭取に命じられ、新たに造られた軍艦操練所で海軍技術を教えることになりました。

 咸臨丸には、軍艦奉行・木村喜毅(艦の中で最上位)、教授方頭取として海舟が任ぜられました。通訳のジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉(福澤諭吉)も乗り込みました。

 咸臨丸の航海を諭吉は「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。

 アメリカ滞在中は政治・経済・文化など何もかも日本と違う文明に衝撃を受けました。

 海舟と木村の対立があったようで、自分達は一国を代表してアメリカへ来たという意識があった海舟と、そういう意識が無かった木村との間が上手くいかなかったことが原因のようです。

 明治も半ばを過ぎてから、諭吉が「瘠せ我慢の説」で新政府に仕えた勝を攻撃したことで知られる諭吉と勝の確執も、咸臨丸航海から始まっているといわれています。


 文久3年(1863年)に坂本龍馬の名前が海舟の12月29日付の日記に出てきますが、両者のそれ以前の交流は不明です。

 家茂を補佐するなどはあったものの、保守派から睨まれていた上、頼りにしていた松平春嶽も政局を放り出して離脱、海舟は孤立した時期もあります。

 家茂は朝廷から攘夷を約束されたため、攘夷が不可能であると考える海舟にとってはやりづらい状況となりました。幕府の命令で長崎に滞在、オランダ総領事ポルスブルックと交渉して、上奏したりしましたが、下関戦争が発生したり、期待していた参預会議も一橋慶喜の策動で解体されたりと思う様に進みません。

 佐久間象山が暗殺されたり、禁門の変が発生したり、続く第一次長州征討で幕府は勢いづき公議政体論の見通しは無くなったりして、海舟の立場は危うくなったりもしました。


 慶応4年(明治元年、1868年)、戊辰戦争の開始および鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗北し官軍の東征が始まると、幕府の要職を罷免された海舟は、最後の陸軍総裁に起用されました。

 幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順を慶喜が罷免、海舟はに海軍奉行並、続いて徳川家の家職である陸軍総裁に昇進しました。

 官軍が駿府城にまで迫ると、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まり、新政府側を援助していたイギリスを利用し、英国公使のパークスを抱き込んで新政府側に圧力をかけさせました。

 その様なときに、有名な西郷隆盛との階段が開かれたのです。勝野準備が、西郷を納得させたとも言えるかもしれません。しかし、「パークスの圧力」を利用することはできなかったとも言われています。

 晩年の海舟は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、政府から依頼され、資金援助を受けて『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂に当たる一方、旧幕臣たちによる「徳川氏実録」の編纂計画を向山黄村を使い、徳川家のスキャンダルが外に出ないような工作もしました。

 最晩年は、孤独な生活だったといわれています。活躍が報われなかったのが、寂しいですね。

 

■ 小堀遠州 茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家
 こぼりえんしゅう
 天正7年(1579)- 正保4年2月6日(1647年3月12日)

 小堀遠州としられますが、名は、政一(まさかず)で、近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に生まれた、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家、陶芸家、華道家などとして知られる多才な人でした。

 江戸幕府の作事奉行となり、優れた庭園を残しました。茶を古田織部に学び、将軍家茶道指南として、またのちに遠州流茶道の開祖となりました。

 造園に造詣深く、作庭家として広く知られていますが、仙洞御所、二条城、南禅寺金地院などの庭を手がけました。

 慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により、慶長14年(1609年)、従五位下遠江守に叙任されました。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになったのです。

 小堀氏の本姓は、藤原氏で藤原一族の血統を引いています。最後は、伏見奉行屋敷にて69歳で死去しました。


「一芸に秀でる人は多芸に通ず」といいます。一方で、「器用貧乏」という言葉もあります。

 ある経営士・コンサルタントですが、何をやらせてもそつなくこなし、一芸だけではなく多芸に通じ、コンサルタントとしての将来が嘱望されていました。

 処々で光るものを見せていたのです。それが仲間やライバルからやっかまれるほどでした。

 ところが、どういうわけか、ビジネスとして、なかなか芽が出ないでいるうちに、この業界から姿を消してしまいました。

 なぜ、姿を消したのかは謎ですが、経営士・コンサルタントの世界では「専門性」というアイデンティティが重視される世界でもあります。

 これは、ビジネスの正解でもいえることで、顧客から、認められるためには、差異化(差別化)されていることが重要なのです。

 ビジネスの世界で生きていくためには、器用貧乏という面があることを知っておく必要があります。

◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b57a13cf0fc1c961c4f6eb02c2b84c9f

◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/b980872ee9528cb93272bed4dbeb5281

◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

  https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/a0db9e97e26ce845dec545bcc5fabd4e

【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


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■【今日は何の日】 3月12日 奈良東大寺二月堂お水取りと詩仙堂の写真  一年365日、毎日が何かの日

2025-03-12 00:03:00 | 【今日は何の日03月】

 

  【今日は何の日】 3月12日 奈良東大寺二月堂お水取りと詩仙堂の写真

 一年365日、毎日が何かの日です。

  季節を表す日もあります。地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。誰かの誕生日かも知れません。歴史上の出来事もあります。セミナーや展示会もあります。

  これらをキーワードとして、私たちは自分の人生に、自分の仕事に、自分自身を磨くために何かを考えてみるのも良いのではないでしょうか。

  独断と偏見で、エッセー風に徒然のままに書いてみました。皆様のご参考にと毎日続けていこうと・・・というよりも、自分自身のために書いてゆきます。

   詳細 ←クリック

今日は何の日インデックス】  日付を指定して【今日は何の日】を閲覧できます

 

 ■ 【今日の写真】 早春の京都 詩仙堂

 史跡「詩仙堂 丈山寺」 石川丈山は、隷書、漢詩の大家であり、わが国における煎茶(文人茶)の開祖と言われている。
 丈山は、三十三歳で隠退後は藤原惺窩について朱子学をおさめ、駿河清見寺の説心和尚に禅を学び、五十九歳で詩仙堂を造営し、没するまでの三十余年を、清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人でもありました。(詩仙堂ウェブサイトより)


  私が撮影した詩仙堂の写真 http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/kyoto/kyoto_shisendou.htm

 

■ お水取り

 奈良東大寺の二月堂で修二会が開かれます。修二会は「お水取り」「おたいまつ」でご存知の方も多いと思いますが、二月堂の行事がなぜ三月に開催されるのでしょうか?

 旧暦二月に行われたからで、それが新暦でたまたま三月になったというのは誰しもが思い当たります。しかし、修二会そのものの起源というのは、日本では定かではないようです。二月堂の修二会が最も有名ですが、薬師寺や法隆寺など、他のお寺でも修二会は開催されています。

 修二会というのは「本尊に対する悔過(けか=罪の懺悔告白)(Wikipedia)」のことで、日本における修二会の始まりは「二月堂縁起」に記載されているそうです。

 それにしても「悔過」を「けか」と読むことは私にはできませんでした。因みに広辞苑を引いてみると「己が罪を懺悔し、罪報を免れることを求めるために、薬師・阿弥陀・吉祥天などを本尊として一定の作法によって行う儀式」と書かれていました。

 

 

■ サンデーホリデーの日,半ドンの日

 昨今では、「週休二日制」があたり前で、死語になりつつあると言う人もいます。

 私がサラリーマンをしている頃は、土曜日は正午まで仕事をしていました。入社後、しばらくして、「週休二日制」が導入されましたが、はじめは、隔週でお休みでした。

 土曜日の半日出勤を「半ドン」といいました。

 半ドンとは、「半分ドンタク(休業)」を略したものです。江戸時代末期に、オランダ語で、日曜日を意味する「zondag」という言葉が訛って、休日や休業を意味するようになったのだそうです。

 1876年(明治9年)に、公官庁で土曜半休となり、「半分のドンタク」を略して「半ドン」というようになったと言われています。

 これには、異説もあります。

 明治時代から第二次大戦・太平洋戦争の時期にかけ、皇居において正午に大砲の空砲を撃って知らせたことから、この名称が使われるようになったとも言われています。

 「半分休みの土曜日」を略して、「半土」から「半ドン」となったという節もあるそうです。

 1876(明治9)年のこの日に、官公庁で土曜半休・日曜休日制が実施され始めました。

 それまでのやり方では、欧米とのやりとりに不便があり、欧米のやり方に近づけたそうです。


■ その他
◇ 豊川稲荷祭
◇ 佛恵禅師寂

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