経営コンサルタントへの道

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■【きょうの人】 1115 ■ 坂本龍馬 生没同日 幕末の志士 ■ ヨハネス・ケプラー ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計

2023-11-15 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

■【きょうの人】 1115 ■ 坂本龍馬 生没同日 幕末の志士 ■ ヨハネス・ケプラー ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

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■ ヨハネス・ケプラー ケプラーの第1法則の提唱やケプラー式望遠鏡の設計


 Johannes Kepler
 1571年12月27日 - 1630年11月15日


 ドイツの天文学者で、天体の運行法則に関する「ケプラーの法則」を唱えたことでよく知られています。

 理論的に天体の運動を解明したという点において、天体物理学者の先駆的存在だといえます。また数学者、自然哲学者、占星術師という顔も持っていたそうです。

 ケプラーは、1571年12月27日、神聖ローマ帝国で居酒屋を営んでいたハインリヒ・ケプラーとカタリーナ・ケプラーの間に生まれました。母のカタリーナは宿屋の娘 Katharina Guldenmannとして生まれ、ヒーラーとして薬草を用いて治療を行っていた人だったそうです。

 ケプラー家の経済状況は貧しくなりつつあり、父のハインリヒは収入を得るため傭兵となり、ヨハネスが5歳の時に家族と離ればなれになり、17才の折に死別しました。

 ヨハネスは、4歳の時に天然痘にかかり視力を低下させ、手もいくぶん不自由でした。

 6歳の時1577年の大彗星を目撃し、天文学に関心を持ったようです。

 ケプラー以前の天文学では、「完全なる神は完全なる運動を造られる」と考えられていたことから「惑星は中心の星の周囲を完全な円軌道で運行する」と考えられていました。

 一方で、惑星は逆行運動をすることが知られていました。

 ケプラーは、周転円の考えを導入することでそれを解決し、最終的にはクラウディオス・プトレマイオスによる地球中心説(天動説)を説明したのです。

 しかし、コペルニクスにより地動説が唱えられ、ケプラーの影はかすれてしまいました。

 ところが、ティコ・ブラーエによる、火星観測の正確なデータをもとに、地球の軌道は完全な円にかなり近いのですが、火星の軌道は楕円でることを照明するケプラーの第一法則の発見へ繋げました。

 ケプラーは、ケプラー式望遠鏡を設計しました。しかし、自分で政策をすることは中田壮です。

 

■ 坂本龍馬 生没同日 幕末の志士


 さかもと りょうま
 天保6年11月15日〈新暦・1836年1月3日〉- 慶応3年11月15日〈新暦・1867年12月10日〉


  江戸時代末期の志士、土佐藩郷士で、諱は、直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)、通称は龍馬(竜馬)として知られています。

  土佐藩郷士の家に生まれ、脱藩したあとは志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(のちの海援隊)を結成しました。

  薩長同盟の成立に協力するなど、倒幕および明治維新に関与しました。

  大政奉還成立の1か月後に近江屋事件で中岡慎太郎、山田藤吉らとともに暗殺されました。暗殺者は諸説ありますが、京都見廻組という説が有力です。

  母親代わりに育ててくれた姉の乙女をとにかく好きで、手紙も多数残されています。

 小説や映像化等が多数あり、改めて紹介する必要がないほどです。


【Wikipedia】坂本龍馬(さかもとりょうま)

 天保6年11月15日(1836年1月3日)- 慶応3年11月15日(1867年12月10日))は、日本の近世末期に活動した武士。土佐藩出身。

 土佐郷士に生まれ、脱藩した後は志士として活動し、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中(後の海援隊)を結成した。薩長同盟の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど倒幕および明治維新に影響を与えた。大政奉還成立の1ヶ月後に近江屋事件で暗殺された。贈正四位(1891年(明治24年)4月8日)。
 龍馬は、多くの人の間で人気ですが、その生き方については様々なお考えもあるようです。 

 

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■【きょうの人】 1114 ■ 力道山 日本中のテレビを独占したプロレスラー ■ 道慈律師 仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人

2023-11-14 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1114 ■ 力道山 日本中のテレビを独占したプロレスラー ■ 道慈律師 仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人

 

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■ 道慈律師 仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人


 どうじ
 生年不詳 - 天平16年10月2日(744年11月14日)


 奈良時代の三論宗の僧で、俗姓は額田氏、大和国添下郡の出身です。

 702年(大宝2年)に唐へ渡り、西明寺に住し、三論に通じることになりました。その結果、仁王般若経を講ずる高僧100人のうちの一人に選ばれています。

 718年(養老2年)に帰朝し、日本三論宗の第三伝とされました。

 729年(天平元年)に律師に任じられ、大安寺を平城京へ移設することに尽力しました。736年(天平9年)には、大安寺大般若経転読会を始め、739年(天平12年)には大極殿最勝王経講説の講師をつとめました。

 大宝の遣唐使として43年ぶりに入唐を果たした道慈は、帰国後に『愚志』という書物を著して、唐と異なり教典に従っていないことが多い日本の仏教界を批判しています。

 僧尼の質を向上させるために、戒師を唐から招請、鑑真の来日によって実現することになりました。

 『日本書紀』の編纂にも関与したという説もあります。

  奈良大安寺 (カシャリ!一人旅)←クリック

(【Wikipedia】を基に作成)

 

■ 力道山 日本中のテレビを独占したプロレスラー


 りきどうざn
 1924年11月14日 - 1963年12月15日


 大相撲の力士を経て、プロレスラー界に移りました。韓国出身者で、日本億石を持ち、その名を「百田光浩(ももたみつひろ)」といいます。

 1954(昭和29)年2月19日に、日本初のプロレスの本格的な国際試合として、力道山・木村組対シャープ兄弟の試合が開催されました。この日が「プロレスの日」として制定されています。

 プロレスの正式名称は「プロフェッショナル・レスリング」といい、リング上で観客へ見せることを目的とした攻防を展開する格闘技を基本としたスポーツのことであることはよく知られています。

 空手チョップで、アメリカなど海外からのレスラーを倒すのを見て、多くの日本人が快感を覚えたのではないでしょうか。

 まだ、テレビの普及が全家庭に至っていない時期から、街頭でプロレスを見る人がいました。第一回目の東京オリンピックを機に、テレビの普及率が高まりますと、一層プロレス熱も高まったように記憶しています。

 

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■【きょうの人】 1113 空也 法統を伝える宗派は組織されぬ希有な祖

2023-11-13 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1113 空也 法統を伝える宗派は組織されぬ希有な祖

 

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 空也 法統を伝える宗派は組織されぬ希有な祖


 くうや
 延喜3年 - 天禄3年9月11日 (新暦):903年 - 972年10月20日)


 平安時代中期に京都で生まれた浄土宗の僧で、阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人とも称されます。

 口称念仏の祖で、民間における浄土教の先駆者と評価されます。空也流の念仏勧進聖は、鎌倉仏教の浄土信仰を醸成したとされています。

 俗に天台宗空也派と称する一派においても祖と仰がれていますが、空也自身は、複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ちました。

 没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されませんでした。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は、現在真言宗智山派に属します。(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗でした)。

 踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれますが、空也自身が、いわゆる踊念仏を修したという確証はありません。

 門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えました。

 遺命により11月13日をもってその忌日とし、踊り念仏を修して空也忌法要が行われます。

 

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■【きょうの人】 1112 藤堂高次 高虎の子 徳川家光から家綱までの時代の武将

2023-11-12 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

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 藤堂高次 高虎の子 徳川家光から家綱までの時代の武将


 とうどうたかつぐ
 慶長6年閏11月11日(1602年1月4日)-延宝4年11月16日(1676年12月20日)


 多数の主君を持ったことで知られる藤堂高虎を父に持ち、幼名「大助」で、徳川家光や家綱までの時代の武将です。

 父、高虎には、なかなか実子ができなかったため、丹羽長秀の子を養嗣子・高吉として迎えていました。

 幸い、高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれ、寛永7年(1630年)、高虎が病死すると、高次がその跡を継ぎました。

 寛永9年(1632年)の江戸城二の丸、寛永16年(1639年)の江戸城本丸消失後の復興、慶安5年(1652年)の日光の大猷院霊廟(だいゆういん、徳川家光の霊廟)などの数多くの石垣普請を行いました。

 ところが津藩はこれらの石垣普請の負担により財政が極度に悪化し、高次は年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めました。

 しかしなおも江戸幕府の普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどっていきました。

 寛文9年(1669年)、隠居して家督を長男の高久に譲り、延宝4年11月16日(1676年12月20日)に死去しました。

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■【きょうの人】 1111 渋沢 栄一 500以上の企業と関わる日本を代表する実業家

2023-11-11 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

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 渋沢 栄一 500以上の企業と関わる日本を代表する実業家


 しぶさわ えいいち
 天保11年2月13日(1840年3月16日)-昭和6年(1931年)11月11日)


 日本を代表する実業家のひとりで、慈善家として知られています。位階勲等爵位は、正二位勲一等子爵で、雅号は「青淵(せいえん)」です。

 江戸時代末期に、名主身分の農民でしたが武士(幕臣)に取り立てられました。

 明治政府では、大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行いました。

 退官後は、実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立や経営に、500社以上に関わりました。

 二松学舎(現二松学舎大学)第3代舎長を務めたり、商法講習所(現一橋大学)、大倉商業学校(現東京経済大学)の設立にも尽力しています。

 これらの功績が高く評価され「日本資本主義の父」と称されています。

 論語を通じた経営哲学でも広く知られています。(日本経営士協会理事長藤原久子先生がブログで紹介:https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/c/44c1677ddc6d92a589c21d421e4150ad

 令和6年(2024年)より、新紙幣一万円札の顔となります。また、令和3年(2021年)に、渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送。 (【Wikipedia】を基に作成)

 東京都飛鳥公園内に、渋沢栄一資料館があります。
  http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/kitaku-asukayama.htm

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■【きょうの人】 1110 円爾 生誕 (聖一国師) 東福寺開山

2023-11-10 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

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 円爾 生誕 (聖一国師) 東福寺開山


 えんに/しょういちこくし
 建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日)


 鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、藤原家道に迎えられ臨済宗東福寺の開山となりました。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。

 法諱は初め弁円と称し、円爾は房号でしたが、後に房号の円爾を法諱としました(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もありますが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではないといわれています。

 その宗風は、純一な禅でなく、禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本としますものの、禅のみを説くことはなく、真言・天台とまじって禅宗を広めました。

 また、博多崇福寺に従し、承天寺の開山でもあります。宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称されます。

 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めています。

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■【きょうの人】 1109 藤堂高虎 何度も主君を変えて戦国時代を切り抜けた藤堂家

2023-11-09 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

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 藤堂高虎 何度も主君を変えて戦国時代を切り抜けた藤堂家


 とうどう たかとら
 弘治2年1月6日(1556年2月16日)-寛永7年10月5日(1630年11月9日)


 藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名で、伊予今治藩主、後に伊勢津藩の初代藩主となる、藤堂家宗家初代です。

 浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣秀長→秀保→秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光と、何度も主君を変えた戦国武将として知られています。

 築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し、黒田孝高、加藤清正とともに築城の名人として知られています。

 高虎の築城の特徴は、石垣を高く積み上げることと堀の設計です。石垣の反りを重視する加藤清正と対比されることが多いです。

 関ヶ原の戦いでは、秀吉の死後、徳川家康に接近していたこともあり、徳川家康側として闘いました。

 その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を上げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封、22万石の津藩主となりました。

 家康は、高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用したそうです。

 

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■【きょうの人】 1108 ■ 仮名垣 魯文 江戸・明治の戯作者「西洋道中膝栗毛」

2023-11-08 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1108 ■ 仮名垣 魯文  江戸・明治の戯作者「西洋道中膝栗毛」

 

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 仮名垣 魯文  江戸・明治の戯作者「西洋道中膝栗毛」


 かながき ろぶん
 1829年2月9日(文政12年1月6日)- 1894年(明治27年)11月8日


 江戸末期から明治初頭にかけての戯作者で、新聞記者もしていました。

 江戸の京橋生まれ、本名は野崎文蔵、字は能連、幼名兼吉、また庫七、後に文蔵と改めました。別号に鈍亭、猫々道人(みょうみょうどうじん)などがあり、俳号は香雨亭応一、狂名は斜月窗諸兄です。これらからも、魯文の多才さがうかがえます。

魚屋を営む父野崎佐吉は、俳句や狂歌を好み、文蔵も戯文や小説を好んで育ちました。大きな商家の丁稚となった時に、人相見に、「小説家になれば出世する」と言われ、18才で花笠魯介文京の弟子となりました。

 自作の執筆の他に、先輩の仕事の手伝い様々などをこなし、生活のために古道具屋や売薬業も営みました。

 筆名は、初め「英(はなぶさ)」または「鈍亭」としていましたが、1873年(明治6年)に、師の魯と文の字を取って仮名垣魯文としました。

 代表作に西洋道中膝栗毛(1870-1876年)があり、多数の書を書いています。

 正式には『万国航海 西洋道中膝栗毛』といい、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』にならって、弥次郎兵衛、北八の3代目の孫ふたりを、イギリスのロンドン万国博覧会見物に出立させ、その滑稽な道中を物語にしたものです。

 現代語訳もあり、今日でも楽しむことができます。



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■【きょうの人】 1107 ■ 田中 久重 「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」、東芝の創業者 ■ 李 鴻章 清朝の建て直しに尽力 

2023-11-07 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1107 ■ 田中 久重 「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」、東芝の創業者 ■ 李 鴻章 清朝の建て直しに尽力 

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

■ 田中 久重 「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」、東芝の創業者

 たなか ひさしげ
 寛政11年9月18日(1799年10月16日)-明治14年(1881年)11月7日

 江戸時代後期から明治にかけての発明家。「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれました。芝浦製作所(後の東芝の重電部門)の創業者。

 江戸末期・寛政の頃、久留米の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれ、幼名は儀右衛門でした。

 幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となり、「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになりました。

 「弓曳童子」と「文字書き人形」は、その代表作で、からくり人形の最高傑作といわれています。折りたたみ式の「懐中燭台」、圧縮空気により灯油を補給する灯明の「無尽灯」などは、既述のからくり人形と共に、二十歳代の作品です。

 天文、蘭学などを学ぶうちに、季節によって昼夜における時間の長さの違う不定時法に対応した万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)を製作したことは、彼の非凡さを語る最大のものといえます。

 日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型製造、反射炉の設計(改築)、大砲製造など、広範囲にわたる功績は、今日の東芝の起業に繋がったようです。

 発明の数だけではなく、広範囲さから「東洋のエジソン」といわれるのは、至極当然といえます。

 

 李 鴻章 清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力


 り こうしょう
 1823年2月15日(道光3年1月5日)-- 1901年11月7日(光緒27年9月27日)


 中国清代の政治家で、字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力しました。

 日清戦争の講和条約である下関条約で、清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことで知られています。

清朝末期に起こった反乱・太平天国の欄で、政府軍に降伏した敵軍を吸収しながら、西洋式軍事訓練も施して、自軍強化に努め、蘇州・常州を奪回するなど、活躍しました。

 李鴻章は、その手腕を買われ、清朝の重臣筆頭となり、さらに同治帝の母・西太后の厚い信任を得ました。

 日本の朝鮮出兵などの動きに驚異を感じ、日本との関係を模索しました。同治9年9月、清を訪れた柳原前光ら日本使節団と天津で会談、日本との提携を記した草案の作成を担当し、伊達宗城・柳原前光ら使節団と日清修好条規を結びました。

 大久保利通他とも交流を持ち、西欧やロシアの圧力に対抗を試みるなど政治的手腕を発揮しました。しかし、日本は、日清戦争に走ります。日本側は列国の干渉をおそれ、休戦条約を調印し、日清講和条約(下関条約)の調印を行います。

 この条約で朝鮮・台湾・遼東半島などの喪失と賠償金支払いなどで、清の威信は大きく低下し、李鴻章は失脚します。しかし、西太后の意もあり、復権します。

 波乱の人生でしたが、李鴻章の意志は、袁世凱に引き継がれます。

 

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■【きょうの人】 1106 ■ 泉 鏡花 尾崎紅葉に師事 夜行巡査、外科室他を執筆

2023-11-06 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

【きょうの人】 1106 ■ 泉 鏡花 尾崎紅葉に師事 夜行巡査、外科室他を執筆

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 泉 鏡花 尾崎紅葉に師事 夜行巡査、外科室他を執筆


 いずみ きょうか
 1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)


 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。本名、鏡太郎(きょうたろう)で、金沢市下新町に生まれました。

 尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』という作品で高い評価を得ました。

 代表作『高野聖』『婦系図』で人気作家の一人になり、江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる作家となりました。

 近代における幻想文学の先駆者としても評価されます。

 晩年、春陽堂より『鏡花全集』刊行を開始し、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫などの錚々たる面々が編集委員を務めました。

 

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■【きょうの人】 1105 島村抱月 新劇運動の先駆者 ■ 高峰顕日 南浦紹明とともに天下の二甘露門

2023-11-05 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1105 島村抱月 新劇運動の先駆者 ■ 高峰顕日 南浦紹明とともに天下の二甘露門

 

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 島村抱月 新劇運動の先駆者


 しまむら ほうげつ
 1871年2月28日(明治4年1月10日)- 1918年(大正7年)11月5日


 日本におけます新劇運動の先駆けの一人として知られています。旧姓は佐々山、幼名は瀧太郎です。

 イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学に留学しました。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、「早稲田文学」誌を復刊(第二次)し、主宰しています。

 1906年(明治39年)には、坪内逍遥とともに文芸協会を設立、1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめ、芸術の拠点である「芸術倶楽部」(東京都新宿区)を創設しました。

芸術倶楽部跡、終焉の地(写真)
http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/tokyo/shinjukuku-kagurazaka/shinjuku-kagurazaka15.htm

 しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化、これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となりました。

 同年抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国のウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博しました。

 

■ 高峰顕日 南浦紹明とともに天下の二甘露門


 こうほう けんにち
 仁治2年(1241年)- 正和5年10月20日(1316年11月5日)


 鎌倉時代後期の臨済宗の僧で、後嵯峨天皇の第二皇子です。諱は顕日、字は高峰、密道と号しました。諡号は、仏国禅師・仏国応供広済国師といいます。

 1256年(康元元年)に、円爾に従って出家し、十六歳の時に聖一国師につき得度しました。その後、兀庵普寧や弘安二年には、無学祖元に世良田長楽寺にて師事しました。

 下野国那須の雲巌寺の開山にもなっています。

 南浦紹明とともに天下の二甘露門と称されました。

 鎌倉幕府執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任しています。門下には、夢窓疎石などの俊才を輩出し、関東における禅林の主流を形成しました。

 七十二歳で遷化しています。

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■【きょうの人】 1104 ■ 隠元隆琦 インゲン豆を日本に ■ 定山 定山渓温泉の立役者

2023-11-04 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1104 ■ 隠元隆琦 インゲン豆を日本に ■ 定山 定山渓温泉の立役者

 

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 定山 定山渓温泉の立役者


 美泉 定山(みいずみ じょうざん)
 文化2年(1805年)- 明治10年(1877年)11月4日)


 北海道・札幌の奥座敷「定山渓温泉」は、美泉定山により広められました。

 彼は1805年(文化二年)に備前国(現岡山県)曹洞宗の名刹妙音寺の二男とで生まれ、十七歳の頃より全国の霊山霊地を行脚し、現北海道である蝦夷地にまできました。

 1853年(嘉永6年)に48歳で北海道へ渡り、1866年(慶応二年)アイヌ民族の案内で当地に至りました。ここで、源泉を確認し、病に悩む人々を祈祷と湯治で救おうと努力をしました。

 幕末の探検家・松浦武四郎の紀行文では、定山が温泉宿を営み、また定山寺を創建し、「定山渓」の名前の由来となりました。

 1876年(明治8年)、小樽と「定山渓」を結ぶ山道開発にも携わっています。

 温泉で病を癒やしたり、道路開発などの社会貢献をしたりという定山の心は、今日に至っても脈々と続いてきています。

 ちなみに、「美泉(みいずみ)」という苗字は、1870年(明治2年)ごろ「平民苗字許可令」が発令された時に、定山が、そのように名乗ったと伝わっています。

 

http://www.glomaconj.com/butsuzou/meisho/hokkaido/hokkaido-jouzankei/hokkaido-jouzankei01.html

 

 

 

■ 隠元隆琦 インゲン豆を日本に


 隠元隆琦(いんげん りゅうき)
 万暦20年・文禄元年11月4日〈1592年12月7日〉-寛文13年4月3日〈1673年5月19日〉
 特諡として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師
 勅賜として真空大師、華光大師


 明末清初の禅宗の僧で、日本黄檗宗の祖です。隠元自身は、「臨済正宗」と称していたそうです。

 独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる、当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えました。

 また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済・曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をしました。

 明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えています。隠元豆の名称に名を残していることは広く知られています。

 日本における煎茶道の開祖ともいわれていますし、能書家としても知られ、木庵性とう、即非如一とともに「黄檗の三筆」といわれるほどです。

 承応年には江戸で将軍家綱に拝謁し、後に宇治に地を与えられ万福寺を建てました。


 インゲン豆は、16世紀末にヨーロッパを経由して中国に伝わり、1654年、明からの帰化僧であります隠元隆琦が、日本に持ち込んだといわれることから、この名がついたそうです。

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■【きょうの人】 1103 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 ■ 田中 正造 日本最初の公害に立ち向かった男 ■ 了誉上人 

2023-11-03 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1103 ■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者 ■ 田中 正造 日本最初の公害に立ち向かった男 ■ 了誉上人 

 

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 了誉上人 家康生母の墓がある伝通院の開祖


 りょうよ
 興国2年/暦応4年10月15日(1341年11月24日-応永27年9月27日(1420年11月3日)


 号は「酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ)」である「聖冏(しょうげい)」は、南北朝時代から室町時代中期にかけての僧で、浄土宗(鎮西義)第7祖です。

 常陸国・椎尾氏の出身で同国瓜連常福寺の了実について出家しまし、太田法然寺の蓮勝に師事しました。浄土教を中心に天台・密教・禅・倶舎・唯識など広く仏教を修めてもいます。

 宗徒養成のために伝法の儀式を整備し、五重相伝の法を定め、神道・儒学・和歌にも精通し『古今集序註』『麗気記拾遺抄』を著しています。

 門弟に聖聡・了知などがおり、第8祖となった聖聡とともに、浄土宗鎮西義を教学面から興隆した人物として評価されています。

 江戸小石川に伝通院を、無量山寿経寺という名で開創したことでも知られています。

 慶長7年(1602)8月29日、徳川家康公の生母「於大の方」が75才、伏見城で逝去し、その法名を「傳通院殿蓉誉光岳智香大禅定尼」と号しました。この寿経寺を菩提寺としたことから「傳通院」と呼ばれるようになりました。

 家光の次男亀松君が葬られ、以来徳川幕府の外護を賜り、千姫の墓標もここにあります。

 

■ 田中 正造 日本最初の公害に立ち向かった男


 たなか しょうぞう
 天保12年11月3日(1841年12月15日)- 1913年(大正2年)9月4日)


 幼名、兼三郎、下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)の出身です。

 日本の政治家で、日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として知られています。衆議院議員選挙に当選6回。

 足尾鉱毒事件は、19世紀後半の明治時代初期から栃木県と群馬県の渡良瀬川周辺で起きた、日本で初めてとなる公害事件です。

 銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、1890年代より栃木の政治家であった田中正造が中心となり国に問題提起しましたが、加害者決定はされませんでした。

 足尾の精錬所は1980年代まで稼働し続け、2011年に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されるなど、21世紀となった現在でも影響が残っています。

 学生時代に、鉱山跡に行ったことがありますが、周囲の木々は立ち枯れたまま残っていました。その不気味さは、人気もないことから今でも覚えています。

 

■ 手塚 治虫 漫画・アニメ表現の開拓者


 てづか おさむ、本名:手塚 治
 1928年(昭和3年)11月3日 - 1989年(平成元年)2月9日


 説明するまでもなく、日本を代表する漫画家であり、アニメーター、アニメ監督としても活躍しました。戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍してこられました。

 兵庫県宝塚市出身(出生は 大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)で、同市名誉市民でもあります。大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学)を持っていました。

 大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューしたのですね。知りませんでした。

 1958年頃より、各漫画誌で桑田次郎、武内つなよし、横山光輝などの売れっ子漫画家が多数出現していて、手塚は、漫画家達の中の一人に過ぎなくなっていました。そのためにノイローゼにまでかかったという話も残っています。天才にも、その様なことがあるのですね。


 幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーションに強い関心を持っており、

 1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立、後に虫プロダクションと改名しています。

 1963年に、自作をもとにした、日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼしたことはいうまでもありません。

 当時、従兄弟達が、それを見る年代で、テレビにかじりついていたことが、昨日のように思い出されます。

 しかし、アニメブームと共に、多くの同業社の乱立・乱作から、コスト競争に直面し、倒産にまで追い込まれました。私の知人が、その時の管財人をしていました。

 晩年近く、1980年代になりますと、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)など、歴史物で円熟味を示し、青年漫画というJANするに新たな代表作を手がけることになりました。

 100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、昏睡状態を断続的に起こしたにもかかわらず、病院のベッドで医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていたそうです。

 死に立ち会った人によりますと、「頼むから仕事をさせてくれ」というのが手塚の最後の言葉であったといわれています。

 最後まで、漫画・アニメーターだったのですね。

 

■ 泉 鏡花  明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家


 いずみ きょうか
 1873年(明治6年)11月4日 - 1939年(昭和14年)9月7日)


 明治後期から昭和初期にかけて活躍した小説家で、小説のほか、戯曲や俳句も手がけました。本名、鏡太郎(きょうたろう)で、金沢市下新町に生まれました。

 尾崎紅葉に師事し、『夜行巡査』『外科室』という作品で高い評価を得ました。川端康成、石川淳、三島由紀夫らに影響を与えた小説家です。

 東京新宿区の赤城神社に近い南榎町22に、泉鏡花の居跡のひとつがあり、ここに明治32年から4年間住んで、この地で「高野聖」などを発表しました。

 31才の泉鏡花は、神楽坂の芸妓桃太郎さんと、この借家に住みます。しかしこれには泉鏡花の師である「金色夜叉」で有名な尾崎紅葉から相当怒られ、やむなく、桃太郎(本名伊藤すず)と別れます。

 鏡花は、 紅葉が没してから正式に妻として桃太郎を迎えます。

 なお、桃太郎は、あの「婦系図(おんなけいず)」のお蔦、『湯島詣』の蝶吉のモデルといわれています。

 千代田区六番町5番地にも「泉鏡花旧居跡」があり、1910年(明治43年)から亡くなる1939年の間、この地に愛妻すず(桃太郎)と暮らしていました。

 代表作『高野聖』『婦系図』で人気作家の一人になり、江戸文芸の影響を深く受けた怪奇趣味と特有のロマンティシズムで知られる作家となりました。

 近代における幻想文学の先駆者としても評価されます。

 晩年、春陽堂より『鏡花全集』刊行を開始し、鏡花を師と仰ぐ里見弴、谷崎潤一郎、水上瀧太郎、久保田万太郎、芥川龍之介、小山内薫などの錚々たる面々が編集委員を務めました。

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■【きょうの人】 1102 ■ 後醍醐天皇 建武の新政 ■ 柳沢 吉保 綱吉に重用されて権勢を振るう ■ 慈昌(源誉存応) 一遍の弟子

2023-11-02 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1102 ■ 後醍醐天皇 建武の新政 ■ 柳沢 吉保 綱吉に重用されて権勢を振るう ■ 慈昌(源誉存応) 一遍の弟子 ■ 徳富 蘇峰 明治から昭和のジャーナリスト 蘆花の兄

 

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 後醍醐天皇 建武の新政


 ごだいごてんのう
 別称 吉野院、元徳院、元応帝
 1288年11月26日〈正応元年11月2日〉- 1339年9月19日〈延元4年8月16日〉


 大覚寺統・後宇多天皇の第二皇子で、鎌倉時代後期から南北朝時代初期にかけての第96代天皇で、南朝の初代天皇(在位:1318年3月29日〈文保2年2月26日〉-1339年9月18日〈延元4年/暦応2年8月15日〉です。

 鎌倉幕府を倒して、建武新政を実施したものの、間もなく足利尊氏の離反に遭ったために大和吉野へ入り、南朝政権(吉野朝廷)を樹立しました。
 元弘の乱(元弘の変)により、元弘2年 / 正慶元年(1332年)隠岐島に流されました。この時期、後醍醐天皇の皇子護良親王や河内の楠木正成、播磨の赤松則村(円心)ら反幕勢力(悪党)が各地で活動していました。
 元弘3年 / 正慶2年(1333年)、名和長年ら名和一族を頼って隠岐島から脱出し、挙兵します。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に味方して、六波羅探題を攻略しました。
 その直後に東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させることにつながります。

 

■ 柳沢 吉保 綱吉に重用されて権勢を振るう


 やなぎさわ よしやす、正字体:柳澤吉保、正仮名遣:やなぎさはよしやす
 万治元年12月18日(1659年1月10日)-正徳4年11月2日(1714年12月8日)


 江戸時代前期の幕府側用人・譜代大名で、第5代将軍徳川綱吉も重用され、元禄時代には大老格として幕政を主導しました。

 柳沢氏は、清和源氏の流れを引く、甲斐源氏武田氏一門の末裔を称する、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属しました。

 武田氏の滅亡後、武田遺臣の多くが徳川家康の家臣団に組み込まれ、柳沢氏は吉保の祖父にあたる信俊が、家康に仕官しました。

 寛文4年(1664年)12月18日、館林藩主・徳川綱吉に初めて謁見し、これが契機で後に大役を担うことに繋がります。

 世の中で注目される人は、良きにつけ、悪しきにつけ、チャンスをものにするのが上手と言えます。

 コナン度役などを経験した後、川越城を拝領するなど頭角を現し、常盤橋内の隣地に屋敷を拝領しました。

 翌元禄8年4月21日に駒込染井村の前田綱紀旧邸を拝領し、後にこれが六義園となります。柳澤が、なぜ、遠いかが後に名を残すのか、お恥ずかしながら知りませんでしたが、これで納得できました。

 綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の姪を受け、成功させます。

 それらの功績が認められ、元禄14年(1701年)将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗るようになりました。

 犬公方の手伝いをしたり、忠臣蔵の判断に大きく関与したり、桂昌院の官位などでは裏工作をしたりと、綱吉寄りの政策を続けました。

 綱吉死後は、次第にその陰が薄れ、隠居後は、江戸本駒込(東京都文京区本駒込6丁目)で過ごし、綱吉がたびたび訪れた六義園の造営などを行いました。

 

■ 慈昌(源誉存応) 一遍の弟子


 じしょう
 天文13年1月10日(1544年2月2日)- 元和6年11月2日(1620年11月25日)


 安土桃山時代から江戸時代にかけての浄土宗の僧でえ、号は貞蓮社源誉存応、武蔵国多摩郡由木の出身です。

 初め武蔵国新座郡の時宗大平山法台寺の蓮阿に師事して出家、一遍の法流を伝えました。

 1561年(永禄4年)岩瀬大長寺の存貞に従って浄土宗に改宗し、その後武蔵国川越蓮馨寺をへて、1574年(天正2年)与野長伝寺を開創し、1584年(天正12年)には江戸増上寺の12世となりました。

 1590年(天正18年)徳川家康の関東入部にともない師檀の関係を持ち、増上寺は徳川家の菩提寺となりました。

 1598年(慶長3年)増上寺の寺地を現在の芝(東京都港区)に移して、家康の手厚い保護のもと京都知恩院とともに浄土宗の名刹となりました。

 浄土宗法度や浄土宗関東十八檀林制度の議に参加し、また紫衣の綸旨を賜っています。また、「普光観智国師」の号を贈られました。

 現在、増上寺山内塔頭に「観智院」があります。
 

 

■ 徳富 蘇峰 明治から昭和のジャーナリスト 蘆花の兄

 とくとみ そほう
 1863年3月14日(文久3年1月25日)-1957年(昭和32年)11月2日)

 明治から昭和戦後期にかけての日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。『國民新聞(現東京新聞)』を主宰し、大著『近世日本国民史』を著したことで知られる。

 平民の目線で政治に切り込むジャーナリズムは画期的と言えます。一方で、山縣有朋、桂太郎ら、当時の政治家とも密接な関係にあったといわれています。

 根津美術館の根津嘉一郎も、國民新聞の経営に参画していました。

 京王線沿線にある『蘆花恒春園』は、実弟である小説家・徳冨蘆花の旧居です。

山王草堂記念館
https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/adb4e888e2e1d9e1e369cf8372c0e7a4

山王草堂庭園
https://blog.goo.ne.jp/keieishi17/e/4d832d9fa8e8d532216951ce6b812db7

◆ バックナンバー

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◆ 【きょうの人】 バックナンバー

 歴史上で活躍したり、仏教など宗教関係の人であったり、ジャンルはいろいろですが、彼等から、学ぶところが多々ありますので、それをご紹介します。

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◆ 【今日は何の日】は、毎日発信しています。

 一年365日、毎日が何かの日です。 季節を表す日もあります。 地方地方の伝統的な行事やお祭りなどもあります。 誰かの誕生日かも知れません。 歴史上の出来事もあります。

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◆ 【経営コンサルタントのひとり言】

 経営コンサルタントのプロや準備中の人だけではなく、経営者・管理職などにも読んでいただける二兎を追うコンテンツで毎日つぶやいています。 

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。

 

 


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■【きょうの人】 1101 ■ 円爾 生誕 臨済宗東福寺の開山 ■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹

2023-11-01 06:33:00 | 【話材】 きょうの人11月

 

  【きょうの人】 1101 ■ 円爾 生誕 臨済宗東福寺の開山 ■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹

 

 独善的な判断で、気になる人を選んでご紹介しています。

 そこに歴史や思想、人物、生き方などを感じ取って、日々の生活やビジネスに活かしてくださると幸いです。

 

 円爾 生誕 臨済宗東福寺の開山


 えんに/しょういちこくし
 建仁2年10月15日(1202年11月1日) - 弘安3年10月11日(1280年11月10日)


 鎌倉時代中期の臨済宗の僧で、藤原家道に迎えられ臨済宗東福寺の開山となりました。駿河(静岡県)の出身。諡号(しごう)は聖一国師(しょういちこくし)。

 法諱は初め弁円と称し、円爾は房号でしたが、後に房号の円爾を法諱としました(道号はなし)。なお、「円爾弁円」と4字で表記される場合もありますが、前述のとおり円爾には道号はなく、新旧の法諱を併記した「円爾弁円」という表記は適切ではないといわれています。

 その宗風は、純一な禅でなく、禅密兼修で、臨済宗を諸宗の根本としますものの、禅のみを説くことはなく、真言・天台とまじって禅宗を広めました。

 また、博多崇福寺に従し、承天寺の開山でもあります。宋から持ち帰った茶の実を植えさせ、茶の栽培も広めたことから静岡茶(本山茶)の始祖とも称されます。

 なお、静岡市では、円爾の誕生日(新暦)である11月1日を「静岡市お茶の日」に制定し、茶業振興のPRに努めています。

 

■ 萩原 朔太郎 大正時代に近代詩の息吹


 はぎわら さくたろう
 1886年(明治19年)11月1日 - 1942年(昭和17年)5月11日)


 日本の詩人で、大正時代に近代詩の新しい地平を拓き「日本近代詩の父」と称されます。

 群馬県(現・千代田町)に、開業医の父・密蔵と母・ケイの長子として生まれました。名前の朔太郎は、長男で朔日(ついたち)生まれであることから、命名されました。

 1913年(大正2年)に、北原白秋の雑誌『朱欒』に初めて「みちゆき」ほか五編の詩を発表、詩人として出発しました。そこで室生犀星と知り合い、室生とは生涯の友となったのです。一期一会、出合は、大切ですね。

 1923年(大正12年)に詩集『青猫』、『蝶を夢む』を刊行し、谷崎潤一郎に会う機会を得ました。

 上毛新聞主宰の「萩原朔太郎歓迎座談会」に出席し帰郷、「透谷会」の創立発起人となり、「透谷文学賞」が設立されますと、島崎藤村や武者小路実篤等と共に選考委員となります。この頃からおびただしい量の執筆・座談会・講演等をこなすようになります。

 1938年(昭和13年)に「新日本文化の会」の機関紙『新日本』を創刊、その年、『日本への回帰』を発表しました。この中で「日本主義」を主張し、一部から国粋主義者と批判されたりもします。

 しかし、やがて身体に変調を引き起こし、他界することとなりました。

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【 注 】

 【きょうの人】は、【Wikipedia】・当該関連サイトを参照・引用して作成しています。


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