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今日のうた

思いつくままに書いています

野火 1

2015-10-13 12:53:41 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
9月6日に、渋谷のユーロスペースで『野火(のび)』を観た。
『野火』予告編です。(You Tube)
        ↓
http://nobi-movie.com/

思いのほか若者が多く、カップルで来ている人もいる。
内容が内容なだけに一大決心をして観に来た私には、このような映画を一緒に
観るカップルがとても新鮮だった。
塚本晋也監督が、「是非、若者に観て欲しい。そして戦争のトラウマを負って欲しい」と
書いていたのを思い出した。

大分前から『野火』を映画化したいと聞いていたので、私は塚本を戦中派と勘違いしていた。
勘違いついでに言うと、この映画の監督を、戦中派の山本晋也とばかり思っていた。
更に塚本が田村一等兵を演じていたのだが、途中まで高橋克実が演じているものと思っていた。
塚本は1960年生まれで、もちろん戦争を知らない。
映画を観たその日に、BS朝日の『ザ・インタビュー』に塚本が出ていた。
物静かで奥ゆかしく、ご自分の世界をしっかりお持ちの素敵な方だった。
映画を観ての私の感想を書きます。  (敬称略)

私は最初の場面が好きだ。結核を患って使いものにならない田村一等兵は、野戦病院に行く
ように言われる。だが芋を少ししか持ち合わせていない田村は、受け入れてもらえない。
仕方なく部隊に帰っても、また病院に行くように言われる。どこに行っても厄介者なのだ。
いつ殺されるかわからない戦場で、食べ物もなくひとり彷徨う。この世のどこにも
居場所がないように。

その後、煙草で芋を巻き上げて生きている負傷兵の安田、彼の使いぱしりの永松や
伍長等と出会う。極限の飢えを抱えて、手足が飛び、内臓が破裂し、血が辺りを染める戦闘に
身を置くことになる。
戦闘シーンだけでなく、田村の血糊のついた顔や泥が干からびた手、伸びた鼻毛などがリアルに
描かれている。これでもかという戦闘シーンで、私は何度のけぞったか分らない。
それと対比するように、レイテ島の自然の美しさが圧巻だ。
地上の地獄を相殺してしまうほどの美しさなのだ。

映画館を出ると自分が今、どこにいるのか分らなくなった。まるで離人症のように駅まで
歩いた。では、私の中でこの映画がトラウマとして残ったのか。
次の日になると、レイテ島のダイナミックな美しさを思い出した。
だが血なまぐさいシーンが記憶には残ったものの、心まで侵すことはなかった。

その後、新潮社(百八刷改版)の大岡昇平著『野火』を読んだ。
そして映画とは全く別の印象を受けた。
映画は最初の場面を除いて、田村は人の中にいる。だが小説では、田村はほぼ一人で
行動する。一人で野山を彷徨い、食糧を確保し、生き延びる術を探る。
彼に働きかけるものは何もない。ただただ二十四時間、自分と向き合う。
あるのは自意識だけだ。
飢えと恐怖と孤独の中で、田村は次第に神を意識してゆく。
そしてこのことが、この小説のテーマだと思った。
解説で吉田健一が書いているように、まるでこのことのために極限状態である戦場が
必要だったのではないかと思えてくる。
吉田は「それは、小説が精神の実験を行う場所になることを意味している」と書いている。
田村が島を自問自答しながら彷徨う姿が、一番私の心に残った。

負傷兵の安田を演じるリリー・フランキーが出色だ。彼は安田にしか見えなかった。
永松を演じる森優作は、1989年生まれだ。すごい才能を感じた。
次に、小説『野火』で心に残った言葉を引用させて頂きます。 2につづく

●1959年公開の市川崑監督『野火』が、11月18日(水)13:00~14:45に
 NHK BSプレミアムで放送されます。
 塚本晋也監督の『野火』とどのように違うのか、制作した時代背景を考えながら
 観たいと思います。
(2015年11月14日 記)

再度、市川崑監督『野火』が、2016年7月29日(金)13:00~14:45に
NHK BSプレミアムで放送されます。
(2016年7月23日 記)

追記1
市川崑監督の『野火』を観る。
塚本晋也監督の『野火』が、カラーで非日常の中の戦争をドラマチックに描いて
いるのに対し、市川監督の『野火』は、モノクロで日常の中の戦争を淡々と描いている。
田村一等兵は、弱々しげで、お人好しで、素直な人間として描かれている。
観客は彼と共に歩き、共に感じ、心を添わせることができる。
田村を演じる船越英二が、なんともチャーミングなのだ。
ラストシーンでは、危険を顧みずに、トウモロコシの殻を焼く人間の営みの場所である
野火に近づいて行く。この田村の姿が、全てを物語っていると思った。
これほどの戦争映画は、もう作れないのではないだろうか。
日本映画の金字塔だと、私は思います。
(2015年11月19日 記)
          ↓


(画像はお借りしました)


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野火 2

2015-10-13 12:53:21 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
私は哄笑(こうしょう)を抑えることが出来なかった。
愚劣な作戦の犠牲となって、一方的な米軍の砲火の前を、虫けらのように逃げ惑う
同胞の姿が、私にはこの上なく滑稽(こっけい)に映った。彼らは殺される瞬間にも、
誰が自分の殺人者であるかを知らないのである。
私に彼等と何のかかわりがあろう。
私はなおも笑いながら、眼の下に散らばった傷兵に背を向けて、径を上り出した。

「天皇陛下様。大日本帝国様」
と彼はぼろのように山蛭をぶら下げた顔を振りながら、叩頭(こうとう)した。
「帰りたい。帰らせてくれ。戦争をよしてくれ。俺は仏だ。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)。なんまいだぶ。合掌」
しかし死の前にどうかすると病人に訪れることのある、あの意識の鮮明な瞬間、
彼は警官のような澄んだ眼で、私を見凝(みつ)めていった。
「何だお前まだいたのかい。可哀(かわい)そうに。俺(おれ)が死んだら、
ここを食べてもいいよ」彼はのろのろと痩(や)せた左手を挙げ、右手で
その上膊部(じょうはくぶ)を叩(たた)いた。

私がその腕から手を放すと、蠅が盛り上った。皮膚の映像の消失は、
私を安堵(あんど)させた。
そして私はその屍体の傍(そば)を離れることは出来なかった。
雨が来ると、山蛭(やまひる)が水に乗って来て、蠅と場所を争った。
虫はみるみる肥(ふと)って、屍体の閉じた眼の上辺から、睫毛(まつげ)のように、
垂れ下がった。私は私の獲物を、その環形動物は貪(むさぼ)り尽すのを、
無為に見守ってはいなかった。もぎ離し、ふくらんだ体腔(たいこう)を
押し潰(つぶ)して、中に充(み)ちた血をすすった。
私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を
摂(と)るのに、罪も感じない自分を変に思った。
この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、
血をすするのと、原則として何の区別もないわけである。

この物体は「食べてもいいよ」といった魂とは、別のものである。
私はまず屍体を蔽った蛭を除けることから初めた。上膊部の緑色の皮膚
(この時、私が彼に「許された」部分から始めたところに、私の感傷の名残を認める)が、
二、三寸露出した。私は右手で剣を抜いた。
その時変なことが起った。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
この奇妙な運動は、以来私の左手の習慣と化している。
私が食べてはいけないものを食べたいと思うと、その食物が目の前に出される前から、
私の左手は自然に動いて、私の匙(さじ)を持つ方の手、つまり右手の手首を、
上から握るのである。私が行っては行けないところへ行こうと思う。
私の左手は、幼時から第一歩を踏み出す習慣になって
いる足、つまり右足の足首を握る。そしてその不安定な姿勢は、私がその間違った
意志を持つのを止(や)めたと、納得するまで続くのである。

万物が私を見ていた。丘々は野の末に、胸から上だけ出し、見守っていた。
樹々(きぎ)は様々な媚態(びたい)を凝らして、私の視線を捕えようとしていた。
雨滴を荷(にな)った草も、或(ある)いは私を迎えるように頭をもたげ、
或いは向うむきに倒れ伏して、顔だけ振り向いていた。
私は彼等に見られているのがうれしかった。

「あたし、食べてもいいわよ」と突然その花がいった。私は飢えを意識した。
その時再び私の右手と左手が別々に動いた。手だけでなく、右半身と左半身の全体が、
別もののように感じられた。飢えているのは、たしかに私の右手を含む右半身であった。
私の左半身は理解した。私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、
それ等な実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。
生きているからである。

この垂れ下った神の中に、私は含まれ得なかった。その巨大な体躯(たいく)と
大地の間で、私の体は軋(きし)んだ。
私は祈ろうとしたが、祈りは口を突いて出なかった。私の体が二つの半身に別れて
いたからである。私の身が変わらなければならなかった。  3につづく






(画像はお借りしました)


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野火 3

2015-10-13 12:52:51 | ④映画、テレビ、ラジオ、動画
2020年2月27日(木)13:00から、塚本晋也監督・主演の『野火』が
 NHKBSで放送されます。

もし私が神に愛されているのがほんとなら、何故私はこんなところにいるのだろう。
こんな蔭のない河原に、陽(ひ)にあぶられて、横たわっていなければならないのか。
雨は来ないか。水は涸(か)れ、褐色の礫(こいし)の間に、砂が、かつて流れた
水の跡を示して、ゆるく起伏しているだけである。
雲もなく、晴れた空は、見上げると、奥にぱっと光が破裂する。眼を閉じる。
何故、こんなに蠅が来るのだろう。唸って飛び廻(まわ)り、干いた頬(ほお)に
止まって、むずむず動く。眼とか鼻孔とか口とか耳とか、やわらかいところを、
大きな嘴(くちばし)でつつく。
何故私の手は、右も左も、蠅を共に追い払おうとしないのか。私の体はただだるく感じる。
しかし私の心は、自分が生きなければならないという理由だけで、他の生物を食うのは
止(よ)そうと決意した以上、自分が食われるのを覚悟しなければならぬ、
だから私の手は、私の粘膜を貪る昆虫(こんちゅう)を追おうとはしないのだと
思う。眼だけは勘弁してくれ、見る楽しみだけは残しておいてくれ。……

この田舎にも朝夕配られて来る新聞の報道は、私の最も欲しないこと、
つまり戦争をさせようとしているらしい。現代の戦争を操る少数の紳士諸君は、
それが利益なのだから別として、再び彼等に欺(だま)されたいらしい人達を
私は理解出来ない。恐らく彼等は私が比島の山中で遇(あ)ったような目に遇うほかは
あるまい。その時彼等は思い知るであろう。戦争を知らない人間は、
半分は子供である。

不本意ながらこの世に帰って来て以来、私の生活はすべて任意のものとなった。
戦争へ行くまで、私の生活は個人的必要によって、少なくとも私にとっては必然であった。
それが一度戦場で権力の恣意(しい)に曝(さら)されて以来、すべてが偶然となった。
生還も偶然であった。
その結果たる現在の生活もみな偶然である。今私の目の前にある木製の椅子(いす)を、
私は全然見ることが出来なかったかも知れないのである。
もし私の現在の偶然を必然と変える術(すべ)ありとすれば、それはあの権力のために
偶然を強制された生活と、現在の生活とを繋げることであろう。
だから私はこの手記を書いているのである。

思い出した。彼等が笑っているのは、私が彼等を食べなかったからである。
殺しはしたけれど、食べなかった。殺したのは、戦争とか神とか偶然とか、
私以外の力の結果であるが、たしかに私の意志では食べなかった。だから私はこうして
彼等と共に、この死者の国で、黒い太陽を見ることが出来るのである。

もし私が私の傲慢(ごうまん)によって、罪に堕(お)ちようとした丁度その時、
あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば――
もし神が私を愛したため、予(あらかじ)めその打撃を用意し給(たも)うたならば――
もし打ったのが、あの夕陽の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人である
ならば――
もし、彼がキリストの変身であるならば――
もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば――
神に栄えあれ。  (引用ここまで)

※レイテ島での日本兵の戦没者は約8万人と推測され、フィリピン全体では約50万人に
 のぼった。そのうちの8割が飢餓や病気による戦病死と言われている。
 2014年7月13日の私のブログ「ゆきゆきて、神軍」にも「人肉食」のことが
 書いてあります。鬼気迫るドキュメンタリーなのでお奨めします。
 DVDを借りることができます。





(画像はお借りしました)

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