三立台湾台で、台湾での竹製品作りを取り上げていた(2004年11月6日)。その一つを見ていて、まったく忘れていた、一つの道具を思い出した。
日本では、おそらく箕(み)と言われていた品だが、太い竹を割いて薄い板にし、何枚か重ねて馬蹄形に曲げ、それを両端にして、馬蹄形の丸い隙間に細かい竹の籖(ひご)を籠状に編み込んで、手元側は深く、手前側に行くほど、浅くなる形に仕上げるものだ。手前側の深いところに、豆などを入れて、馬蹄形の両端を持って、振動させると、ゴミや殻などが浮いて、豆本体だけを残すことができる。
お茶農家をしている叔父の家に子供の頃遊びに行ったとき、日当たりの良い広い前庭に莚が一面に広げてあり、そこに小さく茶色い半円形のものが、たくさん置いてあった。拾って中を出してみると、中から赤い小さい粒がたくさん転がり出てきた。野良着を着た、その頃はまだ健在だった祖母に聞いてみると、「小豆を干しているところだ」という答えだった。見ていると祖母は、乾いた豆の莢をむいて中から、小豆を出し、また莚の上に広げて干し始めた。莢が乾くにつれて、前庭は茶色から小豆色に変わっていった。午後になって、また見ると、祖母は、干し上がった小豆を、竹の籠のようなものに入れて、両手でゆすり、ごみを吹き飛ばしていた。面白そうなので、やらしてくれと頼んだが、竹の籠のような道具は、豆を入れると結構子供には重く、ゴミを飛ばすつもりが、却って豆をぶちまけてしまった。
それを「箕」と言うのだということは、たぶん小学校で聞いたのだろう。通っていた小学校の校庭には、低学年の頃にはまだ、周りに柵がないところがあり、隣の畑や荒れ地と区別がつかない処が多かった。校庭には、大小さまざまな石が埋まったり転がったりしていて、小さい石かと思って掘り出すと、二十センチから三十センチもある、河原にあるようなまるい石だったりした。小石は、無数にあった。体育の時間は、ときどき石拾いの時間になった。遊んでいて転んだりすると、小石で膝を切ったり、また、石を投げ合って遊んでいるうちに喧嘩になり、頭に当たって瘤ができたりしたこともよくあった。事故防止をかねて、皆で石拾いをしていたのだ。そんなときに先生が、石を入れるのに使っていたのが、竹製の箕だった。何か別の呼び方をしていたようにも思うが、今は思い出せない。
小学校の正門から入ると、右手にプールがあった。左手の方には、古い木造校舎を先頭に、モルタル作りの校舍が二つ並び、さらに、左手の一番奥の崖側に三階建ての鉄筋コンクリートの校舍、その右手に、一番新しい音楽室などがある三階建ての鉄筋の校舎があった(低学年の頃はなく、いつできたのかはっきり覚えていないが、六年生のときは、その新しい校舍だった)。右手には、プールの脇にもう一つ、門があって、藤棚と砂場、鉄棒、鉄製のジャングルジムなどがあり、そこに大きな楠が生えていて、その脇に体育器具倉庫があった。扉を開けると、グランドに白線を引いたりする石灰の粉がもうもうと舞い上がって、埃くさい臭いがしていた。中には、跳び箱、マット、運動会に使うテントや万国旗、徒競走の順位を示すはた立て、ライン引きなどがあり、扉側に掃除に使う竹箒と箕がかけてあった。
体育倉庫の裏側は、まだ柵が無くて、グランドで拾った小石を捨てる、斜面になっていた。その先は、一部は畑だったが、半分は、薄や筱竹などが茂った荒れ地で、休み時間、先生から出てはいけないと言われていたが、よく隠れん坊の場所になっていた。体育や掃除の時間、拾った小石を箕に入れて二人で持ち、そこまで棄てに行った。小石を入れると子供の力では、かなり重たい物だったように覚えている。あるとき、何かにつまずいて、中身全部をぶちまけてしまい、先生から怒鳴られ、もう一度、拾い集めた記憶も残っている。町の学校で、全校生徒1600名という大所帶で決して、何もかもが揃った学校ではなかったが、人が行かない木立の裏や柵のない空地など、「無用」の空間が学校の管理された空間に繋がっていて、その分、自由に子供の空間を持つことができた。
テレビで、箕を見て、こんな記憶が次々に浮かんできた。
記憶の中の、子供時代の町の様子や、小学校の光景は、いつも同じだ。
運動場も子供の目には、随分広く映っている。3階建ての校舍も、見たことのないビルの高さで、25Mプールは泳いでも泳いでもなくならないぐらい広く感じられた。家から学校まで通う道も長く、道幅も広かった。
この夏、もう20年以上見ていなかった、子供時代の町へ、上の子を連れて行った。町へ行く道路は変わっていなかったが、記憶に残っている建物の多くは、建て替えられたり、廃屋になっていたり、空地に変わっていたりした。空地は家に変わったところもあり、草茫茫の荒れ地もマンションに変わっていた。小学校の前の道は、あれほど広く感じられたのが嘘のように狭かった。正門前に車を止めて、子供と二人下りてみた。昔の校舍は、奧にあった二つの鉄筋の校舍以外まったく残っていなかった。大きい楠や遊具も無くなっていた。学校前のI文房具店ももう店を閉めていた。近くにあった商店街は、全部店を閉めて、寂れた人通りのない小径になってしまっていた。20年の月日は、町の様子を殆ど変えていた。
以前、荒れ地で筱竹や畑が広がっていた場所が、今、新しい街に生まれ変わっていた。縄文時代のS遺跡があって、小学校の頃、「探検」と称して、友達のMなどと自転車で通っていた場所が、今は、新しい住宅地と商店街になっていた。長男は、S遺跡の貝塚や豎穴式住居を珍しそうに、眺めたり、家屋の中に入ったりした。町へ行く前に寄った、戦国時代の遺跡といえる城跡も興味深く感じたようだが、小学校やこうした遺跡の遊び場も面白かったようだ。
夏休みだが、もう遊ぶ子供の影もない、遺跡を後に、繁華な新しい商店街が広がる通りを見ながら、故郷の町を離れた。
日本では、おそらく箕(み)と言われていた品だが、太い竹を割いて薄い板にし、何枚か重ねて馬蹄形に曲げ、それを両端にして、馬蹄形の丸い隙間に細かい竹の籖(ひご)を籠状に編み込んで、手元側は深く、手前側に行くほど、浅くなる形に仕上げるものだ。手前側の深いところに、豆などを入れて、馬蹄形の両端を持って、振動させると、ゴミや殻などが浮いて、豆本体だけを残すことができる。
お茶農家をしている叔父の家に子供の頃遊びに行ったとき、日当たりの良い広い前庭に莚が一面に広げてあり、そこに小さく茶色い半円形のものが、たくさん置いてあった。拾って中を出してみると、中から赤い小さい粒がたくさん転がり出てきた。野良着を着た、その頃はまだ健在だった祖母に聞いてみると、「小豆を干しているところだ」という答えだった。見ていると祖母は、乾いた豆の莢をむいて中から、小豆を出し、また莚の上に広げて干し始めた。莢が乾くにつれて、前庭は茶色から小豆色に変わっていった。午後になって、また見ると、祖母は、干し上がった小豆を、竹の籠のようなものに入れて、両手でゆすり、ごみを吹き飛ばしていた。面白そうなので、やらしてくれと頼んだが、竹の籠のような道具は、豆を入れると結構子供には重く、ゴミを飛ばすつもりが、却って豆をぶちまけてしまった。
それを「箕」と言うのだということは、たぶん小学校で聞いたのだろう。通っていた小学校の校庭には、低学年の頃にはまだ、周りに柵がないところがあり、隣の畑や荒れ地と区別がつかない処が多かった。校庭には、大小さまざまな石が埋まったり転がったりしていて、小さい石かと思って掘り出すと、二十センチから三十センチもある、河原にあるようなまるい石だったりした。小石は、無数にあった。体育の時間は、ときどき石拾いの時間になった。遊んでいて転んだりすると、小石で膝を切ったり、また、石を投げ合って遊んでいるうちに喧嘩になり、頭に当たって瘤ができたりしたこともよくあった。事故防止をかねて、皆で石拾いをしていたのだ。そんなときに先生が、石を入れるのに使っていたのが、竹製の箕だった。何か別の呼び方をしていたようにも思うが、今は思い出せない。
小学校の正門から入ると、右手にプールがあった。左手の方には、古い木造校舎を先頭に、モルタル作りの校舍が二つ並び、さらに、左手の一番奥の崖側に三階建ての鉄筋コンクリートの校舍、その右手に、一番新しい音楽室などがある三階建ての鉄筋の校舎があった(低学年の頃はなく、いつできたのかはっきり覚えていないが、六年生のときは、その新しい校舍だった)。右手には、プールの脇にもう一つ、門があって、藤棚と砂場、鉄棒、鉄製のジャングルジムなどがあり、そこに大きな楠が生えていて、その脇に体育器具倉庫があった。扉を開けると、グランドに白線を引いたりする石灰の粉がもうもうと舞い上がって、埃くさい臭いがしていた。中には、跳び箱、マット、運動会に使うテントや万国旗、徒競走の順位を示すはた立て、ライン引きなどがあり、扉側に掃除に使う竹箒と箕がかけてあった。
体育倉庫の裏側は、まだ柵が無くて、グランドで拾った小石を捨てる、斜面になっていた。その先は、一部は畑だったが、半分は、薄や筱竹などが茂った荒れ地で、休み時間、先生から出てはいけないと言われていたが、よく隠れん坊の場所になっていた。体育や掃除の時間、拾った小石を箕に入れて二人で持ち、そこまで棄てに行った。小石を入れると子供の力では、かなり重たい物だったように覚えている。あるとき、何かにつまずいて、中身全部をぶちまけてしまい、先生から怒鳴られ、もう一度、拾い集めた記憶も残っている。町の学校で、全校生徒1600名という大所帶で決して、何もかもが揃った学校ではなかったが、人が行かない木立の裏や柵のない空地など、「無用」の空間が学校の管理された空間に繋がっていて、その分、自由に子供の空間を持つことができた。
テレビで、箕を見て、こんな記憶が次々に浮かんできた。
記憶の中の、子供時代の町の様子や、小学校の光景は、いつも同じだ。
運動場も子供の目には、随分広く映っている。3階建ての校舍も、見たことのないビルの高さで、25Mプールは泳いでも泳いでもなくならないぐらい広く感じられた。家から学校まで通う道も長く、道幅も広かった。
この夏、もう20年以上見ていなかった、子供時代の町へ、上の子を連れて行った。町へ行く道路は変わっていなかったが、記憶に残っている建物の多くは、建て替えられたり、廃屋になっていたり、空地に変わっていたりした。空地は家に変わったところもあり、草茫茫の荒れ地もマンションに変わっていた。小学校の前の道は、あれほど広く感じられたのが嘘のように狭かった。正門前に車を止めて、子供と二人下りてみた。昔の校舍は、奧にあった二つの鉄筋の校舍以外まったく残っていなかった。大きい楠や遊具も無くなっていた。学校前のI文房具店ももう店を閉めていた。近くにあった商店街は、全部店を閉めて、寂れた人通りのない小径になってしまっていた。20年の月日は、町の様子を殆ど変えていた。
以前、荒れ地で筱竹や畑が広がっていた場所が、今、新しい街に生まれ変わっていた。縄文時代のS遺跡があって、小学校の頃、「探検」と称して、友達のMなどと自転車で通っていた場所が、今は、新しい住宅地と商店街になっていた。長男は、S遺跡の貝塚や豎穴式住居を珍しそうに、眺めたり、家屋の中に入ったりした。町へ行く前に寄った、戦国時代の遺跡といえる城跡も興味深く感じたようだが、小学校やこうした遺跡の遊び場も面白かったようだ。
夏休みだが、もう遊ぶ子供の影もない、遺跡を後に、繁華な新しい商店街が広がる通りを見ながら、故郷の町を離れた。