年末とは思えない暖かい日が続いている。以前ならこの季節は冬の季節風が強く、灰白色の雲が空を覆って、ほとんど雨模様で、冬の日本海岸のような風情がだいたい三月まで続いたものだったが、この二三年、次第に冬の曇天に冬晴れの日射しが射す日が多くなっている。今年も、12月4日初めに台風が来たりして、暖かい日が続き、晴れ間を見ることが多い。
近くのミッション系の学校では、数年前からクリスマスの飾りを校庭の立ち木を使ってするようになり、自宅や近くのマンション街でも、入り口にクリスマスの飾り付けをしている建物をよく見かける。2月14日のバレンタインデーなども最近は人出が多くなったが、十年ほど前に台湾に来たときは、こうした外来の祝祭を楽しむ習慣は、まだなかった。
朝から暖かい日射しが射していたので、下の子を連れて散歩に出かけた。よく行っている学校のグランドで、暫く遊ぶことにした。日射しが、明るく当りを照らしている。よく茂った容樹の枝が風に揺られて、かすかにきしみ声をあげている。フィールドの真ん中で犬が二匹、寝ころんで日当ぼっこを楽しんでいた。子供は、二匹を見つけて、「アチェー、アチェー」と言いながら、勇んで駆けだした。犬は子供が近づいても、眠たそうに、顔を少しもたげたままで、動こうとはしない。日射しを浴びて暖かそうだ。
暫く犬の顔を見ていた子供は、「バイバイ」と手を振って、また、歩き出した。犬は、顏を挙げて見送っていたが、また、顔を足の間に、入れてうとうとし始めた。
私達がちょうどグランドを出ようとしたときだった。強い風がトラックの左手から砂を巻き上げて、吹き寄せてきた。風は勢いを弱めることなく、そのまま右手へと一気に吹きつのった。砂塵が渦になってグランドの上に巻き上がり、犬たちのいるあたりを通り過ぎた。砂の当たる勢いに驚いたのか、犬たちは一瞬、顔を上げたが、風が通りすぎると、何事もなかったようにまた、顔を下ろしてしまった。
風が起こした砂塵は、大きな波が通り過ぎたあとも、グランドのあちらこちらに小さな渦を残し、そうした小旋風は小さいながらも、同じように砂塵を渦にして、やがて、消えていった。
こうした砂塵をこの前見たのは、いったいいつだったろうか。
幼稚園や小学生の頃、季節風の通り道だった故郷の街は、冬になると、晴れれば、必ずと言っていいほど、強い北風が、吹き付けた。その風にあおられて、校庭の運動場からは、猛烈な砂塵が教室の方へ吹き付けた。砂埃が龍巻状に巻き上げられるのもよく見た。体育の時間、校庭で整列している私達の小さな隊列に、巨大な砂塵が襲いかかることも珍しくなかった。小石が混じった細かい砂が目や鼻、耳、口の中まで入り込んできた。小石が当たるので、まともに顔を風上に向けていることはできなかった。或る体育の時間、あまりに風が強く砂埃がひどくなって、整列しながら先生の話を聞いていた私達の列は、風を避けようとして四分五列になってしまった。顔に次々に小石が当たり、とても立っていられない。先生は風の当たらない体育倉庫の裏手に私達を移動させて、「休め」と言った。先生の白い体操服や帽子も埃で斑になっていた。
風下にあった教室では、屋内や廊下に細かい砂埃が積もって、掃除するとき、一苦労だったような気がする。放課後、人通りの少ない廊下に薄く積もった砂埃で、友達と絵を描いて遊んだこともあったが、却って、掃除ができていないと言われ、やり直しをさせられたこともあった。パートで勤めていた母が、夕方、晩ご飯の材料を買った買い物袋を付けた自転車を押して、帰ってくるときも、冷たい風に吹きさらされて、凍えそうな様子で、帰ってきた。
冬の夕暮れは早く、四時を回ればもう、西の空に紅い色をにじませて陽は、沈みかけていた。夏の日射しがつくる日陰は、涼しそうな黒い影だが、冬の夕焼け空の下に長くのびた影は、秋以上に侘びしく心細い感じがした。夏なら放課後、夕食ができる六時頃まで三時間以上は戸外で遊べたのに、冬は、日が沈むと、ことさら風が冷たく、遊んではいられなかった。中学校にあがって、『枕草子』の「春は曙」の抜粋を読んだとき、「秋は夕暮」の箇所も読んだが、冬の日の傾きのほうがさらに寂しい。
道路が舗装されるにつれ、砂塵を浴びることもほとんどなくなってしまったが、故郷には故郷の「厳冬」があり、台湾に来てからは台湾の「厳冬」があった。
12月11日は、台湾の立法委員選挙が行なわれた。日本の衆議院議員選挙にあたる。今学期から上の子が、先学期まで行っていた公立学校から私立学校に転校した関係で、朝は六時に起きて、子供の朝食、といってもパンとミルクだけだが、を準備して、スクールバスが来る時間に送っていく。夜もその分早くなり、九時には寝てしまう。長男を寝かしつけるので、彼が読んでほしい本を何か読んで聞かせながら、私も一緒に、横になる。そのまま寝てしまうときもあれば、途中で目が覚めてしまったり、次男の夜泣きで、ミルクを作りに起きたりして、最近は、睡眠リズムが乱れている。その日も朝、早く目が覚めて眠れなくなり、起きてしまったが、睡眠不足で気分が悪く、機嫌が悪かった。日が射していたが、湿気が多く、冬なのに蒸し蒸しとして、長袖を着ると汗をかくぐらい暑苦しく、かといって、袖を上げると今度は、肌寒くていられなかった。
台湾に来たばかりの頃、驚いたのは、夏の涼しさと、冬の厳しさだった。直射日光に照らされていれば別だが、亜熱帯で北回帰線が通る台湾の夏が暑いとはいっても、日射しが遮られる木陰や物陰に入れば、ひんやりとする空気が感じられ、心地好かった。地下の駐車場では、鍾乳洞に入ったときのような、冷気を感じた。ビルの建て込んだ台北市内の小さな公園でも、木陰に椅子を出して、日中涼みながら話しているお年寄りの姿を見ることも珍しくなかった。街路樹が茂った歩道は、日射しが当たらず朝の露が残って昼でも湿っていた。また、壁が厚い台湾の鉄筋コンクリート式のマンションは、夏の日射しを防ぐように窓の位置が工夫されていて、窓を開けておけば風が通り、戸外は照付ける太陽でまぶしい日中でも、室温が三十度を越えることはなかった。「猛暑」には違いないが、その中で、それを避けることは難しくはなかったのだ。だが逆に、冬は、殊のほか厳しさを感じた。ニュースでは「寒流」というが、寒波が日本に来るときには、台湾にも東北季節風が吹き付け、北部では気温が朝方など十度以下になることは、よくあることだ。最低気温が四度などと報道されたこともあった。日本の太平洋岸の冬は乾燥しているから、風を避け日射しを受けるようにすれば、日中はかなり暖かく、うとうとしてしまうことも珍しくない。午後の授業が冬になると殊更眠たく感じられたのも、そんな天気のいい日の教室でのことだった。しかし、台湾北部の冬は、「短日」どころか、十二月から三月まで、よくて曇天、寒気が厳しければ毎日陰陰とした雨が風に吹きつけられ、湿度が高く、冬服に防寒着を重ねていないと寒くて室内でも過ごせない。炬燵や灯油式の暖房器具はなく、下がった室温を上げるには、電熱ヒーターか空調暖房を使ったが、そうした器具に部屋全体を温めるほどの熱量はなかった。多雨のため結露することも多く、「潮濕」と言っているが、寝具や衣服は梅雨時のように湿気て重く、本棚に入れた書類や写真などは以前、手で触ったところから黴が生えていたりした。乾燥食品や買い置きの米などが全滅することもあった。「あなた、椎茸が全部黴びてしまったわ」という宣伝文句で、湿気を防ぐ容器を宣伝していたのを覚えている。そんなときには、窓とドアを閉めきりにして除湿機を一日中かけておく必要があった。
生まれて二ヶ月あまりの次男を、失ったのもそんな冬だった。寒さを寝具で防ごうとして、布団を掛けすぎたため、その頃はいいと言われていたうつ伏せ寝の首を次男が動かした拍子に、布団に口がふさがれ、気が付いたときには、もう手遅れだった。一週間ばかり経って、寂しい野辺送りに火葬場へ行ったとき、何件か葬儀があったが、次男の小さな棺に並んで、同じ大きさの柩が置かれていた。その冬は、殊のほか、幼児の死亡が多かった。私たち夫婦がした失敗と同じ過ちをした家族が、たくさんあったのだ。
季節感についてあるとき、台湾人の同僚からこんな話を聞いたことがある。「日本は季節感がはっきりしているが、台湾にはありませんね。どうですか」日本人の滞在者から同じ様なことを言われたこともあった。学生向けの日本紹介の教科書にも似たような記述があるのを見た。勤め始めたばかりの頃だったが、そのときは、そうだろうなとしか、思わなかった。今思えば、日本の季節に伴って現れるものを、同じように台湾で探そうとしていたからだ。日本の春から夏への変化を、台湾で見つけようとしても、同じようにはならない。しかし、二三年経ってから、それがどこに現れるかは、非常に個性的だが、季節の変化はどの地域でも普遍だということが、少し、分かってきた気がした。日本では赤蜻蛉は、秋を告げる象徴かも知れないが、台湾では、春や秋の頃、同じように何回も見られる。薄の穂も同じで、日本では秋の頃にしか見られないが、台湾では、同じ気温の条件が有れば、やはり春でも秋でもかなりの期間、しかも何回も出ているようだ。おそらく夏の高温や冬の低温を避けたある温度の時期に、こうした生き物たちが、それを感じて動き出しているのである。
学生時代にお世話になった著名な仏教の先生から、「春というものがあるわけではない。春がきたことはどこで分かるのか。それは、桜が咲くことで分かる。日射しが柔らかくなることで分かる。木々に新緑が芽吹くことで分かる。春は、そうした個々のものをとおして働いているのだ。命のあるものはかならず働きかけずにはおかない」とお聞きしたことがある。実は、日本の春も、台湾の春も同じ春だ。しかし、その働きを受けて、動き出す生き物や大気の動きは、時期も種類も同じではない。合理的近代的な人ほど、「同じではない」点にしか目がいかないのかもしれない。それにしても、どの生き物もどの日の光もやはり春を伝えているのである。
個人の生活感でことが治まっていればいいが、集団化してくるとそうもいかない。多くの海外出身者が日本という地域で暮らすようになり、また、海外で日本語を学ぶ人々が増えてきている結果、「異文化理解」が、最近の日本語教育界では、一つのキーワードになっている。「互いの文化が違っていることが分かれば、理解が深まる」という意図なのだろう。確かに、違っていることに目を向けるのは、違う社会に入れば容易に気が付くことだ。日本で言えば、以前あった「ここが変だよ日本人」という番組で流していたのも、同じ発想から出たものの一つだろう。しかし、違っているというだけでは、実は、相手を認めることにも、何かを生み出す力にもならない。「異文化理解」は、一人一人が身体的にも精神的にも個性的であることを言っているのと同じ発想なのかもしれないが、個性的あるいは個別的であるだけでは、相手との接点は、同化あるいは従属するか、拒否あるいは消去するかしか、なくなってしまう。16世紀に、ホッブスが「万人の万人による闘争状態」と言った状態を、また繰り返すことになってしまう。「異文化理解」という命名から分かるように、合理的理性的であるだけに、日本人は、「違っていて当り前だ」という感覚にはならず、ことさら「同じか違うか」に敏感になりやすいのかもしれない。
台湾に来たばかりの頃、旧正月に「春聯」を付けた家々を見ると、「何とけばけばしいのだろう」と思って、異国情緒を感じることはできたが、自宅に付ける気にはならなかった。毎年替わる旧正月より、新暦の正月を懐かしく思ったこともあった。しかし、春の息吹を感じ、地球の公転に合わせて年輪を刻む「新春を祝う」という人間の生命の営みから言えば、「春聯」であれ、「クリスマス」であれ、「お飾り・門松」であれ、みな同じ「春」の働きの象徴である。「春」が働きかけるように、命が「人間」という存在をとおして、個々の文化や社会で働いていることに目を向けると、共通する点がたくさんあることがわかってくる。最近、やっとそんなことが言えるようになってきた。「異文化理解」あるいは「他者理解」は、こうした共通した働きの場をどれだけ見出せるかという点にかかっているのではないか。「砂埃」もそれぞれの文化圈で季語として、働きうるものだし、個人に刻まれた記憶でもある。
新しい年の出発を、そうしたところから迎えたいと思っている。
近くのミッション系の学校では、数年前からクリスマスの飾りを校庭の立ち木を使ってするようになり、自宅や近くのマンション街でも、入り口にクリスマスの飾り付けをしている建物をよく見かける。2月14日のバレンタインデーなども最近は人出が多くなったが、十年ほど前に台湾に来たときは、こうした外来の祝祭を楽しむ習慣は、まだなかった。
朝から暖かい日射しが射していたので、下の子を連れて散歩に出かけた。よく行っている学校のグランドで、暫く遊ぶことにした。日射しが、明るく当りを照らしている。よく茂った容樹の枝が風に揺られて、かすかにきしみ声をあげている。フィールドの真ん中で犬が二匹、寝ころんで日当ぼっこを楽しんでいた。子供は、二匹を見つけて、「アチェー、アチェー」と言いながら、勇んで駆けだした。犬は子供が近づいても、眠たそうに、顔を少しもたげたままで、動こうとはしない。日射しを浴びて暖かそうだ。
暫く犬の顔を見ていた子供は、「バイバイ」と手を振って、また、歩き出した。犬は、顏を挙げて見送っていたが、また、顔を足の間に、入れてうとうとし始めた。
私達がちょうどグランドを出ようとしたときだった。強い風がトラックの左手から砂を巻き上げて、吹き寄せてきた。風は勢いを弱めることなく、そのまま右手へと一気に吹きつのった。砂塵が渦になってグランドの上に巻き上がり、犬たちのいるあたりを通り過ぎた。砂の当たる勢いに驚いたのか、犬たちは一瞬、顔を上げたが、風が通りすぎると、何事もなかったようにまた、顔を下ろしてしまった。
風が起こした砂塵は、大きな波が通り過ぎたあとも、グランドのあちらこちらに小さな渦を残し、そうした小旋風は小さいながらも、同じように砂塵を渦にして、やがて、消えていった。
こうした砂塵をこの前見たのは、いったいいつだったろうか。
幼稚園や小学生の頃、季節風の通り道だった故郷の街は、冬になると、晴れれば、必ずと言っていいほど、強い北風が、吹き付けた。その風にあおられて、校庭の運動場からは、猛烈な砂塵が教室の方へ吹き付けた。砂埃が龍巻状に巻き上げられるのもよく見た。体育の時間、校庭で整列している私達の小さな隊列に、巨大な砂塵が襲いかかることも珍しくなかった。小石が混じった細かい砂が目や鼻、耳、口の中まで入り込んできた。小石が当たるので、まともに顔を風上に向けていることはできなかった。或る体育の時間、あまりに風が強く砂埃がひどくなって、整列しながら先生の話を聞いていた私達の列は、風を避けようとして四分五列になってしまった。顔に次々に小石が当たり、とても立っていられない。先生は風の当たらない体育倉庫の裏手に私達を移動させて、「休め」と言った。先生の白い体操服や帽子も埃で斑になっていた。
風下にあった教室では、屋内や廊下に細かい砂埃が積もって、掃除するとき、一苦労だったような気がする。放課後、人通りの少ない廊下に薄く積もった砂埃で、友達と絵を描いて遊んだこともあったが、却って、掃除ができていないと言われ、やり直しをさせられたこともあった。パートで勤めていた母が、夕方、晩ご飯の材料を買った買い物袋を付けた自転車を押して、帰ってくるときも、冷たい風に吹きさらされて、凍えそうな様子で、帰ってきた。
冬の夕暮れは早く、四時を回ればもう、西の空に紅い色をにじませて陽は、沈みかけていた。夏の日射しがつくる日陰は、涼しそうな黒い影だが、冬の夕焼け空の下に長くのびた影は、秋以上に侘びしく心細い感じがした。夏なら放課後、夕食ができる六時頃まで三時間以上は戸外で遊べたのに、冬は、日が沈むと、ことさら風が冷たく、遊んではいられなかった。中学校にあがって、『枕草子』の「春は曙」の抜粋を読んだとき、「秋は夕暮」の箇所も読んだが、冬の日の傾きのほうがさらに寂しい。
道路が舗装されるにつれ、砂塵を浴びることもほとんどなくなってしまったが、故郷には故郷の「厳冬」があり、台湾に来てからは台湾の「厳冬」があった。
12月11日は、台湾の立法委員選挙が行なわれた。日本の衆議院議員選挙にあたる。今学期から上の子が、先学期まで行っていた公立学校から私立学校に転校した関係で、朝は六時に起きて、子供の朝食、といってもパンとミルクだけだが、を準備して、スクールバスが来る時間に送っていく。夜もその分早くなり、九時には寝てしまう。長男を寝かしつけるので、彼が読んでほしい本を何か読んで聞かせながら、私も一緒に、横になる。そのまま寝てしまうときもあれば、途中で目が覚めてしまったり、次男の夜泣きで、ミルクを作りに起きたりして、最近は、睡眠リズムが乱れている。その日も朝、早く目が覚めて眠れなくなり、起きてしまったが、睡眠不足で気分が悪く、機嫌が悪かった。日が射していたが、湿気が多く、冬なのに蒸し蒸しとして、長袖を着ると汗をかくぐらい暑苦しく、かといって、袖を上げると今度は、肌寒くていられなかった。
台湾に来たばかりの頃、驚いたのは、夏の涼しさと、冬の厳しさだった。直射日光に照らされていれば別だが、亜熱帯で北回帰線が通る台湾の夏が暑いとはいっても、日射しが遮られる木陰や物陰に入れば、ひんやりとする空気が感じられ、心地好かった。地下の駐車場では、鍾乳洞に入ったときのような、冷気を感じた。ビルの建て込んだ台北市内の小さな公園でも、木陰に椅子を出して、日中涼みながら話しているお年寄りの姿を見ることも珍しくなかった。街路樹が茂った歩道は、日射しが当たらず朝の露が残って昼でも湿っていた。また、壁が厚い台湾の鉄筋コンクリート式のマンションは、夏の日射しを防ぐように窓の位置が工夫されていて、窓を開けておけば風が通り、戸外は照付ける太陽でまぶしい日中でも、室温が三十度を越えることはなかった。「猛暑」には違いないが、その中で、それを避けることは難しくはなかったのだ。だが逆に、冬は、殊のほか厳しさを感じた。ニュースでは「寒流」というが、寒波が日本に来るときには、台湾にも東北季節風が吹き付け、北部では気温が朝方など十度以下になることは、よくあることだ。最低気温が四度などと報道されたこともあった。日本の太平洋岸の冬は乾燥しているから、風を避け日射しを受けるようにすれば、日中はかなり暖かく、うとうとしてしまうことも珍しくない。午後の授業が冬になると殊更眠たく感じられたのも、そんな天気のいい日の教室でのことだった。しかし、台湾北部の冬は、「短日」どころか、十二月から三月まで、よくて曇天、寒気が厳しければ毎日陰陰とした雨が風に吹きつけられ、湿度が高く、冬服に防寒着を重ねていないと寒くて室内でも過ごせない。炬燵や灯油式の暖房器具はなく、下がった室温を上げるには、電熱ヒーターか空調暖房を使ったが、そうした器具に部屋全体を温めるほどの熱量はなかった。多雨のため結露することも多く、「潮濕」と言っているが、寝具や衣服は梅雨時のように湿気て重く、本棚に入れた書類や写真などは以前、手で触ったところから黴が生えていたりした。乾燥食品や買い置きの米などが全滅することもあった。「あなた、椎茸が全部黴びてしまったわ」という宣伝文句で、湿気を防ぐ容器を宣伝していたのを覚えている。そんなときには、窓とドアを閉めきりにして除湿機を一日中かけておく必要があった。
生まれて二ヶ月あまりの次男を、失ったのもそんな冬だった。寒さを寝具で防ごうとして、布団を掛けすぎたため、その頃はいいと言われていたうつ伏せ寝の首を次男が動かした拍子に、布団に口がふさがれ、気が付いたときには、もう手遅れだった。一週間ばかり経って、寂しい野辺送りに火葬場へ行ったとき、何件か葬儀があったが、次男の小さな棺に並んで、同じ大きさの柩が置かれていた。その冬は、殊のほか、幼児の死亡が多かった。私たち夫婦がした失敗と同じ過ちをした家族が、たくさんあったのだ。
季節感についてあるとき、台湾人の同僚からこんな話を聞いたことがある。「日本は季節感がはっきりしているが、台湾にはありませんね。どうですか」日本人の滞在者から同じ様なことを言われたこともあった。学生向けの日本紹介の教科書にも似たような記述があるのを見た。勤め始めたばかりの頃だったが、そのときは、そうだろうなとしか、思わなかった。今思えば、日本の季節に伴って現れるものを、同じように台湾で探そうとしていたからだ。日本の春から夏への変化を、台湾で見つけようとしても、同じようにはならない。しかし、二三年経ってから、それがどこに現れるかは、非常に個性的だが、季節の変化はどの地域でも普遍だということが、少し、分かってきた気がした。日本では赤蜻蛉は、秋を告げる象徴かも知れないが、台湾では、春や秋の頃、同じように何回も見られる。薄の穂も同じで、日本では秋の頃にしか見られないが、台湾では、同じ気温の条件が有れば、やはり春でも秋でもかなりの期間、しかも何回も出ているようだ。おそらく夏の高温や冬の低温を避けたある温度の時期に、こうした生き物たちが、それを感じて動き出しているのである。
学生時代にお世話になった著名な仏教の先生から、「春というものがあるわけではない。春がきたことはどこで分かるのか。それは、桜が咲くことで分かる。日射しが柔らかくなることで分かる。木々に新緑が芽吹くことで分かる。春は、そうした個々のものをとおして働いているのだ。命のあるものはかならず働きかけずにはおかない」とお聞きしたことがある。実は、日本の春も、台湾の春も同じ春だ。しかし、その働きを受けて、動き出す生き物や大気の動きは、時期も種類も同じではない。合理的近代的な人ほど、「同じではない」点にしか目がいかないのかもしれない。それにしても、どの生き物もどの日の光もやはり春を伝えているのである。
個人の生活感でことが治まっていればいいが、集団化してくるとそうもいかない。多くの海外出身者が日本という地域で暮らすようになり、また、海外で日本語を学ぶ人々が増えてきている結果、「異文化理解」が、最近の日本語教育界では、一つのキーワードになっている。「互いの文化が違っていることが分かれば、理解が深まる」という意図なのだろう。確かに、違っていることに目を向けるのは、違う社会に入れば容易に気が付くことだ。日本で言えば、以前あった「ここが変だよ日本人」という番組で流していたのも、同じ発想から出たものの一つだろう。しかし、違っているというだけでは、実は、相手を認めることにも、何かを生み出す力にもならない。「異文化理解」は、一人一人が身体的にも精神的にも個性的であることを言っているのと同じ発想なのかもしれないが、個性的あるいは個別的であるだけでは、相手との接点は、同化あるいは従属するか、拒否あるいは消去するかしか、なくなってしまう。16世紀に、ホッブスが「万人の万人による闘争状態」と言った状態を、また繰り返すことになってしまう。「異文化理解」という命名から分かるように、合理的理性的であるだけに、日本人は、「違っていて当り前だ」という感覚にはならず、ことさら「同じか違うか」に敏感になりやすいのかもしれない。
台湾に来たばかりの頃、旧正月に「春聯」を付けた家々を見ると、「何とけばけばしいのだろう」と思って、異国情緒を感じることはできたが、自宅に付ける気にはならなかった。毎年替わる旧正月より、新暦の正月を懐かしく思ったこともあった。しかし、春の息吹を感じ、地球の公転に合わせて年輪を刻む「新春を祝う」という人間の生命の営みから言えば、「春聯」であれ、「クリスマス」であれ、「お飾り・門松」であれ、みな同じ「春」の働きの象徴である。「春」が働きかけるように、命が「人間」という存在をとおして、個々の文化や社会で働いていることに目を向けると、共通する点がたくさんあることがわかってくる。最近、やっとそんなことが言えるようになってきた。「異文化理解」あるいは「他者理解」は、こうした共通した働きの場をどれだけ見出せるかという点にかかっているのではないか。「砂埃」もそれぞれの文化圈で季語として、働きうるものだし、個人に刻まれた記憶でもある。
新しい年の出発を、そうしたところから迎えたいと思っている。
私自身の「異文化理解」について補足の感想を述べますならば、「異文化理解」それ自体の魅力は、やはりその違いを認識できることにあると思うのです。そう、共通する点がなければ、類推の思考も働かすことができず、理解は不可能です。しかし肝心なのは、そこで相手に対し「同化あるいは従属するか、拒否あるいは消去するか」という対応に留まらず、相手への理解をどんどん深めていくことを通して、逆に自分自身の文化、社会を客観的に見つめ直すこと。つまり、「異文化理解」とは何よりも自分自身をよく理解するためのものだと思うのです。そして、その大きな違いから、身近な同文化内での差異にも見つめ直し、自己と他者との関係、つまり「他者理解」を深め、相手への寛容と自己の自立を築いていくことだと思います。
まあ以上は、あくまでも私見です。