「子供も食べたいと言っているから」と家内が言うので、月に一度、義母の薬をもらいに行っている天母の病院からの帰り道、高島屋の駐車場に車を置き、通りの向かいにある話題の店に行ってみた。
奧の二列は椅子に腰掛け、前の歩道には四列ほどの行列ができていた。私達も後についた。列を作っている年齢もさまざまな人々は、雑談したり、新聞を広げたりして、順番を待っている。2時頃だったが、勤め鞄を抱えた男性が携帯電話で、「いくつ欲しいんだ」と聞いている。グループできた女性達が子供たちに遠くに行かないように時々注意しながらおしゃべりしている。風のない日で、薄曇りの空から、午後の日が明るく射していた。
日台の争いはいつ果てるともしれない。ミスター・ドーナツが高島屋前に上陸して、半年ばかりになる。3時間行列してドーナツを買う人々の姿がニュースに出た事もある。開店したばかりのころ並んで買った学生は、「もう並びたくない」と言っていたが、未だに店の前から行列が消えることはない。
しかし、その一方で町の所々に「甜甜圏」の看板が出るようになった。ミスター・ドーナツに対抗して作り始めた、台湾版ドーナツの店である。揚げパンのようなもの、昔風のリングドーナツにシロップをかけたようなもの、ミスター・ドーナツを模造したものなど、各種各様のドーナツが出回るようになった。
台湾では、衣服の流行にはそれほどうるさいわけではないが、食べ物の流行には、非常に敏感だ。
日本でも、ある時期、爆発的にある食品が流行することがある。覚えているのものでは、小学生の頃あった、紅茶キノコのブームだ。健康食品の始まりだったのかもしれない。向田邦子のエッセイにも「おだぶつになってだめ」と出ていた。作り方をテレビで放送していたのを想い出す。母は、そんなもの作ってどうするのと言って取り合わなかったが、話題は暫く続いた。
大学院に居た頃、「もつ鍋」が流行り出した。テレビでは連日のようにその話題が出ていた。コンピューターや本代で食費が十分でなかった私をときどき御馳走に招待してくれた家内が、「話題になっているから食べてみたい」と言うので、学生街の橋の近くのマンションの一階に新しくできたその店に行ってみた。平日だったせいか、店内は、人が少なかった。焜爐の上にタレと具が入った土鍋を載せて、食べた。味噌味だった。家内は、あまり好みの味ではなかったらしく、それほど食べなかったのを覚えている。
台湾に来る前頃、勤めていた東京では、「ナタデココ」が売れていた。ココナツのゼリーをシロップ漬けにした瓶詰めがスーパーに並んでいた。歯応えが珍しかったのだろう。結婚する前、もう台湾で勤め始めていた家内にお土産に買って持っていったが、食べなかった。家内の研究室の冷藏庫に入れたままになっていたのを、二三年経った後で出して食べてみた。歯応えは変わらなかった。もうその頃、ブームは日本では過ぎていた。
台湾では、ケーキの中に入れる具として、プリン、果物などと一緒に入れているのを、その後、知った。
ティラミスなど、その後の流行もあったようだが、それはもう、テレビで見ただけで、直接は知らない。代わりに台湾の食べ物の栄枯が見えるようになった。
台湾にも、同じ様に食べ物の爆発的な流行がある。
来たばかりの頃は、食べ放題の鍋が流行していた。最初に受け持った会話クラスの学生達が学生向きの店に招待してくれた。鍋は、海鮮や肉、野菜などを入れて、台湾の沙茶醤で食べるものだった。材料は取り放題で、その他、中に蒲鉾や練り物、油揚げや昆布などもあり、豚血など日本では見たことのないものもあった。何種類かの飲み物やアイスクリームなどもあった。沙茶醤に慣れていなかったので、醤油に付けて食べた。やがて、何回目かに入れた蛤の砂抜きが十分でなかったらしく、鍋の中は真っ黒になってしまった。学生達は、「先生、もっと食べますか」と言って、店員を呼んで、鍋のだしを交換するように頼んでくれた。それ以前は分からないが、これは台湾での日本料理ブームの始まりの一つだったのではないかと思う。
その後、鍋料理は台湾で定着し、過年(大晦日)から新年の定番料理の一つになったらしい。鳳山の家内の実家に正月帰ったとき、最近は毎年、年越しの料理は、鍋である。蝦、鶏肉、豚肉、野菜、エノキダケ、魚の切り身、台湾風の火鍋料(台湾風の蒲鉾や練り物)などを入れて、皆で食べる。来たばかりの頃は、油が厭だった沙茶醤でも最近ではおいしく食べられるようになった。これが台湾の火鍋(ホーコー)の基本型である。
台湾の鍋料理の流行には、その後の変遷がある。基本型火鍋の流行後は、一時期、爆発的に各種の食べ放題が流行った。よく行った近くの店では、鍋だけでなく鶏腿や牛肉などの焼き物、台湾風の野菜と肉の煮物、西洋風のサラダ、茶碗蒸しと天ぷら、海老や蟹などの海鮮類、焼きそばやスパゲティーにラーメンなどの粉食類に、各種のスープがあり、いつも店は満員だった。値段も庶民的だった。味はとびきりというわけではなかったが、ときどき滅多にない食材が出たことがあった。あるとき、大きな生牡蠣と、蝦蛄が大皿に山盛りになっていた。食通らしい人が、生牡蠣を皿に幾つも取って行った。並んでいた牡蠣はみるみる無くなっていった。蝦蛄は、山盛りのまま、残っていた。それほど珍しくなかったのだろうか。牡蠣を一つと蝦蛄を十数匹、皿に取って席へ戻った。家内と家内の友人のSさんは、「これはなんだ」とびっくりしたように言った。蝦蛄ではなく、牡蠣のほうだった。Sさんは、「珍しいわね。私も」と言って取りに行った。家内は「中毒になるんじゃない」と言って、食べようとはしなかった。三つばかり取ってきたSさんは、「台湾でまた食べられるなんて」と幸せそうだった。日本で有名な牡蠣の産地でご馳走されたときのことを話した。私は「実は、日本では食べたことがなかったんです」と言いながら、「これも珍しいですね」と付加えて、蝦蛄の殼を取り始めた。Sさんは、「殼がめんどうだから」と言って食べなかった。大きな殼付きの牡蠣も蝦蛄も、新鮮だったが、加熱した料理が普通の台湾で、生牡蠣や塩ゆでにしただけの蝦蛄を食べるのは、食生活が大きく変化し始めた一つの象徴だったかもしれない。
もう一つ、よく行った店は、天母にあった素食(精進)料理の店だった。今は、子供服の「愛的世界」に替わってしまったが、二階建ての一階部分が食べ放題、二階がテーブル席のコース料理で、長男が生まれて暫くした頃、当時、学科主任だったR先生の紹介で、学科の会議のあと、同僚の先生達と食べに寄ったのが最初だった。
中国式精進料理に出逢ったのは、東京に勤めていたとき、勤め先のB協会所有のビルに入っていた「菩提樹」という店が最初だったろう。ある日、今日は「菩提樹に行こう」と上司のKさんに誘われて、先輩のSさん、Yさん、同僚のKさんなどと一緒に、その店に入った。ビルの階段には、「醫食同源」というような書がところどころに掛けてあったのを見ていたが、レストランがあるのに気がつかなかった。
2階のその店にはいると、胡麻油のような臭いがしてきた。中国式の丸テーブルに就いて、メニューを見ると、昼の定食として焼きそばのようなものがあった。早くできるからというので、皆でそれを頼んだ。やがて、濃い茶色のタレがかかった
焼きそばが運ばれてきた。
しかし、台湾の精進料理は、そうしたものではなかった。料理が盛られた皿を見ていくと、野菜やチャーハンなどの他に、ハム、寿司、魚、焼き肉などが、載っている。どうして精進料理なのかと思ったが、食べてみて分かった。本物そっくりに大豆の蛋白質に香料などを加えてまねたものだった。烏賊の刺身もあった。これも、歯応えを烏賊のようにまねてあった。
日本の精進料理と言えば、野菜と山菜を煮ただけのもので、最近は永平寺のゴマ豆腐などが紹介されて、見直されつつあるが、基本的には今の人の食の好みからは、かけ離れている。東京で見た”中国風精進料理”も、健康食なのかもしれないが、味は単調で、食べ続けることはできそうもなかった。
しかし、こうして目の前に並んでいる、精進ならざる精進料理を見ていると、一種の芸術品のように思われた。和菓子の材料で、別の果物などを再現するのに、技術の粋を競うように、台湾の精進料理は、普通の食材の食事をそっくり再現しようとしていたのだ。
「これだったら日本でも流行るかもしれない」と家内と話した。日本から来た友人を招待したこともあった。二歳ぐらいになった長男を連れて行ったときには、長男は、果物だけを一生懸命に食べていた。しかし、何年か通った後、收益が上がらないのか、その店は閉じられてしまった。
今でも食べ放題の店は残っているが、台北では、ホテルやデパートの中に出店して、高級化している。料理も専門分化して日本料理、イタリア料理、素食(精進料理)時には、春巻きのときもあった。
台湾の日本料理の中で定着したのは、台湾式しゃぶしゃぶと、鮪の刺身、豚カツであろう。
台湾式しゃぶしゃぶの店は、台北ならたいていどの町にもある。5年ぐらい前から始まった。その前は、食べ放題の火鍋や「マーラー火鍋(激辛鍋)」の店だったものが、急激にとって替わられた。一人用のIHヒーターに出汁を入れた鉄鍋を置いて、そこに野菜、蒲鉾類や、日本のしゃぶしゃぶのように薄く切った肉類などを入れて、食べる。ご飯か麺も付いている。大衆鍋なら一食200元前後で、冬になると連日家族で満員のことが多い。
日本のしゃぶしゃぶは高級料理だったが、台湾ではそれ以前の鍋料理を昇華吸収して大衆日本料理に変身した。
長男が「今日は寒いからホーコー?」と聞いてくる。「そうだな、余り食べると肥るからな・・・」と渋ると、「いつもそうなる」と小さな声でつぶやいた。「じゃあ、二人前頼んで、持ち帰りにしようか」と言うと、「うん」と答えた。
台湾へ来る前、弟夫婦から結婚記念に贈られたIH鍋を使って、持ち帰りのしゃぶしゃぶを、広げる日が、冬になると、よくある。長男は、「豚血カウ」と「蛋餃」が好きで、取り皿に食べきれないぐらい取っている。しかし、食が細い次男は、豆腐をつついたり、そばをつついたりで、あまり食べない。
刺し身もこの十年余りで急速に一般化したようだ。以前は、港町のごく一部の人が食べている食品だったと思われる。家内が長男を妊娠していた頃だった。予定日を過ぎても長男は、なかなか生まれなかった。夏の暑い盛りで、気晴らしに出かけようということになり、北海岸を走って基隆まで行った。北海岸の夏の海を初めて見た。右手に急な断崖が迫り、左側は黒い岩のころがる海岸線だった。当時は、今のように観光資源として手入れされていなかったから、道々の観光地は裏寂れた感じがした。寂びたシャッターが店の前に下りていた。家々の壁は灰色に汚れていた。テレサテンが生まれた辺りの村落も、冬はさぞ暗い海に閉ざされるだろうという所だった。レンガ造りの低い家並みが海のそばの僅かな平地にとりついていた。基隆の手前には斜面に造成を始めた別荘地があった。周りは一面深い緑だった。以前勤めていた瀬戸内の島の光景を想い出した。誰もいない僅かな砂浜に青い海が打ち寄せている。夏の光の中に人影は見えなかったが、生命が満ちあふれていた。廟口の屋台街で、昼食にした。家内が刺し身が食べたいだろうと言って、刺し身を頼んでくれた。しばらく、家内から基隆の昔の繁栄ぶりを聞いていた。やがて、大きな切れが数片載った皿が出てきた。山葵が山のように付いていた。白身の魚と鮪だったが、人影のまばらな屋台で食べる刺身は、なぜか侘しかった。夏の日射しが、廟口のがらんとした通りを明るく照らしていた。陽光が刻む影は、深く見えた。長男が生まれたのは、その数日後だった。
もともと加熱調理が普通で生食をする習慣がなかった台湾では、刺身を一般の家庭で食べるところは珍しかった。もちろん普通のスーパーや市場にはなかった。最初に住んでいたマンションの警備員が、珍しく刺身が好きで、生きのいい刺身を売っている店を知っていた。「日本人だから、刺身を食べるだろう。買ってあげるよ」夕方になって、刺し身の入ったパックを持ってきてくれた。白身の大きな切れが数片入っていた。「おいしいよ。欲しいときは、また、言って」代金を聞くと、安くはなかった。御馳走するという彼に、必要な額を渡して、「今度また、頼むとき困るから」と受け取ってもらった。
最近では、日本料理屋はもちろん、台湾のラーメンの店や海鮮料理の店でも刺身が普通に出るようになった。結婚式の料理の一品として並んでいることも珍しくない。欧風レストランでも、サラダとアレンジした刺身の盛り合わせがメニューに載っている。黒鮪の水揚げ地の屏東の東港では、このところ初夏に「黒鮪祭り」をしているとニュースで報じられていた。「生食」も人々の食生活の一部になりつつある。
東港出身の学生に、鮪以外の名物を教えてもらったら、他にも桜海老などがあると言う。「お祭りの様子はどうだい?」と聞くと、彼女は「渋滞がひどいし、ゴミが増えるばかりで、いいことは一つもない」と不満そうだった。
豚カツの店は、日本から出店している。名古屋の「知多家」と三越に入っている東京の「サボテン」だ。食事時になると、行列ができる。台湾風の豚カツは「排骨」という別の料理がすでにあるが、日本風が衣を付け、フライとしてあげているのに対して、台湾風のは照り焼きのものが多い。「排骨飯」は台湾の弁当では代表的なメニューだ。そうした庶民の味が、やや高級な姿に変わったのが日本式の豚カツで、台湾での”食豚”文化の一部に組み込まれたと言えるだろう。
台湾らしい食べ物は、もう紹介しきれない。他のブログで、見ていただきたい。
食べまくり台湾
欧風の食べ物も、この十年で随分一般化した。コーヒー、フランス料理、イタリア料理など。これもまた、改めて書くことにしよう。
ドーナツを待つ行列は少しずつ進んでいく。4列目から3列目に入った頃だったろうか。前にいた大学生風の男の子が、「トイレに行きたいから、順番を取ってくれないか」と話しかけてきた。「いいよ。でも、長くは待てないよ」というと、「すぐ近くだから」と言って、列を離れ、横断歩道のほうへ駆けだ、そのまま、少し先の小路へ入って行った。
家内は、「順番が来たらどうしようか」と言ったが、「大丈夫だろう」と言って、そのまま暫く待っていた。2列目に入った頃、その学生風の男子が、戻ってくるのが見えた。しかし、彼は、列にはそのまま入ってこないで、入り口にいるドーナツの店員と話し始めた。私にはよく分からなかったが、家内が聞いていて、「あの子はここでアルバイトしていたことがあって、今は、お客に頼まれて、列を待ってドーナツを買うアルバイトをしているんだって」と話してくれた。
なるほど、さっきから二三人の学生風の男の子たちが、5袋も6袋もドーナツを買って、店を出てくるのを見ていた。合点がいった。
話が終わって彼は、「ありがとう」と言って、列に戻ってきた。取って置いた席を譲り、再び、順番を待った。
最後に一列になって、とうとう店に入った。一足先に入った彼は、知り合いらしい店員に頼んで置いた袋を確かめながら、6袋の会計を始めた。それを横目で見ながら、私たちも、ドーナツを選んだ。「これがおいしいと聞いた」というので、シナモン味のドーナツやチョコレート味なども入れて、私たちもお土産を含めて3袋ぐらい買った。彼は、大きな袋を抱え、店を出ていった。
結局、ドーナツを買うまでに2時間あまりかかった。
その後、ドーナツブームは、夏を迎えて、下火になった。家の近くにあった台湾版ドーナツの店も、販売を止めてしまった。高島屋前のミスタードーナツも、待つ人の列は、もう一列に満たない時も出てきた。
秋になって、久しぶりに高島屋に出かけたとき、「今日は、ドーナツを買っていくかね」と家内に言った。「子供が喜ぶわ」私は、列を確かめに11階の駐車場の外からミスタードーナツの通りのほうを見てみた。夏には少なかった列が、週末のせいか、あるいは、秋になったためか、また3列に戻っていた。「今日は、諦めよう」と家内に言うと、むっとした調子で「いつも悲観的なんだから」と自分で確かめに歩き出した。しかし、やがて、諦めたように「今日は時間ないから」と言って、エレベーターに向かった。
私たちにとって、「ドーナツ」は逆縁らしい。地下のスーパーへ下りるエレベーターの中で、ふと、アルバイトしていた彼を思い出した。秋になって、またアルバイトは復活しているのだろうか。しかし、心配はいらなかった。知恵の回る彼のことだ、きっとまた新しい商売の口を見つけているに違いない。
奧の二列は椅子に腰掛け、前の歩道には四列ほどの行列ができていた。私達も後についた。列を作っている年齢もさまざまな人々は、雑談したり、新聞を広げたりして、順番を待っている。2時頃だったが、勤め鞄を抱えた男性が携帯電話で、「いくつ欲しいんだ」と聞いている。グループできた女性達が子供たちに遠くに行かないように時々注意しながらおしゃべりしている。風のない日で、薄曇りの空から、午後の日が明るく射していた。
日台の争いはいつ果てるともしれない。ミスター・ドーナツが高島屋前に上陸して、半年ばかりになる。3時間行列してドーナツを買う人々の姿がニュースに出た事もある。開店したばかりのころ並んで買った学生は、「もう並びたくない」と言っていたが、未だに店の前から行列が消えることはない。
しかし、その一方で町の所々に「甜甜圏」の看板が出るようになった。ミスター・ドーナツに対抗して作り始めた、台湾版ドーナツの店である。揚げパンのようなもの、昔風のリングドーナツにシロップをかけたようなもの、ミスター・ドーナツを模造したものなど、各種各様のドーナツが出回るようになった。
台湾では、衣服の流行にはそれほどうるさいわけではないが、食べ物の流行には、非常に敏感だ。
日本でも、ある時期、爆発的にある食品が流行することがある。覚えているのものでは、小学生の頃あった、紅茶キノコのブームだ。健康食品の始まりだったのかもしれない。向田邦子のエッセイにも「おだぶつになってだめ」と出ていた。作り方をテレビで放送していたのを想い出す。母は、そんなもの作ってどうするのと言って取り合わなかったが、話題は暫く続いた。
大学院に居た頃、「もつ鍋」が流行り出した。テレビでは連日のようにその話題が出ていた。コンピューターや本代で食費が十分でなかった私をときどき御馳走に招待してくれた家内が、「話題になっているから食べてみたい」と言うので、学生街の橋の近くのマンションの一階に新しくできたその店に行ってみた。平日だったせいか、店内は、人が少なかった。焜爐の上にタレと具が入った土鍋を載せて、食べた。味噌味だった。家内は、あまり好みの味ではなかったらしく、それほど食べなかったのを覚えている。
台湾に来る前頃、勤めていた東京では、「ナタデココ」が売れていた。ココナツのゼリーをシロップ漬けにした瓶詰めがスーパーに並んでいた。歯応えが珍しかったのだろう。結婚する前、もう台湾で勤め始めていた家内にお土産に買って持っていったが、食べなかった。家内の研究室の冷藏庫に入れたままになっていたのを、二三年経った後で出して食べてみた。歯応えは変わらなかった。もうその頃、ブームは日本では過ぎていた。
台湾では、ケーキの中に入れる具として、プリン、果物などと一緒に入れているのを、その後、知った。
ティラミスなど、その後の流行もあったようだが、それはもう、テレビで見ただけで、直接は知らない。代わりに台湾の食べ物の栄枯が見えるようになった。
台湾にも、同じ様に食べ物の爆発的な流行がある。
来たばかりの頃は、食べ放題の鍋が流行していた。最初に受け持った会話クラスの学生達が学生向きの店に招待してくれた。鍋は、海鮮や肉、野菜などを入れて、台湾の沙茶醤で食べるものだった。材料は取り放題で、その他、中に蒲鉾や練り物、油揚げや昆布などもあり、豚血など日本では見たことのないものもあった。何種類かの飲み物やアイスクリームなどもあった。沙茶醤に慣れていなかったので、醤油に付けて食べた。やがて、何回目かに入れた蛤の砂抜きが十分でなかったらしく、鍋の中は真っ黒になってしまった。学生達は、「先生、もっと食べますか」と言って、店員を呼んで、鍋のだしを交換するように頼んでくれた。それ以前は分からないが、これは台湾での日本料理ブームの始まりの一つだったのではないかと思う。
その後、鍋料理は台湾で定着し、過年(大晦日)から新年の定番料理の一つになったらしい。鳳山の家内の実家に正月帰ったとき、最近は毎年、年越しの料理は、鍋である。蝦、鶏肉、豚肉、野菜、エノキダケ、魚の切り身、台湾風の火鍋料(台湾風の蒲鉾や練り物)などを入れて、皆で食べる。来たばかりの頃は、油が厭だった沙茶醤でも最近ではおいしく食べられるようになった。これが台湾の火鍋(ホーコー)の基本型である。
台湾の鍋料理の流行には、その後の変遷がある。基本型火鍋の流行後は、一時期、爆発的に各種の食べ放題が流行った。よく行った近くの店では、鍋だけでなく鶏腿や牛肉などの焼き物、台湾風の野菜と肉の煮物、西洋風のサラダ、茶碗蒸しと天ぷら、海老や蟹などの海鮮類、焼きそばやスパゲティーにラーメンなどの粉食類に、各種のスープがあり、いつも店は満員だった。値段も庶民的だった。味はとびきりというわけではなかったが、ときどき滅多にない食材が出たことがあった。あるとき、大きな生牡蠣と、蝦蛄が大皿に山盛りになっていた。食通らしい人が、生牡蠣を皿に幾つも取って行った。並んでいた牡蠣はみるみる無くなっていった。蝦蛄は、山盛りのまま、残っていた。それほど珍しくなかったのだろうか。牡蠣を一つと蝦蛄を十数匹、皿に取って席へ戻った。家内と家内の友人のSさんは、「これはなんだ」とびっくりしたように言った。蝦蛄ではなく、牡蠣のほうだった。Sさんは、「珍しいわね。私も」と言って取りに行った。家内は「中毒になるんじゃない」と言って、食べようとはしなかった。三つばかり取ってきたSさんは、「台湾でまた食べられるなんて」と幸せそうだった。日本で有名な牡蠣の産地でご馳走されたときのことを話した。私は「実は、日本では食べたことがなかったんです」と言いながら、「これも珍しいですね」と付加えて、蝦蛄の殼を取り始めた。Sさんは、「殼がめんどうだから」と言って食べなかった。大きな殼付きの牡蠣も蝦蛄も、新鮮だったが、加熱した料理が普通の台湾で、生牡蠣や塩ゆでにしただけの蝦蛄を食べるのは、食生活が大きく変化し始めた一つの象徴だったかもしれない。
もう一つ、よく行った店は、天母にあった素食(精進)料理の店だった。今は、子供服の「愛的世界」に替わってしまったが、二階建ての一階部分が食べ放題、二階がテーブル席のコース料理で、長男が生まれて暫くした頃、当時、学科主任だったR先生の紹介で、学科の会議のあと、同僚の先生達と食べに寄ったのが最初だった。
中国式精進料理に出逢ったのは、東京に勤めていたとき、勤め先のB協会所有のビルに入っていた「菩提樹」という店が最初だったろう。ある日、今日は「菩提樹に行こう」と上司のKさんに誘われて、先輩のSさん、Yさん、同僚のKさんなどと一緒に、その店に入った。ビルの階段には、「醫食同源」というような書がところどころに掛けてあったのを見ていたが、レストランがあるのに気がつかなかった。
2階のその店にはいると、胡麻油のような臭いがしてきた。中国式の丸テーブルに就いて、メニューを見ると、昼の定食として焼きそばのようなものがあった。早くできるからというので、皆でそれを頼んだ。やがて、濃い茶色のタレがかかった
焼きそばが運ばれてきた。
しかし、台湾の精進料理は、そうしたものではなかった。料理が盛られた皿を見ていくと、野菜やチャーハンなどの他に、ハム、寿司、魚、焼き肉などが、載っている。どうして精進料理なのかと思ったが、食べてみて分かった。本物そっくりに大豆の蛋白質に香料などを加えてまねたものだった。烏賊の刺身もあった。これも、歯応えを烏賊のようにまねてあった。
日本の精進料理と言えば、野菜と山菜を煮ただけのもので、最近は永平寺のゴマ豆腐などが紹介されて、見直されつつあるが、基本的には今の人の食の好みからは、かけ離れている。東京で見た”中国風精進料理”も、健康食なのかもしれないが、味は単調で、食べ続けることはできそうもなかった。
しかし、こうして目の前に並んでいる、精進ならざる精進料理を見ていると、一種の芸術品のように思われた。和菓子の材料で、別の果物などを再現するのに、技術の粋を競うように、台湾の精進料理は、普通の食材の食事をそっくり再現しようとしていたのだ。
「これだったら日本でも流行るかもしれない」と家内と話した。日本から来た友人を招待したこともあった。二歳ぐらいになった長男を連れて行ったときには、長男は、果物だけを一生懸命に食べていた。しかし、何年か通った後、收益が上がらないのか、その店は閉じられてしまった。
今でも食べ放題の店は残っているが、台北では、ホテルやデパートの中に出店して、高級化している。料理も専門分化して日本料理、イタリア料理、素食(精進料理)時には、春巻きのときもあった。
台湾の日本料理の中で定着したのは、台湾式しゃぶしゃぶと、鮪の刺身、豚カツであろう。
台湾式しゃぶしゃぶの店は、台北ならたいていどの町にもある。5年ぐらい前から始まった。その前は、食べ放題の火鍋や「マーラー火鍋(激辛鍋)」の店だったものが、急激にとって替わられた。一人用のIHヒーターに出汁を入れた鉄鍋を置いて、そこに野菜、蒲鉾類や、日本のしゃぶしゃぶのように薄く切った肉類などを入れて、食べる。ご飯か麺も付いている。大衆鍋なら一食200元前後で、冬になると連日家族で満員のことが多い。
日本のしゃぶしゃぶは高級料理だったが、台湾ではそれ以前の鍋料理を昇華吸収して大衆日本料理に変身した。
長男が「今日は寒いからホーコー?」と聞いてくる。「そうだな、余り食べると肥るからな・・・」と渋ると、「いつもそうなる」と小さな声でつぶやいた。「じゃあ、二人前頼んで、持ち帰りにしようか」と言うと、「うん」と答えた。
台湾へ来る前、弟夫婦から結婚記念に贈られたIH鍋を使って、持ち帰りのしゃぶしゃぶを、広げる日が、冬になると、よくある。長男は、「豚血カウ」と「蛋餃」が好きで、取り皿に食べきれないぐらい取っている。しかし、食が細い次男は、豆腐をつついたり、そばをつついたりで、あまり食べない。
刺し身もこの十年余りで急速に一般化したようだ。以前は、港町のごく一部の人が食べている食品だったと思われる。家内が長男を妊娠していた頃だった。予定日を過ぎても長男は、なかなか生まれなかった。夏の暑い盛りで、気晴らしに出かけようということになり、北海岸を走って基隆まで行った。北海岸の夏の海を初めて見た。右手に急な断崖が迫り、左側は黒い岩のころがる海岸線だった。当時は、今のように観光資源として手入れされていなかったから、道々の観光地は裏寂れた感じがした。寂びたシャッターが店の前に下りていた。家々の壁は灰色に汚れていた。テレサテンが生まれた辺りの村落も、冬はさぞ暗い海に閉ざされるだろうという所だった。レンガ造りの低い家並みが海のそばの僅かな平地にとりついていた。基隆の手前には斜面に造成を始めた別荘地があった。周りは一面深い緑だった。以前勤めていた瀬戸内の島の光景を想い出した。誰もいない僅かな砂浜に青い海が打ち寄せている。夏の光の中に人影は見えなかったが、生命が満ちあふれていた。廟口の屋台街で、昼食にした。家内が刺し身が食べたいだろうと言って、刺し身を頼んでくれた。しばらく、家内から基隆の昔の繁栄ぶりを聞いていた。やがて、大きな切れが数片載った皿が出てきた。山葵が山のように付いていた。白身の魚と鮪だったが、人影のまばらな屋台で食べる刺身は、なぜか侘しかった。夏の日射しが、廟口のがらんとした通りを明るく照らしていた。陽光が刻む影は、深く見えた。長男が生まれたのは、その数日後だった。
もともと加熱調理が普通で生食をする習慣がなかった台湾では、刺身を一般の家庭で食べるところは珍しかった。もちろん普通のスーパーや市場にはなかった。最初に住んでいたマンションの警備員が、珍しく刺身が好きで、生きのいい刺身を売っている店を知っていた。「日本人だから、刺身を食べるだろう。買ってあげるよ」夕方になって、刺し身の入ったパックを持ってきてくれた。白身の大きな切れが数片入っていた。「おいしいよ。欲しいときは、また、言って」代金を聞くと、安くはなかった。御馳走するという彼に、必要な額を渡して、「今度また、頼むとき困るから」と受け取ってもらった。
最近では、日本料理屋はもちろん、台湾のラーメンの店や海鮮料理の店でも刺身が普通に出るようになった。結婚式の料理の一品として並んでいることも珍しくない。欧風レストランでも、サラダとアレンジした刺身の盛り合わせがメニューに載っている。黒鮪の水揚げ地の屏東の東港では、このところ初夏に「黒鮪祭り」をしているとニュースで報じられていた。「生食」も人々の食生活の一部になりつつある。
東港出身の学生に、鮪以外の名物を教えてもらったら、他にも桜海老などがあると言う。「お祭りの様子はどうだい?」と聞くと、彼女は「渋滞がひどいし、ゴミが増えるばかりで、いいことは一つもない」と不満そうだった。
豚カツの店は、日本から出店している。名古屋の「知多家」と三越に入っている東京の「サボテン」だ。食事時になると、行列ができる。台湾風の豚カツは「排骨」という別の料理がすでにあるが、日本風が衣を付け、フライとしてあげているのに対して、台湾風のは照り焼きのものが多い。「排骨飯」は台湾の弁当では代表的なメニューだ。そうした庶民の味が、やや高級な姿に変わったのが日本式の豚カツで、台湾での”食豚”文化の一部に組み込まれたと言えるだろう。
台湾らしい食べ物は、もう紹介しきれない。他のブログで、見ていただきたい。
食べまくり台湾
欧風の食べ物も、この十年で随分一般化した。コーヒー、フランス料理、イタリア料理など。これもまた、改めて書くことにしよう。
ドーナツを待つ行列は少しずつ進んでいく。4列目から3列目に入った頃だったろうか。前にいた大学生風の男の子が、「トイレに行きたいから、順番を取ってくれないか」と話しかけてきた。「いいよ。でも、長くは待てないよ」というと、「すぐ近くだから」と言って、列を離れ、横断歩道のほうへ駆けだ、そのまま、少し先の小路へ入って行った。
家内は、「順番が来たらどうしようか」と言ったが、「大丈夫だろう」と言って、そのまま暫く待っていた。2列目に入った頃、その学生風の男子が、戻ってくるのが見えた。しかし、彼は、列にはそのまま入ってこないで、入り口にいるドーナツの店員と話し始めた。私にはよく分からなかったが、家内が聞いていて、「あの子はここでアルバイトしていたことがあって、今は、お客に頼まれて、列を待ってドーナツを買うアルバイトをしているんだって」と話してくれた。
なるほど、さっきから二三人の学生風の男の子たちが、5袋も6袋もドーナツを買って、店を出てくるのを見ていた。合点がいった。
話が終わって彼は、「ありがとう」と言って、列に戻ってきた。取って置いた席を譲り、再び、順番を待った。
最後に一列になって、とうとう店に入った。一足先に入った彼は、知り合いらしい店員に頼んで置いた袋を確かめながら、6袋の会計を始めた。それを横目で見ながら、私たちも、ドーナツを選んだ。「これがおいしいと聞いた」というので、シナモン味のドーナツやチョコレート味なども入れて、私たちもお土産を含めて3袋ぐらい買った。彼は、大きな袋を抱え、店を出ていった。
結局、ドーナツを買うまでに2時間あまりかかった。
その後、ドーナツブームは、夏を迎えて、下火になった。家の近くにあった台湾版ドーナツの店も、販売を止めてしまった。高島屋前のミスタードーナツも、待つ人の列は、もう一列に満たない時も出てきた。
秋になって、久しぶりに高島屋に出かけたとき、「今日は、ドーナツを買っていくかね」と家内に言った。「子供が喜ぶわ」私は、列を確かめに11階の駐車場の外からミスタードーナツの通りのほうを見てみた。夏には少なかった列が、週末のせいか、あるいは、秋になったためか、また3列に戻っていた。「今日は、諦めよう」と家内に言うと、むっとした調子で「いつも悲観的なんだから」と自分で確かめに歩き出した。しかし、やがて、諦めたように「今日は時間ないから」と言って、エレベーターに向かった。
私たちにとって、「ドーナツ」は逆縁らしい。地下のスーパーへ下りるエレベーターの中で、ふと、アルバイトしていた彼を思い出した。秋になって、またアルバイトは復活しているのだろうか。しかし、心配はいらなかった。知恵の回る彼のことだ、きっとまた新しい商売の口を見つけているに違いない。