日本にあって台湾にないものや、台湾にあって日本にないものはいくらでもあるだろう。だが、互いに自分にないものには先入観を持たずに向かうことができるためか、ないものを受け入れるのは、実はそれほど難しくはない。困るのは、共通しているのに、全く違っているという場合だ。
料理から生活の仕方までそうした話題はいくらでも見つけることができるが、今回は、結婚写真を取り上げてみよう。
私達夫婦が結婚写真を撮ったのはもう十年以上前のことになる。日本と台湾、それぞれで披露宴をすることに決めたので、それぞれの国の習慣で、式場決めから披露宴の段取りまで、体験することができた。
日本の式はやりかたにもよるがオーソドックスな仕方をすれば、第一に厳粛であり、予算を決め、会場の席次やどんな人を呼ぶか、誰に仲人、司会、挨拶を頼むか、どんな料理にして引き出物をどうするか、あいさつ状は、写真はと、細かくスケジュールを決めていく。結婚式や披露宴の手順も、細かく時間通りに計画する。式を四月始めにする予定だったので、その年の二月あたりから、準備を始めた。台湾の旧正月の休みを利用して、家内(当時は婚約者だが)に日本へ来てもらい、司婚者を頼みに知人の僧侶に挨拶に行き(自分達らしさを出すために仏教式で挙式することにした)、その後、故郷まで車で移動して両親と共に、式塲へ結婚式の打ち合わせに行くことにしていた。故郷へ帰る前の晩、東京のホテルに泊まったのだが、一夜明けてみると、辺りは一面の銀世界だった。新幹線も動かず、高速道路も通行止め、チェーンを巻き雪に埋まった一般道を通って、箱根を越えることにした。上り下り一車線になった道を車が一台一台のろのろと進んで、箱根の峠を越えた頃には、もう深夜だった。雪に埋まったガソリンスタンドの塀の陰で、用を足したりせねばならず、家内には申し訳なかったが、これが二人で乗り越える最初の試練になった。箱根の山中では道を外れると雪が腰まであった。静岡県側に出て、しばらく下るとやがて雪は消え、早朝の朝日がまぶしく感じられた。高速道路に入って、故郷に着いたのは午前10時前だった。
思わぬ雪には出会ったが、段取りは付けられて、台湾から来た家内の親族と共に式は無事に挙げることができた。式場で感じた両国の違いと言えば、結婚写真に写った服装の色の違いだった。日本側の両親、親戚、友人、同僚などは、全員黒か濃紺のスーツ、女性も黒の紋付きやスーツ姿で、一見すると、黒とシャツ・ネクタイの白に統一されているようだった。日本では服装への統制も厳格だった。しかし、家内と親戚の女性方は、赤、紫、黄色など色とりどりのスーツやドレスで、金のネックレスを付けたりして、非常に色彩豊かだった。今も手元にある結婚写真は、学生達に結婚の習慣の紹介として見せることがあるが、二つの国のあざやかなコントラストを示している。
服装は単に外見を飾るだけでなく、他者への構えを示す重要な目印だろう。台湾でのその後の類似した経験も含めて今、考えてみると、統一された色調の日本の式服は、集団や場の価値を重視する日本人の感覚を自然に表しているようであり、一方、台湾の個性的な式服の選び方は、あくまで個人として動きながら、しかも血族のまとまりを保っている台湾的社会の自由さと節度を表しているようである。また、日本の場合は、決まったものを身につけるだけでいい気楽さがある。台湾の場合は、目立ったとしても、決してパンクな服装でも、奇矯な服選びでもない、フォーマルさを持っている。両者の習慣について、善悪や優劣をを論じることはもちろんできない。こうした違いは、至るところに反映するに違いなく、「アジアは一つ」というような言い方で括ろうとする安易な思考を、正面から拒否しているように思われる。
違う文化に屬する人々が同じことをしたとき、お互いのそのマナーが受け入れられないのは、同じ分野でこうした違いがあることに気が付かないためだろう。そして、それを善悪の問題に短絡してしまうためだろう。人の顔に例えてみれば、人間の顔に、目、鼻、口、耳などの生理的器官があるのは、共通している。しかし、その配置や大きさ、バランス、形態や色彩などは、それこそ千差万別である。結婚で言えば、前者は結婚という社会的行事の共通点であり、顔と器官がどの人にも備わっているように、それがあることはどの人間社会でも共通している。しかし、大事なことは、人の顔が千差万別なように、文化圈によって、そればかりではなく、その文化圈の中でも、さらに地域、社会階層や家族の歴史によっても実は、微妙に違っているということである。
そう考えてみれば、国民性を語る「日本人は・・・だ」とか「中国人は・・・だ」という言い方は、そうした個性を捨象して、言ってみれば「人間の顔には、目、鼻、口、耳などの生理的器官がある」とそれ自体情報としては無意味なことを言っているに過ぎない。しかも、顔のように自明なことならば問題は少ないが、文化的習慣のような全体がとらえどころのない対象についてそうした断定を行うのは、Aさんの顔もBさんの顔もCさんの顔も・・・全部同じだと言っているのと同じで、実は、非常に難しい判断だということは、いつも念頭に置いておきたい。個性は、顔でも文化でも、一般化すれば、意味を失うのである。
ただ、人の顔について好悪を自然に感じるように、文化についても好悪や美醜を感じるのは自然だろう。違う民族、違う文化圈に住む人々の顔にも好悪を見出すように、異文化についてもそれを感じるのは、当然のことだが、どんな異国にも美男美女がいるように、どんな異文化にも自分と異なった美や価値を見出すことはできる。逆に、醜悪さを見て前車の轍を踏まずと自分を顧みることもできる。これは主体である一人一人の人の選択の問題であり、友や伴侶を選ぶのと実は同じである。同じ中華圈と言っても、中華人民共和国(中国)の人間がしている文化的行動と、台湾の人々がしている行動は決して同一ではない。私が感じる美醜も、前者には醜悪さをより多く感じるのに対し、後者には、多くの美点を学ぶ。戦前の日本帝国は「アジアは一つ」という言い方で、狂気に陥った。現在の中華人民共和国(中国)が「中国は一つ」という言い方で、同じ轍を歩き出していないという保証はない。自己の選択の問題としてみれば、どの文化から学ぶかは、すでに解答の決まった問題である。
さて、台湾での結婚式はどうだったか。大きな違いは、一つは写真、もう一つは、披露宴だった。台湾式の披露宴や婚姻儀礼はまた、別の機会に書くことにし、写真のほうに、話をしぼろう。
結婚写真のことを台湾では、「婚紗」という。原語は「結婚衣裳」の意味で、日本の結婚のための貸衣裝と同じであろう。男女の結婚衣裳自体は、台湾と日本に大きな違いはなく、男性ならタキシードや各種のスーツ、女性はウエディングドレスやパーティードレスを、やはり日本と同じように二着から三着、披露宴で着替える。伝統式衣裳は日本で言っているチャイナドレス(旗袍で実は、満州族の服の変形であり、清時代の衣裳)があるが、今では着る人は珍しいようだ。
日本との大きな違いは、台湾では、貸衣裝は写真撮影も付いているということだ。これは台湾が生み出した習慣で、いわゆる中国(中華人民共和国)にはないらしく、中華人民共和国が使う簡体字のインターネット記事では「台湾婚紗」という固有名詞で呼ばれ、紹介されていた。写真撮影の様子はすでに、日本のホームページやガイドブックでも紹介されているが、私と家内の時は、高雄の婚紗店に頼み、カメラマン、ディレクター(?振り付けなどを担当する)、助手(反射板や照明器具などを持って光の加減をする)の三人とともに、最初は、店の中のスタジオで、借りることにした三着の衣裳とその他好みの衣裳を使って撮影した。結婚式の前年の婚約した冬のことだった(家内はこのとき契約した貸衣裝を持って翌年、日本の式に参加し、その後は、台湾での式でも使わせてもらった。)。
私が日本人で中国語がまったく分からないと言うので、ディレクターは思案していたが、では、指一本は笑顏、二本は真顔、三本は自然にしようと提案があり、家内がそれを翻訳してくれて、私が「OK」と答え、撮影が動き出した。ディレクターは指一本を私に出して、「スマイル」といい、顔の位置を上に向けるように手で合図したり、次は、指三本を出して、空を見るように顔を上げさせたりした。こうして、ディレクターは、二人の立つ位置やポーズ、顔の角度を支持し、二人の視線を合わせたり、あるいは、遠くに向けたり、表情も笑顏や真顔、夢見る顔など、細かく指示して、五十枚ぐらい撮影した。朝から昼ごはん時までかかった。
その後は、家内は白のドレス、私は背広姿で高雄の圓山飯店、澄青湖など、数カ所の風光明媚な公園を車で周り、戸外で撮影した。終わったとき、冬の日は、すでに傾いていて、夕焼けが高雄の街を包んでいた。
翌日、現像が終わった百枚の写真の中から三十枚を選び、アルバムの大小を各一冊、額入りの引き延ばし写真を二つ頼んで、撮影は終わりになった。プロのモデルがするように、二人の写真集が、こうしてできあがった。額入りの引き延ばし写真は、結婚式の会場の入り口に飾る。アルバムも入り口に置いて、見られるようにする。そして、日本では結婚の挨拶状を出すが、台湾では、「婚紗」で選んだ写真から名刺を何種類か作り、式場で配ったり、挨拶に渡したりする。
前年に撮影した写真と借りた衣裳が、翌年の日本での式にも、台湾の式にも、大いに活躍することになった。
これについても日本と台湾の優劣を論じることはできない。しかし、台湾のこの習慣を知って、熱烈な写真ファンになった日本人もあり、一生の記念として、また、二人が最初に協力してして進める事業として「婚紗」は、二人の前途への象徴的な意味がある。日本の写真が思い出にとどまるのにたいして、台湾の「婚紗」はより能動的とも言える。もちろん、「モデル気取りでやめてほしい」と恥ずかしがる日本の友人は少なくないが、社会の一単位として家庭を預かる以上、「恥を捨てる」覚悟が必要で、自分を裸にする機会としてもいいきっかけになると思われる。
台湾では、衣裳を借りて記念撮影をするのは日常的な習慣で、金婚式や銀婚式の夫婦が、衣裳を借りて、子供夫婦や孫たちに囲まれて、写真を撮る。家族の絆を深める意味でも、こうした遊び心は、学んでいきたいと思っている。
台湾では、「婚紗」の名所も少なくない。結婚式シーズンに近づくと、何組みもの「婚紗」グループが、公園や海岸などで、撮影している光景に出合う。
先日、歩き始めた下の子を連れて、近くの公園に出かけた。車を駐車場に止め、子供の手を引いて公園入り口に木の葉を茂らせている溶樹の下を潜って、広場のほうへ向かうと、少し離れた前方の丘陵の上に白い人影が見えた。秋にさしかかった空は、よく澄んで、日差しも透明にそそいでいる。「婚紗」の撮影には、日和もよかった。
歩きながら近づくと、白いウエディングドレスの長い裾を広げた新婦が、タキシード姿の新郎に手を引かれる姿勢で、ポーズをとっている。しゃがんだ助手が右手から反射板で光の加減を調節している。カメラマンは指示を出しながら、斜面の半ばでカメラの焦点を合わせていた。
公園の中程の散歩道をさらに歩いていくと、反対側の公園の入り口から、もう一組白いドレスに白いタキシードのカップルを案内する「婚紗」に出会った。左手を見ると、丘の中腹の亭で休んでいるやはり白い衣裳の別の「婚紗」がいた。
子供の手を引いて公園を一回りし、駐車場のほうへ戻ってきた。さっき出会った二番目の「婚紗」の一団が、公園の入り口の向かいにある水田に入って、撮影を始めるのが見えた。新婦の手を引いて新郎が、田んぼの畦道を中程まで進み、その後ろから助手が光の加減を見ながら続く。少し高くなっている道の車止めの上に立ったカメラマンが、二人の位置を見ながら、もっと向こうへと指示している。
公園での撮影は珍しくないが、水田の中で、記念撮影をしている新郎新婦を見ていると、二人の前途を思わず祝福したくなった。実り始めた稲穂と新婚カップル、この取り合わせに、素朴で心なごむ気がした。台湾の人々の健全な生活力を表しているようにも見えた。
刈り入れにはまだ早いが、稲穂がところどころ黄色く垂れる水田の上から、秋の透明な空が涼しい陽光をいつまでも二人にそそいでいた。
料理から生活の仕方までそうした話題はいくらでも見つけることができるが、今回は、結婚写真を取り上げてみよう。
私達夫婦が結婚写真を撮ったのはもう十年以上前のことになる。日本と台湾、それぞれで披露宴をすることに決めたので、それぞれの国の習慣で、式場決めから披露宴の段取りまで、体験することができた。
日本の式はやりかたにもよるがオーソドックスな仕方をすれば、第一に厳粛であり、予算を決め、会場の席次やどんな人を呼ぶか、誰に仲人、司会、挨拶を頼むか、どんな料理にして引き出物をどうするか、あいさつ状は、写真はと、細かくスケジュールを決めていく。結婚式や披露宴の手順も、細かく時間通りに計画する。式を四月始めにする予定だったので、その年の二月あたりから、準備を始めた。台湾の旧正月の休みを利用して、家内(当時は婚約者だが)に日本へ来てもらい、司婚者を頼みに知人の僧侶に挨拶に行き(自分達らしさを出すために仏教式で挙式することにした)、その後、故郷まで車で移動して両親と共に、式塲へ結婚式の打ち合わせに行くことにしていた。故郷へ帰る前の晩、東京のホテルに泊まったのだが、一夜明けてみると、辺りは一面の銀世界だった。新幹線も動かず、高速道路も通行止め、チェーンを巻き雪に埋まった一般道を通って、箱根を越えることにした。上り下り一車線になった道を車が一台一台のろのろと進んで、箱根の峠を越えた頃には、もう深夜だった。雪に埋まったガソリンスタンドの塀の陰で、用を足したりせねばならず、家内には申し訳なかったが、これが二人で乗り越える最初の試練になった。箱根の山中では道を外れると雪が腰まであった。静岡県側に出て、しばらく下るとやがて雪は消え、早朝の朝日がまぶしく感じられた。高速道路に入って、故郷に着いたのは午前10時前だった。
思わぬ雪には出会ったが、段取りは付けられて、台湾から来た家内の親族と共に式は無事に挙げることができた。式場で感じた両国の違いと言えば、結婚写真に写った服装の色の違いだった。日本側の両親、親戚、友人、同僚などは、全員黒か濃紺のスーツ、女性も黒の紋付きやスーツ姿で、一見すると、黒とシャツ・ネクタイの白に統一されているようだった。日本では服装への統制も厳格だった。しかし、家内と親戚の女性方は、赤、紫、黄色など色とりどりのスーツやドレスで、金のネックレスを付けたりして、非常に色彩豊かだった。今も手元にある結婚写真は、学生達に結婚の習慣の紹介として見せることがあるが、二つの国のあざやかなコントラストを示している。
服装は単に外見を飾るだけでなく、他者への構えを示す重要な目印だろう。台湾でのその後の類似した経験も含めて今、考えてみると、統一された色調の日本の式服は、集団や場の価値を重視する日本人の感覚を自然に表しているようであり、一方、台湾の個性的な式服の選び方は、あくまで個人として動きながら、しかも血族のまとまりを保っている台湾的社会の自由さと節度を表しているようである。また、日本の場合は、決まったものを身につけるだけでいい気楽さがある。台湾の場合は、目立ったとしても、決してパンクな服装でも、奇矯な服選びでもない、フォーマルさを持っている。両者の習慣について、善悪や優劣をを論じることはもちろんできない。こうした違いは、至るところに反映するに違いなく、「アジアは一つ」というような言い方で括ろうとする安易な思考を、正面から拒否しているように思われる。
違う文化に屬する人々が同じことをしたとき、お互いのそのマナーが受け入れられないのは、同じ分野でこうした違いがあることに気が付かないためだろう。そして、それを善悪の問題に短絡してしまうためだろう。人の顔に例えてみれば、人間の顔に、目、鼻、口、耳などの生理的器官があるのは、共通している。しかし、その配置や大きさ、バランス、形態や色彩などは、それこそ千差万別である。結婚で言えば、前者は結婚という社会的行事の共通点であり、顔と器官がどの人にも備わっているように、それがあることはどの人間社会でも共通している。しかし、大事なことは、人の顔が千差万別なように、文化圈によって、そればかりではなく、その文化圈の中でも、さらに地域、社会階層や家族の歴史によっても実は、微妙に違っているということである。
そう考えてみれば、国民性を語る「日本人は・・・だ」とか「中国人は・・・だ」という言い方は、そうした個性を捨象して、言ってみれば「人間の顔には、目、鼻、口、耳などの生理的器官がある」とそれ自体情報としては無意味なことを言っているに過ぎない。しかも、顔のように自明なことならば問題は少ないが、文化的習慣のような全体がとらえどころのない対象についてそうした断定を行うのは、Aさんの顔もBさんの顔もCさんの顔も・・・全部同じだと言っているのと同じで、実は、非常に難しい判断だということは、いつも念頭に置いておきたい。個性は、顔でも文化でも、一般化すれば、意味を失うのである。
ただ、人の顔について好悪を自然に感じるように、文化についても好悪や美醜を感じるのは自然だろう。違う民族、違う文化圈に住む人々の顔にも好悪を見出すように、異文化についてもそれを感じるのは、当然のことだが、どんな異国にも美男美女がいるように、どんな異文化にも自分と異なった美や価値を見出すことはできる。逆に、醜悪さを見て前車の轍を踏まずと自分を顧みることもできる。これは主体である一人一人の人の選択の問題であり、友や伴侶を選ぶのと実は同じである。同じ中華圈と言っても、中華人民共和国(中国)の人間がしている文化的行動と、台湾の人々がしている行動は決して同一ではない。私が感じる美醜も、前者には醜悪さをより多く感じるのに対し、後者には、多くの美点を学ぶ。戦前の日本帝国は「アジアは一つ」という言い方で、狂気に陥った。現在の中華人民共和国(中国)が「中国は一つ」という言い方で、同じ轍を歩き出していないという保証はない。自己の選択の問題としてみれば、どの文化から学ぶかは、すでに解答の決まった問題である。
さて、台湾での結婚式はどうだったか。大きな違いは、一つは写真、もう一つは、披露宴だった。台湾式の披露宴や婚姻儀礼はまた、別の機会に書くことにし、写真のほうに、話をしぼろう。
結婚写真のことを台湾では、「婚紗」という。原語は「結婚衣裳」の意味で、日本の結婚のための貸衣裝と同じであろう。男女の結婚衣裳自体は、台湾と日本に大きな違いはなく、男性ならタキシードや各種のスーツ、女性はウエディングドレスやパーティードレスを、やはり日本と同じように二着から三着、披露宴で着替える。伝統式衣裳は日本で言っているチャイナドレス(旗袍で実は、満州族の服の変形であり、清時代の衣裳)があるが、今では着る人は珍しいようだ。
日本との大きな違いは、台湾では、貸衣裝は写真撮影も付いているということだ。これは台湾が生み出した習慣で、いわゆる中国(中華人民共和国)にはないらしく、中華人民共和国が使う簡体字のインターネット記事では「台湾婚紗」という固有名詞で呼ばれ、紹介されていた。写真撮影の様子はすでに、日本のホームページやガイドブックでも紹介されているが、私と家内の時は、高雄の婚紗店に頼み、カメラマン、ディレクター(?振り付けなどを担当する)、助手(反射板や照明器具などを持って光の加減をする)の三人とともに、最初は、店の中のスタジオで、借りることにした三着の衣裳とその他好みの衣裳を使って撮影した。結婚式の前年の婚約した冬のことだった(家内はこのとき契約した貸衣裝を持って翌年、日本の式に参加し、その後は、台湾での式でも使わせてもらった。)。
私が日本人で中国語がまったく分からないと言うので、ディレクターは思案していたが、では、指一本は笑顏、二本は真顔、三本は自然にしようと提案があり、家内がそれを翻訳してくれて、私が「OK」と答え、撮影が動き出した。ディレクターは指一本を私に出して、「スマイル」といい、顔の位置を上に向けるように手で合図したり、次は、指三本を出して、空を見るように顔を上げさせたりした。こうして、ディレクターは、二人の立つ位置やポーズ、顔の角度を支持し、二人の視線を合わせたり、あるいは、遠くに向けたり、表情も笑顏や真顔、夢見る顔など、細かく指示して、五十枚ぐらい撮影した。朝から昼ごはん時までかかった。
その後は、家内は白のドレス、私は背広姿で高雄の圓山飯店、澄青湖など、数カ所の風光明媚な公園を車で周り、戸外で撮影した。終わったとき、冬の日は、すでに傾いていて、夕焼けが高雄の街を包んでいた。
翌日、現像が終わった百枚の写真の中から三十枚を選び、アルバムの大小を各一冊、額入りの引き延ばし写真を二つ頼んで、撮影は終わりになった。プロのモデルがするように、二人の写真集が、こうしてできあがった。額入りの引き延ばし写真は、結婚式の会場の入り口に飾る。アルバムも入り口に置いて、見られるようにする。そして、日本では結婚の挨拶状を出すが、台湾では、「婚紗」で選んだ写真から名刺を何種類か作り、式場で配ったり、挨拶に渡したりする。
前年に撮影した写真と借りた衣裳が、翌年の日本での式にも、台湾の式にも、大いに活躍することになった。
これについても日本と台湾の優劣を論じることはできない。しかし、台湾のこの習慣を知って、熱烈な写真ファンになった日本人もあり、一生の記念として、また、二人が最初に協力してして進める事業として「婚紗」は、二人の前途への象徴的な意味がある。日本の写真が思い出にとどまるのにたいして、台湾の「婚紗」はより能動的とも言える。もちろん、「モデル気取りでやめてほしい」と恥ずかしがる日本の友人は少なくないが、社会の一単位として家庭を預かる以上、「恥を捨てる」覚悟が必要で、自分を裸にする機会としてもいいきっかけになると思われる。
台湾では、衣裳を借りて記念撮影をするのは日常的な習慣で、金婚式や銀婚式の夫婦が、衣裳を借りて、子供夫婦や孫たちに囲まれて、写真を撮る。家族の絆を深める意味でも、こうした遊び心は、学んでいきたいと思っている。
台湾では、「婚紗」の名所も少なくない。結婚式シーズンに近づくと、何組みもの「婚紗」グループが、公園や海岸などで、撮影している光景に出合う。
先日、歩き始めた下の子を連れて、近くの公園に出かけた。車を駐車場に止め、子供の手を引いて公園入り口に木の葉を茂らせている溶樹の下を潜って、広場のほうへ向かうと、少し離れた前方の丘陵の上に白い人影が見えた。秋にさしかかった空は、よく澄んで、日差しも透明にそそいでいる。「婚紗」の撮影には、日和もよかった。
歩きながら近づくと、白いウエディングドレスの長い裾を広げた新婦が、タキシード姿の新郎に手を引かれる姿勢で、ポーズをとっている。しゃがんだ助手が右手から反射板で光の加減を調節している。カメラマンは指示を出しながら、斜面の半ばでカメラの焦点を合わせていた。
公園の中程の散歩道をさらに歩いていくと、反対側の公園の入り口から、もう一組白いドレスに白いタキシードのカップルを案内する「婚紗」に出会った。左手を見ると、丘の中腹の亭で休んでいるやはり白い衣裳の別の「婚紗」がいた。
子供の手を引いて公園を一回りし、駐車場のほうへ戻ってきた。さっき出会った二番目の「婚紗」の一団が、公園の入り口の向かいにある水田に入って、撮影を始めるのが見えた。新婦の手を引いて新郎が、田んぼの畦道を中程まで進み、その後ろから助手が光の加減を見ながら続く。少し高くなっている道の車止めの上に立ったカメラマンが、二人の位置を見ながら、もっと向こうへと指示している。
公園での撮影は珍しくないが、水田の中で、記念撮影をしている新郎新婦を見ていると、二人の前途を思わず祝福したくなった。実り始めた稲穂と新婚カップル、この取り合わせに、素朴で心なごむ気がした。台湾の人々の健全な生活力を表しているようにも見えた。
刈り入れにはまだ早いが、稲穂がところどころ黄色く垂れる水田の上から、秋の透明な空が涼しい陽光をいつまでも二人にそそいでいた。