宮本輝,蛍川・泥の河,新潮文庫
宮本輝氏の「蛍川」には,確か高校の国語の教科書だか,模試の問題だかで出会った記憶がある。
印象深いラストシーンが紹介されていた。
それで興味を覚えて高校生か浪人時代にたぶん蛍川と泥の河を両方とも読んだ。今回と全く同じ文庫を読んだのかもしれないが,どうだったかはもう記憶が定かでない。話の筋もおぼろげに覚えているような気もするが,あまりはっきり覚えている気もしなかった。
それにしても,比較的柔らかい筆致で字面を追う分には非常に読みやすい文体である。
けれども,情景に込められた感情や想いを読み取ろうと思うと,かなりの神経を集中して一語一語を丁寧に追わなければならない気になってしまう。
どうも,文庫の表紙や解説を読んでみると,人間の生きる悲哀が両作品の根底にあるテーマらしい。
確かに,楽しくてはしゃげるようなシーンであっても,どこかしら寂しげな描写が忍び込んできて,手放しにウキウキできないのである。
ところで,読みやすさの理由の一つに,作者がストーリーをしっかり,落ち着いて語ってくれることが挙げられよう。
今風に言うとなんとなく薄っぺらい感じがして恐縮だが,必要なときにきちんとフラグを立ててくれるので,読者は何かが起こりそうだぞという予感に襟を正して成り行きを見守ることができる。
最近は文章の論理を追うことばかりに専念しているので,文章で表現された情感を感じ取る力はずいぶん衰えてしまったかもしれない。いや,そもそもそのような力が十分に発達していたようには思えない。これが課題図書であって,感想文を書けという宿題があったらなかなか辛いものがあるかもしれない。
いや,それならそれでいろいろ思いつきで書いているうちに,読みが深まるものかもしれない。その感想文を読んだ人(まあ大抵は先生だけだろうが)から共感を受けたり,異論を唱えられたり,疑問点を指摘されたりすれば,そういった議論を通じてさらに理解が深まるかもしれない。
ストーリー展開の面白さ(「大どんでん返し」とか,読者を裏切る結末,とか)が売りの小説ではないので,ネタバレを気にする必要はあまりないのかもしれないが,そうは言ってもやはり話の筋や結末もこれらの作品においては非常に重要な地位を占めているので,内容に踏み込んだ感想文をここで述べるのは止そう。
あたりさわりのない感想をもう一つだけ述べておく。
それは方言の魅力である。
「蛍川」(蛍は本当は冠のところが『ツ』でなくて『火火』と火がふたつ並ぶかっこいい字体なのだが,変換しても出てこないし,無理すると文字化けするかもしれないから蛍で我慢する)を読むと富山弁が懐かしくなるちゃ。
なァん,富山弁は聞いたことすらないがに,この作品を読んどると,柔らかい響きのどこか懐かしい富山弁が耳に響いてくるような気がするがや。
「泥の河」の舞台は大阪やけど,登場人物の言葉はあまりきつうない関西弁で,そやけど土地柄のせいか登場人物のやりとりはやっぱり軽妙で,ときどき噴出してしまいそうになるような会話もでてきはんねや。関西弁というのも,いつまでも耳を傾けていたい,そないな気持ちにさせてくれるような,不思議と心地よい響きがあるもんやさかい,こっちの作品にもなんや感化されてしもてなあ,宮本輝氏の他の作品はよう読まんのやけど,いっちょこの夏を使(つこ)ていくつか読んでみよ思てんねん。どれもこれもぱっとせん暗めの哀しげな話みたいやねんけど,なあに,夏の明るい季節に読むくらいがちょうどええ。
それにしても,ワープロで方言を打っても変換が大変で全く作業がはかどらない。
手書きなら何の問題もないのだが,ワープロ書きの作家は一体どうやってその困難を乗り越えているのだろうか。
下世話な話ではあるが,かなり興味深いことである。
<追記:7/19>
「蛍川」は主人公が14歳で思春期まっさかりであるが,「泥の河」は主人公が8歳である。両作品とも,露骨ではないが,そこはかとなく官能的なシーンや表現があって,胸が妖しくときめくことが何度かあった。
主人公,あるいは作者の繊細な感性がふとした瞬間に胸に沸き起こった感情を率直に言葉で表現したらそうなった,という感じにもとれる。
あと,テーマは生きていく中での悲哀だけでなく,「怖れ」という感情もあるように思う。どちらの作品でも,主人公はそれぞれある事件に遭遇して怖くなるのである。彼らの感じる怖れは,親しい人のちょっとした行動がきっかけで沸き起こるのだが,人によっては気付かないかもしれない,あるいは感じすらしないであろう,彼らが繊細であるがゆえに気付いてしまうもののようだ。
けれども,そうした描写を読むと,僕なども同じ様な経験をした覚えがあるような気がしてしまう。
宮本輝氏の「蛍川」には,確か高校の国語の教科書だか,模試の問題だかで出会った記憶がある。
印象深いラストシーンが紹介されていた。
それで興味を覚えて高校生か浪人時代にたぶん蛍川と泥の河を両方とも読んだ。今回と全く同じ文庫を読んだのかもしれないが,どうだったかはもう記憶が定かでない。話の筋もおぼろげに覚えているような気もするが,あまりはっきり覚えている気もしなかった。
それにしても,比較的柔らかい筆致で字面を追う分には非常に読みやすい文体である。
けれども,情景に込められた感情や想いを読み取ろうと思うと,かなりの神経を集中して一語一語を丁寧に追わなければならない気になってしまう。
どうも,文庫の表紙や解説を読んでみると,人間の生きる悲哀が両作品の根底にあるテーマらしい。
確かに,楽しくてはしゃげるようなシーンであっても,どこかしら寂しげな描写が忍び込んできて,手放しにウキウキできないのである。
ところで,読みやすさの理由の一つに,作者がストーリーをしっかり,落ち着いて語ってくれることが挙げられよう。
今風に言うとなんとなく薄っぺらい感じがして恐縮だが,必要なときにきちんとフラグを立ててくれるので,読者は何かが起こりそうだぞという予感に襟を正して成り行きを見守ることができる。
最近は文章の論理を追うことばかりに専念しているので,文章で表現された情感を感じ取る力はずいぶん衰えてしまったかもしれない。いや,そもそもそのような力が十分に発達していたようには思えない。これが課題図書であって,感想文を書けという宿題があったらなかなか辛いものがあるかもしれない。
いや,それならそれでいろいろ思いつきで書いているうちに,読みが深まるものかもしれない。その感想文を読んだ人(まあ大抵は先生だけだろうが)から共感を受けたり,異論を唱えられたり,疑問点を指摘されたりすれば,そういった議論を通じてさらに理解が深まるかもしれない。
ストーリー展開の面白さ(「大どんでん返し」とか,読者を裏切る結末,とか)が売りの小説ではないので,ネタバレを気にする必要はあまりないのかもしれないが,そうは言ってもやはり話の筋や結末もこれらの作品においては非常に重要な地位を占めているので,内容に踏み込んだ感想文をここで述べるのは止そう。
あたりさわりのない感想をもう一つだけ述べておく。
それは方言の魅力である。
「蛍川」(蛍は本当は冠のところが『ツ』でなくて『火火』と火がふたつ並ぶかっこいい字体なのだが,変換しても出てこないし,無理すると文字化けするかもしれないから蛍で我慢する)を読むと富山弁が懐かしくなるちゃ。
なァん,富山弁は聞いたことすらないがに,この作品を読んどると,柔らかい響きのどこか懐かしい富山弁が耳に響いてくるような気がするがや。
「泥の河」の舞台は大阪やけど,登場人物の言葉はあまりきつうない関西弁で,そやけど土地柄のせいか登場人物のやりとりはやっぱり軽妙で,ときどき噴出してしまいそうになるような会話もでてきはんねや。関西弁というのも,いつまでも耳を傾けていたい,そないな気持ちにさせてくれるような,不思議と心地よい響きがあるもんやさかい,こっちの作品にもなんや感化されてしもてなあ,宮本輝氏の他の作品はよう読まんのやけど,いっちょこの夏を使(つこ)ていくつか読んでみよ思てんねん。どれもこれもぱっとせん暗めの哀しげな話みたいやねんけど,なあに,夏の明るい季節に読むくらいがちょうどええ。
それにしても,ワープロで方言を打っても変換が大変で全く作業がはかどらない。
手書きなら何の問題もないのだが,ワープロ書きの作家は一体どうやってその困難を乗り越えているのだろうか。
下世話な話ではあるが,かなり興味深いことである。
<追記:7/19>
「蛍川」は主人公が14歳で思春期まっさかりであるが,「泥の河」は主人公が8歳である。両作品とも,露骨ではないが,そこはかとなく官能的なシーンや表現があって,胸が妖しくときめくことが何度かあった。
主人公,あるいは作者の繊細な感性がふとした瞬間に胸に沸き起こった感情を率直に言葉で表現したらそうなった,という感じにもとれる。
あと,テーマは生きていく中での悲哀だけでなく,「怖れ」という感情もあるように思う。どちらの作品でも,主人公はそれぞれある事件に遭遇して怖くなるのである。彼らの感じる怖れは,親しい人のちょっとした行動がきっかけで沸き起こるのだが,人によっては気付かないかもしれない,あるいは感じすらしないであろう,彼らが繊細であるがゆえに気付いてしまうもののようだ。
けれども,そうした描写を読むと,僕なども同じ様な経験をした覚えがあるような気がしてしまう。