泡盛なかゆくい

第一期・泡盛マイスターがお届けする、沖縄やアルコールに関する日々雑感。

20110311 徒歩帰宅の記録

2011年03月13日 | その他
いろんなお酒を相変わらず飲み続けていますが、なかなかブログに向き合う気持ちになれないまま、長い時間があいてしまいました。
久しぶりのブログ更新が泡盛や他アルコール類と関係のない内容で申し訳ないと思いつつ、こんな体験をしたことがなかったので、忘れないように残しておこうと思います。オフィスで仕事中に地震に揺られてから、徒歩で帰宅するまでの顛末です。

私の勤める会社は、日本橋浜町にあります。高速道路に隣接するビルで、会議室にいた社員の目撃証言では、高速道路を走るバスがロデオしているかのごとく揺れていたとのことです。揺れが治まると同時にパソコン一式を鞄に詰め、コートを着用。緊急避難場所の浜町公園に移動して、数時間後に帰宅命令がでました。この間に、お互いにフォローしていない妻のtwitterのアカウントを思い出して、公開ツイートでメッセージを送って、なんとか無事を確認。フォローしている友人たちが無事でいることを確認できて、twitterは本当に最後までありがたいインフラでした。部下はSkypeで家族と連絡が取れたみたいで、普段からIPベースのインフラにコミュニケーション機能を移しておくべきだなと痛感しました。

埼玉方面の社員数名と移動を開始。地下鉄が止まっているのはわかっていたので、ひとまず北の玄関口と言われる上野駅を目指すことにしました。道路は車で大渋滞。車よりも徒歩の方が速いほど。上野までの道すがら秋葉原駅に立ち寄るも、JRはまったく動いている様子がなく、さいたま市の自宅まで徒歩で帰宅することをこのあたりから覚悟したかもしれません。コンビニは、パンやおにぎりがことごとく売り切れていました。魚肉ソーセージとチョコレートと飲み物を確保しました。

御徒町付近で自転車屋が長蛇の列。ここで自転車を調達して乗って帰ろうという魂胆に衝撃を受けました。完全に特需です。あちらこちらの路上には誰かの自転車が停められているにも関わらず、誰もそれを盗ろうとしないあたり全体的に余裕が感じられて「まだ日本は大丈夫だ」と思ったり、ファミレスで呑気にお茶をしてる人たちもいて、非常事態な雰囲気はかなり軽減したり。昭和通りを歩く人がすごく多く、ペースが違えば歩きにくいので一本ウラの道に移動して上野駅に向いました。途中、ラーメン屋はいつもどおりに営業していました。携帯電話はまったくつながらず、数少ない公衆電話はもう十数年みたことがない大行列。twitterも更新がうまくできないまま、バッテリーの減りがやけに早く感じられました。

そして上野駅に到着。ここまで日本橋浜町から1時間です。JRは余震の影響を考慮して終日の運休を発表。建物崩落の心配からか、駅構内からも追い出されて寒空の下に。駅近くのコンビニでトイレを借りて、ついでに地図を立ち読みして帰路を確認。埼玉組の一つの関門が、荒川をどこで渡るかです。あまりの距離にメゲそうな気持ちになりました。『東京マグニチュード8.0』というアニメーションを思い出しながら、でも帰るしかないんだよな、と。陽は落ち、すっかり暗くなっているのですが、停電になっていないのが救い。線路沿いに移動です。日暮里で食事を取り、途中でマクドナルドや居酒屋でトイレを借りたりしながら北上を続けました。

普段、会社であまり会話をしない人と「最近ね、こんな風に感じているんだけど」と仕事上の悩みを吐露されたり、ずっと歩きながら会話が続きました。誰かと話をしているとかなり気がまぎれるみたいで、少しずつ痛みの増す足がそれでも一歩一歩と前に出ます。人は独りになったらダメなんだということを実感しました。途切れなく酒をあおりながら歩いていた同僚が荒川を渡る寸前にはぐれるなどのハプニングもありましたが、なんとか日付が変わる前に埼玉に入ることができました。そこから産業道路を目指して進路を変更します。

川口駅で近所の小学校が避難所になっているとのことを知り、休憩で立ち寄りました。体育館に誘導されて毛布をもらって、今日はここで夜を明かすかなと思ったりもしたのですが、座った瞬間に疲れと寒さで身体が震えはじめました。このままジッとしている方が身体に悪いと、パンパンになった足を靴にこじいれて、一緒に帰路を目指していた仲間に「俺はやっぱり歩いて帰る」と伝えました。数名の仲間が一緒に移動するというので、再び寒空の下でとぼとぼ歩きます。バカばっかり言っていた同僚も無口になりはじめ、川口駅まではいた大勢の徒歩帰宅の人たちも、産業道路を北上しはじめたあたりから、まばらになりました。妻が車で迎えに出たとの連絡があり、SMSでお互いの居場所をやりとり。午前1時過ぎに、蕨市を抜けた先のローソンの駐車場で、全員分の温かいお茶を持って迎えてくれました。

そこからは車で仲間の家に一軒ずつ車でまわりました。FM79.5が優しい気持ちになる音楽をひたすら流しているのが印象的でした。最後に一番遠い女性社員を送り届けたあと、急に実家が気になり様子を見に行って建物が無事なのを確認してから、自宅に帰りました。歩行距離だけで約26km。16時半から歩き始めて、家に着いたのが午前2時30分。それでも妻が迎えに来てくれなくて、そのまま歩き続けていたら、まだ辿り着いていないかもしれない時間です。家についてから、テレビでこの地震で壊滅状態の町の様子を目にして半泣きになりながら、足に湿布を貼って服を着たまま布団で横になりました。

埼玉から都内に勤めてもう20年近くになります。
いつか震災で徒歩帰宅をよぎなくされる日がやってくると、ずっと思ってきました。
しかし、それがこの日だとは思ってもみませんでした。
2011年3月11日、とても長い一日でした。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする