新聞記者になりたい人のための入門講座

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スクープの数々16・日米開戦

2011年05月08日 | ジャーナリズム

 

     日米開戦

         ゆがめられた世紀のスクープ

 日米関係が険悪化していた1941(昭和16)年11月初め、東京日日(現毎日)新聞の海軍省担当、後藤基治記者は親しくしていた提督の私邸を訪ねた。日米開戦の可能性を聞くと、提督は何も答えずにカバンから紙の束をはみ出させ、姿を消した。
 後藤記者は、書類を見て驚いた。表紙に「対米英作戦要項」と書かれ、めくるとフィリピン、シンガポール、ジャワなどの名が次々と出てきた。部屋に戻った提督は「カバンの中の書類を見せたら、僕は銃殺される」と言った。日米開戦が迫る重大な事態を知った瞬間だった。 
 開戦の日は、最高の国家機密だった。だが、タイで6ヶ月間、南方の気象データを集めていた知り合いの気象将校が帰国し、後藤記者に「いよいよ始まるぞ」と教えてくれた。開戦日は「12月1日プラス・アルファ」だった。後は、アルファが何日なのかを確定するだけになった。 
 外務省担当の佐々木碩哉記者は12月7日夕、日曜日で閑散とした省内を歩いていると、電話の声が廊下に漏れてきた。「今夜、ラジオ放送が終わり、12時過ぎに『南西の空晴れ』の電信を出す。午前2時にもう一度…」。佐々木記者は直感で「開戦は明日8日だ」とピーンときた。
 一方、「開戦日は君の推測で書けばいい。それを見て、私が何も言わなければそれでいい」と陸軍省担当の栗原広美記者に言っていたある参謀は7日、何も言わず暗に8日開戦を認めた。 
 3記者の情報で本社は開戦の日を8日と知り、原稿作成に入った。現代なら「政府、宣戦布告へ」と見出しをつけ、本文で事実経過を書くところだが、そうはならなかった。軍部や政府の厳しい検閲をそのまま通るとは考えられず、本社は情報局の幹部に記事を予告し、新聞を差し押さえないように要請した。幹部は、事実をそのまま書くのではなく、東日の意見として主観的表現でなら差し押さえないと言う。軍国主義下では、この条件に従うしかなかった。
 刷り上った1面トップ記事には「東亜撹乱・英米の敵性極る」「断乎駆逐の一途のみ 隠忍度あり一億の憤激将に頂点 驀進一路・聖業完遂へ」と大きな見出しが躍っていた。これだけでは英米への怒り、緊迫感は伝わっても、開戦とは読めない。しかし、本文では「敵は…英米の現状維持的世界支配国家」と決めつけ、「(日本は)東亜諸民族の運命を双肩に、挙国総進軍の秋を迎えた…」と過去形で断定し、戦争の始まりを伝えていた。
 8日午前3時22分、真珠湾攻撃成功の報が大本営に届いた。朝、配られた他の新聞には、開戦についての記事はなかった。
 佐々木氏は戦後、テレビ局のインタビューに「戦争になるんだぞと、国民に知ってほしかった。叫びにならない叫びだった」と、12月7日の心境を語った。検閲と憲兵を恐れず、記者魂と社運をかけた「世紀のスクープ」ではあったが、日本の破滅を予告する深刻なスクープでもあった。
(写真:米英などへの宣戦布告を強く暗示した1941年2月8日付け東京日日新聞朝刊の1面記事)

 

 

 

 



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