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スクープの数々24・松川事件

2011年05月11日 | ジャーナリズム

  松川事件

          ささやかな地方版のスクープ

                     無実死刑囚の生命救う

           諏訪メモ発見報道

 

 下山、三鷹事件が相次ぎ、大量解雇をめぐり米軍占領下の政府と労働勢力が対決していた1949(昭和24)年817日、福島市の東北本線松川駅近くで列車が脱線転覆、3人が死亡する松川事件が起きた。線路から釘が抜かれ、何者かが列車転覆を図ったのは明らかだった。

捜査当局は、国労福島支部と東芝松川工場の労組員が共同謀議し、実行したとして20人を逮捕、起訴した。福島地裁の判決では全員が有罪、仙台高裁では3人が無罪になったものの死刑4人など17人が有罪で、57(昭和32)年当時、被告・弁護側は最高裁に上告していた。

弁護団は、新たに被告のアリバイを示す「諏訪メモ」の提出を請求、検察側は「分からない」と拒んでいた。毎日新聞福島支局の倉嶋康記者は同年6月、その事実を知り重大性に驚いた。事件を担当し、福島地検には人一倍食い込み、検事らとは信頼関係を築いていた。検事正の指示でメモを探し、郡山支部長の検事が保管していることは間もなく分かった。だが、検事正に内容を確認する必要があった。

福島地検で張り込みを続けていると627日夜、郡山支部長が検事正室を訪れた。その直後に検事正に面会し、「メモは検察庁にあるのですか」と聞くと、検事正は「うん、ある」と答えた。大学ノートに鉛筆で書いてあるなど、詳しく説明してくれた。検事正は、普段から豪放で正義感の強い人だった。

 「諏訪メモ」は松川工場の諏訪親一郎氏が事件前の815日、労組側との団交を記録し、佐藤一被告(一、二審とも死刑判決)の発言をメモしていた。起訴事実では、佐藤被告はこの時間帯、福島市の国労事務所で列車転覆の謀議に加わっていた。謀議に不参加なら、実行はできない。佐藤被告ばかりか、全被告の命運を握るこのメモは捜査機関に押収され、所在が分からなくなっていた。

 「諏訪メモ」を詳しく知った倉嶋記者は、本来なら原稿を本紙(全国版)に送るべきだった。だが、数日前、「諏訪メモ」に関する原稿が、本紙でボツになっていた。スクープでも、記事にならなければ意味がない。倉嶋記者は、確実に掲載されるはずの福島版に原稿を送った。1957629日付福島版トップで「『諏訪メモ』発見さる」「松川事件、佐藤被告のアリバイ立証か」の見出しが人目を引いた。

 全国の読者には届かない福島県限定のスクープだったが、「諏訪メモ」の証拠能力はすさまじかった。最高裁は1959年、仙台高裁へ差し戻し、仙台高裁は1961年、全員無罪の判決を言い渡した。検察側の上告は1963年、棄却され無罪が確定した。

 倉嶋記者は、冤罪(えんざい)に泣く被告を助けたかった。全国版のスクープを狙う功名心を捨て、あえてヒューマニズムの立場を貫いたのだった。倉嶋氏はかつての記者魂そのままに、今も真犯人の姿を求め、米国での調査を計画している。

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