ソースは脳内(改)

親から再独立を目標に活動中のかずみぃの日常の日記です。

J2監督主観的評価・第1回松本育夫 後編

2005-08-11 05:39:44 | J2
 「火中の栗を拾う」そう意気込んで鳥栖の地を踏んだ松本監督だったが、その火の勢いは想像を遥かに超えるものだった。松本監督就任前年のサガン鳥栖の成績は年間3勝とJ2最少勝利記録を更新してしまうほど弱体化していた。原因は単なる選手の力不足?いやいや、もっと真相は根深いところにあった。

 当時の経営者である某社長はサガン鳥栖のオーナーと自負することにより、何を思ったか現場に口出しする状態であった。前任の監督の力不足もあっただろうが、それに加え某社長の好き嫌いでスタメンが組まれるなど選手起用まで介入していたということである。基本的なセオリーとして経営側が現場に口出しすることはよくないとされている。ましてやサッカーなどずぶのど素人が好き嫌いで口を出していたと言うのだから開いた口が塞がらなかったという状況だ。そしてチームを建て直すためにやってきた松本監督にも同様の手で迫った。
松本監督は初めてここでサガン鳥栖の不振の根源を目の当たりにする。松本監督はチームを救うべく自らの信念を貫き通し経営側の現場介入を拒否するなど現場と経営で戦うこととなった。
 しかし松本監督も次第に滅入って来てしまう。減資騒動→失敗に至ったこのころはもはや精神的な限界を迎えていた。サポーターの前では魂の抜けた姿で現れる日も決して少なくはなかった。時にはうなされている状態で練習を指揮っていた日もあった。
 だが松本監督は精神的に限界が来てても決してチームを見捨てることはなかった。その理由として挙げられているのが鳥栖のハードの素晴らしさが挙げられるという。鳥栖スタジアムという最高のスタジアムを擁し、加えて北部グラウンド、鳥栖陸上、佐賀陸・球技、小郡陸など6面も練習場を使えるハード面の素晴らしさが監督の胸を打っていたという。「この環境の素晴らしさがなければとっくに辞めていた。」その言葉が表す様にソフトは弱いかもしれないが、これだけのハードがある、これを生かせば絶対いいチームができるという夢があったからこそ松本監督は幾多の苦難を日々乗り越えながら鳥栖に残っていた。

 やがて会社は松本監督の戦いをJが、鳥栖市が支援する格好となり旧サガン鳥栖社から井川氏のサガンドリームス社に移ることとなる。井川氏は松本監督と対談し、松本監督の志に惚れ全権委任する形で支援することとなった。これで他のチームでは当たり前ではあるものの松本監督にとって念願であったチーム作りに専念できる環境が整った。

 松本監督はかつての最強軍団メキシコオリンピック代表に選ばれたこと、その後ユース代表を率いたこと、またJでは学閥とも言われている早稲田大学出身ということもあり日本サッカー界には幅広い人脈とコネがある。そのためJ各チームに人脈があり選手をかき集める手腕は今のJの日本人監督では右に出るものはないだろう。本来ならばGMという役割が打ってつけとも言えるが、ほかならぬ松本監督が現場が大好きで生涯現場で選手を、チームを育てたいと願う人だけに監督業が本人にとって天職だそうだ。

 監督としてはちょっと考え、やり方が古いと揶揄されながらも、そのチームの実力に沿った戦術、育成を基にしているようだ。その為早い段階でチームを建て直すという意味での効果、結果はすぐ出せるが長期的なビジョンの元で指揮をさせると相手に研究されやすいのか途中で結果が出なくなる傾向にあるようだ。
ちょっと口が多いことでも有名だが、その口をサポーターに向けることも惜しまず積極的にサポーターと交流し根強い関係を保っている。

 個人的には京都のGM時代で結果がなかなか出なかったことと、川崎で短期間でJ1昇格を果たした以外の業績は知らないが、余程でない限り長期政権が約束されている松本サガンで松本育夫の真価が問われることとなる。

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1 コメント

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いいですね、これ (本田栗雄)
2005-08-24 01:08:43
名コラムですね。



これ金取れますよ、いやマジで。

お隣のネットライターよりはるかにいい。

また、よろしく。
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