泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

新世界

2008-08-13 12:20:07 | 音楽
 ヴァイオリニストで作曲家の川井郁子さんの新譜が発売されています。そのタイトルが「新世界」。はまっています。
 川井さんにとっての「新世界」とは、子供を授かったことのようです。それは、まさに新世界なのでしょう。
 彼女のCDはほとんど持っています。関心するのは、何度聴いても飽きないということ。今回のアルバムも、繰り返し再生しています。
 子供を授かって(それは向こうから来る)、創作の源泉が増えたと言っています。なんだかうれしいですね。結婚や出産、子育てはわずらわしい。負担ばかり増える、と、経験のない私は案じてしまいがちですが、そうした母でありながら芸術家として機能している人がいると知ると励みになります。
 そして聴き込んでいるうちに、「新世界」の原作者が気になり始めました。その人は、ドヴォルザークでした。
 交響曲第9番が「新世界より」。1892年9月26日、彼はニューヨークの埠頭に初めて立った。それまでヨーロッパではゆるぎない名声を確立していたにも関わらず。「新世界より」は、翌年5月完成し、12月、開場間もないカーネギーホールで初演された。聴衆の熱狂的な喝采。この曲を世界で初めて聴いた人たちの感動がわかるような気がします。
 力強いティンパニ、泣くようなヴァイオリン、第二楽章の、日本では「遠き山に日は落ちて」として詞もつけられ親しまれている、オーボエの郷愁、思い出と交じり合いながら生起するトランペットは、好奇心や勢いや刺激、避けられない運命を暗示しているようです。
 戻りながら進みながら、主題は変化していく。支流が集まって大河になっていく。弱まったり強まったりしながら、人生が堂々と歩いていく。
 僕にとっての「新世界」。
 それは自己中心から関係中心への移行ということになるのでしょうか。
 人間関係こそがすべてなのではないでしょうか。
 そのなかに入るまでが今までの課題だったのかもしれない。
 今までだって社会の中で生きてきたはずなのです。
 しかし、なんだろう、例えばとなりに誰かが眠っている、という状態を、すんなり受け入れられなかった。人一倍淋しがりやなのに。親に甘えてばかりきたのに。
 僕らは、確かに一人ひとり違う。かといって、違うことがもとで、分断されたり差別されたりされる存在ではない。森のように、すべてが絡み合って、持ちつ持たれつになっているのが自然。あまりに人工すぎた。それは自信がないゆえに。自分の思う範囲内で事を済ませたいために。未知は、他は怖いから。何が起こるかわからないから。
 でも、そんな時代は終わったようです。小説を書いて、読んでもらって、感想を聴いたり、それによって他者の物語が喚起し、聴かせてもらうたびに、僕らは同じ地平に立っているんだと実感する。連帯感というのでしょうか、親しみというのでしょうか、「よくがんばってきたね」と素直に言える。
 自分にできること、役割は、聴くことであり、書くことです。その分を果たしていくことで、日々生まれている「新世界」を、より豊かに、広げていきたい、と思っています。
 ここに今生きて存在しているということ。それ自体がすでに「新世界」なのかもしれません。それでも、区切りがある、節目がある。入っていこう、と思う。音楽に促されて、励まされて。

川井郁子/The New World/ビクター/2008
ドヴォルザーク/交響曲第8、9番/カラヤン/ウィーンフィル/ユニバーサルミュージック/2007

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