半年前、僕が仏教書を担当していて、最も売れていた本。
この本を読むと、というか、スマナサーラ長老(お坊さん)の法話を聴くと、怒りが諸悪の根源であることに気づかされます。
怒りとは、弱さ、吐き出したもの、ごみ、バカ、無知、恥、負け犬、ダメ人間、そして不幸の源。スリランカ生まれの著者が、知っている日本語の限りを尽くして、怒りが最悪であることを説く。しかも挑発的に。読者の中の怒りを引き出そうとして。そして怒りが呼び出されたなら、徹底して向き合い、理解し、根治するように諭す。
なぜ、人は怒るのでしょうか?
「私は正しい」と思っているからです。
この明快な答え。目から鱗が落ちました。
まったくそう。
僕自身の怒り体験が浮上してきた。
二十代の後半、焦って(待てずに)手当たり次第に、気があると僕が感じた女性に声をかけ、結果的に覚えているだけで三人に振られた。一人の人には、勤める会社にまで出向いた。あろうことか、僕は三人ともに別れ際、怒りの感情をぶつけていた。なぜ?どうして?と。すべては「僕が正しい」と思っていたから。私の思い通りに事が運ばないことにいら立っていた。なんてバカだったのでしょう。恥ずかしい。ごめんなさい。
あるアルバイトの女子大生に「菊田さんは怒らないんですかあ?」と質問されて、「そんなことないよ。よく怒るよ」と言ったことも思い出された。その時は、怒れるようになった自分を認めたい気持ちだったのか。それも今となっては恥ずかしい。「うんそうだよ。怒らないよ」と、すんなり言えるようになりたい。
「私は正しい」なんて信念は、まったく間違っている。あらゆる他人からの注意は、その信念を脅かす。だから怒る。私が正しいんだと言いたくて。でも、怒ったら負け。問題なのは、問題なのであって、感情ではない。怒りに対して、知恵で応えるのが大人のやり方。
姉の一才一か月になった子(甥)をよく見ていると、何が正しいのかなんてすべて後付です。赤ちゃんはひたすらに動く。泣く。物をつかんでは投げ捨てる。パンを手でつかんで、なぜか母の口に運んでいく。
「正しさ」は日々変わる。多くの人々がおおむね「よし」と感じているところとしか言えない。五十年続いた自民党も、二百年続いた江戸幕府も、流れる時代にとっては正しくなくなるということ。まして誤作動だらけの自分が正しいなんて言えるのか? 「俺が法律だ」なんて言う人がいたら、無知の塊でしかない。変われないことはその人の安全しか保障しない。人間は他の生き物と等しく共生している。「私は正しい」というエゴが、環境を破壊し、本人と周辺の人々を不幸の渦に貶めていく。「私は正しくなんかない。間違いばかり起こす人間だ」と思っていれば、ささいな注意もありがたくなって聞こえてくる。笑顔も生まれる。余計な力も抜ける。そもそも私は正しくないのだから。「無知の知」というソクラテスの言葉も蘇ってきます。
部屋替えとともに、怒りも捨ててしまおう。そして、もし怒ってしまったなら、この本を読み返そう。怒りが出現しなくなるまで。
スマナサーラ著/サンガ新書/2006
この本を読むと、というか、スマナサーラ長老(お坊さん)の法話を聴くと、怒りが諸悪の根源であることに気づかされます。
怒りとは、弱さ、吐き出したもの、ごみ、バカ、無知、恥、負け犬、ダメ人間、そして不幸の源。スリランカ生まれの著者が、知っている日本語の限りを尽くして、怒りが最悪であることを説く。しかも挑発的に。読者の中の怒りを引き出そうとして。そして怒りが呼び出されたなら、徹底して向き合い、理解し、根治するように諭す。
なぜ、人は怒るのでしょうか?
「私は正しい」と思っているからです。
この明快な答え。目から鱗が落ちました。
まったくそう。
僕自身の怒り体験が浮上してきた。
二十代の後半、焦って(待てずに)手当たり次第に、気があると僕が感じた女性に声をかけ、結果的に覚えているだけで三人に振られた。一人の人には、勤める会社にまで出向いた。あろうことか、僕は三人ともに別れ際、怒りの感情をぶつけていた。なぜ?どうして?と。すべては「僕が正しい」と思っていたから。私の思い通りに事が運ばないことにいら立っていた。なんてバカだったのでしょう。恥ずかしい。ごめんなさい。
あるアルバイトの女子大生に「菊田さんは怒らないんですかあ?」と質問されて、「そんなことないよ。よく怒るよ」と言ったことも思い出された。その時は、怒れるようになった自分を認めたい気持ちだったのか。それも今となっては恥ずかしい。「うんそうだよ。怒らないよ」と、すんなり言えるようになりたい。
「私は正しい」なんて信念は、まったく間違っている。あらゆる他人からの注意は、その信念を脅かす。だから怒る。私が正しいんだと言いたくて。でも、怒ったら負け。問題なのは、問題なのであって、感情ではない。怒りに対して、知恵で応えるのが大人のやり方。
姉の一才一か月になった子(甥)をよく見ていると、何が正しいのかなんてすべて後付です。赤ちゃんはひたすらに動く。泣く。物をつかんでは投げ捨てる。パンを手でつかんで、なぜか母の口に運んでいく。
「正しさ」は日々変わる。多くの人々がおおむね「よし」と感じているところとしか言えない。五十年続いた自民党も、二百年続いた江戸幕府も、流れる時代にとっては正しくなくなるということ。まして誤作動だらけの自分が正しいなんて言えるのか? 「俺が法律だ」なんて言う人がいたら、無知の塊でしかない。変われないことはその人の安全しか保障しない。人間は他の生き物と等しく共生している。「私は正しい」というエゴが、環境を破壊し、本人と周辺の人々を不幸の渦に貶めていく。「私は正しくなんかない。間違いばかり起こす人間だ」と思っていれば、ささいな注意もありがたくなって聞こえてくる。笑顔も生まれる。余計な力も抜ける。そもそも私は正しくないのだから。「無知の知」というソクラテスの言葉も蘇ってきます。
部屋替えとともに、怒りも捨ててしまおう。そして、もし怒ってしまったなら、この本を読み返そう。怒りが出現しなくなるまで。
スマナサーラ著/サンガ新書/2006
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