サッカー狂映画監督 中村和彦のブログ

電動車椅子サッカーのドキュメンタリー映画「蹴る」が6年半の撮影期間を経て完成。現在、全国で公開中。

Deaf Jam~聞いて!私の手話の詩(うた)~

2012年12月25日 | 手話・聴覚障害

先日NHKの日本賞青少年向けカテゴリー最優秀賞を受賞したという「Deaf Jam~聞いて!私の手話の詩(うた)~」というドキュメントを見た。
ろう者の女子高生が、手話ポエムにチャレンジするアメリカのドキュメンタリー。

前半は正直面白くなくて。
アメリカ手話はわからないがパフォーマンスも学芸会的なレベルにしか見えないし。
まあでも情報を工夫して盛り込んでいるようだし、我慢してみていたらそのうち面白くなるかもと思い見ていた。
もし日本手話だったらある程度読み取れるわけで、ドキュメンタリーの出来と関係なく興味深く見ることができるのだが。

しかし途中から突如として面白くなった。
主人公の彼女は聴者の詩(ポエム)のパフォーマンスのイベントに参加することになる。参加者はラップ調の人がいたり様々だが、聴衆は手話のわからない聴者である。
手話通訳をつけるかどうかとういう話になるが、結局は前説のみに手話通訳をつけることに。
おそらく通訳者との間でいろんな議論もあったと思うがパフォーマンス自体には手話通訳をつけないことになった。前説をつければ、きっと何かしらのものは伝わるだろうという判断だったのだろう。
しかし彼女のパフォーマンスはそれほどのものではなかった。たとえ言葉が通じなくても人の心を打つ表現や芸術は確実にあるが、彼女のレベルはそれほどのものではなかったということだ。
ではもし手話通訳をつけていればどうだったのだろう。手話通訳があれが聴衆は手話通訳の声を聞くことになるわけで、彼女の詩がどこまで伝わるか疑問符がつく。もちろん意味は伝わるが手話通訳の声は表現までは昇華できないであろう。手話通役者がもともとそういったパフォーマンスをやっている人であれば話は別だが。もちろん手話通訳をせめているわけではない。
そんなことを考えて見ていたら、そのイベントで彼女に関心を持った詩人(聴者)が目の前に現われる。
詩人の彼女はパレスチナ生まれのイスラームの女性、2人で詩を共作しようと持ちかける。共作した詩を聴者の彼女は声で、ろう者でイスラエル生まれのユダヤ人である主人公は手話で表現しようというものだ。
ここから俄然ドキュメンタリーは面白くなる。
ろう者と聴者。ユダヤ教徒とイスラム教徒。イスラエルとパレスチナ。文化、宗教、言語と異にした2人のパフォーマンス。
「二つの文化、二つの言語、そして一つの詩」
そんな賞賛の声でドキュメンタリーは締めくくられる。


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