鶴姫伝説で有名な常山登山&研修を実施。 有志13名が登山にチャレンジ。 この山 頂上にはNTTの無線基地があったため頂上付近まで螺旋道路を敷設していた。 数年前に土砂崩れがあり、今回はケモノ道を上る。
出発進行!!
13名が1列になり頂上を目指す。
途中底無し井戸がある。ここは常山城主「上野高徳」らも使用した井戸で、今は使われていない。
そばにはシャガの花が咲いていた。
常山合戦で女性ながら戦った鶴姫以下34名の侍女たちの墓碑がある。 説明をしてくれた地元の方(つつじの会会員)
近くには多くの地蔵尊があった。
頂上(標高307m)からの眺め。正面の山は玉野市で一番標高の高い金甲山
常山登山後麓の友林堂へ。 天井の絵画を一枚
ここでも常山城落城当時の歴史を教わる。 この友林堂は戸川秀康が嫡男にその座を渡し、麓で暮らした。 没後建立(1805年)されたもので、由緒ある建築物。
戸川秀康の墓標
常山城の歴史を掻い摘んで分かりやすく説明してくれたが、受け手側が租借不足で・・・うまく書けない。 詳しくは、つつじの会員になって、副会長に聞いてほしい。
出発進行!!
13名が1列になり頂上を目指す。
途中底無し井戸がある。ここは常山城主「上野高徳」らも使用した井戸で、今は使われていない。
そばにはシャガの花が咲いていた。
常山合戦で女性ながら戦った鶴姫以下34名の侍女たちの墓碑がある。 説明をしてくれた地元の方(つつじの会会員)
近くには多くの地蔵尊があった。
頂上(標高307m)からの眺め。正面の山は玉野市で一番標高の高い金甲山
常山登山後麓の友林堂へ。 天井の絵画を一枚
ここでも常山城落城当時の歴史を教わる。 この友林堂は戸川秀康が嫡男にその座を渡し、麓で暮らした。 没後建立(1805年)されたもので、由緒ある建築物。
戸川秀康の墓標
常山城の歴史を掻い摘んで分かりやすく説明してくれたが、受け手側が租借不足で・・・うまく書けない。 詳しくは、つつじの会員になって、副会長に聞いてほしい。
どうもも近頃心霊スポットで有名になった、常山での研修を実施する。
この地域は今から約20年前、当時の山根市長が歴史街道を観光に取り入れるというここで、案内図、看板、道標等を作った。
上野隆徳は、備中松山で無残な最期を遂げた一族上野伊豆守頼氏らの仇敵である庄為資の嫡子高資を討ち備中松山城主となった三村家親の娘を室とし、備中一円に勢力を広げる三村氏との縁故を深めていった。
元来、上野氏は、信孝を通じて毛利氏とも格別の信頼関係を有していたが、信孝も、また、元就も他界して後、隆徳は、将軍家や上野宗家の意に反し、織田方と通じた三村家親の嫡子元親に加担して毛利氏に対抗することとなり、その挙句、天正3年(1575年)に小早川隆景が率いる毛利軍によって攻め滅ぼされた。これが、世に云う常山合戦である。
上野隆徳は、備前常山城主として臨済宗豊岳山久昌寺を再興しているが、上野氏の菩提寺であった報恩寺(倉敷市真備町)には、隆徳とその室・鶴姫の当時からの位牌が、今も祭られている。(ウィキペディアから引用)
上野高徳が滅んだ後の城主として戸川秀康が入城。1581年~2年ごろ家督を嫡男達安に譲り、友林と号した。
その友林堂
ここの天井が素晴らしい。
以下 戸川秀康について、ウィキペディアから引用
天正3年(1575年)には常山城主となり、2万5千石を領して、宇喜多氏随一の有力家臣となっていた。
第一次木津川口の戦いで宇喜多水軍を率いて本願寺方で参戦した記録がある。
岡家利や長船貞親と並ぶ宇喜多三老のひとりであるが、直家の信任は三老の中で最も厚かったといわれている。直家の晩年頃から宇喜多氏の国政を任されたが、直家死後、家督を嫡男の戸川達安に譲って隠居し、友林と号した。
墓所は岡山県玉野市宇藤木の常山麓にある友林堂。法名は自任斎枋授友林居士。
この地域は今から約20年前、当時の山根市長が歴史街道を観光に取り入れるというここで、案内図、看板、道標等を作った。
上野隆徳は、備中松山で無残な最期を遂げた一族上野伊豆守頼氏らの仇敵である庄為資の嫡子高資を討ち備中松山城主となった三村家親の娘を室とし、備中一円に勢力を広げる三村氏との縁故を深めていった。
元来、上野氏は、信孝を通じて毛利氏とも格別の信頼関係を有していたが、信孝も、また、元就も他界して後、隆徳は、将軍家や上野宗家の意に反し、織田方と通じた三村家親の嫡子元親に加担して毛利氏に対抗することとなり、その挙句、天正3年(1575年)に小早川隆景が率いる毛利軍によって攻め滅ぼされた。これが、世に云う常山合戦である。
上野隆徳は、備前常山城主として臨済宗豊岳山久昌寺を再興しているが、上野氏の菩提寺であった報恩寺(倉敷市真備町)には、隆徳とその室・鶴姫の当時からの位牌が、今も祭られている。(ウィキペディアから引用)
上野高徳が滅んだ後の城主として戸川秀康が入城。1581年~2年ごろ家督を嫡男達安に譲り、友林と号した。
その友林堂
ここの天井が素晴らしい。
以下 戸川秀康について、ウィキペディアから引用
天正3年(1575年)には常山城主となり、2万5千石を領して、宇喜多氏随一の有力家臣となっていた。
第一次木津川口の戦いで宇喜多水軍を率いて本願寺方で参戦した記録がある。
岡家利や長船貞親と並ぶ宇喜多三老のひとりであるが、直家の信任は三老の中で最も厚かったといわれている。直家の晩年頃から宇喜多氏の国政を任されたが、直家死後、家督を嫡男の戸川達安に譲って隠居し、友林と号した。
墓所は岡山県玉野市宇藤木の常山麓にある友林堂。法名は自任斎枋授友林居士。
宇野港沖に下烏島と上烏島がある。その中間どころに五人宗谷がある。
河井 康夫氏の「玉野の伝説」を一部引用する。
いつのころか時代がはっきりしないが、備後の鞆(とも-福山市-)の回船問屋に五人の盲人が訪れ、大阪行きの船便を待っていた。いずれも目こそ見えないが、服装も立派だし、人柄も上品そうで、裕福そうに見えた。
「座頭さん、どちらまでおいでですか」と聞いてみると、「私たちは、いずれも検校(けんぎょう)の位をいただくため、都にのぼっているのです」という。
その話を聞いていた一人の船頭が「座頭さん、私が大阪まで送りましょうか。船賃を奮発して下されば、今からでも送りますぜ。なあに、帰り船は大阪から荷物を積んでくることになっているんだ」という。五人の座頭にとっては、渡りに舟である。
五人は喜んで、この船頭の船に乗りこみ、さっそく鞆の港を出発し、船は順風に帆をあげて、東に向かって走りはじめた。
どのくらい走ったか、やがて日も暮れてきた。その内、風もないだのか船をあやつる櫓の音が静かに聞えてきた。船がゆれるたびに水の音がした。船底に水がたまったのであろう。その時、「座頭さん、すまんが船のアカをかえるから、この先の島に上がって待っていてくれんか」。座頭は素直にうなずき、船頭の手にひかれて、島に上陸した。
島に上がった五人の座頭は静かに打ち寄せる波の音を楽しんでいたが、いつまで待っても船頭の迎えは来ない。
「船頭さんまだか」と声をかけてみたが、返事がない。「船頭さん、船頭さん」と大声で呼んでいる内に、潮が足元をぬらし始めた。
だまされたと知った五人は声を限りに助けを求めたが、あたりにはもう船の姿はなく、次第に満ちてくる水は足から腹へ、腹から胸へと高くなり、お互いに離れまいとして抱き合った五人の座頭はついに海水に没して、海のもくずと消えたのである。
このあたりでは、今でも雨の夜などにこの海を通ると、海の底から話し声がきこえ、すすり泣く声が聞えるといって、漁師たちは近寄らないし、ときには、三つ四つ海面に黒々と現われた岩の上を火の玉がぐるぐると飛びまわることがあるという。
また一説には、この五人の座頭のうち、一人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって生きかえった。やがて、高野山に登って、四人の墓を建て、その菩提をとむらったという。
かつて、直島の漁師がこの宗谷にもぐってみると岩の間に無数の白骨が折り重なってあったとか、気味の悪い噂がある。
とにかく、この岩礁から離れられない五人の座頭の怨霊は五人宗谷(そわい)という名とともに今も語り伝えられている。
河井 康夫氏の「玉野の伝説」を一部引用する。
いつのころか時代がはっきりしないが、備後の鞆(とも-福山市-)の回船問屋に五人の盲人が訪れ、大阪行きの船便を待っていた。いずれも目こそ見えないが、服装も立派だし、人柄も上品そうで、裕福そうに見えた。
「座頭さん、どちらまでおいでですか」と聞いてみると、「私たちは、いずれも検校(けんぎょう)の位をいただくため、都にのぼっているのです」という。
その話を聞いていた一人の船頭が「座頭さん、私が大阪まで送りましょうか。船賃を奮発して下されば、今からでも送りますぜ。なあに、帰り船は大阪から荷物を積んでくることになっているんだ」という。五人の座頭にとっては、渡りに舟である。
五人は喜んで、この船頭の船に乗りこみ、さっそく鞆の港を出発し、船は順風に帆をあげて、東に向かって走りはじめた。
どのくらい走ったか、やがて日も暮れてきた。その内、風もないだのか船をあやつる櫓の音が静かに聞えてきた。船がゆれるたびに水の音がした。船底に水がたまったのであろう。その時、「座頭さん、すまんが船のアカをかえるから、この先の島に上がって待っていてくれんか」。座頭は素直にうなずき、船頭の手にひかれて、島に上陸した。
島に上がった五人の座頭は静かに打ち寄せる波の音を楽しんでいたが、いつまで待っても船頭の迎えは来ない。
「船頭さんまだか」と声をかけてみたが、返事がない。「船頭さん、船頭さん」と大声で呼んでいる内に、潮が足元をぬらし始めた。
だまされたと知った五人は声を限りに助けを求めたが、あたりにはもう船の姿はなく、次第に満ちてくる水は足から腹へ、腹から胸へと高くなり、お互いに離れまいとして抱き合った五人の座頭はついに海水に没して、海のもくずと消えたのである。
このあたりでは、今でも雨の夜などにこの海を通ると、海の底から話し声がきこえ、すすり泣く声が聞えるといって、漁師たちは近寄らないし、ときには、三つ四つ海面に黒々と現われた岩の上を火の玉がぐるぐると飛びまわることがあるという。
また一説には、この五人の座頭のうち、一人だけは田井の海岸に打ち上げられ、親切な村人の介抱によって生きかえった。やがて、高野山に登って、四人の墓を建て、その菩提をとむらったという。
かつて、直島の漁師がこの宗谷にもぐってみると岩の間に無数の白骨が折り重なってあったとか、気味の悪い噂がある。
とにかく、この岩礁から離れられない五人の座頭の怨霊は五人宗谷(そわい)という名とともに今も語り伝えられている。