森かずとしのワイワイ談話室

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光市事件高裁差し戻し審死刑判決に思う

2008-04-23 01:46:56 | 議会活動
 今日22日の最大のニュースは、光市母子殺人事件の広島高裁差し戻し審で被告の元少年に死刑判決が言い渡されたことでしょう。死刑判決を求めて9年間たたかってきた夫の本村洋さんの記者会見の模様が、終日放映されました。
 罪のない母子が殺害された事実は争う余地はなく、殺害の意図と改悛の情によって量刑が死刑にまで重度化するかが焦点とされました。いえ、誤解を恐れずに言えば、被害者とその遺族の苦悩に共感した社会が、死刑を期待して判決を待ち望んだ結果という印象が拭えません。弁護士が非難の的にされた局面も垣間見てきました。刑事事件をめぐる裁判ですが、私には、国家的な仕掛けの中にはめ込まれたシナリオの存在をどうしても感じてしまうのです。

 法律関係の識者からは、「疑わしきは罰せず」、「疑わしきは、被告人の利益を」の原則が揺らいだと、今後の死刑「乱造」を危惧する声も聞かれます。感情的な世論を背に、量刑決定において事実審理、今回の場合は、犯行意図を合理的に立証しうる審理が十分になされないまま判決が出されたと疑問視されてもいます。敢えて、弁護士の会見内容を紹介しておきます。

 被害者遺族としての怒りと悲しみは、想像もできないほど深きものに違いありませんが、時としてえん罪、良心の囚人も内包させて国家の権力機構が罪を確定し、罰によって生殺与奪するという裁判の本質を考えたときに、被害者遺族の感情が客観的な審理に優先されることは、生殺与奪の権限を持つ国家権力にフリーハンドを与える危うさを感じます。報復と法による裁きは、峻別されるべきであったはずです。
 「罪を犯した者にも守られるべき人権はある。」これが、王権の独裁で究極の人権である命をも奪われてきた封建の時代から自由を獲得した市民の近代の法理念であったはずです。しかも、殺人こそが最大の罪であるならば、理由はいかにあろうとも「新たな殺人」としての死刑は、過去の遺物となるべきだと、私は考えるようになってきました。この立憲主義にも通じる近代司法の基本理念が押しやられ、つくられた(容易なマスコミ誘導)世論が、厳罰化という国家権力万能の時代を招き入れるようなことは、避けなければなりません。裁判員制度が、感情による裁きを加速させる場とならないためには、市民感覚に客観的な法意識を醸成しないといけません。そのために、日頃から人を裁くという極めて困難な悩ましさと向き合うことが迫られてくると思います。私には、もちろんその自信はまだありませんが。

 

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2 コメント

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人権意識の基盤を奪う死刑 (半沢英一)
2008-04-23 08:03:33
 光市裁判については、私の友人が弁護団にかかわっていることもあり、判決に注目していました。
 少年法の精神にもとづき無期懲役を科してきた原審の(慣習的な)量刑判断を、最高裁判所が強引に再戻しした背景には、裁判員制度をにらんで「二人殺したら難しいことを考えないで死刑」と素人にもわかるマニュアル的基準を造る意図があるといわれており、私もそうだろうと思っています。
 また日本は、昨年秋の国連総会における死刑停止勧告にさからうように「ベルトコンベア式に」死刑を続けています。
 かって日本は平安時代の三百五十年間(「薬子の乱」の藤原仲成の処刑から「保元の乱」の源為義・平忠正の処刑まで)、公的には死刑を廃止していたという世界史的にも希有な過去を持っています。そういう過去を持っている日本が、現在ではなんと殺伐とした国になっているのかと嘆息せざるをえません。
 死刑は冤罪・部分冤罪・不当量刑などの司法過誤を回復不可能にするというだけであってはならない制度のはずです。
 しかしそれは法的正義にかかわるだけでなく、社会の人権意識に深く関わっていることを、すべての市民が意識すべきだと思うのです。死刑を容認する社会とは所詮は「人間を殺すことが許される社会」だからです。
 私には現在の日本の、生活保護を拒否されて餓死者が出ている現実、貧しい人々が保険証を取り上げられ医療を受けられずに死んでいっている現実と、日本における死刑制度の存続が無関係とは思われないのです。
 そういったことから私は、森さんが死刑に対する見解を明らかにされたことを、嬉しく思っています。
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人権意識のバロメータ (森 かずとし)
2008-04-24 00:25:52
 狭山事件の鑑定書を出しておられるなど、市民の立場で裁判の合理性と正義の確立に大きなご努力を重ねてこられた半沢さんに、ならではの明快な見解をお寄せ頂いたこと感謝申し上げます。
 私は、小学校でいろんな子どもたちと出会い、つきあった経験を持っています。子どもたちは、大人がつくった環境に大きく影響され、子ども人生を送ります。子どもが反社会的な行動に出たり、他人を傷つけるような態度に出るときは、その子自身がすでに傷つき、自暴自棄の状態に陥っていたり、救済を求めるシグナルであったりします。周りの子どもたちにいかにそれに気づかせることが出来るかが、教育上の重要なポイントです。良好な成育環境から、犯罪の根は伸びることはありません。教育の眼差しとはそういうものであると思っています。そうした眼差しが封じ込められつつあるように思います。危機感を憶えるところです。
 個別の犯罪も決して個人のことではなく、社会が関与していると考えなければなりません。人の被害感情を利用し、社会を私物化している一部の利権保持者や統治者が、自らの責任を転嫁し、見せしめに抹殺してみせる統治行為。それが、死刑の本当の姿ではないかと思うのです。そのことに目覚めることが、死刑存廃問題を議論することではないでしょうか。
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