森かずとしのワイワイ談話室

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ドイツ視察報告その4の続編

2012-02-24 16:29:27 | 議員活動
 昨日は、地元御影町のディサービスセンターの利用者の方々を慰問に行った。カラオケで皆さんで楽しく歌を楽しんだ。私が生まれる前の歌もよくリクエストされたが、皆さん、よく一緒に口ずさんでおられた。歌はいい。歌は凄い。今日は夜は中村地区長寿会の温泉旅行に同行することになっている。

 さて、ドイツ視察報告その4の続編だ。「記憶・責任・未来基金」のもつ問題点に話が分け入っていく。

 強制労働が多く利用されていた農業分野での補償は対象にされてこなかった。農業・農民団体は基金への拠出に参加していない。基金運用では、強制労働被害者に準じる対象として、ゲットー、強制収容所、監獄収容者は強制労働に準じる者として加えた。これらの人々は証明書の提出を免じられる。この対象拡大により基金が不足する懸念があったので、収容期間に関係なく補償金を二回に分けて支払った。( 第二には、ドイツ国外から強制連行され、強制労働させられた被害者だ。ナチスの人種差別思想により、収容所ではとりわけ過酷な条件にあった東方の人々だ。では、農業労働者はどうか。第三の例外条項者として、迫害にあったポーランド人は多くが農業労働者として使役されていた。また、迫害を逃れて隠れていたロシア、ウクライナ、ベラルーシからのユダヤ人やロマ人もまた、多くは農業に使われていた。基金財団は、申請を審査する際にこれらの対象のどちらかを選択して実質的に農業労働者にも家族毎に支払いを行った。もっともその額は小額だったが。
 ここで支払額を見ておく。工場労働者には5000マルクまで。第3の例外的対象者には2000マルクまでだ。(1999年1月1日のユーロ導入により廃止。1ユーロは1.95583ドイツマルクと等価とされた。ドイツマルクの硬貨と紙幣は2002年に市場から回収されたが、ユーロへの交換はドイツ連邦銀行によって永久に保証されている。)

 こうした基金(財団)の活動によって、ドイツ社会の中で賠償に対する意識は高まった。しかしながら、問題はあった。
 まず、先ほども触れたように補償を得るには、訴訟しないと誓約しなければならなかった。そしてもう一点は、強制労働の補償を申請するときには、強制労働に就いていたことの何らかの証明が必要であった。基金は適正に運営されなければならない。そこで、当時の写真、スケッチ、専門家による認証などの提出を求めざるを得なかった。申請自体が過去の苦しみを思い出させた。ソ連に暮らしていた人々は、ヒトラーに協力していたと見なされた。申請でそのことが家族に知られ、それで家族内のいざこざが起こった。こうした申請手続きが非常に困難で、そのために申請を断念する人も出てきた。
 基金側は当初申請者の数が予想できず、支払いは二次に分けることになった。2001年12月31日の第一次締め切りは、基金発足の7月からわずか半年間だ。ロシアでの周知、申請を受けつけるには本当に時間が少なかった。また支払いを受けたことの確認もしなければならなかった。残念ながら申請までに亡くなっていく人もいた。申請後に亡くなった人には、継承者を決めておいた。

 これらの活動には、財団以外の他の団体との協力が不可欠だった。ロシア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、チェコには、それぞれの国に組織が必要だった。またそれ以外の国に住むユダヤ人については、アメリカのユダヤ人団体(フランクフルトに支所)と協力した。さらにユダヤ人以外では、国際的難民救済機関にも協力を求めた。多様な言語、数千人ものリストのチェック、各団体に出かけていって情報の信憑性を確認する。不承認になった人の再審査・・。公平性を確保するためのこうした業務が短期間で行われるのは、非常な困難だった。

 支払いが終わった基金(財団)の現在の業務(プロジェクト)に話題が移る。
 プロジェクトは、第一に、歴史との対決だ。第二には人権問題へのとりくみ。第三には、ナチズムの被害者への人道的支援活動だ。これらのプロジェクトに年間600万から700万ユーロが配分されている。プロジェクトによって、国境を越えた歴史研究に携わる若者が現れてきた。ポーランド、ウクライナなどとの歴史的な関係を深めなければならない。
 また、そのほかでは、アパルトヘイト反対の運動、同性愛者の人権擁護、その他の人権侵害被害者の救済、犯罪撲滅のための活動がある。これらは、市民社会的な活動と言える。その基盤は歴史認識の共有だ。そのために、ホームページで情報を発信し、学校教育や大学教育に資料を提供して連携している。

 以上の様なウタ・ギャランさんからの一通りの丁寧な説明の後、私たちとの意見交換が昼食時間を超えて熱心に続いた。
 制度化に年月がかかったのは企業の側に反対の姿勢があったからだが、国民全体の中に補償解決に賛同する広範な意思があったことで、克服できた。当初は、目標20億マルクの内半分も集められないのではないかと自信がなかった。しかし、制度以前にあった市民運動が力を持っていた。行政・公的機関の強制労働関与に対し、賠償すべきとの運動も力になった。5カ国には被害者リストがあったことも幸いした。現在も「もう勘弁してくれ」という意見はある。市民社会は多様な意見があるものだ。私の世代の友人は、貴方の仕事は良い仕事だ。」と言ってくれている。強制労働を強いられたという言い分も企業にはあった。しかし、経済関係を考慮して、大企業を中心に50億マルクの拠出方針が確認されていった。中には、IT関連や旅行業など当時の責任を負う必要がない戦後誕生した企業も含まれている。ドイツ鉄道は、最近も500万ユーロの人道活動支援金を出した。
 このほか、積極的に加担した行政、或いは教会責任の追及はどうなってきたか、拠出金の法的性格はあくまで寄付金であり、税の控除対象になっていることから、謝罪と補償とは性格がちがっているのではないかといった議論も行われた。企業には経営の論理がある。そこに謝罪を含意したと見るのは、あまりに肩を持ちすぎになるかも知れないが・・。日本では、中国人強制連行の花岡事件に関する鹿島建設の和解基金、西松建設の和解がある。七尾事件については、海陸運送との直接交渉を模索しているが。 
 
 




 

 

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