Kazuaki Katori's Cyber Retreat

OCNのblogzinから引っ越してきました。。
気が向いたらまた新しい記事を追加することにします。

効率化により忙しくなった?

2004-08-07 22:30:31 | 情報化時代の憂鬱
 パソコンもインターネットも一切やらないというソフトウエア会社の社長さんにお会いしました。70歳を超えたと思われるのに元気一杯です。ITを一切やらなくてもソフトウエア会社の社長は勤まるのかと一瞬心配になりましたが、この社長さんは、もう30年以上も会社経営をしており、ますます業績はあがっているようです。

 パソコンもインターネットもやらないかわりに、人付き合いはお好きなようで、気をそらせない巧みな会話で、思わず引き込まれてしまいます。人との出合いでこれまで商売を広げてきたのだと言っておられました。

 この社長さんと出あったのは、ベンチャー企業の集まりだったのですが、出席者がテクノロジーの話しで盛り上がっているところに、この社長さんが突然現れて自分はITにはまったく興味がないと言ったので、皆どう反応したらよいのか迷っていました。

 インターネット、デジカメ、携帯電話、PDAと次々と出現する新しい技術により、私たちの仕事と生活はめまぐるしく変化しています。誰もが新しいテクノロジーをどう使いこなすかに苦心している一方、次々とでてくる機器やサービスに追い付いていくことに戸惑っているように思えます。こうした時に、デジタルは一切興味がないと言いながら、ソフトウエアの会社を成功裡に経営しておられる社長にお会いして、改めて「失いつつあるもの」について考えさせられました。

 デジタル技術の発達により私たちの生活は便利になってきているし、ビジネスの効率化も図られています。しかし、その一方で、効率化されたはずなのに、ますます忙しくなってきていると感じている人も多いのではないでしょうか。
 デジタル技術を駆使することにより、確かに仕事は効率的にできるようになり、時間の余裕がでるはずなのですが、効率化により浮いた時間に別の仕事を入れてしまうので、結局忙しさは変わらないということなのかもしれません。

 いつでもどこでも人と連絡が取れる、しかもグローバルにそうしたことができるということは、素晴らしいことのように思えますが、何をしていても邪魔が入るという状況に身を置かざるをえなくなったという側面もあります。会議をしていても、人と話しているときでも、携帯電話で呼びだされるので、「そこにいて、そこにいない」という「時間と空間のあいまいさ」を経験しています。

 電車の中でも、人々は絶えず携帯電話やPDAの小さなスクリーンに釘付けになっています。メールをやったり、ゲームをしたり、情報を調べたり、文書を作ったりしています。デジタル機器やサービスは、暇つぶしの格好の道具になっているようにもみえます。
 しかし、そのために、まわりの人々を観察したり、窓の外の景色を見たり、ぼんやりと考えたりする時間が確実に失われています。じっくりと考えるという習慣も間もなく過去のものになるのかも知れません。

 デジタルは今私たちの生活の隅々まで侵食しつつあります。テレビが家族の団欒を奪ったのと同じように、デジタル技術は、なにかに集中する時間や、ぼんやりする時間を奪いつつあります。常につながっていられる環境を手に入れた私たちは、ネットとの「オン」と「オフ」とをどう使い分けて行くかのノウハウを身につけていかなれればならないのだと思います。

 ITとは一線を隔しながら、ソフトウエアの会社を経営している社長さんのライフスタイルは、そうしたことへの問題提起なのだと思いました。
(2003年9月9日)

 



紙と鉛筆

2004-08-07 22:29:10 | 情報化時代の憂鬱
 文房具店に行って無地のノートと色鉛筆を買ってきました。しばらく持ち歩いて使ってみようと考えています。

 何でこんなことを急に思いついたのかというと、インターネットだのモバイルなどといったデジタル革命のおかげで、私の発想方法が限られてきているのではないかと考えたからです。
 気がついてみたら、最近ではパソコンや、携帯電話、PDA、デジタルカメラなどのデジタル機器を常に持ち歩いていて、紙や鉛筆はほとんど使わなくなりました。
 確かに便利にはなったと思うのですが、こうした機器が普及すればするほど、発想方法が制約されてきているのではないかと不安になります。

 人はこれまで道具を発明し発達させることにより、発想を広げ、創造性を高め、世界を広げてきたのだと思うのですが、最近ではあまりにもデジタルに依存しすぎてはいないか、そのために発想法や創造性が阻害されていないかと心配になります。

 デジタル革命のおかげで、情報が四角い画面を通してのみ入ってくるという環境を何となく当たり前のこととして受け入れざるを得なくなっています。
 また、「文字で考える」という方法だけしか実際的ではなくなってきているという現実があります。ITがこれほど普及する前には、紙に鉛筆で図を書いて考えたり伝えたりすることが広く行われていたように思うのですが、今ではそのための便利なツールを私たちは持っていません。ですから、四角い画面に向かってキーボードや手書き入力システム、マウスなどを使って「デジタル」な文字を書くことによって思考のプロセスを手助けしてもらっているわけです。

 かつて「マルチメディア」という言葉に興奮して、パソコンを買ってインターネットに接続した時期がありますが、「マルチメディア」とは言っても、何のコミュニティとはない、毎日「手紙」を書いたり読んだりしているだけではないかと思って戸惑いをおぼえたことを思いだします。デジタル技術は、まだまだ発展途上なのだということなのでしょう。

 いずれ紙と鉛筆のアナログな世界もデジタル技術が提供してくれるようになると期待してはいますが、とりあえずは忘れかけていたローテクの道具を使ってみようと考えています。
 でも、しばらく使ってこなかったので、うまく使いこなせるかどうか大いに不安です。
(2003年9月19日)


メールチェックの時間を決める

2004-08-07 22:27:50 | 情報化時代の憂鬱
 今日からメールをチェックするのは一日5回だけに限ることにしました。朝の出勤前と、午前9時、午後1時、午後5時、夜10時の5回とし、それ以外の時間は原則としてメールを見にいかないことにしようと考えています。携帯電話のアラーム機能を使ってこの時間にベルがなるように設定もしました。
 
 何故こうしたことを決めたかというと、メールのおかげで物事に集中できなくなってきているのではないかと感じ始めたからです。オフィスの机の上にあるパソコンは、クリックすればすぐにメールが入ってくるし、携帯電話のリモートメールのおかげで、いつでもどこでもメールをチェックできるようになっています。こうした環境はとても便利なのですが、その反面いつでもメールに追われつづける生活を余儀なくされているわけです。また、暇つぶしにメールをチェックするみたいな感じもあったりして、一つのことに集中できないでいる自分に気がつくようになりました。
 そこで、「メールは一日5回だけしか見ない」という縛りをかけてみようというわけです。

 最近の若い人は「マルチ人間」が増えていると言われています。パソコンに向かって宿題をやりながら、テレビをつけて、チャットをし、電話もかけるという学生もいるとのこと。しかも学校の成績も良いというのですから、私のような旧世代の人間には理解の幅をはるかに超えた人々が出現しつつあるのだということは想像がつきます。

 しかし、その一方で「The power of full engagement」( Jim Loehr and Jony Schwartz)という本が今年アメリカで出版され注目をあびているという現実もあります。この本の著者は、ユビキタス環境が整備されるようになるにつれて、人々が一つのことに全精力を傾けることがなくなり、このことがさまざまな問題を引き起こしていると分析しています。

 いつでも、どこでも他の人々と繋がっているということが、ますます現実のこととなるにつれて、ネットとの「オン」と「オフ」をどう使い分けるのかが、ユビキタス時代の新しいメディアリタラシーとなるのだろうと考えるようになりました。
(2003年10月1日)


肉筆

2004-08-07 22:26:29 | 情報化時代の憂鬱
 留学していた頃にお世話になったホストファミリーのアメリカ人の友人から手書きの手紙をいただきました。もう90歳を過ぎていて老人ホームにいるとのことですが、まだまだお元気なようです。細いペンを使って書かれた文字は、全体的に右上がりに傾斜していて見た目にはとても美しいものです。しかし、独特の書体なので読むのに苦労します。アメリカ人の手書き文字に馴れている娘に読み上げてもらって、やっと内容を理解しました。
 読みづらい文字ですが、彼女の肉筆の手紙を見ていると、留学時代にお世話になった頃のこの人の顔や声、息づかいのようなものが伝わってくる感じで、懐かしさがこみあげてきました。

 この手紙をながめているうちに、最近、めっきり字を書くことがなくなったと気がつきました。ビジネス文書はすべてパソコンで書いているし、手紙もワープロです。打ち合わせのメモも会議室に持ちこんだパソコンに打ちこんでいます。PDAを常に身につけているため、私的なメモもほとんどがデジタルな文字になってしまいました。手書きの文字を書くのは、電話のメモを取る時くらいでしょうか?

 手書き文字を書かなくてもよくなったことは、悪筆の私にとっては、とてもありがたいことです。だからこそ、デジタル機器を活用しようという気持ちが人一倍強かったのかもしれません。

 しかし、めったに手書きで文字を書かなくなったのは、私だけではなさそうです。そういえば、最近では、他の人の「肉筆」に接することがめきり減ってきていることに気がつきます。親しい友人や職場の仲間の顔を思い浮かべてみても、彼等がどんな字を書くのかまったく想像がつかないのです。

 文字には人柄が現れると言われてきました。肉筆に接することにより、その人の温かみを感じることもできました。まさに「肉筆」だったわけです。それだけに、自分の書いた文字を人に見せることは、自分の裸の姿を見せるような、ある種の羞恥心を感じてきたのでしょう。
(2003年11月6日)


シグマリオン

2004-08-07 22:25:13 | 情報化時代の憂鬱


 愛機「シグマリオン」がついに故障してしまいました。
モニターを開けた時、途中で止まらずに向こうまで一気に開いてしまうのです。バネかストッパーが壊れた程度の軽微な故障だと思うのですが、毎日便利に使っている道具なので困ってしまいました。修理に出すと2-3週間は待つもとを覚悟しなければならないでしょうが、その間シグマリオンなしでは仕事になりません。結局、新しいマシンを買うことにしました。発売当初から使っているのでそろそろ買い替えの時期がきたかと自分を納得させたというわけです。
 
 現在は「シグマリオンⅢ」が最新機種として発売されていますが、今回はあえて「シグマリオンⅡ」にしました。最新機種は色々な面で機能アップしているようですが、ゼロハリバートンのデザインが気に入っていることと、現在の機種との機能的な連続性を大切にしたいと考えたからです。

 しかし、通信設定やファイルの移植などに手間取り、結局使えるようになるまでに2時間ほどかかってしまいました。めったにやらないことなので、マニュアルを見たり、前のマシンの設定を確認したりしながら格闘したからです。

 このところ、ついていないようで、昨日は1年半前に買ったPDAのクリエが電源が入らなくなってしまいました。これも毎日使っているので大変困っています。幸いPCにバックアップを取っていたので、被害は少なくてすみましたが、これも買い換えるというほどの余裕はないので、しばらくはクリエなしの生活を覚悟せざるをえません。

 最近、さまざまなデジタル機器が登場して、大変便利になったことは確かですが、今回のようなことが起きると、いかにデジタル機器に依存した生活を送っているかを実感させられます。

 今回の出来事は、機器が故障したことによって日常の生活が乱されたというケースですが、それ以外にも新しい機器やソフト、サービスなどを使い始めるたびに味わう「面倒くさ」は、どうにかならないものかと思ってしまいます。
 携帯電話をFORMAに換えた時も、データの移し換えに始まり、機種によって少しずつちがう操作方法を理解しなければならないことなど面倒なこと極まりがありません。デジタルカメラを買い換えたり、BLOGを始めたりした時のも同じような経験をしました。

 思うに、インターネットやパソコン、携帯電話などが身近な存在になってからというもの、何らかの問題を抱えていない時はほとんどなかったと言ってもいいくらいです。
 それだけ技術進歩が激しく新製品が次々とでているということなのかも知れません。でも、それにしても、何とかして欲しいというのが、いつわらざる心境です。
(2003年11月13日)