12/8の「DJ日本史」は
「屈辱の体験がその後を変えた」
番組の解説より*****************
ひどい屈辱を感じたときの思いって、なかなか忘れられませんよね。
とりわけ激動の時代には、身をよじるほど、
命を投げ出したいほどのとんでもない屈辱を味わい、
それがきっかけで人生が大きく変わってしまった人もいました。
そればかりか、歴史さえ動かしてしまった例もあります。
いまわしいマイナスの記憶は“その後”をどう変えたのか?
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ここで、最後に取り上げられた人物が
桑名藩主 松平定敬(まつだいら さだあき)
鳥羽伏見の戦いのとき、京都所司代に命じられたのは
まだ17歳であった。
ご存じのように、会津藩主容保と桑名藩主定敬は兄弟
最後は、新選組に入って、東北から函館の五稜郭まで行った。
榎本武揚は、その後、明治政府の要職につくことになった。
明治になってからの桑名藩主だった松平定敬は、
華族になることを拒み、平民になると言ったそうです。
それが20歳ころ。
多くの桑名藩の藩士を失くしたことに責任を感じ
全国を行脚。
慰霊碑を建てた。
61歳で亡くなるまで、弔う人だったようです。
以前にも書きましたが、
私の実家は三重県桑名市なので、
歴史もののドラマで会津と桑名が出てくると
とても気になります。
大河ドラマ、八重の桜で、敗者の理を学びました
藩主として、そこまで責任を感じなくても、と
思ったりもしますが、
自分の欲を捨て、自由に、思うことを行う。
弔うことが、やるべきことだと思った。
それを貫いた人だったのだなと、思いました。
桑名に博物館を作ろう・・・という案が出た時に
書道家の平野公桑(こうそう)先生もその発起人の一人でした。
物静かな優しい先生のお姿が、思い出されてなりません。
故郷は、離れて、時が過ぎれば過ぎるほど
懐かしさが増すものなのですね。
歌川広重 東海道五十三次 四十二番 桑名宿
七里の渡し 木曽・長良・揖斐川の河口
城の北東部にあった
蟠龍櫓 - 「ばんりゅうやぐら」
九華公園 (桑名城 本丸・二の丸跡に昭和3年に造成された公園)
鎮国守国神社がある