もうほとんど聞こえなくなった深夜のカエルの声と入れ替わるように、早朝のセミの合唱が日増しに大きくなります。
セミは評価や報酬がもらえるから鳴いているわけではない、たぶんセミにとって 「生きる」 と 「鳴く」 は同じことなんでしょうね。
そして私たちも、そんなふうに生きることができる。
顕在意識や理論脳のワクを取っ払い、言葉を脇においてただ感じることで、私たちはいのちの源とつながっている感覚を思い出すことができます。
本能のままに生きる生物たちは みな当たり前にやっていること、自我を持つ人間だけが忘れてしまっていたこと。
それを思い出したとき、私たち人間のいのちの表現もまた 独特なものとなります。
自我のおかげで 私たちひとりひとりに個性があるため、感じる源は共通でも その表し方は個性に沿ったオリジナルとなるからです。
いのちを感じるところから放たれる 私たちそれぞれの生き方は、一見てんでんばらばらなようでいて、その根っこには 同じ源を分かつ者どうしの統一感があります。
鳥や魚の群れが号令などなくてもいっせいに向きを変えるように、わざわざそうしようとしなくても 自然とそうなるのです。
顕在意識のみで生きているときは、いくらがんばって意見をまとめようとしてもできなかったのと真逆ですね。
ひとりひとりが自分だけの世界に生きているのなら、自分が自分であることを否定する必要はまったくない、思うさま自分を表現してみよう、生きてみよう。。。そんな思いと 自由奔放なセミの声が重なって聞こえるこの夏です。
セミは評価や報酬がもらえるから鳴いているわけではない、たぶんセミにとって 「生きる」 と 「鳴く」 は同じことなんでしょうね。
そして私たちも、そんなふうに生きることができる。
顕在意識や理論脳のワクを取っ払い、言葉を脇においてただ感じることで、私たちはいのちの源とつながっている感覚を思い出すことができます。
本能のままに生きる生物たちは みな当たり前にやっていること、自我を持つ人間だけが忘れてしまっていたこと。
それを思い出したとき、私たち人間のいのちの表現もまた 独特なものとなります。
自我のおかげで 私たちひとりひとりに個性があるため、感じる源は共通でも その表し方は個性に沿ったオリジナルとなるからです。
いのちを感じるところから放たれる 私たちそれぞれの生き方は、一見てんでんばらばらなようでいて、その根っこには 同じ源を分かつ者どうしの統一感があります。
鳥や魚の群れが号令などなくてもいっせいに向きを変えるように、わざわざそうしようとしなくても 自然とそうなるのです。
顕在意識のみで生きているときは、いくらがんばって意見をまとめようとしてもできなかったのと真逆ですね。
ひとりひとりが自分だけの世界に生きているのなら、自分が自分であることを否定する必要はまったくない、思うさま自分を表現してみよう、生きてみよう。。。そんな思いと 自由奔放なセミの声が重なって聞こえるこの夏です。
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