毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

その名前に実体はあるの?

2022年12月07日 20時23分30秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
子どものころ、不思議に思っていたことがあります。

テレビで 「暴○団がどうのこうの」 というニュースを見ていて、自分たちは人に暴力を振るうのは絶対にいけませんと何かにつけて教わっているのに、教える側の大人の世界に 「暴○団」 と名のつく人たちが存在していることが 奇妙に思えてならなかったのです。

まだ10歳になるかならないかぐらいでしたが、「名前をつける」 とは存在を認めることだと どこかで感じ取っていて、認めておきながら 「お前たちは悪い奴だ、少しでも何かしようものなら捕まえてやるからな」 だなんてヘンじゃない? と思っていたんですね。




名前をつけるとは、輪郭を鮮明にすること、形を与え 力を持たせること。

でも、名があるからといって 必ずしも実体が伴うわけでもないのが 厄介なところでもあります。




最近氣になるのは、「国」 という言葉。

目耳にしない日がないぐらいおなじみの名称ですが、じゃあ 「国」 ってなに?と聞かれて、躊躇なく明確に答えられる方っていますか?

国土、つまり場所のこと? なら、そこを離れれば その国の人ではなくなる・・・・わけじゃないよね。

固有の人種や民族のこと? でもいまは国どうしの行き来が自由で、移住も国際結婚も多くなっているから、線引きは難しいよね。

特定の言語や思想や風習を持つ者どうしとか? そんなの住む地域によっても違うし、時代と共にどんどん変わっていくし、それをひとつにまとめるのは無理があるよね。

で、いつものように 「他の生き物にも通用するかどうか」 を見てみても、国境線も 肌や目の色の違いも 言語や思想の違いも 人間以外の生き物にはまったく関係ない話、どうやら 「国」 というのは 人間の頭の中にだけある概念のようですね。




これまで何度も書かせてもらっていることですが、地図が そこに描かれている実際の場所と必ず対になっているように、言葉にも 必ず対となる ”現地” が存在するはずです。

言葉・・・とりわけ特定の人や物や場所や状況を指し示すのが役目の 「名前」 というものに、対となる現地が見当たらなかったり 曖昧なイメージしか浮かばなかったりするときは、その名前の扱いには注意した方がいいように思います。

なぜなら、意図を持った人間が その曖昧なイメージを自分に都合よく操作して、人々の意識を自分の望む方に持っていくことが可能だからです。

私たちの多くは、「国」 なるものが存在することは固く信じ込んでいるけれど、「国」 が具体的に何を指すかは 漠然としかわかっていない。

この現状に危うさを感じてしまうのは、貴秋が 太平洋戦争真っ只中に多感な思春期を過ごした両親の下で育ったためでしょう。

特に東京の下町育ちだった母は、お国のためと信じて 物資の欠乏に耐え 学徒動員に従い、あげくに焼夷弾の雨の中を逃げ惑い 家を焼かれるなどさんざんな目に遭ったにも関わらず、開戦の責任が何十年経ってもうやむやなままであることへの怒りを 事あるごとに語っていましたから、「戦争を始めるのは上の人でも、ひどい目に遭うのは庶民」 という彼女の言葉が 脳裏にくっきり刻み込まれているのです。

そして 現にそれがそっくり、いまのウクライナやロシアで起こっている。

世界情勢を鑑みれば、同様のことが今後日本でも起きない保証はないのです。




戦争を起こしたい人、戦争で得をする人はいるでしょう。

でも実際に戦いに参加し 血を流すのは その人たちではなく、訳もわからぬまま戦場に駆り出される一般庶民です。

そんな羽目に陥りたくなければ、実際に起きていることと漠然としたイメージの違いをきちんと見てとり、煽りに乗らないことです。

「かえり」 の道にある私たちは、以前よりも直感が鋭くなっているため、「なんかヘンだな、怪しいな」 という感じはわかるのですが、「行き」 に培ったクセで、ともすると雰囲氣に呑まれたり 感情に振り回されたりしてしまいます。

事態を正確に見てとるためには、そんな感情の渦から抜け出して 引きの視点から見る習慣をつけること。

顕在意識だけでは目くらましされてしまいそうなことも、潜在意識を通せば 理屈を超えたところから その本質がおのずと見えてきます。

これまでのあらゆる戦争紛争で、死にたくない、もっと生きたいという生物として当然の切なる思いを 「国を守り、愛する人たちを守るため」 と無理やり言いくるめて命を散らした人たちが、どれほどいたことか。

そしていまのこの瞬間も、宇露を始めとする世界中のあちこちで、同じ矛盾に引き裂かれている人たちが 数え切れないほどいるのです。

そんな未来を選ぶつもりがないなら、身のまわりの言葉に注意を払い、ムード先行で "現地” をたどれない言葉に押されていないか 氣をつけることです。

国であれなんであれ、その本質はなにか、実体があるものなのか、それは人生や命をかけるにふさわしいものなのか、腑に落ちないところはとことん問うのをいとわず、意に反することを強制するものがあれば、うわべだけの理屈で言い負かされたり 勢いで言いくるめられたりせぬよう、相手の言葉の根っこまで見極める力を持つことです。




好まない世界から意識を離し 好きなものに集中する習慣をつけつつある貴秋ですが、大手メディアシャットアウトでも伝わってくるほどのサッカーワールドカップ熱に、「これも国別対抗なんだよね。。。で、国っていったいなに?」 と思わず言いたくなりました。

楽しんでおられる方々に水を差すようで申し訳ないのですが、こういう熱狂的騒ぎを通して、私たちは日頃のうっぷんのガス抜きをされつつ、ないはずのものがあるかのような催眠をかけられているのかもしれません。
















コメント (4)
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