今にして思えば。。。って きのうの話なんだけど。
私 最初にゲームキャラの作り方を検索して欲しいって言われたとき すでにあのもやもやっとしたものを感じてたと思うんだよね。。。
でも 払いのけちゃった。
もやもやの正体も理由もはっきりしなくて、その一方で 「別に調べてあげるくらいいいじゃない?お家でお父さんだってしてくれることなんだから」っていう理由付けはわかりやすく取り出しやすかったから。
男の子にいい人だと思われたいっていうのもあったかな(^^ゞ
直観がぴんとひらめくときって とても静かなものだし、なんでそんなこと?って訳がわからないことも多いから、見逃したり ほとんど無意識にスルーしちゃったりするんだけど。
でも、無視してしまった静かな声は その後もずっと残って、私がどこで選択を間違えたか氣づくチャンスを与えてくれるんだなぁ。
3月の東北関東大震災と、自分も体験した9月の台風12号災害以来、じわじわと深まり続けている思いがあります。
「一見確かに見えるものほど不確かで、不確かに見えるものほど確か」
っていうこと。
家とか仕事、お金、それに社会のシステム・・・見たり触れたり 五感でしっかり確かめられるものほど確実に自分を守ってくれると ずっと当たり前のように思い込んでいました。
生きる拠り所として 何よりも優先し 大切にするべきものだし、それだけの値打ちがあるのだと。
でも、いったん事が起これば、それらは驚くほど簡単に壊れてしまうものであり、大きな力の前に 私たちはなす術もないのだ、ということを思い知りました。
誰かが 何かが助けてくれる、絶対間違いのない答えを教えてくれ 守ってくれる・・・そんなのは都合のいい思い込みに過ぎなかったんだって。
その一方で。
以前よく車中泊の旅をしていたとき、いくら車という外殻があるといっても、自分の身をしっかり守るためには いろいろと氣を配らなければなりませんでした。
泊まるのはたいてい道の駅だったけど、ここはちょっと・・・と思うような雰囲氣のよくないところには 決して車を停めなかった。
そして、停車するときも 夜中にトイレなどで車を降りるときも、周囲の氣配に油断なく氣を配って、危ないことに巻き込まれないよう神経を張り巡らせていました。
知らない土地で 何が起こるかまったく予測がつかないからこそ 頼みに出来るのは自分の直観だけ。
そんな一人旅を重ねることで、直観というものの確かさや それをしっかり捉えることを学ばせてもらいました。
道を間違えたときでも、事前に「あ、こっち行った方が。。。」って一瞬思いながら通り過ぎてしまい、後になって「やっぱりこっちだったぁ~
」なんてことがよくあって。
そんな「一見儚いひらめきが実はちゃんと導いてくれてたんだ・・・」と思い知らされる体験の積み重ねが、内なる答えこそ一番確かなもの、という現在の確信の土台になっています。
こういう五感で確かめられないことって、例えば人にわかるように話すのなんか ほんと難しい
見せることも証明することもできないし。
でも、自分が成功・失敗さまざまな体験から 内側でつかんだ確信は ちょっとやそっとのことで揺らいだりしないし、また 外からの力で壊されることも奪われることもない。
なくすことを恐れなくていい 一生ものの宝、財産なのです
まるっきりつかみどころがないけれど、それでいて これほど確かなものってないと思うんだよね♪
・・・とここまでわかっていながら、今回思いっきりスルーしちゃったんだけど(^_^;)
でも、もしかすると、逃してしまったからこそ 今こうして戻ってきて その大元をじっくり見つめなおす機会をもらってるのかも。。。
なんだか あちこちさまよってるようでいて、実は大きな流れに導かれているのかもしれません。