風のハーモニー

ある時はチョイ悪ライダー、ある時は良妻賢母、そしてもう一人のHUZUという人間が登場するドラマの始まりです。

孫への手紙

2008-02-07 21:41:57 | Weblog
           

今日母から電話があり一冊の本を取りに行った。この本の中に母の書いた文章が載ってあると言うう事で、大層自慢に渡された。

県の老人クラブが発行元で、太平洋戦争中に自分が遭遇し実際に体験したことが実に正確に記述され、読むものをいつの間にか引き込んでしまいますと、見出しにかいてあった。50人ぐらいが5ページくらいに渡って、外地での戦時体験、内地での戦時体験、戦後の暮らし、記録・随想・・・と4ブロックに分かれて書かれてあった。母が書いたのは内地での戦時体験で「遠い昔の物語」として書かれていた。

・・私の娘時代、手広く商売をやってた父のお陰でお姫様のような暮らしをしていたが、21歳の頃ある事情で倒産し、住み慣れた家を夜逃げるようにして引っ越した事(当時銀行パニックの影響と聞いている)お金のない事がどんなに惨めな事だと始めて知った・・と。家族の生活のため県庁で働いたが、当時女性が外で働くものではないとの風習があり、隠れるように通勤した事。
北満の部隊に勤務する父との見合い話で写真一枚で結婚することとなり、夜行列車に乗り継ぎ、挑戦の京城(ソウル)で二人だけの結婚式を挙げたこと、ロシアの国境線の近くに新居があり、極寒零下30度以上の寒いところで、山、木、草も生えぬところの暮らしに、只一つ「私は日本人であり、軍人の妻」という誇りだけで頑張った事、その時同じ奥さんたち5人ぐらいで支えあい助け合って生きた事、やがて子供が出来、お産のため3日間かけて日本海を船で渡り、帰省したが出産後叉満州に戻ったが、部隊が南方派遣にとなり、母は二人目の子を身ごもりながら長男を連れて朝鮮経由やっとの思いで日本へ帰れたときは、涙があふれて仕方がなかった事。八月の終戦が過ぎても消息不明の父をま待ち続け、絶対子供たちを守ると決心しながら待ち続け、主人の電報がきて駅に出迎えたときの事、南方では食料もなく、草や虫までも食べて生きながらえた事・・・・

やがて子供たちも4人となり、それぞれの道を歩き始め、現在母は92歳・・・そして最後に・・・・・苦しかった過去はふり返らず、親からもらった長生きの体に感謝しながら、くよくよせず、皆様から受けたご恩は忘れることなく、前向きに生きて生きたいと思います。・・・・・・・・・・・・・


私は、小さい頃から母の怒った顔を見たことがない、そして寝込んだ姿も見たことがない、想像絶する悲しみや絶望感を抱いてきたからだと、そしてそれを耐え抜いたからだと思った。
父はものすごく厳しかった。とくに食べ物を粗末にするとすごく叱られた。嘘をつく人間と約束を守らない人間にはなるなといつも言われてた事を思い出した。

そして、投稿された人達が述べているのは
「わが歩みし道は二度と繰り返してはならぬ」
               と言うう事でした。

{母のこの貴重な体験を子供たちにコピーして送ることにした}
     
                   *写真のねずみは二匹とも母の作品です