黄昏どき

老いていく日々のくらし 心の移ろいをありのままに

戦争のない平和な世界を

昭和20年(1945年)8月 ひもじかった

2016年08月13日 | つぶやき

昭和20年8月

女学校一年生(現在の中学1年生)だった私は

樺太の豊原市に(現在サハリン ユジノサハリンスク

一家8人で暮らしていた

 

8月9日ソ連が参戦しますます緊迫してきた

 樺太は孤立の恐れがあり 自給自足の生活だったが 

お米はとれない

食事は野菜が沢山は入った雑炊が多く 盛きりでお代わりはない

いつもお腹を空かせていた

 お米の配給は僅かで家の周りや空き地、道路脇も 

何処の家でもジャガイモや野菜などを植えていた 

それでも一家8人のお腹を満たすのには足りず

母はクマの出るような田舎にも畑を借りて毎日通っていた

学校でも畑の開墾や防空壕掘りで授業はない

お腹が空くので 非常袋に入っている

炒った大豆をつい食べてしまうが 

すぐ下痢をする 痩せこけて小さかった

 

(防空頭巾と非常袋(防災袋とは違う)はいつも持ち歩いていた)

 

 

お腹いっぱい食べたい いつも思い お米のご飯を食べるのが夢だった

 

戦後71年

戦争を知っている人間が少なくなり

きなぐさい世の中になってきた

戦争は国民を不幸にするだけです

 ロスケタンポポ(コーリンタンポポ)

 

カラフトマンテマ

女学校の址は大学になっており校内の草むらに咲いていた

ホルムスク(旧 真岡)へ行く途中の草むらに僅か咲いていたハマナス

 

ジャコウアオイはホルムスクの神社あとに

2012年7月末

サハリンを再訪したとき

草むらに咲いていた花々

あの頃は花を愛でる余裕は誰もなかった

 


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