聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

ルカの福音書二三章1~7節「人を動かす言葉」

2015-09-13 17:58:23 | ルカ

2015/09/13 ルカの福音書二三章1~7節「人を動かす言葉」

 

 午後の学び会では、「怒りの対処法」というテーマを続けて学びます。今日は少し、「アサーション」というコミュニケーションから怒るよりも良い伝え方をお話します。例えば、「子どもに近づいて目を見て「お母さんはがっかりしている」」と言った方が、子どもの方を見ないで「怒ってないよ」と不機嫌に言うより良いですよ。「お母さんはこうしてほしいと思うけど、あなたはどう思う?」と言ってみましょう、「だいたいお前は…」と長々としゃべるでは上手くいきませんよ、など十の項目を見ます。今かいつまんだ中でも分かるように、怒りの対処法になる伝え方というのは、相手を何とかしようという、自分の考え方そのものを手放していく事が欠かせません。怒らないけれど、相手を変えてやろう、思い通りにしてやろう、そういう支配的なものを、アサーションでは「攻撃的なコミュニケーション」と呼ぶのです。

 今日の箇所でも、結論から言いますと、まさにそういう構図が見えてくるのだと思います。ピラトやユダヤの議員たちは、何とか相手を言い負かそう、また相手の思い通りにはなるものか、と主導権争いをしています。彼らは政治の世界では、ユダヤで大きな権力を振るっていました。最高議会が一致して出す結論は、ユダヤの庶民にとっては最高の重みがありました。ピラトはローマ帝国から派遣された総督として、ユダヤ地域の行政を引き受けていました。権力を笠に着た残忍な仕打ちでも知られていました。けれども、両者とも本当に何でも出来た訳ではありません。ユダヤ議会はローマの属州という身分のゆえに、今日ここにある通り、イエスを処刑するにも自分たちだけでは出来ず、総督の許可が必要だったようです。ピラトもまた、この数年後、あまりに横暴な行政手腕を理由に、元老院によって罷免されます[1]。そうしたユダヤ側との駆け引きの綱渡りがあったからこそ、ここでもピラトは、イエスの無罪を認めつつも、自分ではその軋轢(あつれき)を回避したいと、7節では一旦ヘロデに責任を押しつけようと逃げたのですね。ユダヤの政治を動かす議会と総督が、実に見苦しい駆け引きをしています[2]

 一方、イエスご自身はどうでしょうか。イエスは一言仰るだけで、後は、この場を上手く乗り切ろうとも、ピラトや議員たちを威圧しよう、批判しよう、感銘を与えよう、などとは一切なさっていません。二二章の最後でお話ししたように、悪口を浴びせられ、殴られて鞭で打たれた跡は生々しく、疲れてやつれ、惨めな姿でここに立っているのです。そのイエスを指して、

 5しかし彼ら[祭司長たち]はあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです」と言った。

 滑稽な話です。彼らはイエスを捕まえていじめたて、縛って貶(おとし)めて、こんなお前がキリストを名乗るだなんて冒涜罪だ、と言っていたのに、総督に訴える時、今度は「これはユダヤ全土の民を扇動している危険人物です」と大袈裟に訴えるのです。けれども、主イエスご自身は、決して人々を扇動して、政府を倒そうとか、新しい国造りをしよう、などと大きな考えはありませんでした。祭司長やピラトに対抗するような権力者になる意図もありませんでした。全く、そんな野心はお持ちでなかったのです。だからこそ、この場で総督ピラトの前でも、あがることもなければ、反抗的な態度も取られません。多くを語らないのは、野心とか権力とか上下関係とか、果ては自分の拠り所からイエスが自由だからです。

 3するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。

 これだけです。これは正確には「あなたが言う」という言葉です。前回の二二67と同様、質問に対して、それを言っているあなたはどんな意味で言うのか、と突き返されるのです[3]。イエスは、ピラトに

「あなたは」

と呼びかけられて、ピラト自身を問われます[4]。汗と泥と血で汚れた囚人が、ローマの総督であり威儀を整え、残忍さでも知られるピラトに対して、臆せず、媚びることもなく「あなたは」と呼びかけられます。命乞いや祭司長たちの不当性を訴えることもなく、ピラト自身に語り掛けます。権力を持つからこそ、人と競い、いつも計算高く、リスクは避け、自分の立場にしがみつく、そんなピラトに対して、イエスは「あなたは」と言いました[5]。実は、このイエスの言葉、すべての人に対して分け隔てなく関わられるイエスの言葉こそが、これまでも人々の心を動かし、全く新しい変化をもたらしていたのです[6]。民衆がイエスの影響で、変わり始めていました。期待を持ち、変化を信じるようになっていました。ユダヤ当局にとっては都合の悪いことでしたし、皮肉にも5節で祭司長たちが吐露したとおり、イエスの存在は脅威であって、だからこそ亡き者にしてしまおうとしていたのです。

 主イエスのみことばは人を動かし、世界を動かしていきますが[7]、決して主は世界を動かしたかったのではありませんし、人を「思い通りに動かす」という意味で動かされたのでもありません。もっと言えば、私たちが主イエスを信じたら、他の人を動かし感銘を与えるような立派な人間になるのでもありませんし、人生や家庭を祈りや信仰や愛の力で思いのままに操れるようになったりもしません[8]。むしろ、私たちが主イエスの言葉によって動かされ、変えられていきます。私たちを愛し、社会の権力や地位や富などに関わらず価値を与え、今ここで私たちとともにおられるイエスに結ばれた者として、全く新しい思いで今を生かされているのです。

 ピラトは、イエスの罪のなさを強く確信していましたが[9]、けれども、ヘロデに盥(たらい)回しにし、優柔不断な態度をとって、十字架を命じてしまいます。けれども同じく、「ユダヤ人の王」という罪状書きを巡り、イエスに罪がないことを認めたもう一人の人物がいました。イエスと一緒に十字架に付けられた犯罪人の一人です。彼はイエスに罪がないことを認め、自分の人生の間違いをも認めて、自分をイエスに明け渡しました。その犯罪人は、イエスと共にパラダイスにいると約束されたのです。権力によって死刑に処せられた者、生きる価値がないとされた者が、主イエスにより永遠を与えられました[10]。ピラトとは何と対照的なことでしょうか。

ルカ一51「主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、

52権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引きあげ、…

 ピラトや、権力にしがみつき、自分の名誉や保身を求める者は、神の国の祝福とは無縁です。自分の罪を知る者、低い者、悲しむ者、自分の価値を見出せない者は、主イエスの愛によって高く引き上げられます。人を動かし、周りを支配しよう、力を持とうとする傲慢は砕かれます。しかし、思うままにならない人生や人間関係の中でも、今ある私を主が愛され、生かされていることを受け入れるなら、私たちは喜びを与えられ、自由になります。主の御言葉に毎日聴きましょう。誰の前でも緊張したりしなくてよいし、人を動かすほどの立派さなんてなくてもよいのです。大事なのは、私たちが主の素晴らしい恵みの言葉によって生かされて、押し出されて行くことです。その時、他の人はどうであれ自分の出来ることを精一杯していこう、背伸びも逃げもせず、自分の務めを果たして神に栄光を帰する生き方へと導かれていきます[11]

 

「王なる方でありながら、飼葉桶に生まれたもう主よ。あなたが尊く謙った王であることを、もう一度心に覚えさせてください。自分の小ささに卑屈になり、思いのままにならないことに焦る時があります。主よ、御言葉をもって励まし、あなたが今の私たちを愛し、今ある現実を通して御心を行われると心から信じ、感謝と愛をもって、晴れやかな思いで歩ませてください」



[1] ピラトは、紀元二六年から三六年前まで、十年の総督の地位にいて、この後数年で、左遷されます。

[2] 政治や処世術としては、こういう判断が賢明とされるでしょう。もちろん、何でもかんでも自分の責任を被ろうとするのは間違いです。これは「境界線」を踏み越えた行動です。しかし、自分が負うべき(誰も責任を取る人がいないから自分が、という意味ではなく)責任までも、のらりくらりとかわして生き延びるのもまた間違った「境界線」であり、神の前には不誠実です。世渡り上手という人は、神の御支配からも逃げようとする危険と隣り合わせでしょう。アダムとエバの堕落以来、私たちの中には、責任ある生き方よりも、自己正当化、責任回避、言い訳探しを常に捜す傾向がある。黙りや、謝罪さえも言い訳でしかないことがあるのです。そのような私たちの傾向もまた、キリストを十字架につけてしまった大きな理由でした。

[3] 実際、「ユダヤ人の王」とは軽々しく言えないことであるはずです。もし本当に王であれば、恭しく平伏さなければならないでしょう。マタイの二章では「ユダヤ人の王」がお生まれになったと知っただけで、遠い東の国から博士たちが、何ヶ月もの旅をして、ただ平伏して拝み、礼拝するためだけに来たことがありますが、まさしくそのような恐れ多いお方であります。だから、イエスに「あなたはユダヤ人の王ですか」と聴くならば、それ相応の覚悟と真剣さ、恭しさが伴うべきでしょう。そう突き返されたのです。

[4]  ヨハネはもう少し詳しく、ヨハネ十八34…「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、あなたにわたしのことを話したのですか。」と伝えています。

[5]  使徒の働きでも、ピラトの後任の総督たち(ペリクス、フェスト)はどちらもパウロの罪状を認めません(使徒の働き二四章、二五章)。こうしてルカは、教会が社会的な基準からも、不道徳を責められるようなものではないことを言いつつ、しかし、そのような教会が世に対して脅威になることをも浮き彫りにするのです。使徒の働きに至るまで、教会がローマ中に広がり、人々を光に導いていることを伝えてくれるのです。

[6] Ⅰテモテ六13でパウロは「私は、すべてのものにいのちを与える神と、ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされたキリスト・イエスの前で、あなたに命じます。14私たちの主イエス・キリストの現れの時まで、あなたは命令を守り、傷のない、非難されるところのない者でありなさい」と言います。今日のこの弁明こそ「ポンテオ・ピラトに対してすばらしい告白をもってあかしされた」という現場です。四福音書全体(特にヨハネの記事)をともに読むことがこの証しの理解には不可欠ですが、ここに、キリストの真実な弁明を見ることが出来るのは確かです。

[7] ルカは、福音書に続いて「使徒の働き」を書き、主イエスの言葉が、全世界に広まっていき、イエスを信じて新しくされる人々を産みだしていったことを伝えてくれます。

[8] 「何か影響を与えてやろう、動かしてやろう、信じさせて、仲間に引き込もう」そんな下心をもった人とは親密な関係は気付けないものです。

[9] ルカは、どの福音書よりもピラトがイエスの無罪を確信して三度も主張したことを伝えます。二三章4節、14-15節、22節。

[10] ルカ二三章38-43節。38節から見てください。

[11] イエスの言葉が私たちを動かすのは、「責任」という事からも考えることが出来るでしょう。自分の責任を逃れ、調子の良いことばかりを求めて、チヤホヤしてくれる言葉を人は求めがちです。でも、そういう感情的な「扇動」ではないのです。「悔い改める」とは無闇に罪悪感を抱いたり卑屈になったりすることではなく、神に向き直るということです。言い換えれば、個々の罪が悪いとか「非道なことをしてしまった、考えてしまう」という道徳ではなくて、私たちの根本的な責任は神に背を向けることを止めて、神に向き直り神を神として崇め、従うことです。私たちは神ではないのですから、失敗もします。限界もあります。その事を認めて、失敗を恥じて隠そうとしたり、言い訳をしたりせずに、出来ることをしていく生き方です。


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