あおぞら

仕事や家族、犬のこと。いろいろつれづれに書いております。とびとび更新ですがよろしくお願いします。

母の誕生日

2005年11月04日 00時11分04秒 | 日記
ブログを読み返してみると、思いのほか、父のことが出てくる。母について記述がないのは不公平だと思い、母の誕生日一週間前の今日。少しコメントを書いてみようと思う。

父はスパルタ教育をするタイプで、意志が強く、自分が決めたことを家族が守るという家風だった。

母はやさしく思いやりがあり、時には娘の私には弱い女性に見えた。「女性だって、もっと自分の意見を発言して、しっかり意思を持たなきゃ!」と私に思わせたのは母だったのかもしれない。

スパルタの父にしかられると、時には手が出る。子供ながら父親が帰ってきたときの「ただいま」の声とドアの開け方で、機嫌がよい・悪いがわかる。今日はまずいぞ!そう思うと子供たちは二階へ上がって、なるべく顔を合わせないようにしていたものだ。

そんな父に従う母の姿は、私には当時どうしてもわからなかった。今でこそ、父の厳しさは愛情の故であり、自分の考えを口下手で表現できない分、手が出ていたとわかっている。ただ。当時は全然わからなかった。いじめられている気がしていた。母に何度か「離婚して欲しい」と子供ながらお願いしたこともあった。そんなの、子供のクセになんだよって感じだけどさ。今思えばね。

母は料理がうまい。今は年を取ったのか野菜の煮物が多く、いつお鍋を覗いても茶色の煮物系のおかずだ。でも私たち子供が育ち盛りの時には、本当にいろんなお料理を作ってくれていたものだ。現在とは大違い。


■大豆を使って

お豆腐は父が母にお豆腐の水切りを手作りでプレゼントし、大豆からよく作ってくれていた。嫌いな豆乳を飲まされそうになって、逃げ回ったのを覚えている。
夜のうちに大きな鍋に大豆をいれ、一晩水で戻す。朝早く起きて火をつけ炊き始める。


■手作りのジュース

カルピスは子供にとっては大好物。兄弟でよく取り合いしてけんかしたものだ。母は牛乳をなんか加工して(どうやって作っていたのかなぞだ)、自家製のカルピスを作ってくれた。でも、どうしても市販のカルピスが飲みたくて、自家製カルピスはボイコットして飲まなかったことが多い。すんません。

フルーツを使ったジュースも定番だ。
春はいちご、秋はぶどうを農家から直接購入し、それはそれは、何十キロと購入してジャムやジュースを造ってくれていた。そんな時期。車庫はフルーツでいっぱいになる。自宅用でも何十キロとあるのに、友人・ご近所の注文もまとめて共同購入していたので、いつもたくさんの人が出入りして、にぎやかな家だった。そんな時期は家に近づくと、フルーツのにおいがしたものだ。


■買い食いについて

買い食いは許されない。駄菓子屋も「着色料がだめ!」ってことで、許してもらえなかった。今思うとそれって幸せなのだろうが、当時は「どうしてみんなはお菓子を買ってもらえるのに、うちはダメなの??」とジャンクフードをせがんだものだった。その手のお菓子は禁止されていた分、自家製のお菓子はふんだんにあった。家に帰ると毎日ケーキやクッキー、ゼリーなど季節に合わせたお菓子が手作りで用意されていて、家に近づくと甘くていいにおいがしたものだ。

私のお気に入りのひとつはマドレーヌ。ある日母が外出していなかった。おやつ用のマドレーヌを平らげ、「まだ絶対に隠してあるはず!」と家捜しし、発見!なんか味が違うけど、おいしいから食べた。後で聞くとブランデーをぬった大人用だったらしく、母が発見したときには兄弟で赤い顔をしてはしゃいでいたらしい。


■ところてんは天草から

乾物屋さんから直接天草を購入していた。だから、自家製のところてんをつくってもらっていた。型で抜く瞬間は兄弟で競争になる。おもしろいので食べきれない分作っていた。後で食べるのが大変だったな。


■手づくりパン

小学生のとき。塾の授業が終わると外にいつも母が迎えに来てくれていた。父は仕事で遅かったので、ほとんど母が寒い日も、暑い日も、待ってくれていた。時には弟を自転車の後ろに乗せて。下の弟とは年齢が9歳離れているので、当時弟は3歳くらいで、ちょこんと後ろに乗ってにこにこしていた。寒い日には、暖かい焼きたてのパンを持って迎えに来てくれた。パン教室の講師をしていたので、レパートリーが広く、私のお気に入りはおかかとたまねぎ、マヨネーズをトッピングしたものだった。

焼き立てで暖かいパンをかじりながら自転車に乗り、家に向かう。家の50M手前から、パンのにおいが風に乗って届いてくる。


■始発の電車、毎日見送り

私は中学、高校とバレーボールをしていたので、6時過ぎの列車で学校に通っていた。早朝練習に出るためだ。そんな私にお弁当を作ってくれていた母は一体何時におきていたのだろう。おそらく、4時半か5時だな・・・。

その後駅まで私を送ってくれていた。車の運転は苦手な人なので、自転車で。冬はまだ真っ暗で、「何かあるといけないから!」と言って、必ずついてきてくれた。

せっかく作ってくれたお弁当をよく忘れたものだ。そうすると。たまに父が学校まで持ってきてくれていた。本当に親不孝だ、私。お弁当には当時はめずらしかったミートパイやグラタン、カレーパイなどがあった。


■デパートの服を買って!

母は洋裁ができたので、いろいろ洋服を作ってくれていた。3段切り替えのワンピースが印象に残ってる。

でも。私はデパートで買った服のほうが好きで、作ってくれた服が気に入らず文句を言ったことも多々ある。だってー。そのほうがおしゃれだと思えたんだもん。これも贅沢な話だ。


いやー。思い出すといろんなことが頭に浮かんでくる。

今思えば。こんな母親、めったにいないだろう。家族に対して、絶対に手を抜かない。母が言うには、「一瞬の気を抜くことで、一生後悔するようなことはしたくない」のだそうだ。

父が亡くなる前にもそういっていた。「もうここまでで、あとはしょうがないだろう」と父が言っても、母が絶対に諦めずにいろいろ子供のフォローをしていたらしい。

そんな母の誕生日が一週間後。最近顔を見ていないので、すごく心配していると二人の弟たちから交互に電話があった。そっか。週末を利用して、広島に帰ろうと思う。

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2 コメント

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Unknown (ひーろ)
2005-11-04 00:58:17
すばらしいお母様ですね。

ウチも結構マメな母ですが、Kazさんのお母様とは大違いです。



Kazさんも、お母様をしっかりと受け継いでいるように見えますよ。

いえいえ・・・ (Kaz)
2005-11-04 07:05:29
ひーろのお母さんもまめで、素敵な女性だよね!あの年代の人は自己犠牲の精神がすごいよね。戦争の文化を少し見た人だからかな?

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