神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

龍閑橋

2014-06-30 08:11:32 | 平川・外堀4

  今川橋の次は主水橋(西中之橋)、乞食橋(白旗橋)、そして日本橋川からの分岐点の直後に架かる龍閑橋です。「龍閑橋 西今川町ヨリ本銀町一町目ヘ架ス長五間幅三間此地ハ昔井上立閑草創ユヘニ橋名トス後龍閑ト書改ム」(「東京府志料」) 左岸には龍閑町もあり、明治に入り川が拡幅された際、その名にちなんで龍閑川と名付けられたとされます。大正15年(1926年)には、橋長10.5m、幅員27.0mの鉄筋コンクリートトラス形式の橋に架け替えられました。三角形を繋いだ橋桁がトラス桁で、材料は木材や金属が主ですが、これは日本で最初にコンクリートを使ったのだそうです。龍閑川の埋立てられた昭和25年(1950年)に撤去されましたが、こうした珍しい構造から遺構が保存されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 右手が主水河岸、そして主水橋が架かっていました。明治に入り西中之橋となります。

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    2. JR線の白旗橋ガードをくぐります。その手前に神社名が由来の白旗橋が架かっていました。

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    3. 龍閑川跡の路地(龍閑新道)が終わります。脇のスペースには龍閑橋の遺構が保存されています。

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    4. 外堀通りを越えると、その先は日本橋川からの分岐地点です。

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今川橋

2014-06-28 08:05:28 | 平川・外堀4

 「今川橋 日本橋通り北の方、本銀町と元乗物町との間にて、神田堀に渡せり。『江戸砂子』に此橋は天和の頃掛しが、その時の名主今川氏なれば、橋名となせしよしをいへり。」(「御府内備考」) 「天和の頃」は例によって、広小路のできた年代との混同でしょう。その点、「江戸名所図会」の記述は正確です。「今川橋 本白銀の大通より元乗物町へ渡橋を云。此堀を神田堀と号(なづ)く。元禄四年辛未掘割たりとぞ。其頃此地の里正を今川某と云ければ、直に橋の号に呼けると云。・・・・又此北詰の西の河岸を主水河岸と字(あざな)す。御菓子司大久保主水の宅ある故にしか云り。宅の前に井あり → 主水井と云、昔は御茶の水にもめさせられしとなり。」 「東京府志料」にその名は見えませんが、「長一間半」の五つの石橋のうちの一つか、あるいは、「今川橋跡」と書き込みのある江戸末の切絵図もあり、小溝化していた時代には暗渠化されていたのかもしれません。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 今川橋」  「此辺瀬戸物屋多し」

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    ・ 龍閑川跡  今川橋の架かる日本橋通りの一つ手前の通りを越えます。ここには東中之橋が架かっていました。
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    ・  龍閑川跡  日本橋通り(中央通り)を越えます。左手に折れると700mほどで日本橋、右手は800m強で万世橋を経て中山道です。

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    ・ 今川橋跡  上掲写真の右手奥には、「今川橋由来碑」があり、「江戸名所図会」の今川橋の図も掲載されています。

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昭和通り(地蔵橋)

2014-06-27 09:09:26 | 平川・外堀4

 昭和通りを越えます。ここに地蔵橋が架かっていました。元は東側の歩道付近にあった橋ですが、震災復興で昭和通りが開通した際、橋長11m、幅員45mの大規模なものに架け替えられました。ちなみに、当時の今川橋は橋長11m、幅員27.3mなので、龍閑川に架かる橋としては、地蔵橋が最大規模のものだったことになります。なお、昭和通りの前後には小公園がありますが、どちらにも龍閑川に関する記念碑、解説プレートが置かれています。越えた先の地蔵橋公園にあるのは「龍閑川埋立紀念」碑で、第二次大戦後の昭和25年(1950年)、流路に大下水管(別の資料によると内径180cm)を埋設し、戦災残土をもって埋立てた旨記されています。

 

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    ・ 龍閑川跡  昭和通りの手前で。高架は首都高1号線です。左右には地蔵橋東児童遊園があり、右手に「神田八丁堀跡」の解説プレートが立っています。

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    ・ 龍閑川跡  昭和通りを越えた先です。この左右には地蔵橋公園が設けられ、左手には「龍閑川埋立紀念」碑が立っています。

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    ・ 龍閑川埋立記念碑  その数字によると、埋立の規模は、延長600間幅員7間、総面積4800坪、総工費7千万円、埋立地の売却代金7千5百万円でした。

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    ・ 龍閑川跡  昭和通りの先数十メートルの左手に、福田稲荷神社が祀られています。江戸開府以前、一帯は福田村と呼ばれていたといいます。

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牢屋敷跡

2014-06-26 16:43:14 | 平川・外堀4

 九道橋の次は待合橋(火除橋)ですが、その間の左手(右岸)に小伝馬町の牢屋敷がありました。現在はその一部が十思公園となっているところです。牢屋敷は慶長年間(1596~1615年)に、常盤橋門外から当地に移転してきました。石出帯刀が世襲で奉行(囚獄)を務め、配下の牢屋同心数十人、さらに雑用、手伝いの牢屋下男がいました。身分制度の厳格な時代とあって、牢屋も揚座敷、揚屋、大牢、女牢と細分されていたそうです。うち揚座敷(あがりやしき)は旗本、高位の僧侶などを収容するもので、天和3年(1683年)に牢屋敷の付属施設となりました。次の揚屋(あがりや)は御家人や渡辺崋山、吉田松陰など大名の家臣が収容されました。なお、牢屋敷には、現在の刑務所のように刑罰として収容する役割はなく、未決囚などを一時収容する拘置所のようなものです。

 

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    ・ 龍閑川跡  前を横切る通りに待合橋が架かっていました。明治以降、火除橋と改名した橋です。この手前左手が小伝馬町の牢屋敷跡地です。

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    ・ 十思公園  隣接してあった十思小学校にちなんだ名前で、出典は「資治通鑑」にある「十思の疏」(天子の守るべき十の戒め)だとか。

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    ・ 石町時の鐘  十思公園の一角に宝永8年(1711年)鋳造の時の鐘(高さ1.7m、口径93cm)が移設、保存されています。

 <石町時の鐘>  江戸で最初の時の鐘は、寛永3年(1626年)、十思公園から400mほど西の本石町3丁目に設置され、石町(こくちょう)時の鐘と称されました。「御府内備考」によれば、江戸開府当初は城内で鐘を撞いていましたが、御座の間近くなため差し障りありとされ、城内のものは太鼓とし、かわって本石町に鐘楼堂を建てたようです。「御府内備考」に引用されている鐘役源七の書上げによると、周囲410町にわたり、家持ち一軒に付き月4文の「鐘楼銭」を集め、維持、管理にあてていました。なお、時の鐘はその後の江戸市中の拡大に伴い、上野、浅草、本所、芝、赤坂、四谷、市ヶ谷、目白などにも設けられました。

 


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龍閑川2

2014-06-25 08:46:15 | 平川・外堀4

 神田堀は小伝馬町の町屋、亀井町のあたりで浜町堀と連絡していました。元禄4年(1691年)に、神田堀を開削するにあたって、手前で堀留になっていた浜町堀を延長、両者をL字で連結し通船可能としたものです。明和2年(1765年)には、L字の個所を両側から2間半づつ狭め、通船はできなくなり、安政4年(1856年)には、龍閑橋付近を除き「小溝」となりなりました。「神田堀 外濠ノ水龍閑橋ヨリ東シテ・・・・亀井町ニテ南折シ・・・・浜町堀ニ合ス 延袤(えんぼう)七町幅四間 天和二年開削セシヲ安政四年填埋シテ今ハ小溝トナレリ」(「東京府志料」) 「天和二年開削」は火除明地となった時期と混同したのでしょう、それはともかく、明治16年(1883年)に再び拡幅し、今度は浜町堀を神田川まで延長したため、T字で連絡することとなりました。これ以降、神田堀は龍閑川と呼ばれ、浜町堀は延長部分も含め、浜町川となりました。なお、明治17年測量の→ 「1/5000実測図」は、拡幅の途中経過を反映しています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 浜町堀との合流地点の龍閑児童遊園からのショットです。前の通りには幽霊橋(上掲「地形図」では玉出橋)が架かっていました。

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    2. 甚兵衛橋跡です。前を通るのが大門(おおもん)通りで、左手に折れると旧吉原大門前でした。

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    3. 人形町通りを越えます。ここに九道橋が架かっていました。左手が小伝馬町で、そこにあった牢屋敷は次回のテーマです。

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龍閑川

2014-06-24 08:02:41 | 平川・外堀4

 龍閑児童遊園まで戻り、龍閑川を追って西に向います。この川名は明治以降に付けられたもので、江戸時代は神田(八丁)堀、あるいは白銀堀と呼ばれていました。「神田堀 鎌倉河岸龍閑橋の辺より御堀の枝流となり、東の方馬喰町に達し、それより南に折れ、浜町にかゝりて大川に合す。近き年馬喰町辺にて船入りを止めしゆへ、今の二流の入堀のごとくなれり。馬喰町辺より浜町辺迄を浜町堀といふ。」(「御府内備考」) 白銀堀との別名は、右岸にあった本銀(ほんしろがね)町によっています。銀細工の職人が多く住んでいたことからの町名で、「本」は遅れて成立した新銀町に対して付けられたものです。これに対し龍閑川の名は、日本橋川との分岐点に架かっていた橋の名から付けられました。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 麹町区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、龍閑川が千代田区と中央区(地図当時は神田区と日本橋区)を分けています。

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    ・ 日本橋川  鎌倉橋からのショットです。左手は千代田区合同庁舎などのあるところですが、その下に龍閑川を代替する下水道の水門が見えています。

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    ・ 龍閑橋の遺構  「龍閑橋 西今川町ヨリ本銀町一町目ヘ架ス長五間幅三間此地ハ昔井上立閑草創ユヘニ橋名トス後龍閑ト書改ム」(「東京府志料」)

 <神田堀>  明暦3年(1657年)の大火のあと、防災用に長さ八丁(≒872m)の土手が築かれ、その後天和3年(1683年)には、土手の北側に沿って広小路(防火明地)ができます。元禄4年(1691年)、町人たちが費用を提供して、この土手沿いの明地に堀割を開き、すでにあった浜町堀と連絡しました。これが神田(八丁)堀、白銀堀です。その後の明和2年(1765年)には、浜町堀との連絡個所の前後が、左右二間半にわたって埋立てられました。引用した「御府内備考」に、「近き年馬喰町辺にて船入りを止めしゆへ」とあるのは、この時の工事によってと思われます。
 なお、防災土手に関して「江戸名所図会」は次のように述べています。「本白銀町封彊(どて) 明暦年間、火災を除かしめん為に之を築しむ。・・・・今は同所二丁目三丁目の辺わづかに其形を残せり。延宝八年の江戸絵図に、銀町一丁目より大門通りの所迄、石垣の土手をしるして松の並木を画(えが)けり。紫の一本といへる冊子に、一本松や六本松、白銀町には八丁つづいたまつばら越てとうたひしと云々。」

 


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大和橋、柳原橋

2014-06-23 07:09:37 | 平川・外堀4

 岩井橋の次は大和橋、そして柳原橋で、その先で神田川と連絡します。大和橋は岩井橋と同様、昭和40年代の新住居表示まであった付近の町名、(神田)大和町にちなんでおり、大和町は享保7年(1722年)、龍閑橋北にあった大和町の代地として起立、当初は大和町代地と名乗っていました。一方、柳原橋は神田川右岸に造成された柳原土手にちなみ、架かっていた通りも柳原通りです。なお、大和橋の創架時の規模は長13m幅7.3m、柳原橋は長12.7m幅11mと、これまでの他の橋と同程度でしたが、大和橋のほうは靖国通りが接するように開通した際、二本の通りに跨るよう、台形状に架け直されたため、長11.9mと15.9m、幅員63.2mと一挙に大規模になりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です.。靖国通り開通後の「昭和5年測図」は → こちらでどうぞ。

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    1. 靖国通りを越えます。ここに架かっていた大和橋の名は、交差点に残されています。

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    2. 越えた先の細長いスペースで、近くにある信金の駐車場になっています。

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    3. 柳原橋の架かっていた柳原通りを越えます。その先はすぐ神田川です。

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岩井橋

2014-06-21 06:48:02 | 平川・外堀4

 橋本橋の次は岩井橋です。震災復興で開通した神田金物通りに架かる橋ですが、当初は小規模のものがやや上流にありました。(震災復興前の長12.5m幅5.3mが、長14.2m幅22.0mと大幅に拡張されています。) 岩井の名は代々将軍家の甲冑師を勤めた岩井家ゆかりといわれ、西岸に元岩井町や岩井河岸があり、延長された区間の浜町川は岩井川とも呼ばれたようです。ところで、「郵便地図」などを見ると、元の岩井橋のところから神田川に向かって斜行する下水が描かれています。これは江戸時代、藍染川と呼ばれたもので、浜町川の伸長に伴い二つに分断され、有名な弁慶橋の架かる上流のほうは失われ、下流のみ下水として残されました。下掲「実測図」には分断される直前の藍染川が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 神田金物通りを越えます。震災復興後の岩井橋の架かっていたところです。

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    2. 金物通りの先の右カーブです。元の岩井橋が架かり、それ以前は藍染川が横切っていたところです。

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    3. 靖国通りに差し掛かる手前です。靖国通りには次の大和橋が架かっていました。

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橋本町

2014-06-20 06:55:06 | 平川・外堀4

 鞍掛橋の次は沿岸の竹森稲荷が由来の竹森橋、そして龍閑川の合流していた龍閑児童遊園裏を過ぎると、その先は明治16年(1883年)に新たに開削された区画となり、すぐに橋本橋が架かっていました。右手にあった橋本町にちなんだ橋名です。一帯は江戸の初期には寺院が立ち並び、馬喰町に隣接していることから馬喰寺町とも呼ばれていました。それが天和2年(1682年)の大火(お七火事)で焼失、駒込や深川に移転した跡地に起立したのが橋本町です。牛馬の売買や仲買をする幕府の博労役(ばくろうやく)、橋本源七が当地に土地を与えられたのが町名の起こりといわれています。昭和の初めに神田区東神田(現千代田区東神田1丁目)の一部となり、住居表示から失われました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 日本橋」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 江戸通りの先にも、水路跡の路地は連続しています。

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    2. 竹森橋の架かっていたところです。ここから先の右手が旧橋本町で、神田区(現千代田区)に属していました。

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    3. 龍閑川の合流地点の龍閑児童公園裏で、ここからは左手も千代田区です。

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    4. 龍閑児童遊園の東北角で、ここに橋本橋が架かっていました。

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本町通り

2014-06-19 07:16:11 | 平川・外堀4

 江戸の幹線道路の一つで、奥州街道筋にあたるのが本町通りですが、そこに緑橋が架かっていました。「緑橋 通油町ヨリ通塩町ヘ架ス長九間幅四間」(「東京府志料」) 当初の浜町堀は本町通りの手前で堀留だったので、元禄4年(1691年)に龍閑川とL字で連絡して以降、創架されたことになります。明和2年(1765年)にL字の前後が狭められ、通船が出来なくなりますが、その個所は緑橋を越えた先からだったので、以降も変わらず存続し続けました。これに対して、次の鞍掛橋は狭められた区画に属し、「東京府志料」当時、橋はあったのでしょうが収録されていません。江戸通りに架かる橋で、小伝馬町と馬喰町の間にあり、馬つながりのネーミングと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 緑橋の架かっていたところです。右手に向かうと、600mほどで浅草橋に出ます。

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    2. 江戸通りを越えます。鞍掛橋の名は右隣りの交差点名となって残っています。

 <本町通りと江戸通り>  本町通りは常盤橋(大橋)から浅草橋、千住、奥州へと向かう道筋にあたり、日本橋通りと並んで江戸の幹線道路の一つでした。「本町通り 本町一丁目、二丁目、三丁目、四丁目、大伝馬町一丁目、二丁目、通旅籠町、通油町、通塩町、横山町一丁目、二丁目、三丁目迄云、両国の方より称して横山町通りとも云。」(「御府内備考」) 一方、北側を並行する江戸通りには、本石町、小伝馬町、馬喰町がありました。現在のように、江戸通りが本町通りに代わる幹線道路となったのは、明治40年代のことで、それまで浅草橋までの市電(当初は軌道馬車)の経路を両者一方通行で分け合っていたのが、江戸通りを拡幅し往復ともそちらを通るようにしたためです。大正9年(1920年)には、江戸通りの延長上に新常盤橋を架け、路面電車は丸ノ内に乗り入れることになりました。

 


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橘町

2014-06-18 07:10:22 | 平川・外堀4

 高砂橋の次は栄橋、その次は問屋橋と、ほぼワンブロックごとに橋が続きます。これは、→ 切絵図にも描かれた下流の武家屋敷の区画から一転、吉原旧地以北の町屋エリアに差し掛かったためで、ここから本町通りにかけて、古くからの町人居住地となっていました。その一つが、本町通りの手前の東側に正方形のブロックを形成していた橘町です。明暦の大火後築地に移転した西本願寺の旧地にあたり、一時、家康の二男結城秀康の家系で、越前堀のところにも登場した松平越前守の屋敷があり、天和年間(1681~4年)頃町屋となって1~4丁目を起立しました。門前でタチバナを売る店が多かったことから、そう名乗ったといわれています。明治以降もその名を継続していましたが、昭和40年代の住居表示によって、現行の東日本橋3丁目などとなりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 栄橋の架かっていたところです。右手に若干ズレますが路地は続きます。

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    2. 震災復興で創架された問屋橋(長さ14m、幅員16m)のあったところです。前後の橋の長さはみな14mほどで、堀幅もそのくらいだったのでしょう。

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    3. 千鳥橋が架かっていました。「御府内備考」にも収録されていますが、「その名の起りは詳にせず」です。 

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    4. 汐見橋の架かっていたところです。問屋橋からこの橋までの右手が、昭和40年代まで橘町を名乗っていました。

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浜町堀3

2014-06-17 07:04:24 | 平川・外堀4

 浜町堀の暗渠化は戦後になってからですが、二段階にわたって行われました。龍閑川と同じく、昭和23年(1948年)から同25年にかけて、小川橋までの上流部分が埋立てられ、この時は、中央に残された路地を除いてビルの用地となりました。これに対して、下流部分の埋立ては昭和40年代に入ってからで、北半分は浜町緑道、南は首都高の浜町出口に転用されました。この時代に暗渠化された河川跡地は緑道となっているものが多く、高度経済成長期後の環境保護の要請を反映しているのでしょう。なお、龍閑川から浜町堀にかけて、その代替として下水道馬喰町幹線が敷設されていますが、水路跡と重なるのは後半の小川橋以降で、前半は左右どちらかの道路下にズレています。

 

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    ・ 「昭和38年国土地理院撮影空中写真」  中央に架かっているのが小川橋で、上流はすでに埋立てられています。なお、小川橋の下流に写っている橋は明治橋と蛎浜橋です。

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    ・ 久松児童公園  100m弱の細長い公園ですが、右隣りの久松小学校とは、歩行者専用道路を挟んで一体化したスペースになっています。

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    ・ 久松児童公園  正面は久松区民館で、その手前に高砂橋が架かっていました。左手にあった元吉原に起立した町屋の一つ、高砂町にちなんだ橋名です。

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    ・ 水路跡の路地  久松町区民館裏から路地が始まります。震災復興で高砂橋はここに移り、元の場所のものは元高砂橋となりました。

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小川橋

2014-06-16 07:00:31 | 平川・外堀4

 浜町緑道に戻りますが、すぐに消防署(人形町出張所)に突き当たって終了します。その先に小川橋が架かっていました。江戸時代は難波橋と呼ばれていたものです。「同じ堀の続き浜町にあり。橋の西難波町あれば呼名とす。」(「御府内備考」) 江戸末には小川橋の名が一般化し、前々回UPの→ 切絵図でもそうなっています。「小川橋 浪花橋ヨリ久松町ヘ架ス長八間幅三間」(「東京府志料」) 小川橋の由来碑によると、日本初のピストル強盗を逮捕した際の負傷がもとで殉職した巡査を讃え、その名前から小川橋と呼んだとあります。ただ、この話は明治19年(1886年)のことなので、たまたま同じ名前だった巡査を讃える意味も込められたということでしょう。

 

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    ・ 消防署(人形町出張所)前  浜町緑道は終了します。ここに明治に入って久松橋が架けられ、震災復興で明治橋に架け替えられました。

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    ・ 小川橋跡  右手は久松警察署、正面は浜町堀跡の久松児童公園です。久松町は天和3年(1683年)に起立、現在は日本橋を冠しています。

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    ・ 小川橋由来碑  上掲写真の久松児童公園の入口にあります。奥が小川巡査の所属していた久松警察署です。

 <山伏の井戸>  現在の久松警察署前の通りに、「山伏井戸」と称する名水がありました。「浜町往来の道の中にあり。中頃水あしかりけるを、山伏の祈りけるより、もとのごとく名水となれるよし」 「御府内備考」は「江戸志」を引用してそう書いていますが、歯痛に効能ありとの言い伝えもあったようです。ところで、「御府内備考」は他にも10を超える「〇〇の井」を紹介していますが、なにせ、「今の江戸町は十二年以前(慶長8年)まて大海原なりしを、当君の御威勢にて南海をうめ、陸地となし、町を立給ふ。然るに町ゆたかにさかふると云へ共、井の水へ塩さし入、万民是をなけく」(「慶長見聞集」)という水事情で、塩気のない井戸水はそれだけで名水だったのでしょう。

 


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竃河岸

2014-06-14 06:50:36 | 平川・外堀4

 浜町堀には途中西に200mほど入る支流がありました。「蛎殻町二町目ニ傍ヘル入堀ナリ北岸ヲ里俗竃河岸ト云 延袤(えんぼう)一町四十八間幅五間 舟筏通セス」(「東京府志料」) 元和3年(1617年)から明暦の大火(1657年)まで、当地に吉原遊郭があり、→ 「武州豊島郡江戸庄図」にも描かれているように、曲輪(くるわ)堀が周囲を囲んでいました。今回の入堀はその南側に沿ったものといわれています。寛政12年(1800年)、京橋にあった銀座が堀留前に移転して以降は、その材料の輸送水路ともなりましたが、明治38年(1905年)には埋立てられました。なお、竃河岸の由来ですが、竃(へっつい、かまどのこと)を扱う店が多かったことから、北岸の住吉町裏河岸、難波町裏河岸がそう通称されたものです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 浜町緑道から離れます。ここに入江橋が架かっていました。

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    2. 北岸にある末広神社は、葭原(吉原)の総鎮守だったと解説があります。

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    3. ここにも橋が架かっていましたが、橋名は伝わっていません。

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    4. 本来の堀はあとワンブロック、人形町通りまで続いていました。

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浜町堀2

2014-06-13 09:57:03 | 平川・外堀4

 浜町堀の開削は元和年間(1615~23年)の早い段階で、元和3年(1617年)に開設された吉原遊郭には、浜町堀からの入堀が周囲を囲んでいました。→ 「武州豊島郡江戸庄図」にも描かれているところです。もっとも、画面からは切れますが、当時は西隣の二本の入堀と同様、本町通りの手前で堀留になっていました。元禄4年(1691年)に小伝馬町まで延長され、龍閑川とL字状に連結されました。明和2年(1765年)にはL字の前後が狭められ、通船が出来なくなりましたが、明治16年(1883年)に再度拡幅され、さらに神田川まで延長され、連絡することになります。

 

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    ・ 安政6年(1859年)の切絵図  これまでと同様、蛎殻町公園に掲示されていたものの一部で、水路はブルーで強調しました。(途中左手に折れる入堀は、吉原の四方を囲んでいたものの名残で、ここより北の難波、住吉、高砂、新泉の四町からなる2丁四方が吉原旧地です。)

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    ・ 浜町緑道  組合橋(中之橋)の先の浜町緑道の入口です。このような細長い公園が、久松警察署前まで300mほど続きます。

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    ・ 浜町緑道  明治座通り手前です。勧進帳の弁慶像があるのは、近くにあった芝居小屋のメッカ、茸屋町や堺町(現人形町界隈)にちなんだものです。

 <浜町堀の橋>  上掲切絵図の元図、尾張屋の「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(嘉永3年新刻、安政6年再板)によると、河口から川口橋、組合橋、小川橋、高砂橋、栄橋、千鳥橋、汐見橋、緑橋が架かっていました。このうち小川橋は、「御府内備考」では難波橋となっています。また、「東京府志料」では組合橋を中ノ橋とし、その上流に明治6年(1873年)創架で、蛎殻町と浜町の合成の蛎浜橋が付け加えられ、さらに明治末の「郵便地図」では、蛎浜橋の上流に久松橋が架けられています。これとは別に、明治16年の拡幅、延長によって、その区画に鞍掛、竹森、橋本、岩井、大和、柳原橋が架橋されました。また震災復興橋として川口橋上流に浜洲橋、栄橋上流に問屋橋が創架され、久松橋に代わって明治橋ができ、やや下流にあった蛎浜橋が明治座通りへシフトするなど、場所の移動も見られます。

 


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