神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

汐留川河口

2014-05-31 10:47:00 | 平川・外堀3

 明暦3年(1657年)ころの作成とされる→ 「明歴江戸大絵図」ですが、築地の造成は途についたばかりです。対岸の浜御殿のところは手つかずで、大手門橋のところが汐留川の河口になっています。それが、「寛文図」(寛文10年 1670年)では、浜御殿(当時は甲府宰相殿屋敷)が造成され、築地川と汐留川がその周囲を巡っています。もっとも、江戸時代の汐留川は、浜御殿の北西にあたる一辺のみを流れ、西の角で江戸湊に注いでいました。今日のように、左折して二辺を流れ、南の角で隅田川河口に注ぐようになったのは、昭和に入って竹芝埠頭のところが造成されてからです。

 

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    ・ 汐留川  昨日UPの→ 写真の右手です。本来は築地川と同様の幅がありましたが、その大半は首都高(下は海岸通り)の用地になっています。

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    ・ 中の御門橋  右岸(左手)に300mほど入る→ 入堀がありました。汐留町入堀(会仙川)と呼ばれるものですが、その詳細は項を改めます。

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    ・ 汐留川  浜離宮庭園の西隅で左折します。江戸時代の河口ですが、ここには右岸からの合流がありました。宇田川と呼ばれる大下水化した川です。

 <汐留町入堀と宇田川>  「汐留町入堀 汐留町一二丁目ノ間ニテ浜離宮中ノ門ノ堀ヨリ分レテ西ヘ入源助町ヲ横キリ日影町通ノ大下水ニ合セル細流ナリ。」(「東京府志料」) 会津藩保科家と仙台藩松平(伊達)家、両屋敷の間にあり、会仙(あいせん)川とも呼ばれ、分岐点近くに会仙橋、源助町に源助橋が架かっていました。一方、宇田川について「東京府志料」は「宇田川 芝宇田川横町ニテ桜川ヨリ分レ埋樋ヲ通シ新銭座町ヲ流レテ海ニ入小溝ナリ昔上杉朝興ノ臣宇田川某ノ子孫宇田川喜兵衛ト云者此ノ辺ノ名主ナリシヨリ町ノ名ニモ川ノ名ニモナレルナリ」と書いています。こちらには宇田川橋がありましたが、源助橋と同じく東海道筋(現第一京浜)に架かる橋です。
  なお、これらの川は「明暦江戸大絵図」はもとより、「寛永江戸全図」や「武州豊島郡江戸庄図」にも、その原型を見ることができます。溜池を水源の一つとする汐留川、桜川水系に属する自然河川でしたが、江戸南西部の都市づくりの過程で大下水化したのだと分かります。機会があれば「城西の堀川」のテーマで、統一的に扱ってみたいものです。 

 


築地川と汐留川

2014-05-30 06:41:59 | 平川・外堀3

 築地川は浜離宮(浜御殿)の手前で、右手からくる汐留川と合流していました。正確にいうと、浜離宮庭園正門前に架かる大手門橋(南門橋)の下で、両河川はいったん連絡しますが、各々の本流は左右に分かれます。築地川は浜離宮の東縁を流れ、築地川水門をへて隅田川に注ぎます。一方、汐留川は左回りで浜離宮をめぐり、汐留川水門先で隅田川と合流しています。築地川と同様、昭和30年代までに埋立てられ、一部は首都高の用地となりましたが、浜離宮周辺だけはなお水面が維持され、今日汐留川と呼ばれるこの1km弱の区間です。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。  

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    ・ 汐先橋交差点  汐留川跡の首都高下から浜離宮大手門橋方向です。このあたりに汐先橋が架かっていました。汐留橋の先にある橋の意でしょう。 

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    ・ 大手門橋  汐留川は築地川と合流後、右手に向います。なお、大手門橋は明治以降、南門橋と呼ばれましたが、三の橋が北門橋となったのと対と思われます。

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    ・  築地川  大手門橋からのショットで、左手は築地市場、右手は浜離宮庭園です。左手にあった尾張橋下を流れ、ここで左折して築地川水門に向かいます。

築地川本流2

2014-05-29 06:45:07 | 平川・外堀3

 采女橋(二の橋)で東支川を分けたあとの、浜御殿(浜離宮)までの築地川本流です。江戸時代、この区画には仙台橋と尾張橋、二本の橋が架かっていました。仙台橋は元禄年間(1688~1704年)に創架された橋で、当時北詰に陸奥仙台藩松平(伊達)家の屋敷があったため、そう呼ばれました。一方、浜御殿前に架かる尾張橋は、「寛文図」(寛文10年 1670年)にも無名橋としてあり、度々話題となる南詰の尾張家蔵屋敷にちなんでいます。明治に入り、仙台橋は廃橋になりましたが、尾張橋のほうは昭和30年代まで存続していました。現在、築地川跡の首都高上に架かるのは、千代(せんだい)橋と新尾張橋です。

 

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    ・ 千代橋  大正末架橋の震災復興橋です。名前は仙台橋を意識しているのでしょうが、場所は数十メートル上流に移動しています。 

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    ・ 首都高都心環状線  千代橋から次の新尾張橋方向です。新尾張橋の先で首都高は右カーブ、築地川の流路から離れ、汐留川の上に出ます。 

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    ・ 新尾張橋  築地市場・汐留駅間の貨物線跡を転用した道路に架かる橋です。同線は昭和の時代を通して、築地市場の物流を担っていました。 

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    ・ 尾張橋跡  上掲写真に写る汐留ポンプ所の先、浜離宮の手前です。間の通り(新大橋通り)を越えたところに、尾張橋が架かっていました。

采女橋

2014-05-28 06:20:39 | 平川・外堀3

 万年橋の次が二の橋、あるいは采女(うねめ)橋です。→ 「明暦江戸大絵図」にも、東支川の分岐点手前に橋が描かれており、分岐点先の三の橋(北門橋)と共に、築地川ができた当初からあったようです。三十間堀に架かる木挽橋と同じ道筋(現みゆき通り)にあり、順に一の橋、二の橋、三の橋と名付けられたのでしょう。采女橋のほうは、北詰にあった伊予今治藩、松平采女正の屋敷地が享保年間(1716~36年)明地となり、采女ヶ原と呼ばれたのが由来なので、当初からそう呼ばれていたわけではありません。なお、築地川は数回前UPの→ 「実測図」にあるように、采女橋先で左折、右折のクランクを形成、左手に東支川を分流していました。

 

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    ・ 首都高都心環状線  采女橋のところで左カーブ、その先ですぐに右カーブ、新橋演舞場の左手にシフトします。  

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    ・ 采女橋  昭和5年(1930年)の改架で、橋長42.04m、幅員15.0m(車道9.0m、歩道3.0m×2)。右手の茂みは采女橋公園です。 

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    ・ 首都高中央環状線  采女橋を過ぎたところを采女橋公園から見ています。正面の建物は社会教育会館で、東支川跡地にあります。

 <采女ヶ原>  「采女が原 木挽町四丁目より東の方、此所に馬場あり。常に賑(にぎは)しく、講釈師浄瑠璃の類ひ軒を並べて行人の足をとゞむ。享保九年迄此地に松平采女正定基の屋敷ありし故となり。同年正月晦日火災の後、屋敷は麹町三丁目の裏へうつされ、同十二年の頃其跡へ新に馬場を開かるゝといへり。」(「江戸名所図会」)
 享保9年(1724年)とありますが、「中央区沿革図書」に収録された「御府内沿革図書」では、同3年には火除け明地となっています。同書でも馬場が置かれたのは享保12年で、馬場も明地も規模を縮小しながら幕末まで存続しています。なお、昨日UPの→ 「江戸名所図会」にもあるように、馬場の隣の明地には仮設小屋が建ち、様々な興行や小売りでにぎわっていました。小屋掛けの認可と抱き合わせで、馬場の維持、管理を民間に委託していたようです。

 


万年橋

2014-05-27 06:48:31 | 平川・外堀3

 祝橋の次は万年橋です。江戸時代からの橋で、「寛文図」(寛文10年 1670年)にも、無名ながら描かれています。「築地采女ヶ原の東に架す。此橋より南に在を二ノ橋と呼び、それより東に在を三ノ橋といふ。」(「御府内備考」) 「築地三丁目ヨリ木挽町三丁目ヘ架ス長十六間四尺幅四間」(「東京府志料」) 橋名については「武江図説」という地誌に、「此はし上は板にて橋杭は石なり、よって万年橋と呼ぶ。」とあるそうです。(長持ちする橋といった普通名詞的な名で、小名木川河口にも→ 万年橋が架かっています。) 震災復興で晴海通りが開通したのに伴い、昭和3年(1928年)に改架され、延長34.1m、幅員33.0mと拡幅されました

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 采女が原」  木挽町にあった采女ヶ原馬場から万年橋を渡ると、300mほどで築地本願寺です。(采女ヶ原や馬場については、次回扱う采女橋のところで詳細します。)

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    ・ 首都高都心環状線  祝橋から万年橋方向です。万年橋の前後の首都高も覆われ、面積2300㎡ほどの築地川銀座公園となっています。

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    ・ 築地川銀座公園  地域の一時集合場所に指定されており、防災上の配慮からなのでしょう、障害物のほとんどない構造になっています。

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    ・ 築地川銀座公園  万年橋の西側の区画です。100mほどで次の采女橋なので、正面の新橋演舞場が大きくなってきました。

築地川本流

2014-05-26 07:58:56 | 平川・外堀3

 三吉橋から浜離宮近くの河口まで、築地川本流をたどります。楓川や楓川・築地川連絡運河と同様、この区間の大半は首都高建設のため、昭和35年(1960年)に埋立てが認可され、同37年末に汐留までが開通しました。その際架かっていた橋は、首都高の上に架かる陸橋に転用され、今日に至っています、三吉橋以下、亀井橋、祝橋、万年橋、采女橋、千代橋、新尾張橋です。この中で江戸時代から架かっていたのは万年橋、采女橋で、他に廃橋となった仙台橋と尾張橋がありました。なお、首都高から離れて河口まで、750mほどが水面を残しており、現在の築地川となっています。

 

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    ・ 首都高都心環状線  三吉橋から次の亀井橋方向のショットです。正面奥に見える新橋演舞場は采女橋先にあり、ここからの写真ごとに大きくなっていきます。

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    ・ 築地川亀井橋公園  亀井橋は明治初めの創橋で、津和野藩主だった亀井伯爵が私費を投じたといわれています。現在のものは昭和3年(1928年)改架の震災復興橋です。

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    ・ 祝橋  やはり明治初めの創架ですが、橋名の由来など不明です。首都高開通時に改架され、平成に入って現在のように煉瓦張りに化粧直しが行われました。

 <三吉橋>  昭和4年(1929年)12月に架けられた震災復興橋で、傍らの解説プレートの数字によると、橋長は23.98m×3、有効幅員15m(車道9m、歩道3m×2)、形式は三股型単純鋼板桁橋です。平成5年に改修され→ 現在のようになりました。L字の築地川に連絡運河が合流して出来た三叉路を跨いでいるため、架橋直後の→ 「昭和5年測図」にもあるように、上から見るとY字を形成しています。その形状の珍しさから、架橋当時は東京新名所となり、遠方から見物人も押し寄せたとか。おそらく、三吉橋の名前もこの特異な形、機能と関係していたのでしょう。
 なお、解説プレートには三島由紀夫の「橋づくし」が引用されています。以下はその一部です。「程なく四人の渡るべき最初の橋、三吉橋がゆくてに高まって見えた。それは三叉の川筋に架せられた珍らしい三又の橋で、向う岸の角には中央区役所の陰気なビルがうずくまり、時計台の時計の文字板がしらじらと冴えて、とんちんかんな時刻をさし示している。橋の欄干は低く、その三又の中央の三角形を形づくる三つの角に、おのおの古雅な鈴蘭燈が立っている。」


東支川2

2014-05-24 06:56:38 | 平川・外堀3

 東支川に戻り、南支川とのT字の合流地点から、北上して三之橋(北門橋)へ向かいます。途中、新大橋通りを越えるところに市場(いちば)橋が架かっていました。震災復興で新大橋通りが開通した際、新架された震災復興橋の一つですが、昭和53年(1978年)に埋立てられ、その後撤去されました。今でも交差点や公園の名前に残っています。なお、東支川は同年に北門橋・市場橋間が、平成7年に市場橋・海幸橋間が埋立てられ、跡地は駐車場や公園、公共施設の敷地などになっています。道路に転用された場合のように、直接歩いて確認はできませんが、細長い空間が続いており、地図上からも読み取ることができます。

 

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南部と東南部を合成した一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。

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    ・ 東支川跡  南支川とのT字の合流地点から市場橋方向です。T字の前後には、市場への出入り用に魚河岸橋、起生橋が架かっていた時期もあります。

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    ・ 東支川跡  新大橋通りを越えます。ここに市場橋が架かっていました。なお正面にあって徐々に大きくなっているのは、電源開発本社ビルのアンテナ塔です。

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    ・ 東支川跡  ここに北門橋(三之橋)が架かっていました。右手奥は築地川本流、今は首都高に架かる采女橋(二之橋)で、共に江戸時代からの橋です。

勝鬨橋

2014-05-23 07:06:27 | 平川・外堀3

 東支川河口から隅田川を150mほどさかのぼり、勝鬨橋と北詰にある「橋の資料館」に寄り道します。明石堀からは300mほど下ったところです。勝鬨(かちどき)とはずいぶんオールドファッションですが、日露戦争のさなかにあった明治38年(1905年)、築地・月島間を往復する渡船に「かちどきの渡し」と名付けられ、それが、昭和15年(1940年)に完成した可動式の大橋に引き継がれました。開通当時は一日5回開閉されましたが、戦後は徐々に回数が減り、昭和45年(1970年)を最後に開閉は中止されました。船や鉄道から自動車への運搬手段の転換に伴い、開閉ごとに20分も通行を遮断するこの方式は、時代のニーズに合わなくなったためです。

 

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    ・ 勝鬨橋  上流(明石堀より)からの撮影です。勝鬨橋を通るのは震災復興時に開通の晴海通り、対岸は月島です。 

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    ・ 「かちどきのわたし」碑  実際の渡し場は東支川河口、海幸橋のたもとにありました。左手の建物は開閉用の変電所を転用した「橋の資料館」です。 

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    ・ 資料館内  この直流発電機二基が交流電気を直流に変え、開閉部の橋脚に2基ずつ計4基ある125馬力のモータに電気を供給していました。 

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    ・ 資料館内  資料館には勝鬨橋の1/100の模型も展示されています。スイッチを押すと、橋が開閉し船が通過するようになっています。

東支川

2014-05-22 06:37:52 | 平川・外堀3

 東支川は、二之橋(采女橋)と三之橋(北門橋)の間で、築地川本流から分かれ、途中南支川を合わせ江戸湊(現隅田川)に向っていました。全長750mほどです。江戸時代、東支川の西岸は尾張家蔵屋敷をはじめとする大名屋敷が占めていました。これは築地造成当時からのもので、→ 「明暦江戸大絵図」にも、「尾張様望地」と書き込まれています。明治に入ると、→ 「東京近傍図」にあるように、海軍兵学校など海軍関係の用地となり、震災後は日本橋に代わって魚市場が置かれました。最初は臨時の扱いでしたが、昭和10年(1935年)、東京市中央卸売市場が正式に発足します。それに伴い、江戸時代には二本しかなかった東支川の橋は、昭和の初めには六本にまで増えます。特に、震災復興で創架された市場橋、海幸橋は、市場への出入り口として利用されました。

 

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    ・ 築地市場  勝鬨橋からのショットで、正面が東支川の河口にあたります。河口近くにはあった安芸橋は、昭和に入り撤去されています。  

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    ・ 東支川跡  海幸橋のあったところから、前回UPの南支川との合流地点に向かってのショットで、左手が築地市場、右手は場外市場です。 

 <海幸橋>  築地市場入口に架かる橋で、震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に創架されました。傍らの解説プレートによると、ランガー式補剛タイドアーチ橋という、国内初の構造を有するものなのだそうです。平成に入り東支川が埋立てられ、しばらく橋も埋没のまま放置されていましたが、平成14年に撤去されました。その際、親柱四基は修復の上、保存されました。鋼鉄製照明付の二基と石造りのもの二基を点対称に配置した、アムステルダム派と呼ばれる珍しいデザインです。

 

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    ・ 海幸橋親柱  鋼鉄製のほうで、石造りのものは上掲写真の右手に写っています。なお、右手前の茂みは埋立てられた東支川跡、奥は万治年間(1658~61年)の創建と伝えられる波除稲荷です。

南支川2

2014-05-21 07:33:53 | 平川・外堀3

 江戸時代から明治にかけて、南支川に架かる橋は二本で、うち本願寺境内の南端にあったのが本願寺橋です。「本願寺橋 本願寺の東南角にあり。」(「御府内備考」) 「東京府志料」では南小田原町橋、のち南がとれて小田原(町)橋と呼ばれます。本願寺の対岸に南小田原町(のち小田原町)があったためですが、南小田原町は寛文4年(1664年)、日本橋の本小田原町の魚問屋が開発した、本小田原町は天下普請の頃、小田原出身の石工棟梁に与えられた、というのが各々の町名由来として伝わっています。なお、南支川は本願寺橋の先で東支川とT字を形成、左折して河口へと向かっていました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 西本願寺」  三枚一組のシリーズの二枚目と三枚目の合成です。手前の横の堀が南支川、左の縦の堀が東支川、間に架かる橋が本願寺橋です。  

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    ・ 小田原橋跡  築地場外市場のメインストリート、波除通りから晴海通り方向を振り返っての撮影です。正面は南支川跡地で、現在は駐車場ですが、鮮魚マーケットへの転用が予定されています。 

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    ・ 小田原橋跡  上掲写真とは逆の東支川方向です。南支川が埋立てられた後も、小田原橋は埋没したまま残っていましたが、最近撤去されました。親柱1本が小田原市郷土文化館に保存されています。

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    ・ 東支川跡  上掲写真の左手、海幸橋方向です。東支川のこの区間の埋立ては平成に入ってからと遅く、その面影は築地市場と場外市場の間の細長い空間に、今なお残っています。

南支川

2014-05-20 06:45:21 | 平川・外堀3

 築地川に戻ります。暁橋から本願寺前にかけて、南支川が今回のテーマです。すぐに備前橋が架かっていました。「築地本願寺の東に架す。橋辺に松平内蔵頭が屋舗在ゆへその名とす。」(「御府内備考」) 本願寺の東、橋の北側に備前岡山藩、松平(池田)家の中屋敷がありました。「寛文図」でも同じ場所に架かっていますが、当地に岡山藩中屋敷が出来たのは宝永元年(1704年)なので、創架当時は備前橋ではなかったことになります。なお、備前橋の先で右手に折れ、本願寺と岡山藩中屋敷の間を分ける、ワンブロック、百数十メートルの入堀がありました。→ 「東京近傍図」にも描かれていますが、ほどなく埋立てられたのでしょう、明治末の「郵便地図」にはなく、かわって幅広の道路が描かれ、備前橋もやや下流にズレています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 西本願寺」  三枚一組のシリーズの一枚目と二枚目の合成です。手前に描かれているのが築地川、画面からは切れますが、備前橋と入堀はその右手にありました。

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    ・ 備前橋  築地川南支川の埋立ては、昭和54年(1979年)以降で、その際、片側の親柱と欄干が残され、今では築地川公園の一部となっています。 

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    ・ 備前橋  正面奥に本願寺の尖塔が見えています。江戸時代から明治にかけて、ここには入堀が切れ込み、備前橋はやや後方に架かっていました。 

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    ・ 門跡橋交差点  晴海通りを越えるところです。上掲「図会」に描かれた本願寺境内は、震災復興で二分され晴海通りが開通、その際、門跡橋が架けられました。

鉄砲洲川3

2014-05-19 06:37:32 | 平川・外堀3

 明石堀から鉄砲洲川を追っての3回目で、右折後、二つの橋の架かっていたところを過ぎ、170mほどで児童遊園に突き当たります。ここが隅田川に面した河口にあたり、下掲「江戸名所図会」の左下隅に描かれています。江戸時代、河口の左手(北側)は鉄砲洲本湊町、右手(南側)は船松町でしたが、現行の住居表示ではどちらも同じ中央区湊に属し、2丁目と3丁目に分かれています。ところで、「図会」を見ると河口に橋が架かっています。鉄砲洲橋の場所ですが、「東京府志料」の橋梁リストには、明石堀近くの新湊橋以下、見当橋、小橋のみが掲載され、鉄砲洲橋の名前は出てきません。この時期、一時的に撤去されていたようです。なお、明治末の「郵便地図」を見ると、新湊、浦堀、見当、無名、小、鉄砲洲の6橋があり、これらは昭和初めの埋立ての時まで架かっていました。

 

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    ・ 湊第一児童遊園  鉄砲洲川の隅田川に面した河口です。正面は佃島にある高層マンション群(大川端リバーシティ21)です。  

 <佃の渡し>  上掲「図会」の鉄砲洲川河口に、石川島の人足寄場や佃島への渡し場がありました。昨日UPの→ 「実測図」にも、「佃島渡舩場」と書かれています。佃島への渡しに関しては、正保2年(1645年)、佃島の島民が私的に始めたもので、当時の運航は不定期でした。佃島は藤の名所だったので、その季節には大いににぎわったとか。それが時期は特定できませんが、明治の中ごろまでに、百数十メートル南の現佃大橋付近に渡し場が移っています。定期運航は明治16年(1883年)からなので、その機会に佃島の真向かいに移動したのかもしれません。民間経営の手漕ぎ渡船で、運賃は5厘だったそうです。

 

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    ・ 佃島渡船碑  佃大橋のたもとにあります。大正15年(1926年)に東京市に運営が移り、翌年、無料の曳船渡船となった際、記念に建てられたものです。

 昭和初期にはピークを迎え一日往復166回、1万人を越える利用者がありました。昭和15年(1940年)、800mほど下流に勝鬨橋が出来た後も、昭和30年の数字で、なお70往復を数えましたが、同39年の佃大橋の完成によって廃止されました。

 


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2014-05-17 16:43:07 | 平川・外堀3

 明石堀から鉄砲洲川を追っての二回目で、佃大橋に至る通りを越えたところからです。聖路加病院前の通りに比べ、西側にズレかつ道幅も半分ほどになりますが、川沿いの東側に道路がなかったためです。ところで、築地川と鉄砲洲川に挟まれた一角は、一度触れた播州赤穂藩浅野家上屋敷など、大名屋敷が占めていました。豊前中津藩奥平家の中屋敷もその一つで、今は聖路加病院の建っているところです。中津藩の藩医だった前野良沢は、明和8年(1771年)から3年かけ、杉田玄白らとともに屋敷内の役宅で「ターヘル・アナトミア」を翻訳、下って安政5年(1858年)、藩士だった福沢諭吉は屋敷内に蘭学塾を開き、今日の慶応義塾の元となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の南東部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

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    1. 佃大橋への通りを越えた先です。この道幅十数メートルが、鉄砲洲川の幅とほぼ同じだったものと思われます。

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    2. 次の信号で右折します。ここから150mほど北上する入堀がありましたが、明治に入り埋立てられています。

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    3. ここには小橋が、次の通りには鉄砲洲橋が架かっていました。小橋のところには、 → 「明暦江戸大絵図」にも橋が描かれています。

鉄砲洲川

2014-05-16 08:12:41 | 平川・外堀3

 「東京府志料」では「支渠 明石橋ノ北明石町ヨリ北ヘ入リ船松町を廻リテ海ニ至ル 幅五間ヨリ七間」と、築地川の支流扱いですが、鉄砲洲川として独立して扱うのが一般です。現在は同じ区画のように見える鉄砲洲と築地は、歴史的には別個の造成地でした。両者の間にあって、埋め残され出来たと思われるのが鉄砲洲川で、 → 「東京近傍図」にもあるように、隅田川と明石堀の間を700m弱のL字でつないでいます。震災復興事業の一環として、昭和4年(1929年)頃には埋立てられ、川沿いの道路と共に幅広な通りを形成、現在に至っています。

 

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    ・ 鉄砲洲川跡  あけぼの公園の北東にある、聖路加病院と聖路加タワーの間の幅広の通りです。流路はこの通りの左手、やはり幅広の歩道よりにありました。 

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    ・ 鉄砲洲川跡  幅の広い歩道の車道側は、植込みや親水施設が設けられ、ちょっとした遊歩道になっています。なお、地下には下水道の芝浦幹線が走っています。

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    ・ 鉄砲洲川跡  佃大橋に至る通りを越えます。ここに見当(みとめ)橋が架かっていました。当初からの橋で、「明暦江戸大絵図」にも無名ながら描かれています。 

 <鉄砲洲>   → 「武州豊島郡江戸庄図」(寛永9年 1632年)当時、南八丁堀の東端の角状の区画はごく短いもので、寛永末とされる「寛永江戸全図」でも大差ありませんが、承応2年(1653年)の「武州古改江戸之図」になると、八丁堀の長さと同じくらい突出し、そこに「てつはうつ」と書き込まれています。この段階では築地側は未造成なので、鉄砲洲川もありませんが、次の「新添江戸之図」(明暦2年 1656年)では築地側にも同様の造成がなされ、間に水路が描かれています。この点では翌明暦3年頃とされる→ 「明暦江戸大絵図」と同じです。(両者が決定的に異なるのは、西本願寺などのある木挽町海手築地の有無です。)
 鉄砲洲の名前の由来については、「御府内備考」は次のように書いています。「鉄砲洲 築地の海寄の方なり。寛永の頃井上、稲富の両家大筒の町見を試し所なり。・・・・それによりてかく地の名とせしとぞ。此地は南北凡八丁ありといふ。」 同書は批判的ですが、角状に突き出した形が鉄砲に似ている、との説も有力に主張されています。

 


明石橋

2014-05-15 07:25:39 | 平川・外堀3

 明石堀の河口に架かるのが明石橋です。「御府内備考」では境橋の次にあって、「寒(さむさ)橋 同じ川の海端に架す。明石橋とも唱ふ。」となっています。隅田川河口に面して架かり、海風にさらされた様子をそう表現したのかもしれません。創架を宝暦8年(1680年)とする文献がありますが、「寛文図」(寛文10年 1670年)に無名橋ながら描かれており、その辺の事情は不明です。(宝暦8年を架替えとすれば辻褄は合います。) ところで、明石橋の架かっていたあたりに、「月島の渡し跡」の解説プレートが立っています。月島の造成から間もない明治25年(1892年)、明石橋の橋詰に設けられた渡場から、私設の有料渡船が開始されました。同35年に東京市により公営化され、勝鬨橋が架けられた昭和15年(1940年)まで、無料の渡船が運航していました。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 寒橋」  「青海や浅黄になりて秋のくれ 其角」  橋の手前の町屋が明石町で、鉄砲洲の最南端にあたります。 

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    ・ 明石橋跡  あかつき公園の南端から隅田川方向のショットです。奥の建物は明石町ポンプ所で、明石堀河口を埋立てたところにあります。

 <築地居留地>  明治元年(1868年)から同32年まで、明石町に外国人居留地が設けられました。安政5年(1858年)締結の欧米五か国との修好通商条約は、横浜、神戸などの五港の開港と、江戸、大阪の開市を約束していましたが、その一環として、条約締結国の外国人の居住、通商のため開設されたのが居留地です。築地居留地の場合、通商のための商館がメインだった開港地の居留地と異なり、アメリカなどの公使館、領事館が建ち、また宣教師、医師、技師、教師が多数居住、日本の教育、文化の近代化の中心となりました。築地を創建の地とする大学には、ミッション系の立教、明治学院、青山学院などがあり、それに居留地とは関係しませんが、慶応義塾も当地を発祥の地としています。

 

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    ・ あかつき公園  シーボルトの胸像が置かれているコーナーです。築地とシ-ボルトに直接の関係はありませんが、当地が「解体新書」にまつわる蘭学発祥の地、居留地の置かれたところであることから、日本の近代化、国際化のシンボルとしてでしょう。