神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

指ヶ谷町

2014-01-31 07:28:12 | 谷端川・小石川4

 「当町の儀は往古武州豊島郡小石川村御料所に候処、元和九亥年(1623年)中伝通院様御仏供料に相成、・・・・町方起立の儀は寛永十一戊年(1634年)百姓町屋御免被仰付、其後延享二丑年(1745年)町奉行御支配に相成候、・・・・町名指谷と相唱候儀、小石川村東の方凡五町程の場所字指谷と古来より申候間、右唱より町名と相成候儀と奉存候」 「御府内備考」の指谷壱丁目の記述です。指谷自体の由来については触れていませんが、「江戸砂子」には、「寛永の頃は町並みなく、木立の茂りたる谷也。御鷹それし時あの谷なりと御指をさし給ふ所なりといひつたふ」とあります。指谷一、二丁目、南片町がありましたが、明治に入り千川屋敷や武家地、寺地を併せ、(小石川)指ヶ谷(さすがや)町となりました。なお、「さしがや」との読みも併存しています。

 

Sasugaya1

    ・ 「段彩陰影図 / 小石川2」  中央で二つの谷筋が合流している付近が指谷で、岬状に突き出す台地の先に白山神社が祀られています。なお、オレンジ線は区境ですが、大半が文京区です。

0714a

    ・ 白山下交差点  正面が小石川台に上る蓮華寺坂、右手手前が白山坂、左手手前が浄心寺坂でいずれも本郷台に上ります。江戸時代には五差路でしたが、明治末に旧白山通りが開通し、六差路になりました。  

0714b

    ・ 浄心寺坂  → 「江戸名所図会 / 丸山浄心寺」にも描かれており、坂の中腹にある浄心寺からのネーミングです。坂下の左手には千川屋敷がありました。右手には八百屋お七の墓所のある円城寺が現存しています。 

 <「寛永図」と指谷>  白山下交差点の六差路は、上述の通り江戸時代は五差路でしたが、寛永19年(1642年)頃とされる → 「寛永江戸全図」でも、「連花寺」(蓮華寺)下に五差路が描かれています。注目は白山坂下を横切る川が描かれていることで、前後は省略されていますが、目下追っている水路と思われます。(図中の濃いグレイは崖面を現わしており、薄いブルーの田地とあわせ、今回の谷筋の概略が分かります。)
 白山坂下には橋も架かっていますが、「御府内備考」当時は「長弐間、巾ニ間」の板橋で、「文京の失われた橋」(平成17年 文京ふるさと歴史館友の会)に百合(ひゃくごう)橋とあるものなのでしょう。なお、白山神社が描かれていませんが、「寛永図」の時代には、現小石川植物園内にあり、館林藩主(後の5代将軍)綱吉の御殿建設に伴い、当地に遷ったのは明暦元年(1655年)のことです。

 


この記事をはてなブックマークに追加

千川屋敷

2014-01-30 07:53:48 | 谷端川・小石川4

 「下水堀 巾三尺、右北の方小石川村酒井雅楽頭様御下屋敷より流出、指谷町通りより武家屋敷境通り小石川馬場の方え相流申候、尤(もっとも)下水上橋の儀は指谷町にて申上候」 「御府内備考」の白山前町千川屋敷の記述です。千川屋敷は都道301号線(旧白山通り)、白山下交差点の南側にあった拝領町屋敷でした。ちなみに、引用文中の指谷町は通りを隔てた北側にあり、「指谷町通りより武家屋敷境通り」は、現京華通りから目下たどっている路地にかけてです。なお、千川屋敷の名前ですが、千川上水開設を請け負った多磨郡仙川村出身の徳兵衛、太兵衛の両名は、その功により上水の管理を任され、水使用料徴収の権利を得るとともに、千川の苗字と帯刀が許されました。そのうち、太兵衛は当地に200坪余の土地を与えられ、屋敷を構えたことから、以後千川屋敷と呼ばれるようになったものです。

 

Senkawa1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Senkam42

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」と「同 / 上野」を合成したもので、上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

0713a 0713b

    1. 「御府内備考」が「武家屋敷境通り」と呼んでいるところで、通りの左右には短冊状の武家屋敷が並んでいました。 

0713c

    2. 路地はフェイドアウトしますが、「郵便地図」などは現白山下交差点からここまでの水路を描いています。

0713d 0713e

    3. 「郵便地図」はこのルートの水路も描いていますが、下水道白山幹線が利用しているはこちらです。 

0713f

    4. 白山下交差点です。正面奥に入る京華通りに連続します。

この記事をはてなブックマークに追加

小石川築地

2014-01-29 08:07:40 | 谷端川・小石川4

 東大下水の東側は本郷(本郷丸山)なのに対し、西側は小石川に属していました。承応(じょうおう)年間(1652~55年)に、沼地を築立て武家地に造成し、(小石川)築地と通称されたところです。万治2年(1659年)には、築地の中央に馬場が設けられましたが、この辺の事情は江戸川流域の小日向築地、小日向馬場の関係と全く同じです。なお、小石川片町のところで引用した「御府内備考」に、「下水 幅八尺余 右馬場東の方より流来」とあるのは、この小石川馬場(築地馬場)のことです。

 

Maruya2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0712b 0712a

    1. 左手の長方形の区画が小石川馬場跡です。「東西長九十間、南北幅十壱間弐尺」ありました。 

0712d 0712c

    2. 水路単独の狭い路地になります。なお、ここから先の下水道白山幹線は、左手の整備された道路を利用しています。  

0712f 0712e

    3. 右手から水路が合流します。この先の胸突坂を流れ下る水路がありました。 

0712g

    4. 急坂なので胸突坂、あるいは、台上の新道に至る新道坂です。阿部家の屋敷地と丸山新町を分け、現在は西片(2丁目)と白山(1丁目)の境となっています。

この記事をはてなブックマークに追加

丸山2

2014-01-28 07:20:31 | 谷端川・小石川4

 白山通りとしばらく並行した後、右カーブで通りを離れ、左岸段丘(丸山)の裾をめぐります。東大下水と段丘の間の細長い区間は、備後福山藩阿部家の屋敷地でしたが、享保年間(1716~36年)に上地して阿部上地と呼ばれる武家地になりました。明治に入り、一帯の通称丸山と阿部家の封地である福山から、丸山福山町を名乗ることになります。台上の駒込西片町が、官吏や学者の住む閑静な住宅街だったのに対し、崖下の当地は、東大下水を挟んで東隣りの小石川掃除町、小石川柳町などと共に、明治の中ごろ以降、いわゆる新開地となったところで、その様子は樋口一葉日記にも描かれ、「にごりえ」の舞台設定にも生かされています。なお、一葉は明治29年(1896年)に亡くなるまでの二年間、当地に居を構えていました。

 

Maruya1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0711b 0711a

    1. 幅広車止め付の歩道の右手に、「樋口一葉終焉の地」のプレートがあります。 

0711d 0711c

    2. 200mほどで右カーブ、北東に向きを転じ、白山通りから離れます。 

0711f 0711e

    3. 新坂(福山坂)下を過ぎます。中腹の解説プレートによると、文京区内に新坂は六つあるそうです。 

0711g

    4. ここで左カーブ、再び北に向かいます。なお、水路はこの道路の右手を流れていました。

この記事をはてなブックマークに追加

丸山

2014-01-27 07:36:20 | 谷端川・小石川4

 「丸山 菊坂町、(菊坂)台町、(菊坂及び丸山)田町、(丸山)新町及び小石川片町の辺みな丸山と呼べり、昔林など在てその形の円(まる)う成しより、まる山の名は起りしなるべし」(「御府内備考」) 現在の本郷5、6丁目から西片1、2丁目に及ぶ、本郷台の中山道以西を占める広域地名で、東大下水はその西縁に沿って流れていました。なお、山自体は本郷に属しており、小石川片町も本郷丸山片町を名乗っていましたが、五代将軍綱吉御成りの折、上意によって改名したことが「御府内備考」に記載されています。「町前の流を御覧被為遊、当所礫川(小石川)に可有之旨、上意被為遊候由、其以来小石川片町と町名相改申候よし申伝え候」 同じ「御府内備考」によると、片町を流れる大下水の幅は八尺余でした。「下水 幅八尺余 右馬場東の方より流来、流末水戸様御屋敷え入、神田川え落申し候」

 

Maruyat10

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 上野」  東大下水は地図のほぼ中央で、現白山通りに合流していますが、その東南角にあった町屋が小石川片町でした。したがって、綱吉が見た「町前の流」は小石川本流ではなく、東大下水だったことになります。

0710a

    ・ 白山通り  西片交差点に戻り、改めて通りを北に向かいます。150mほどで右折、左折のクランクで白山通りの東側にシフト、その手前右手に小石川片町がありました。

0710b

    ・ 白山通り  東側に車止め付きの幅広の歩道が出現します。昭和40年代に白山通りが拡張された際、離れていた水路跡が、歩道の一部のようになったところです。

0710c

    ・ 白山通り  上掲写真の歩道から、反対側を見通しています。ビルの隙間の先が千川通りですが、明治末の「郵便地図」には、間に連絡水路が描かれています。

この記事をはてなブックマークに追加

菊坂町奥山2

2014-01-25 07:58:12 | 谷端川・小石川4

 菊坂町奥山からの流れをさかのぼっています。谷筋の東側の大半は、三河岡崎藩本多家下屋敷が占めていましたが、明治に入り本郷通り沿いの御先手組屋敷と共に、本郷森川町となりました。中山道の立場(たてば 宿場間の休憩所)があったところに、森川氏配下の御先手組が屋敷を給わったため、森川宿と通称されるようになった、といわれています。「森川宿 本郷六丁目の続き、御先手御鉄砲頭松平彌九郎の組屋敷辺の呼名なり、此組屋敷は昔森川金右衛門氏俊に預られし与力同心の大縄屋敷にて、・・・・宿と唱ふる故は、当所古より中山道の往来にして、建場となりし所なればならん」(「御府内備考」)

 

Okuya2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

0709b 0709a

    1. 清水橋の下をくぐります。明治に入り架けられた橋で、当時は空(から)橋とも呼ばれていました。

0709c

    2. 清水橋から西片2丁目交差点にかけてです。橋と同様、この通りも明治に入ってから開削されたもので、水路はその右手にありました。

0709e 0709d

    3. 西片2丁目交差点で右手の路地に入ります。

0709f

    4. ここが右手の本多家下屋敷と、左手の御先手組屋敷の境となっていました。

0709h 0709g

    5. 本郷通りに突き当たります。正面は東大工学部、言問通りを挟んで北側が農学部です。

この記事をはてなブックマークに追加

菊坂町奥山

2014-01-24 07:20:37 | 谷端川・小石川4

 菊坂下の合流地点まで戻り、「御府内備考」のいう「菊坂町奥山」からの流れをさかのぼります。菊坂町の北の、奥山と通称されているところは、今回の谷筋を境に、東側に三河岡崎藩五万石本多家、西側に備後福山藩十一万石阿部家といった、寺社奉行や老中の要職にある譜代の大名家の下屋敷が占めていました。うち阿部家の屋敷のあったところは、明治に入り、周辺の武家地と共に駒込西片町を形成しました。現在の文京区西片(1~2丁目)です。中山道の西側に沿う片町の意ですが、相方の東片町の名前は失われました。なお、ペリー来航時の老中でもあった阿部家は、殖産興業の時代には養蚕業を営むなど、なかなかの商才を発揮、のちには1万坪余の敷地を住宅地として分譲し、今に残る住宅街の礎を築きました。

 

Okuya1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

Okuyam19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

0708a0708b

    1. 合流地点に戻り、水路単独を思わせる狭い路地をさかのぼります。 

0708c 0708d

    2. 菊坂下を越えます。ここに「長三尺幅六尺」(「御府内備考」)の石橋が架かっていました。 

0708e

    3. 西片交差点からこんにゃく閻魔前に至る道に合流します。

0708f 0708g

    4. 右手に上る坂(新坂)の中腹には、石川啄木が明治41年(1908年)に上京後、一時下宿した蓋平館別荘跡があります。

この記事をはてなブックマークに追加

別れの橋

2014-01-23 07:42:54 | 谷端川・小石川4

 以下は「御府内備考」の本郷四丁目のところの引用です。「町内往還中程往古は地ひくゝて南北地形小高く坂有之候由、北の方見かえり坂と唱、南の方見おくり坂と唱候由、何故名付候哉相分不申候、乍併(しかしながら)当時は一円地形均(ひとし)く相成、坂の様にも相見へ不申候」 「町内下水東側中程軒下より西の方え横切丸山通え落込候下水、往古不忍より小石川え続候川にて橋掛り有之、わかれ橋と唱え候由、何故名付候哉申伝等無御座候、当時下水に相成、幅五尺石蓋致地中え埋有之」 名前の由来については、「御府内備考」は別の個所で「改選江戸志」の、「別の橋は四町目にかゝる小橋なりしと『紫の一本』云、むかし太田入道道灌の領地の境目なりしといひ伝ふ、その頃追放の者など此処より放せしと、・・・・」を引用しています。

 

0707a

    ・ 菊坂通り  本郷通り手前の菊坂通り(菊坂上道)です。本郷通り沿いに発達した町屋が本郷一丁目から六丁目で、正面にあったのはそのうちの四丁目でした。

0707b

    ・ 本郷3丁目交差点  春日通りとの交差点から、上掲写真の正面を写しています。今でも浅いながら谷筋が横切っているのが分かります。  

 <懐徳館>  谷筋の先端は本郷通りを越えた東大構内にあり、現在は迎賓館として利用されている懐徳館の敷地になっています。東大構内が江戸時代、加賀前田家の上屋敷だったっことはよく知られていますが、前田家は明治維新後も南西の一角に居を構えていました。懐徳館や周辺の日本庭園(懐徳園)は、明治末に整備されたものですが、 → 東京近傍図」にはすでに池が描かれており、あるいは日本庭園の原型は江戸時代にまでさかのぼるのかもしれません。

 

0707c

    ・  懐徳館  東大130周年記念事業の一環として、数年前に一般公開された時に撮影したものです。日本庭園内の本郷通りよりには池も現存しているようですが、この時は立ち入り禁止になっていました。

 ところで、冒頭で引用した「御府内備考」に、「往古不忍より小石川え続候川にて」とありますが、不忍池は小石川とは別個の、古石神井川、藍染川水系に属しており、この表現には誤解があるようです。ついでに、東大といえば → 三四郎池が有名ですが、こちらも藍染川、不忍池と同じ谷筋に属しています。 

 


この記事をはてなブックマークに追加

菊坂町2

2014-01-22 08:10:18 | 谷端川・小石川4

 菊坂下道に沿う水路を追って、本妙寺坂下まで来ました。菊坂下道はここが起点ですが、水路の先端は200mほど行った本郷通り沿いの、本郷2~4丁目付近にあったことは、一度引用した「御府内備考」の菊坂町の記述、「大下水 幅弐間より九尺迄 右は本郷弐丁目より同所四丁目迄菊坂町辺下水吐にて、・・・・」の通りです。なお、本妙寺坂の由来となった本妙寺は、久世、大久保、阿部といった徳川譜代の諸将の菩提寺ですが、何といっても有名なのは、明暦3年(1657年)の大火(振袖火事)の火元としてです。3年後には再建されるなど、幕府の異例ともいえる庇護を根拠に、火元引き受け説もあるところで、隣接する老中阿部家火元説、あるいは都市改造のための幕府陰謀説など、諸説が飛び交っています。

 

Kikusa2

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Kikusam19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

0706a

    1. 菊坂下道を先に進みます。上り勾配が目立ってきました。

0706b 0706c

    2. 本妙寺坂下です。本妙寺は向かいの坂上にありましたが、明治末に巣鴨に移転しました。 

0706d

    3. 菊坂通り(菊坂上道)を上って本郷通りに向かいます。水路はこの右手にありました。

0706e 0706f

    4. 本郷通り手前です。右写真は左岸台上の観世音菩薩像です。像のあった真光寺は戦後世田谷区給田に移転しました。

この記事をはてなブックマークに追加

菊坂町

2014-01-21 07:26:10 | 谷端川・小石川4

 以下は「御府内備考」の菊坂町に関する記述です。「町名起立の儀は長禄年中(1457~60年)本郷辺町屋に相成候頃、此辺一円に菊畑有之、菊花を作り候者多住居仕候付、同所の坂を菊坂と唱、坂上の方菊坂台町、坂下の方菊坂町と唱候由申伝候得ども、草分け人並土地に古き者も無之、古来の書留等度々の類焼に焼失仕、起立の年歴等相知兼申候、但町内町屋に相成候年歴は相知不申候得共、右町内一円に御中間方え大縄にて拝領地に相渡り候者、寛永五子年の由申伝候」 町屋となったのは北隣の菊坂台町と同じく、元禄9年(1696年)頃と考えられています。

 

Kikusa1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

Kikusat10

    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正10年第二回修正) / 上野」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。 次の「昭和5年測図」に水路はなく、その間に暗渠化したものと思われます。

0705a 0705b

    1. 鐙製作者が住んでいた、形が鐙に似ているなどの説がある、鐙(あぶみ)坂に差し掛かる手前で左折です。

0705c 0705d

    2. すぐに右折して菊坂下道に沿います。右写真は菊坂通り(菊坂上道)からのショットです。

0705e 0705f

    3. 菊坂下道から左岸台上への坂が炭団(たどん)坂です。炭団を商う者が多かった、急坂で炭団のように転げ落ちた、などがあります。

 <樋口一葉旧居跡>  2. で菊坂下道に出てすぐ、右手に入る路地の先に樋口一葉旧居跡があります。明治23年(1890年)に住みはじめ、20歳前後の3年ほどを母、妹と暮らしたところです。父の死後三人家族の戸主として、針仕事や洗い張りの内職で生計を立てていました。

 

0705g

    ・ 樋口一葉旧居跡  正面の階段上は右京山(右京ヶ原)、右手の井戸は一葉も使用したといわれています。

この記事をはてなブックマークに追加

菊坂田町2

2014-01-20 07:56:42 | 谷端川・小石川4

 「大下水 右は本郷菊坂町併同町奥山より弐ヶ所流来、当町にて幅三尺下水一筋に相成、小石川片町大下水え流れ出、末は神田川え出申候、但掘割年歴等相分不申候、尤(もっとも)下水修復の儀は町内持に有之候」 これは、菊坂田町の大下水に関する「御府内備考」の記述ですが、前回触れた本郷台からの二本の谷筋のうち、本郷菊坂町よりの流れは南側の、同町奥山よりの流れは北側のものにあたります。菊坂町の北側を奥山と称していたことが、同じ「御府内備考」に書かれています。今回は二流の合流地点に差し掛かりますが、そこで右折し、まず南側の水路をさかのぼることにします。

 

Tamachi1

    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

Tamam19b

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載、上掲地図のグレー枠の部分です。

0704a

    1. 西片交差点手前の、久しぶりに遭遇した水路跡らしいこの路地から始めます。

0704b0704c

    2. 左岸段丘に沿いはじめ、右手崖面が徐々に高くなっていきます。

0704d 0704e

    3. 二本の水路の合流地点です。今回は右折して、南側のものをさかのぼります。 

0704f

    4. 右手は右京山(右京ヶ原)と通称されていました。上野高崎藩、松平右京亮の屋敷があったことからのネーミングです。

この記事をはてなブックマークに追加

菊坂田町

2014-01-18 09:51:16 | 谷端川・小石川4

 春日町交差点から白山通りを北に向かいます。二つ目の西片交差点の手前に、右手、本郷台からの谷筋の合流があります。 → 「段彩陰影図」で、本郷通り付近から発する二本の谷筋が、途中一本にまとまり杯のようになっているのがそれです。なお、一本にまとまっているところには、菊坂田町がありました。明治に入り、周辺の小石川片町、丸山田町、さらに武家地や寺地を併せ、本郷田町(のち本郷がとれて田町)となったところです。その地名由来については、隣町の菊坂町のところで詳細します。

 

Tamam19

    ・ 「参謀本部陸軍部測量局の1/5000実測図(明治17年測量)」  「紙久図や京極堂 古地図CD-ROM」収録の北部の一部で、同社の基準(72dpi)で掲載しています。  

0703a

    ・ 白山通り  春日町交差点の次の交差点から、西片交差点方向を写しています。上掲「実測図」には左右に池が描かれていますが、右手は上野高崎藩松平家、左手は二千三百石の旗本渡辺家の屋敷でした。 

0703b

    ・ 白山通り  西片交差点手前右手の、本郷台からの水路の合流地点です。正面のビルの隙間が水路跡の路地で、次回から数回に分けてこの路地をさかのぼります。

0703c

    ・ 白山通り  西片交差点の西側、こんにゃく閻魔のある源覚寺方向です。小石川との間に連絡水路が設けられ、小石川には嫁入橋が、東大下水には鶯橋が架けられていました。

この記事をはてなブックマークに追加

春日町交差点

2014-01-17 07:41:24 | 谷端川・小石川4

 小石川との合流地点から東富坂(真砂坂)下の春日町交差点まで、東大下水の流路は文京シビックホールや講道館の敷地に阻まれて、たどることはできません。そこで、途中を省略し、春日町交差点から、白山通りを北に向かうことになりますが、→ 「1/5000実測図」に見るように、元の通りの西側に沿っていた水路は、通りの拡張によってその中央に埋もれ、数百メートルにわたって痕跡は失われています。ただ、→ 「段彩陰影図」からも読み取れように、谷筋ははっきりしていて、富坂下から東富坂下まで、言い換えると千川通りから白山通りまでですが、200mほどがその底の幅となっています。

 

0702a

    ・ 春日町交差点  白山通りのほぼ中央を南下してきた東大下水は、交差点手前で左手にズレ、播磨安志藩と駿河小島藩、共に一万石クラスの二つの大名屋敷の間を抜け、合流地点へと向かっていました。

0702b

    ・ 春日町交差点  東富坂(真砂坂)下から(西)富坂方向のショットです。春日通りのこの区画は、明治41年(1908年)の市電開通時に開削されました。シビックホールの裏側にあった旧富坂とは100m以上離れています。

 <春日町>  春日町交差点の南200mほどのところに、三代将軍家光の乳母で、大奥制度を確立した春日局が、御付き下男三十人の住まいとして土地を拝領したのは寛永7年(1630年)のことです。以来(小石川)春日町と呼ばれ、元禄7年(1694年)に町奉行支配となり、明治に入ると、周囲の武家地を併合した小石川春日町へと引き継がれました。なお、今日の春日1、2丁目は、春日通り沿いにあることからのネーミングですが、小石川台上の旧金杉村をも含み、本来の春日町とはだいぶ離れています。

 

0702c

    ・ 出世稲荷  春日局の宅地にあり、その鎮守として勧請されたといわれています。出世稲荷と通称されているのは、春日局の出世にあやかってのことなのでしょう。

 「右町の儀古(いにしえ)原地の所、寛永七午年春日の御局御願にて御附御下男三拾人え当地町地の辺一円大縄拝領被仰付候所、右の内鎮守稲荷為社地弐拾八坪余、外に水溜り荒地の分相除、跡残の分三拾人にて割合請取、猶又同年右水溜荒地の内三百五十弐坪程を御家人衆四人にて拝領致、町名春日町と唱来、・・・・」(「御府内備考」) 寛永7年というと水戸屋敷成立の翌年ですが、小石川や東大下水を改修、整備し、その河川敷を宅地造成する途上だったのでしょう。

 


この記事をはてなブックマークに追加

東大下水

2014-01-16 07:52:39 | 谷端川・小石川4

 新しいクール、「谷端川・小石川4」はいわゆる東大下水を扱います。 → 「段彩陰影図」で、白山通り沿いの谷筋をメインに、本郷台から合流する支谷筋を併せたもので、下流は改修されて東大下水などと呼ばれていますが、上中流域は自然河川の面影を残していたようで、鶏声ヶ窪(けいせいがくぼ)、指谷(さすがや さしがや)の名称が今に伝わります。この東大下水を小石川との合流地点、文京シビックホール裏から出発し、本郷通り付近に谷頭のあるものから、反時計回りにさか上ります。なお、この東大下水のうち、最後にさかのぼる白山通り沿いのものは、現在では下水道白山幹線に転用され、ほぼ重なる流路を「下水道台帳」で見ることができます。

 

Hakusanm13

    ・ 「東京近傍図 / 下谷区」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境で、大半が文京区です。当時は小石川区と本郷区に二分され、その境は中央を縦断する黒点線ですが、東大下水の流路とおおむね重なります。  

0701a

    ・ 水道橋交差点  外堀通りと白山通りの交差する水道橋交差点から、東京ドームシティを見ています。奥のシビックホールで合流後、ドームシティを南下する本流以外に、→ 「1/5000実測図」を見ると、白山通り沿いの水路もあったようです。

0701b

    ・ シビックホール裏  二つの大下水の合流地点です。江戸時代には播磨安志(あんじ)藩小笠原家の上屋敷があったところで、小石川はその西縁をめぐり、東大下水は東縁をめぐり、このあたりで合流、左手の水戸邸に入りました。

 <東大下水の名称>  小石川(小石川大下水)に対し、その東側にあることから東大下水と呼ばれもしますが、「御府内備考」にはその名はなく、単に大下水、あるいは下水と書かれているに過ぎません。例えば、中流域にある指谷町一丁目では、「下水 幅壱間、但水元は小石川酒井雅楽頭様下屋敷内より流出、夫より小石川村の内より白山権現裏門前え出、当町え流来水沫の儀は水道橋へ落入申候」、本郷台からの支流の流れる菊坂町では、「大下水 幅弐間より九尺迄 右は本郷弐丁目より同所四丁目迄菊坂町辺下水吐にて、流末水道橋際え出、神田川え落申し候、尤(もっとも)掘割の年月相知不申候」となっています。

 


この記事をはてなブックマークに追加

小石川大沼

2014-01-15 07:56:57 | 谷端川・小石川3

 今日見る小石川の流末は、水道橋の上流で神田川に合流していますが、これは江戸初期の神田川(平川)、小石川の付替えの結果で、それ以前の両河川の合流地点は、小石川大沼と呼ばれる低湿地だったと考えられています。「段彩陰影図」で見るように、西側の牛込、麹町台と北側の小石川台、それに東側の本郷台に挟まれた区画で、江戸時代には広く小川町と呼ばれていました。現行の小川町よりは西側にズレた、三崎町や西神田、神田神保町のあたりまでです。なお、大沼からは平川が流れ出し、日比谷入江に注いでいました。このあたりのイメージは、→ 「長禄年間江戸図」の描いているところです。

 

Koisi1

    ・ 「段彩陰影図 / 小石川1」(1/18000)  小石川の下流部分と神田上水を、参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」(明治16年測量)を元に重ねました。オレンジ線は区境で、神田川が文京区と千代田区の境になっています。

0627a

  •  神保町交差点  白山通りと靖国通りの交差するこのあたりが小川町の中心で、小身旗本の屋敷地が軒を連ねていました。現在は都内屈指の書店街です。 

 <小川町> 「ゆしまのたかだいのした、小いしかわのすえ池になりたる所、水はかせ、大かた干かたとなる。此分やしきにわり可申候、小身衆いろいろ申こまれ候、地せばく人多くわり立候事むずかしく、藤左衛門に申付、地ゑづかかせ、けんちうちて、それよりと申定む、」 有名な「小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかかる」に先行する、「天正日記」の天正18年(1590年)10月4日付けのこの一節は、家康の江戸入国当時、小石川大沼を干拓、のち小川町と呼ばれる武家地を造成した、と解することができます。
 一方、「御府内備考」は小川町の初めに関し、「紫の一本」を引用しています。「『紫の一本』に云、昔は此辺三崎村とて田畑の地なり。後旗本のやしきに下さる。畦道をすぐに小路となしたるゆへ、其道筋まがりて屋布(やしき)の形ひつみありといふ。又この所を錦の切れともいひしよしと。」 最後のところは、小身旗本の屋敷地を揶揄した表現のようです。なお、小川町の地名由来については、清らかな小川が流れていたとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったとも伝えられ、太田道灌が「むさし野の小川の清水たえずして岸の根岸をあらいこそすれ」と詠んだのは、このあたりの風景だといわれています。

 


この記事をはてなブックマークに追加