神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

番衆町

2013-01-31 07:53:51 | 蟹川

 内藤新宿、太宗寺方面からの流れを追っての二回目です。前田圃から南に向かって150mほどで、(東京医科大前を通る)医大通りです。ここで旧東大久保村を離れ、江戸時代に武家地となっていた一角に差し掛かります。将軍警護の番衆(大番、書院番など)の屋敷地だったため、表番衆町(靖国通り)、裏番衆町(医大通り)と俗称され、明治に入り内藤新宿番衆町(のち番衆町)となったところです。現在は医大通りを挟んで、東大久保村が新宿6丁目、番衆町が新宿5丁目となっていて、住宅地から商業地への切り替わりが顕著です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 前田圃を離れ南に向かいます。ここはまだ旧東大久保村の範囲ですが、やはり武家地でした。

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    2. 医大通りに突き当たります。本来の流路はこのまま直進ですが、ここでは右折して医大通りに沿います。 

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    3. ここで左折です。これは日本地形社の「1/3000測図」に書かれたもので、上掲「地形図」にある浜野邸を迂回するため、新たに設けられたのでしょう。 

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    4. 靖国通りに突き当たります。日本地形社の水路はここまでです。

前田圃

2013-01-30 08:04:20 | 蟹川

 → 「江戸名所図会」にも描かれた、西向天神下を流れる蟹川を追って、谷頭のある内藤新宿、太宗寺方面までのウォーク&ウォッチです。天神下から新宿中学前にかけては、道路となって残っていますが、途中、天神小学校の校庭で水路跡は途切れます。同校の創立は大正11年(1922年)で、前田圃と呼ばれる水田の一角を造成したため、その東縁を廻っていた水路も敷地に含まれてしまいました。なお、前田圃は天神前の田圃の意で、明治に入り大字東大久保の字となりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    2. 天神下を離れます。左手に上る階段の脇に見えるのが東大久保富士です。 

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    3. 新宿中と天神小の間を南に向かいます。上りに差し掛かる手前で右折、天神小のキャンパスを横切ります。 

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    4. ここから再開、ただ、確定的な水路跡でないため、青点線は記入していません。この付近から天神小学校と文化センターの間を抜け、文化センター通りに合流する水路もありました。 

 <東大久保富士>  東大久保富士は天保13年(1842年)、西向天神の境内に築造されました。明治34年(1901年)に一時撤去ののち、大正14年(1925年)、現在の姿に再築されたものです。前回UPの「江戸名所図会」には、この東大久保富士が扱われていません。「図会」の刊行は遅くとも天保7年(1836年)なので、刊行当時は築造されていなかったことになります。また、「豊多摩郡誌」(大正5年)に、「昔は境内に浅間社あり、大久保の富士と称して隆盛なりしも、明治三十四年中撤去して今は無し。」とあるのも、ちょうど撤去後再建前だったからです。

 


西向天神

2013-01-29 07:35:44 | 蟹川

 「大窪天満宮 大窪にあり、此地の鎮守とす、祭礼は六月廿五日なり。別当は梅松山大聖院と号して、聖護院宮の直末本山派の江戸役所にして、大先達たり。当社を世に棗(なつめ)の天神、或は西向の天神とも称せり。社壇西に向ふ故に云ふなるべし、棗と称する来由しるべからず。」(「江戸名所図会」) 「棗と称する来由しるべからず」とありますが、「豊多摩郡誌」には、「寛永の頃将軍当所へ御鷹野ありし時、社殿の破壊に及びたるを上覧ありて、金の棗(茶器)をたまはり、是を以て再興すべしと台命ありしに因る」とあります。三代将軍家光の時代です。なお、創建は古く、安貞3年(1229年)と伝えられています。

 

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    ・ 「江戸名所図会 / 大窪天満宮」  「社壇西に向ふ故に西向といひ又は棗の天神と称すれとも棗の来由しるへからす、境内すこぶる幽邃(ゆうすい)あり」 

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    ・ 山吹坂下  「図会」左下の参道を進むと、青いフェンスで囲まれたこの坂下に出ます。坂上にある大聖院境内の紅皿碑にちなみ、現在は山吹坂と呼ばれています。なお、右手は弁天池ですが、明治末以降の地図からは消えます。

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    ・ 西向天神下  蟹川に架かる橋の位置から、石段に向かってのショットです。「図会」に描かれた蟹川は、→ 「東大久保村絵図」にもあるように、当時本流と目されていた太宗寺方面からの流れのほうです。 

 <紅皿碑>  太田道灌に山吹を差し出した伝説の娘、紅皿の墓と伝承される中世の板碑が、大聖院境内に祀られています。傍らにある新宿区教育委員会の解説プレートによると、中世の十三仏板碑と推定されているものです。それが紅皿の墓とされたのは、江戸時代も中期以降のことで、「新編武蔵風土記稿」にも「紅皿塚 塚は崩れて断碑のみあり、文字湮滅(いんめつ)して読得ず、世俗に語伝ふる紅皿欠皿の旧蹟なりと云」と書かれています。紅皿欠皿というのは、器量、気立ての良い継子と、そうでない実子、継子いじめと高貴な求婚者の出現といった、シンデレラとも通ずる類型的な物語があり、これに山吹伝承が絡んで歌舞伎の演目ともなったようです。

 

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    ・ 紅皿碑  中央に主尊、周囲に12個の種子(しゅじ 仏尊を梵字で表現したもの)を配した十三仏板碑で、新宿区内で発見されたのはここだけだそうです。

文化センター通り

2013-01-28 06:56:47 | 蟹川

 西向天神前の蟹川の流路は、→ 「蟹川全図」に見るように、二つの谷頭からの合流が錯綜していました。それが、今日たどることのできるルートに単純化されたのは、蟹川の河川敷を利用して、大正の初めに都電(当時は市電)13系統の専用軌道が開通、それと並行するように付替えられたためでした。また、宅地化に伴い田用水は順次廃止され、道路と重なる一部を除いて痕跡は失われ、昭和に入ると本線も暗渠化されました。なお、13系統は昭和45年(1970年)に廃止されました。その軌道プラス暗渠は一般道路に転用され、今は文化センター通りと呼ばれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(大正5年第一修正) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. すぐに右折、専用軌道と並行します。直進すると太宗寺方面から西向天神前への流れに連絡しますが、重なる道路はありません。 

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    2. (抜弁天通りまで追ってきた)左岸流は、この付近で分岐していたはずですが、その間の痕跡は失われました。

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    3. 天神小学校前です。太宗寺方面からの流れの合流地点の一つでした。(右手に分岐する道路下は戸山幹線です。)  

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    4. 通りの名前の元となった新宿文化センターです。昭和54年(1979年)、都電大久保車庫跡地に建てられました。

抜弁天通り

2013-01-26 08:19:14 | 蟹川

 抜弁天通りを越えます。→ 「東京近傍図」にあるように、久左兵衛坂を下り、北側に迂回していたのをショートカットしたもので、大正末には開通していました。ただ、現在のように幅広になったのは、昭和も終わり頃のことです。その際築堤されたために、前後の蟹川本流の痕跡はだいぶ失われました。なお、抜弁天通りというのは、明治通りから抜弁天前までの通称で、明治通り以西は職安通り、税務署通りと名を変えますが、正式には都道302号線(靖国通り)の支線を構成しています。

 

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    ・ 抜弁天通り  築堤上を抜弁天前へと上る抜弁天通りの北側です。この付近が谷筋の底にあたり、蟹川本流の流路と思われます。 

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    ・ 抜弁天通り  昨日の最後にUPした左岸流(下には戸山幹線)の位置から、上掲写真の谷筋の底を見ています。  

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    ・ 文化センター通り  抜弁天通り南側の谷筋を、右岸から見ています。なおこの道路は都電13系統の専用軌道を転用したものです。 

 <厳島神社>  蟹川を望む右岸台上に祀られています。源義家が後三年の役で奥州に向かう途中、当地に立ち寄り戦勝を祈願した、との創建伝承がありますが、奥州古道(鎌倉街道)とのかかわりで発生したものなのでしょう。→ 「東大久保村絵図」のY字部分にあり、境内が通り抜けできること、また苦難を切り抜けるとの意も込めて、江戸時代から抜弁天との通称で親しまれています。(ただし、「新編武蔵風土記稿」に抜弁天の呼び名はなく、「江戸名所図会」では神社自体収録されていません。)

 

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    ・ 抜弁天  弁財天の名に違わず池も設けられていますが、それにしても、湧水の期待できない台上にあって、なぜ弁財天なのかは謎です。

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2013-01-25 07:46:05 | 蟹川

 → 「東大久保村絵図」や昨日UPの→ 「第三回修正」では省略されていますが、砂利取場跡新田を灌漑するため、左岸にもう一本用水路がありました。内務省地理局の「東京実測図」や、明治末の「郵便地図」には、段丘の際から合流する短い水路ともども描かれています。後者は、砂利場にあった「鏡の井」、「弁慶の井」などの湧水が水源と思われ、→ 「段彩陰影図」で大久保通りの下の左岸に食い込んでいる谷筋や、「東大久保村絵図」の同じ位置の田圃のでっぱりなど、この湧水にかかわるものなのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左岸流跡と重なりそうなのは、西側の坂下にあるこの路地ですが、不確かなので青点線は書き込んでいません。 

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    2. 「豊多摩郡誌」で「弁慶の井」があると書かれている、旧字砂利場155番地はこの右手にあたります。

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    3. ここからは「東大久保村絵図」にも描かれており、通りと並行するところです。(戸山幹線は引き続き、この通りの下です。) 

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    4. 久左衛門坂の通りを越えます。右写真は右岸方向で、奥が昨日の万年橋の架かっていたところです。 

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    5. 抜弁天通りを越えます。戸山幹線はそのまま道なりですが、左岸流のほうは越えてすぐ、通りから左手にズレます。

砂利場

2013-01-24 07:46:36 | 蟹川

 大久保通りの先、→ 「東大久保村絵図」で、蟹川が大きくカーブしているところまでが、今回テーマの砂利場で、江戸時代、砂利取場御用地だったところです。「又村の東北若干の処砂利取場御用地となり、後墾闢(こんぺき)して砂利取場跡新田と号し、享保十七年筧播磨守検地して御料に属す」(「新編武蔵風土記稿」) 同書の字には収録されていませんが、明治に入ると、東大久保村(のち大久保村大字東大久保)字砂利場となり、昭和7年(1932年)に淀橋区東大久保二丁目となるまで存続しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和3年第三修正) / 四谷」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 椎木坂下のこの道路から再開です。右写真は振り返っての撮影で、水路跡のスペースを利用した防災倉庫です。 

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    2. ほぼ直線で南に向かいます。この下には蟹川の機能を代行する、下水道戸山幹線が通っています。

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    3. 右にカーブします。この道路までが字砂利場、ここから南は字天神前で、東大久保村の中心でした。

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    4. この付近で左折のはずですが、抜弁天通りを越えるまで、重なる道路はありません。(戸山幹線は道なりで、次回テーマの左岸流跡へと連続します。) 

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    5. 久左衛門坂下には、橋が架かっていました。万年橋と書いている地図もあります。

大久保通り

2013-01-23 07:40:20 | 蟹川

 戸山公園、東戸山小学校の南端は築堤されていて、その上を大久保通りが通っています。数回前にUPした→ 「昭和3年第三回修正」→「昭和12年第四回修正」を見比べると、その間に開通しているのが分かりますが、土手はそれ以前から築かれており、戸山荘時代(ないし、陸軍兵学校時代)からのものを利用したのでしょう。なお、大久保通りの開通以前は、南に迂回して勾配を緩和する坂道になっていて、→ 「東大久保村絵図」に描かれているのもそのルートです。戸山屋敷内に椎の大木があって、坂道を覆っていたため、椎木坂と呼ばれ、また、東西に上る坂が向かい合っていることから、向坂とも称されました。東は150間、西は60間許と「豊多摩郡誌」にあります。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 蟹川2」(1/18000)  大久保通り前後の谷筋は、左手豊島台(武蔵野面)、右手淀橋台(下末吉面)の境となっています。東京の地形は西高東低が原則ですが、東の淀橋台のほうが数メートルは高く、箱根山もその上に築かれています。  

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    ・ 大久保通り  正面の建物の切れ目が流路で、真下の細長いスペースには町会の防災倉庫が建っています。  

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    ・ 大久保通り  右岸からのショットです。築堤上にあるとはいえ谷筋は明らかで、その幅は200mほどです。

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    ・ 椎木坂  南に迂回して谷筋を越える旧道の坂です。坂下には冒頭で触れた坂名の由来を書いた標柱が立っています。 

東大久保村2

2013-01-22 07:37:42 | 蟹川

 「新編武蔵風土記稿」の東大久保村の水利に関する記述です。「内藤新宿より流来る細流あり、又此地にも所々に清水ありて用水に沃く」 「内藤新宿より流来る細流」は蟹川の二つある谷頭のうち、太宗寺方面からのものを指しており、当時はこちらの方を本流扱いしていたふしがあります。「地図で見る新宿区の移り変わり-淀橋・大久保編-」(昭和59年 新宿区教育委員会)に収録された「東大久保村絵図」もそのような描き方です。これに対し、「豊多摩郡誌」(大正5年)の大久保町の水利の項では、「本町内に水流の記すべきものなし、唯内藤新宿町及淀橋町地内より流下する細流あり」と、二つの谷頭を併記しています。

 

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    ・ 「東大久保村絵図」  「東大久保村絵図」(堀江家文書 首都大学東京図書情報センター蔵)をもとに、イラスト化したものです。例によって田用水を強調、道路は主要なものだけをピックアップしました。

 「新編武蔵風土記稿」のいう「所々の清水」の一つに、「鏡の井」がありました。「乾の方奥州古街道の傍田間の小流を云、旱魃にも水涸るゝことなし」 この「奥州古街道」については、別のところで「村北に奥州の古街道あり、田畑の間を戸山の方に達す」と書いており、戸山屋敷と接する村の北部、砂利場と呼ばれるあたりと思われます。同じものかどうかは不確かですが、「豊多摩郡誌」のなかに、「弁慶井 東大久保字砂利場百五十五番地の田の側、小流れの中に在りて清水噴出す、如何なる旱魃にも涸れしことなし、附近に義経井といへるもありたるよし」との記述もあります。いずれにしても、こうした細流や湧水など天水頼みの水利のため「水損旱魃ノ患アリ」(「東京府志料」)、「古来水田多く開けず」(「豊多摩郡誌」)という状態でした。なお「東京府志料」の数字では、東大久保村の水田面積は5町7反4畝23歩です。

 

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    ・ 西向天神下  天神下を二本の流れが並行し、その間の田圃は前田圃と呼ばれていました。天神前の田圃という、そのままの意です。なお、前田圃は明治に入り大久保村(のち大久保町)大字東大久保の小字ともなりました。

  <鎌倉街道>  村の北にあって戸山屋敷に達する「奥州古街道」は、鎌倉街道とも呼ばれていました。「若葉の梢」(寛政4年 1792年 金子直徳)に「鎌倉海道と云は、御入国前の地理の図を見しが、・・・・」で始まる一文があり、大久保、戸山付近のルートを次のように述べています。「大久保ふり袖松の所より小笠原屋敷内に、古来街道の儘(まま)ありて、尾陽公戸山御屋敷に入、高田馬場中程の所に御門の見えたる処に出、馬場をよこぎり、・・・・」  「大久保ふり袖松」の場所は不明ですが、次の「小笠原屋敷」は豊前小倉藩小笠原家下屋敷のことでしょうから、抜弁天前を東に400mほどのところです。また、戸山屋敷内の鎌倉街道については、→ 「尾州邸園池全図」の右上隅付近に、鎌倉街道、川越街道の書き込みがあります。
 ところで、引用した「 若葉の梢」の冒頭の「御入国前の地理の図」は、おそらく「長禄年間江戸図」のことで、その一部の→ イラストはだいぶ前に掲載したことがあります。富塚の南にある山中分の書き込みは、「小田原衆所領役帳」の太田新六郎知行中、「戸塚内山中分」に附合しています。なお、太田道灌による江戸城築城と同時代の、長禄年間(1457~61年)作成と伝えられる同図ですが、実際には、江戸中頃の知識人による、家康入国以前の江戸の再現図、ないし想像図との見方が有力です。

 


東大久保村

2013-01-21 07:51:28 | 蟹川

 「東大久保村は日本橋より二里余、古老の説に、古は当村及び西大久保、諏訪の三村皆戸塚に通して一村なり、当時文字も富塚と記せしと云、然とも正保の改には、大久保の一村のみ取て余の地名は収めず、元禄の図に大久保村の傍に同村枝郷東大久保村及枝郷諏訪村と記し、又戸塚村をも載す、推考するに、元来は富塚のみなりしを、一旦大久保と改め、元禄の前又各村に分れしならん、又大久保を東西に分ちしは天正十九年の繩よりなりと西大久保に伝へたり、・・・・家数八十七、北は尾張殿別業戸山屋敷に接し、其余は武家屋敷及大縄組屋敷にて、唯西のみ西大久保及諏訪村の飛地に隣れり、東西十町余、南北六町余、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 内藤新宿」(参謀本部測量局 明治13年測量)」の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。 

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    ・ 西向天神  「天神社 村の鎮守なり、棗(なつめ)の天神とも西向天神とも号す」(「新編武蔵風土記稿」) 二つの谷頭からの合流を、東岸から望む台上にあり、社殿が大宰府のある西に面していることから、西向天神と呼ばれています。 

 <地名由来>  大久保の地名由来については、「豊多摩郡誌」に四説が併記されています。「(小田原北条氏の家来)太田新六郎寄子衆に大久保の姓氏を唱ふる者あり。当所の辺を領してより村名となりしものならんか、一説に大久保の地形凹字型なるを以て、大窪村と唱へ後今の字に改むと。或は説を為す者あり、是永福寺の旧山号を大窪山と号せしに基けるものなるべしと。徳川幕府の初め諸組の同心に市ヶ谷大久保等の地を給与し、且つ此に居住せしめ、総取締として大久保某を選任し、邸を大久保に給ふ、是れより大久保村の称あり云々と。」

 

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    ・ 大久保山永福寺  右岸段丘上にあり、左手の久左衛門坂を下ると蟹川です。なお、坂の名は大久保村の草創の一人、島田久左衛門にちなんでおり、近くに居住していたとか、坂を開削したとかいわれています。

 大久保姓が由来との説が二つありますが、文献的に裏付けられているわけではなく、経験的にも、人名が地名の由来となるのは、その逆の場合に比して、圧倒的に少数派です。また永福寺の山号の大窪山にしても、その由来へとさかのぼると、蟹川の形成した谷筋へと至るでしょうから、やはり地形由来が有力かと思われます。

 


戸山公園4

2013-01-19 07:37:34 | 蟹川

 戸山荘時代、大泉水の南側にあたる低地、現在戸山ハイツや東戸山小学校のあるところは、濯纓(たくえい)川、あるいは大井川が流れていました。蟹川をそう呼んだもので、濯纓川は屈原作と伝えられる「漁夫」の、「滄浪の水清(す)まば 以て吾が纓を濯(あら)ふべし」から、纓(冠の紐)を洗うほどの清く澄んだ川の意と思われます。→ 「尾州邸園池全図」にも描かれていますが、川の周囲には水田を配し、田園風景を演出していました。明治に入り、陸軍の用地となってからは、熊笹の覆う沼地のまま放置されていましたが、のち幼年学校が市ヶ谷から移転、運動場として整備されます。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和4年第三回修正) / 早稲田」と「同(昭和3年第三回修正) / 四谷」の合成です。同一場所、同一縮尺の「昭和12年第四回修正」は→ こちらです。 

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    ・  東戸山小学校  右手の東戸山幼稚園との間のこの道路が、「第三回修正」に描かれた改修後の水路とほぼ重なります。 

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    ・ 東戸山小学校  画面からは隠れますが、門を入って右手にプールがあります。改修の前後を問わず、蟹川と大久保通りがクロスするのは、このプールのある校庭の南西角です。

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    ・ 東戸山小学校  左岸段丘上からのショットです。対岸に見える戸山ハイツ18号棟手前の茂みまで、およそ180mが蟹川の形成した谷筋の幅です。 

 <玉の泉が湧く池>  東戸山小学校の校歌は、「富士の高嶺を西空はるか 玉の泉の湧き出るところ」で始まります。どうやら開校当時には、現戸山ハイツ35号棟の建つ左岸段丘の際に、湧水があったようです。とすると、「第四回修正」に描かれた段丘沿いの池の名残とも思え、さらにこの位置には「尾州邸園池全図」にも、池が描かれています。

 


戸山公園3

2013-01-18 07:54:39 | 蟹川

 戸山公園内の蟹川の流路を地図上でたどっています。箱根山のある右岸段丘の裾をめぐり、都営戸山ハイツの敷地を抜け、東戸山小学校へと至ります。戸山ハイツは昭和24年(1949年)、米軍の提供した資材をもとに1052戸の木造住宅群が建設されたのがもとで、当時としては画期的な水洗トイレ付でした。昭和44年には鉄筋コンクリートの集合住宅に建て替えられ現在に至っています。なお、東戸山小学校の開校も昭和24年で、戸山公園の開園はやや遅れて29年です。(下掲「地図」のうち、薄いブルーで重ねたのが「実測図」の、濃いブルーが「明治42年測図」の流路です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 箱根山の裾を左手に見ながら、右カーブです。

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    2. 戸山ハイツの敷地に突き当たります。大泉水の南端に近く、右手には弁財天の祀られた中之島がありました。  

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    3. 大泉水の南端にあたります。右写真は左岸から箱根山を見たところです。 

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    4. 戸山ハイツを抜けたところで、右写真は箱根山の麓からのショットです。 

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    5. 東戸山小学校に差し掛かります。開校時の敷地は今より西側の、東戸山幼稚園や戸山ハイツ35号棟のあるところでした。

戸山公園2

2013-01-17 07:28:13 | 蟹川

 戸山公園内の蟹川の流路は失われました。戸山荘、陸軍戸山学校、戸山公園と、幾度となく大規模な造成を経ているため、地形も改変されており、谷筋の底を追って流路を再現するのもままなりません。そこで古い地図をあてにするしかありませんが、参考にしたのは内務省地理局が明治20年(1887年)に発行した「東京実測図」(1/5000)と、陸地測量部の明治42年以降の「1/10000地形図」で、後者にはすでに大泉水はありません。なお、これまでお世話になった参謀本部陸軍部測量局の「1/5000実測図」は、残念ながら範囲外になっていて利用できません。(下掲「地図」のうち、薄いブルーで重ねたのが「実測図」の、濃いブルーが「明治42年測図」の流路です。「下水道台帳」を見ると、戸山公園内の戸山幹線のコース取りは、後者とほとんど同じで、暗渠化後下水道に転用したのでしょう。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 「明治42年測図」をもとに、早稲田大学の学生会館前から戸山公園に向かいます。 

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    2. 琥珀橋以東の大泉水の大部分は、この広場になっています。左手は段丘上にある多目的運動広場です。

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    3. 広場の西端にあって、南に向かう道路がありますが、「明治42年測図」の流路とほぼ重なります。(右写真の左手奥の茂みが箱根山です。) 

 <龍門橋>  昨日UPの→ 「尾州邸園池全図」で、大泉水の東南端に架かっていたのが龍門橋、その下から龍門の滝が流れ落ち、鳴鳳渓と称する渓谷を形成していました。「さかしき谷に下るに、誠に世に類ひなき様にて庭ながら鳥も通はぬ渓谷に入ると覚ぼゆ。龍門の瀧たぎり落ちて岩角に当り砕け散るしら玉のさま、又あたりの山に包まれて、瀧壷に響く水音、嵐もはげしくそひぬと思はる。」 寛政5年(1793年)に11代将軍家斉が戸山荘を訪れた際、随行した旗本、佐野肥前守義行の文章の一節です。
 なお、平成10年に早大の学生会館を建て替える際、 この龍門の滝の遺構が発掘されました。伊豆石360個余りからなる滝壷の石組みで、現在は名古屋市にある徳川園に移築されています。(徳川園のホームページには、再現された龍門の滝の写真や、江戸時代の絵が掲載されています。)

 


戸山公園

2013-01-16 07:51:09 | 蟹川

 戸山公園(箱根山地区)まで来ました。一帯が和田戸山(外山)と呼ばれたのが名前の由来ですが、その詳細は不明で、源頼朝配下の有力武将、和田義盛の領地で、和田、外山両村にまたがっていたとか、あるいは、和田戸何某という武士の館だったところだとかいわれています。後者は「江戸名所図会」に書かれていて、隅田川上陸後の源頼朝が軍勢を休めたとの伝承もあります。江戸時代に入り、寛文8年(1668年)以降、尾張徳川家の所有となり、下屋敷が置かれて「戸山荘」と呼ばれました。江戸の大名屋敷では最大規模の敷地(約45ヘクタール)を有し、蟹川の刻む起伏を利用した池泉回遊式庭園は、11代将軍家斉をして、「すべて天下の園池は、まさにこの荘を以て第一とすべし」といわしめたとか。明治から第二次世界大戦までは、陸軍戸山学校など陸軍関係の施設があり、戦後の国有化をへて、都営戸山ハイツや公園となっ て現在に至っています。

 

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    ・ 「寛政年間戸山尾州邸園池全図」(「新撰東京名所図会」より)  箱根山のふもとに、東京都の設置した解説プレートがあり、そこに掲示されている絵図の水部を着色、また北が上になるように回転しています。(左下に三流が描かれていますが、うち真ん中の流れの傍らに「濯纓(たくえい)川」、大泉水中央の橋に「琥珀橋」の書き込みが見えます。) 

 「和田戸山の風景誠に善盡し美盡せり。江都より京都にいたる駅路五十三次の宿々、名産名物に残物なく、渡舟、山道茶屋、渡りやはさらに、本陣、旅籠、つぎ馬問屋、川渡し舟、東海道の産物、一としてあらずと云事なしとぞ。近来は度々御成りあらせられ、愈々増々美麗を盡し給へりと云。」 「若葉の梢」(寛政4年 金子直徳)の一節です。東海道五十三次を模した中でも、大泉水西側の「御町屋」では、小田原宿の様子が再現され、36軒の店が軒を並べていました。一種テーマパークになっていたようです。元禄年間(1688~1703年)に完成した庭園ですが、その後放置されて荒廃が進み、寛政年間(1789~1800年)の初め、将軍家斉の御成りを契機に修復されました。引用文の最後はその辺の事情を踏まえたものと思われます。

 

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    ・  箱根山  戸山荘当時は麻呂ヶ嶽、後に玉円峰と呼ばれました。蟹川はこの山の麓をめぐり、北から東へと向きを転じていました。大泉水も蟹川も失われた今、当時の唯一の遺構です。 

 <麻呂ヶ嶽、玉円峰>  戸山公園(箱根山地区)のシンボル、箱根山の戸山荘時代の名前で、麻呂は丸ですから、どちらも円形の山の意です。小田原宿との絡みで、いつの間にか箱根山になったのでしょう。標高44.6m、旧東京市内で一番高い山といわれていますが、蟹川の形成する右岸段丘上に、その名の通り、お椀をふせた形の盛り土をしたもので、自然の山というわけではありません。ちなみに、都心にある自然の山としては、愛宕山を思い浮かべますが、その標高は25.7メートルです。(上掲写真のこんもりしたところが、その盛土の部分で、大泉水を掘った際の残土を利用したようです。)

 


馬場下町

2013-01-15 07:13:45 | 蟹川

 穴八幡下で早稲田通りを越えます。今では通りの左右とも馬場下町ですが、こうなったのは明治に入ってからで、江戸時代には通りの南側が馬場下町、北側は馬場下横町でした。うち馬場下町に関する「御府内備考」の引用です。「高田馬場東方ニ当り八幡坂と申坂有之右坂下故ニ馬場下町と相唱申候」 「下水 右当町ニ有之候水元大久保村下水尾州様戸山御屋舗え入夫(それ)より流出末は早稲田村下戸塚村より江戸川え流落申候」

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)  

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(明治42年測図) / 早稲田」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 早稲田中、高校のキャンパスを横断し、反対側に出るか出ないかで左折、早稲田通りに向かいます。

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    2. 穴八幡下で早稲田通りを越えます。ここに架かっていた石橋については後述します。 

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    3. 早稲田通りの先の水路跡の路地です。右手は早稲田大学戸山キャンパスです。 

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    4. 100mほどで途切れますが、右折して戸山キャンパスを横切っていたはずです。

 <駒之橋>  「石橋 長一間半余巾二間余 右町内穴八幡前に有之下水え掛渡駒之橋と唱申候尤(もっとも)前より御普請所ニ御座候」(「御府内備考」) 「新編若葉の梢」(昭和33年 海老澤了之介)では駒留橋となっていて、「門前に石橋が掛っている。これが駒留橋で、神事流鏑馬の時、この橋の所に馬を揃えたので、この名がある。」と書いています。大正から昭和にかけての地図で、駒止橋となっているものもあります。「新編若葉の梢」はさらに、昭和5年(1930年)に蟹川が暗渠となった際、橋名を記した石の欄干だけが残ったが、戦災で失われてしまったことにも触れています。