神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

和田倉堀

2014-03-06 07:20:00 | 平川・外堀1

 桔梗堀の途中に戻ります。パレスホテル南で桔梗堀から分かれ、東に向かいすぐに右折して南下する和田倉堀がテーマです。 → 「慶長十三年江戸図」にも登場する和田倉(和田蔵)の名前は、家康入国以前からのものとの説もあるようですが、いずれにしても和田は海を表す古語「ワタ」、倉(蔵)は文字通りのもので、海(日比谷入江)に面した物資の集積場の意と思われます。特に、家康のお国入り直後は、江戸城に直結した荷揚げ場として、大いに賑わったであろうことは、「慶長七年江戸図」の日比谷入江に面した個所に、「蔵の御門」「一の蔵地」とあることからも、容易に想像できるところです。ただ、道灌時代ならともかく、江戸城と江戸市街の拡張期、日比谷入江だけでは手狭だったのでしょう。それに江戸城防衛、居住地造成の要請から、すでに日比谷入江埋立てが視野に入っていたのかもしれません。江戸前島東岸(江戸湊)経由での物資輸送の比重が高まり、江戸湊と和田倉をショートカットする運河、道三堀が開設されることになります。

 

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    ・ 和田倉堀  内堀通りからのショットです。江戸時代には桔梗堀と連続していましたが、現在は内堀通りによって隔てられています。  

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    ・ 和田倉堀  200mほどで日比谷通りに突き当たり右折したところです。正面が和田倉橋、その先は馬場先堀です。 

 <道三堀>  道三堀は江戸前島の根元を開削、その東岸の江戸湊(日比谷入江まで含めて広く江戸湊とする考えもあり)と西岸の日比谷入江をショートカットするもので、さらに隅田川東岸の小名木川に連続、旧利根川河口、房総方面の物資(行徳の塩など)を江戸城和田倉に集積する運河の機能を担いました。この道三堀が開削されたのは、家康のお国入り直後の最初の堀川開削工事によってとされ、「東京市史稿 市街篇」は天正18年(1590年)8月18日の「天正日記」、「御城下はしぶしんはじまる。ふないりぼりふしんはじまる」を引用、この船入堀を道三堀のこととしています。「唯今日本橋筋より道三河岸通りの竪堀のほられ候が初りにて候。夫より段々と竪堀横堀共ニ出来」 こちらはよく引用される「落穂集追加」の一節です。なお、竪横は江戸城に対してのもので、道三堀は江戸城に向かっており竪堀となります。

 

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    ・ 辰の口跡  最初の写真の正面奥が、道三堀と和田倉堀の接続する、通称辰の口のあったところです。「形ち龍の水を吐出すが如くなれば、龍の口と唱へしより、近き辺をもその名を襲ふと云」(「御府内備考」)
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