>365480 学校教育の形式がそもそも「後手に回る」練習(内田樹の研究室)>孫市 ( 44 会社員 ) 21/03/19 PM11 【印刷用へ】
>>気づいている人が少ないが、私たちは子どもの頃から、「後手に回る」訓練をされてきている。
日本人には意思がない。何事も後追いになるから後手に回るしかありませんね。
>>問いを出されて、それになんらかの解を出し、正解すればほめられ、誤答すれば罰されるという学校教育の形式がそもそも「後手に回る」練習なのである。
そうですね。それは調教形式ですね。アニマルには意思がない。
>内田樹の研究室 より転載です >リンク >後手に回る >2021-03-15 lundi
>---------------------------
>毎月山形新聞の「直言」というコラムに寄稿している。>これは3月11日号への寄稿分。> 菅首相の政権運営について「後手」という批判がなされている。>感染症対策でも、Go To キャンペーンでも、山田内閣広報官の辞職でも、政府決定に世論の批判が収まらず、前言撤回に追い込まれたことを指している。
仕方のないことですね。日本人には意思がない。
日本人には意思 (will) がない。意思は英語の未来時制の文章内容であるが、日本語の文法には時制 (tense) というものがないので、日本人には意思がない。
意思のあるところに方法 (仕方) がある。Where there's a will, there's a way. 日本人には意思がない。仕方がないので無為無策でいる。優柔不断・意志薄弱に見える。生きる力 (vitality) が不足している。困った時には '他力本願・神頼み' になる。
' やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かず' 山本五十六 (やまもと いそろく)
> 「後手に回る」というのは武道の言葉であるが、時間的な遅速を意味するわけではない。 >仮に難題にすばやく対応できても「先手を取った」とは言われない。 >まず難問があり、それに対してなんらかの解を以て応じるというふるまいはすべて「後手に回る」と言われる。
日本人の行動には受動があって、能動がない。受動の行動は後手に回る。
> 気づいている人が少ないが、私たちは子どもの頃から、「後手に回る」訓練をされてきている。
そうですね。だから日本人はおとなしい。自発性がない。
>問いを出されて、それになんらかの解を出し、正解すればほめられ、誤答すれば罰されるという学校教育の形式がそもそも「後手に回る」練習なのである。
そうですね。
> 就職すると今度は「与えられた課題を適切にこなす」という仕方で「後手に回る」訓練が続く。>設問や課題がまず与えられ、それにどうやって対処するかを考えるというスキームになじんだ人たちは全員「後手」の人である。
そうですね。
> なぜ私たちはこれほどまで執拗に「後手に回る」訓練をさせられるのか。
日本人には意思がない。受動ばかりの行動をする。すると、全てが後手に回る。
>別に難しい話ではない。>問いを出す方、課題を出す方が「ボス」で、答えたり査定されたりする方が「子分」だからである。
日本人の社会は序列社会ですね。親分が恣意 (私意・我儘・身勝手) による査定をする。子分が忖度でもってそれに応ずる。これは馴れ合いですね。
>「上位者に無批判に従うマインド」を形成するために、私たちは子どもの頃から「後手に回る」技術ばかりを選択に刷り込まれているのである。
何事も’ものの上下’ があってのことですね。
日本人は政治にそれほど関心がないのに政府に依存し、国からの発言を待っている。 (ウスビ・サコ)
> 実際に、ある種の政治家たち(例えばいまの財務大臣が典型だが)は記者の質問に対してしばしば相手が答えを知るはずのないトリヴィアルな質問を返して、マウントを取ろうとする。
>別に質問の答えを知りたいわけではない。
>彼らは経験的に「質問をして、答えを査定できる立場」を先取すれば、相手を「後手」に追い込むことができるという権力関係の消息を熟知しているからそうするのである。
彼らは対話には興味がないのですね。彼らは理屈抜きに力のない者には、現状を変える資格はないと信じ込んでいますね。
カレル・ヴァン・ウォルフレン氏は、<日本/権力構造の謎・上> (The Enigma of Japanese Power) の <ジャパン・プロブレム> 中で、日本語の”理解”について下記のごとく述べています。(p.59)
・・・・・ところが、たとえば日本語で「わかってください」というのは、「私の言っていることが客観的に正しいかどうかはともかく、当方の言うことを受け入れてください」という意味の「ご理解ください」なのである。つまりそこには、どうしても容認してほしい、あるいは我慢してほしいという意味が込められている。したがって、このように使われる場合の”日本語”の理解は、同意するという意味になる。だから、”理解”の真の意味は、その人や物事を変えるだけの力が自分にない限り、そのままで受け入れるということである。、、、、、(引用終り)
日本人の官僚は外国人に対して忖度 (推察) の事を理解と表現するのですね。これでは、国際交流も難しくなりますね。
.
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます